紫-3


三階にある教室の窓からは海がよく見えて、波が引いては寄せる景色を見ているうちに眠くなる気持ちはよく分かる。

それにこの春の陽気、眠ってくれといっているようなものだ。


俺の前の席から、まだ寝息が聞こえる。

その机の前には数人の女子がいて、どうする? 起こす? と相談している。

相談の結果、どうやら起こさないことにするらしい。理由は──ちょっと気が引けるよね、年上だから、と。


女子たちはそう言って、寝息を立てる人物から離れて教室から出て行ってしまった。

この次の授業は音楽なので、移動する必要がある。

だんだんと教室の人数が減ってくる。そろそろ移動しないと、タイムリミットだ。俺だって教室を出たい。


前から聞こえる寝息は健やかだ。机に突っ伏す丸まったその背中も、規則正しく動いている。髪の一部をまとめた後頭部のバレッタが窓の外からの光を反射して煌めいた。長い髪が背中から落ちて、俺の目の前で見えない音をたてる。


気持ちよさそうに寝ているので、起こしたくない女子たちの気持ちはよく分かる。気が引ける気持ちもよく分かる。

けど誰もいない教室に置いていくのは──夢見が悪い。

学生生活において、席が近いということは一蓮托生の仲にも等しいと思う。


「……起きて」


健やかな寝息。窓の向こう側には海。

窓際の席の後ろの方は、居眠りの特等席だ。先生にバレにくい。バレてたけど。

バレてて、彼女だからしょうがないなあと見逃されていたのを、彼女の後ろ、一番後ろの席の俺はよく知っている。


「葉賀、起きて」


先ほどより声は大きくした。


「ん、ん……」


これが男子なら遠慮なく揺すり起こすんだが、さすがに女子に触れるのは躊躇う。慰謝料でも請求されたらたまらない。まあそれならそれで、秒で稼ぐからいいけど。

次呼んでだめなら考えよう。──息を吸い込んで、もう一度。


「葉賀ってば!」


「んん〜?」


やっとその肩が動いて、ゆっくりと両腕が持ち上がった。背筋が伸びをして、長い茶髪が俺の目の前で揺れ動いた。甘い匂いは春のせいだけではなさそうだ。ふわあ、とあくびの声。

そののんびりしたあくびに、こっちは溜め息だ。


「……起きたな」


「ええ……私、寝ちゃってた!?」


ぱっと振り向いた彼女の顔に──


「…………よだれ、ついてるよ」


顎のあたりに、よだれがついていた。

彼女の下唇のあたりには黒子があって、ちょうどそのあたりに一筋。


俺が自分の顎のあたりを指でつついて教えると、ハッとした顔で慌ててハンカチを出して拭いた。


「わ〜っ、恥ずかしいなあ〜!」


拭き終わってハンカチをしまって、俺に笑いかけた。


「お姉さんだから、しっかりしてなきゃいけないのにね」


「そんなこと言ったって、同級生だろうが」


俺の返事に、彼女はこてんと首を傾げてから、それから笑った。


「そんなこと言うの、きみだけだよ」


桜の木も葉ばかりになった季節──花のような笑みだ。彼女の目に俺が映る。


「小田巻くん」


まるでお姉さんぶる口調に、苗字にくん付け。

まあ確かに、彼女は一年留年しているから、一個年上なのだけれど。三月の遅生まれで俺とあんまり変わらないくせに、なあ。


海が近いせいで風が強い。彼女の長い髪が揺れて、春の匂いがした。

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