第9話
「ゴホン、今日はその……」
不自然にされた咳に絵里は箸を咥えたまま振り返る。北木は缶酎ハイをクルクルと回しながら言いよどむ。
何かを察したように絵里が箸を口から離して笑う。
「謝らないでいいですよ? また別の日に行けばいいし」
「こ、紺野君は柴田君と付き合っているのか?!」
「はっ??」
意外な質問に絵里は箸を手から落としてしまった。北木はピンッと尻尾を立て、刺繍された細い目で絵里を見つめている。
――この人、アホなんだろうか? 危機感のない男。
絵里は落とした箸を拾いながら、ぬいぐるみの正体は北木じゃないのではないかと、疑いながら一応質問に答える。
「違いますよ」
「そうなのか? でも柴田君は女子社員の間で人気だろう?」
「それなら尚更、ないでしょう。それに、今日の飲み会はお詫び……」
途中まで言って絵里が言いよどむ。北木は首を傾げ、催促するように尻尾を振っている。
――余計なこと言ったな。
缶酎ハイに手を伸ばし飲み口を開けると絵里は喉を鳴らして半分近くまで飲み缶を置いた。
「お母さん……」
「お母さん?」
ぶっきらぼうに答える絵里に北木はさらに首を傾げて聞き返す。
缶酎ハイを半分程度飲んだくらいでは全く酔いは回らないが、勢いをつけるのには一役買ってくれたようで、絵里は渋々と言った感じで続けた。
「彼氏すらもいない私に、お母さんみたいな安心感があるって言ったんですよ! だから、そのお詫び飲み会だったんです!」
懐かれている感じがして、もしかしたら好意を持たれているのかもと内心喜んでいた絵里だった。
だがその好意は的外れのもので、三十路の独身女に「お母さんみたい」などと痛烈な言葉を吐いた。
そして今、ソファーの片隅で狐のぬいぐるみが声を殺して笑っている状況が絵里に更なるダメージを与える。
残りの缶酎ハイを一気に煽り、北木を睨みつけた。
「笑ってますけど、北木課長だって若い子からお父さんみたいだって言われてますからね!」
小刻みに震えていた北木の体がぴたりと止まったのを見て、絵里は持っていた缶酎ハイをひったくり、蓋を開けてグビグビと飲んだ。
――乙女の傷口に塩を塗った罰だ!
缶酎ハイを奪われたまま固まっていた北木の首と尻尾がだらりと下に垂れた。
「お父さんか……」
ポツリと呟く北木の姿に仕返しをしたつもりの絵里も切なすぎる姿に気落ちしてしまう。
「これでお互い様ってことで……切なくなるんでやめましょう。それより、明日からどうするんですかそんな姿で?」
食事に箸を伸ばしながら、絵里は話題を変えるように北木に話す。
我に返ったように北木が短い手で腕組みをして考え始める。
――彼氏はいないのか。とは言っても、この姿のままではどうにも出来ない。
やっと自分の姿が狐のぬいぐるみになってしまった重大事項をゆっくりと考え始めた。
原因や心当たりなどは全くない。こんな奇妙な出来事など規格外過ぎて考えるだけ無駄な気がして北木は組んでいた手を解いた。
「さっぱりわからない。明日になってもこのままなら、休みを取って溜まってる有給でも消化するかな」
「そのままだったら、ここに居るってことですよね?」
「申し訳ないが……」
「いつまで?」
期間を聞かれた北木は何とも答えられず、押し黙ってしまう。
――確かに、いつまでも紺野君に甘えさせてもらう訳にはいかないものな。
耳が下を向き尾が垂れる姿はなんとも情けなく悲しげに見え、絵里も同情せずにはいられなくなってくる。
絵里も考えてみるが原因も、ちょっとした糸口すらないのだ。
「付き合いますよ。今のところ、時間が解決するぐらいしか思い浮かばないですし……明日になったら夢だったなんてこともあるかもしれないですよ」
「そう言ってもらえると助かるよ」
「早く戻れるといいですね」
お互いにくすぐったいような気分に、腰をあげ絵里はキッチンに向かい、缶酎ハイの追加を抱えて戻ると早速飲み始める。
北木の愛らしい姿のせいなのか、絵里が酒に酔いだす頃には場の空気がだいぶ緩くなっていた。
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