紫-4


教師の声が教室に響いた。


「このあとの世界史でプロジェクター使うらしいので、誰か持ってきておいてくれますか〜」


プロジェクターが保管されている教材室は一階の職員室横の部屋で、教室がある三階からは遠い。

貴重な数分の自由時間を好んで労働に割く生徒なんているわけがない。

案の定、誰も手を挙げない。


「困ったなあ。なら先生が指名しちゃうかねえ……」


教師がカレンダーに視線を投げた。肩が跳ねた生徒は、今日の日付の出席番号の生徒。まあそうなるよな。他人事で済みそうだと思って窓の外に視線を投げたその時に、俺の目の前の肩が上がる。


長い髪が揺れて、甘い匂いが鼻をくすぐった。


「あ、私取りに行きますよ」


「葉賀」


今日の日付の出席番号の生徒はあからさまに安心したように胸を撫で下ろしていた。


「じゃあすまない、頼みます」


「はい」


教師が立ち去って、教室が束の間騒々しくなる。

俺の席の前の彼女が立ち上がった。


「紫乃さん、わざわざ手をあげる事ないんじゃないっすか?」


彼女の隣の席のヤツが言った。

席が近い他の奴らも「そうですよ」とか頷いている。

「お姉ちゃん働き者ですよね」と言ったのは俺の前の前の席の女子だ。


「あはは、長女だから仕事があると嬉しくて」


彼女の顔は後ろの席の俺からは見えない。

じゃ、行ってくるねと彼女が教室から出て行って、残された周りの席の奴らはほんとしっかり者だよね、と空席を挟んだまま顔をつきあわせている。


「ほんとなんでもできちゃうお姉ちゃんって感じ」


「このクラスの長女だよね」


「あたしよくネクタイ結び直してもらってる」


空いてしまった席の彼女の周りで、彼女のことを皆が話す。


甘やかされるから頼ってしまうし、頼られるからこなしてしまう。こなしてしまうから甘えてしまう。因果だな。

俺が立ち上がると、右斜め前に座るヤツにどうした、と声をかけられた。


「進路の資料もらいに職員室行ってくるわ」


俺は教室を出た。椅子を机の中に戻すのも忘れてしまったけど──戻らなくていいだろ。休憩時間は短い。

階段を降りて一階に行く。職員室に入る前、隣の教材室の扉が開いていた。犬が動画を漁るような物音がする。


「あれー、去年はこの辺にあったんだけどな……」


ハーフアップの髪型の後ろ姿が、並んだ棚を見ながら首を傾げていた。


「どうしよ……見つからない……」


「……奥の右上の棚だよ」


「ひえっ!?」


開いていた扉から見えた彼女の後ろ姿に、俺は声をかけた。声をかけたらその体が思いっきり跳ねた。こぼれそうなくらい見開かれた目と合う。


「……びっくりした、小田巻くんかあ」


「ごめん」


俺が教材室に入ると、彼女は胸元を抑えていた手を退けた。脅かす気はなかった。これは本当。


「そうなんだね! 教えてくれてありがとう」


息を整えてそう言うと、俺が教えた右上の棚を見た。


「去年と並びが違うから困っちゃってたの、ありがとう」


「去年の秋くらいに模様替えをしてて」


──教師たちがここの棚や教材の配置を変えていたのは、去年の秋。ということは彼女はそれ以降の学校をあまり知らないということか。


……留年の理由に繋がってるのだろうか。


「知らなかった。教えにきてくれたの?」


「職員室の用事が終わって教室に戻ろうとしたら声が聞こえたから」


「そうなんだ!」


彼女が棚に向かって手を伸ばした。

プロジェクターは棚の上の方にある。

届かないなあ、とばかりに背伸びをする。


「……届かなかったら背伸びせず、お願いって言やあいいんだって。ほら」


俺はその横を通って、棚の上の方のプロジェクターを手に取った。……彼女の踵が床についた。

教材室の匂いだけじゃない、甘い匂いが鼻の奥に香る。


「そ、そうなんだ!」


プロジェクターを持つ俺から、至近距離にいる彼女はぱっと目を逸らした。


「わ、私持つから! 大丈夫!」


「俺持つよ。ついでだし」


「ええ〜? そんな、任せてくれていいのに」


大丈夫、自分で持てるよと手を伸ばしてくる。

その長袖のブラウスの腕はどう見ても俺より細い。ああ、もう。


「むしろお姉ちゃんならこういう力仕事は弟に任せたら? ……男の子なんだから力持ちでしょって」


腕の太さは歴然の差。わざわざ強がる必要もないだろ。


「お願いって一言言ってくれればいいんだよ」


冗談めかして言うと、そうなの? と聞いてきた。その顔は年上の女にしては無垢だ。


「知らなかった」


「じゃあこれで覚えたな? ほら、戻るぞ」


このプロジェクター、倒産した会社の古いタイプ重いんだよ──と雑談をする。


「知らなかった」


そうなんだ、と俺に頷いた顔は、やっぱり少女らしかった。



***



──葉っぱちゃんが配信を開始しました。


スマホの通知が鳴った。なんだか久しぶりだな、と思いながら俺は配信ページを開く。


『ま、ママあ〜。 聞いて聞いてえ〜っ!』


犬耳の女の子のキャラクターが、俺の入室通知を見て笑うモーションをした。


『今日ね、男子と二人っきりで話したんだけど……』


俺……だよな? 俺以外じゃないよな?


『あ! 男子っていうのは、この前話した、クラスで唯一タメ口で話してくれる人なんだけど……』


……俺だよな。

何を言われるんだろうか、と俺は唾を飲み込んだ。ゴクリという音が自分の耳によく聞こえた。

犬耳のキャラクターが動いた。


『せっかく二人っきりだったのに私さしすせそ的なことしか言えなかったよ〜! コミュ障でつら〜』


なんだよそんなことかよ!


『いやあのね、待って待って。状況を聞いて。聞けばしょうがないなってママなら分かってくれると思うから』


いや分かってるから充分です。……とは伝えられるわけがない。彼女からすればママであるマキという俺のアカウントの主は女子なのだ。女子だと思っているのだ。これは完全に恋バナのノリだ。


『先生に頼まれて教材室に荷物を取りに行ったんだけど……あ、やー、なんか、一人だけ年上って手前ついなんかあったら引き受けなくちゃなって気になっちゃって……ってまあそういう話はさておき、彼とのことなんですけど』


言わんでいいっつの。もしかしたらこの話、俺がログインしてなかったら、他人に話されてた可能性があるわけ? 思わず顔を覆いたくなる。


『分からなかった場所教えてくれて、私が届かないのを見て取って運んでくれて……』


ああうん。そうだな。


『頼ってよみたいなこと言われちゃってもーなんかドキドキしちゃった! その後生返事しかできなくて今すっごく後悔してるよおおお』


そう言われると恥ずかしくなってくる。

待てドキドキってどういう意味だ。わりと澄ました顔してたし──教室の席に座ったら顔が見れないんだから分からないだろ。


『なんかさりげなく優しくされて? やばい浮かれてたけど話してたら冷静になってきた。え〜……誰にでもなのかな〜? そういうのできちゃうってことは、他の人にも優しくできちゃうってことだよね……?』


矢継ぎ早に言われる言葉に、俺の思考の方が追いつかない。

そんなの考えてたのかよ。


『ろくにお礼も言えなかったしどうしよう〜? ねえっ、マキママ! 明日話せると思う!? むしろ話せても上手に話せるかな?』


どうだろうな。どうしたいかだよな。


『顔を見るとついついキャラ作っちゃうか喋れなくなっちゃうんだよね。年下慣れしてしてないからついつい……』


マキママ? と俺に呼びかける声はやっぱり教材室で聞いた声と同じだ。

そろそろリアクションを返して欲しいのだろう。とはいえなんのスタンプにしよう。


『うう〜顔見ると話せないし……手紙? 手紙はどうかな? お、重いかな? 』


俺は『いいね』というコメントボタンを押した。 

 

『けど、手紙とかってだと告白っぽいよね!? けど喋るより書く方がちゃんと伝えられるし……う、うーん』


……くそ、もう勝手にしてくれ。

とりあえずもう一度『いいね』ボタンを押すと、そうだよね! となぜか彼女は何度も勢いよく言った。


『明日! 頑張ってみる!』


どう頑張られるんだよ。

俺が『そうだね』ボタンを押してそれからすぐに、葉っぱちゃんの配信は終わった。



次の日──教室。


「はーい。プリント配っていくからまわしたくださーい」


担任教諭が縦一列の人数分のプリントを一番前の席の生徒に渡していく。受け取った順から一枚取って、後ろの席にまわされていく。


俺の前の席の彼女の前にプリントが来た。


「はい」


彼女は振り向いて俺にプリントを渡す──渡されたプリントには付箋が一枚付いていた。


俺が読み始める前に、彼女が立ち上がった。


「先生、一枚足りません」


付箋の文字はこうだった。

──昨日はありがとう。助かりました。


……それだけなのに、俺はずっとその付箋を眺めてしまった。

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