浦島太郎

 むかしむかし、浦島太郎という若者がA国に住んでいた。そのころ、B国という小さな国が、とのとなりのC国にいじめられていたのを、A国は大量の武器をB国に送って助けた。するとその御礼に、B国にしか生えないと言われている草から抽出したアップダウナー系麻薬「タートル」を大量にプレゼントされた。タートルはクッキーやグミや飲み物に添加され、誰もがコンビニで買えるようになった。タートルには、それを一度摂取すると、猛烈にほかの人にも勧めたくなるという性質があった。やがてタートルは知らぬ間にレストランの食べ物やお弁当の中、病院の薬、さらには水道水にも添加されるようになった。

 浦島太郎の母は、すぐにタートルにやみつきになった。

「まるで深い海へダイブするみたい。キラキラした光に満ちた透き通った青い水の中をおりていくと、桃色の珊瑚でできた建物が並んでいるんだよ」

「どこにそんな建物があるのさ?」

「バカだねえ。いま、ここがそうなんじゃないか……ところで、お前はどうしてタートルをやらないんだい?」

「ぼくはまともでいたいだけだよ」

「なにをつまらないことにこだわってるんだい。おまえもずいぶん堅物になったねえ。人間、幸せになるのが一番じゃないか」

 浦島太郎は自分の食べるものはスーパーで買ったものを自分で調理していた。水も濾過器できれいにしてから飲んだ。それでも少しずつタートルが体の中に侵入してくるのが、あたりの景色が少しずつ桃色珊瑚っぽくなってくるので分かった。そしてある日を境に、浦島太郎は抵抗することをやめて、みなと同じ食事をするようになった。


 タートルをやり始めると、母が言ったとおり、いま、ここがそのまま天国になった。その天国では誰も働かず、寝たいときに寝て、食べたいときに食べた。服はぼろぼろだがみんな満足だった。そしてセックスしたいときにセックスをした。スーパーやコンビニでは誰もが万引きをするようになり、やがて集団的な略奪が定期的に発生するようになった。店はさびれ、掃除もされずボロボロになったがなぜか閉店はせず、最低限の食べ物はいつも補充された。いままで家の中に閉じこもっていた人々も、用もないのに外を出歩くようになり、急に街の人口が増えたように見えた。出産もわざわざ病院などには行かずにそこらの物かげで生むのがあたりまえになった。街では子どもたちの姿がよく見かけられた。街は活気にあふれ、人でごった返した。公園ではみんなが陽気にダンスをして、茂みの中で交わった。夜になっても人の群れは街から消えなかった。満月を眺めるために集まり、三日月を眺めるために集まった。冬の寒さも気にはならなかった。ときどき野外で凍死した人がそのままになっていたが、その腐臭もまったく気にはならなかった。

 やがて、どこからか銃が出回るようになった。最初のうちは物めずらしく、みんな楽しみのために撃ちまくった。ある日、浦島太郎が通りを歩いていると、頭から血を流した子供を抱きしめながら大声で泣いている女がいた。しばらくして、誰かが女に近寄って食べ物を与えた。女は泣きながらそれを食べていたが、やがて子供の体を道のわきに捨てて、フラフラと立ち上がると、そのままどこかへ行ってしまった。

 正月が来た。みんな寒さに震えながら街の中心にある交差点に集まり、カウントダウンをした。0時になると同時にみんなが銃を空に向けて撃った。そのうちの一発は交差点の信号に当たった。別の何発かはまわりのビルの窓に当たって数カ所でガラスが割れ落ちる音がした。しばらくしてから空に放った弾が落ちてきて、それに当たった何人かが死んだり怪我をしたりした。

 街はいつのまにかゴーストタウンと化していた。誰も金を払わず欲しいものを取っていった。いまではもう店に物はなく、服や靴を買うこともできなかった。だからみんな家にあった古い靴や服を引っ張り出して着込んでいた。食料だけはスーパーやコンビニに、気がつくといつのまにか補充されていた。ゴミの処理場や、遠くに見える高層オフィスビルも、なぜか機能している様子だった。


 このころから、浦島太郎の幸福な夢には少しずつ悪夢が入り交じるようになった。日中は街の通りを歩きながら、ときどき道端に立ち止まり、天国になる以前の生活はどんなものだったか、ぼんやりと考えるようになった。母はうっとりとした夢のような表情を浮かべながら幸福の中で死んだ。かつての母が見せた生き生きとした表情や、悲しげな、あるいは思い詰めたような顔を、彼はしばしば思い出した。いまになって彼は、そんな過去の母に無性に恋い焦がれ、同時に強い郷愁を感じるようになっていた。なぜなのかは分からなかった。自分は地上が天国になる前の世界へ戻りたいのだろうか――だが、その方法が分からない。なんだか様子がおかしい。近ごろ、街を行く人の数が少なくなっているように思う。クマなどの害獣のように、人の数も誰かが調整しているのだろうか。

 いままでは見て見ぬふりをしていた事物、考えないようにしていたことが、浦島太郎の頭のどこかにしつこくこびりついて離れなかった。例えば、街のなかの大きなオフィスビルの横を通るとき、ふとガラス越しに中を見ると、無機質に整理された白い部屋の中でデスクに座り、書類を読んだりキーボードでなにかを打ち込んだりしている人々の姿がある。どこか郷愁を誘うその眺めにハッとして、しかしすぐに目をそらして見なかったことにしようとするのは、我ながらどういうわけだろう? そんなときにはコンビニにいって、タートルのたっぷり入った甘い菓子を買い食いして、余計なことはできるだけ早く忘れてしまおうとする自分がいた。

 しかしどうにも説明できない心の力が働いて、浦島太郎は気がつくとどうしてもそのガラス張りのオフィスの前に戻ってくるのだった。なにがそんなに自分の心を惹くのだろうといぶかしみ、じっとデスクに向かって働く人々の様子を眺め続けた。どう見ても、中の彼らは自分たちとはちがう人間に見えた。服はきちんとしているし、動作はきびきびしていて、なによりもその表情がちがっていた。何か得体のしれない使命感や目的意識のようなものがそこにはみなぎっていた。話す言葉からしてちがっているように思えた。


 浦島太郎はふらふらとビルの中に入っていった。そしてそこにあったコンビニに入ると、いつも買っている菓子を探した。それは奥の棚にあった。だがよくみると、いつものパッケージには緑の帯に亀の絵が描かれているのに、そこには金色の帯に玉手箱が描かれていた。彼はその場で袋をあけると三口でそれを食べてしまった。そして袋を棚につっこむと、またふらふらとした足取りで、誰にも咎められずに店を出た。

 恐ろしい現実感が彼をおそった。それまで忘れていた過去を彼は一気に思い出し、すべてを理解した。彼は道端に呆然と立ちつくし、走馬灯のようにあらゆる記憶が頭の中を駆けめぐるにまかせた。

 そのとき、一人の若い男がやってくると道の真ん中に立ち止まり、演説を始めた。

「みんな! 目を覚ませ! 自分が人間であったことを思い出せ! 龍宮城はまやかしだ! うそっぱちだ! そんなものはどこにもない! ただあるような気がするだけだ! みんな! 考えるんだ! そして働くんだ! 自分の食べ物は、自分の力で手に入れるんだ! 玉手箱を開けて、現実に戻ろうみんな!」

 だが通りをいく人々は立ち止まりもせず、男を指さしてゲラゲラ笑いながら通り過ぎていく。しばらくすると、一台の救急車が音もなく滑り込んできて、中から白衣を着た男が三人、どっと跳び出して男と追いかけっこを始めた。若い男はラグビー選手のようにうまく身をかわして逃げ、人々はそれを見てさらに笑った。だが、やがて若い男は白衣の男たちに追いつかれて引き倒され、救急車に無理やり乗せられて、どこかへ連れていかれてしまった。

 男が連れ去られると、浦島太郎は道端に突っ立ったまま泣き始めた。涙が流れるとそれがさらに涙を誘い、彼は泣きじゃくり嗚咽した。悲しくはなかった。というか、何が悲しいのか分からなかった。ただ胸が苦しくて張り裂けそうだった。ところがそのとき、ひさしの下から甘い香りのする空気が強い勢いで吹き出してきて、彼の顔をなぞった。彼は泣き止んだ。街が次第に桃色珊瑚の色を帯びてくるのを見て、彼はその美しさにうっとりとして赤ん坊のように微笑んだ。そうして彼は、まるで蝶を探すような足取りで通りを歩き出した。

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御伽草子 荒川 長石 @tmv

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