第3話
いわく、自分はこのお邸に勤める以前からキーロンさまが好きだった。父親の叙爵式典で見かけたのが始まり。
縁談を申し入れたくて調査したところ、女性関係の噂は一切ない。女嫌いと囁かれているが、どうやら昔の恋を忘れられないため他の女性に見向きしないともいう。身分差によって引き裂かれた哀しい恋らしい。
幸い、自分は平民から男爵令嬢になった。新興貴族とはいえ実家のリード商会は拡大を続けており、このまま成長を続けていけば、子爵に上がることも不可能ではないと言われている。
そうこうしているうちにキーロンが邸を構え、使用人を探していると聞いた。これは好機。
なんのって、彼の妻になる絶好の機会。
どうしてそうなった。
わたしは言葉を呑み込んだ。
貴族令嬢が行儀見習いを兼ねて高位貴族の邸宅で働くのは珍しくないことだけど、そこから一足飛びに当主夫人になる事例は滅多にない。
というか普通はない。物語じゃあるまいし。
「キーロンさまはかねてよりあたしをひそかに想っていらしたのよ。彼が大切にしているハンカチに刺繍があったもの」
「なんの刺繍かしら?」
「名前よ。アン・リーってね。あたし、家ではアンって呼ばれているの。うちの家名をご存じ? リードよ。つまりこれはあたしの名前なの。彼があたしのために用立てたんだわ、せめて心だけでも一緒にいられるようにって」
いろいろと言いたいことはあったけれど、ずいぶんと得意げに大きな胸を反らしているので、わたしはひとまず沈黙を選んだ。
言葉を吟味する必要があるし、正式にはまだ結婚していない状態で妻面をしていいものか悩むところだし。でも悪女なんだから高圧的でもいいのかしら。
それはそれとして一番言いたいことはこれ。
「下手糞な刺繍が入った古臭いハンカチを後生大事に持っているだなんて……」
「あたしと彼の愛の結晶をそんなふうに言わないでちょうだい! いいじゃない、あたしがもっと素敵なものをプレゼントして差し上げるわ。お父さまに言えばすぐよ」
「愛の結晶であることは否定しないが、それは断じておまえとの愛ではない」
割って入ったのは男性の声。低く、怒りを押し殺したような声色に私とアンヌが振り返ると、そこには汚れた軍服姿のままのキーロン・クロズリーが立っていた。
「旦那さま! ソフィアさまがひどいのです!」
涙を滲ませたアンヌが体を震わせた。
「いったい何がどうひどいというんだ。女主人に対する暴言のほうがよほど目に余るだろう」
「暴言はソフィアさまですわ。キーロンさまの持ち物に対して『下手糞な刺繍』だなんて」
「だって事実じゃないの」
「事実ではない。丁寧な手仕事だ」
否定したのはアンヌではなくキーロン氏。だからわたしは彼に言う。
「冗談はやめてちょうだい。だってそれって、わたしがこの地を離れるときにあなたに贈った、あのハンカチなのでしょう? 十歳のころのひどい刺繍だわ」
「そんなにひどくはないと思うが?」
そう言って胸ポケットから取り出したハンカチは、遠征から持ち帰ったばかりとは思えないほど丁寧に折り畳まれ、年月の経過を感じさせない清潔さを保ったもの。広げた布地の右隅に緑色の糸で文字が綴ってある。
「きゃああああ! ちょ、やめて、やめなさいよ。返してちょうだい」
「嫌だ。これは俺の物だ」
「制作者はわたしだもの、わたしにだって権利があるんだからああ」
取り戻そうと手を伸ばすも、さっと頭上に掲げられてしまい、わたしが跳ねても届かない場所へ行ってしまった。
女性の平均身長よりは低いかもしれない発育不良のわたしと体を鍛えた武人では、背の高さも含めて体格が違いすぎる。ずるい。卑怯だ。
腹が立ったものだから、ついこう呼んでしまった。
「アンリ!」
「なんだ、ソフィ」
「意地悪しないで返してよ」
「嫌だって言ってるだろうが」
「旦那さま、お嬢さま。すこし落ち着いてください。アンヌが固まっておりますよ」
家令が呆れたように言い、アンヌ嬢が我に返ったのか口を開く。
「なんなのよ、アンリって」
「キーロン・アンリ・クロズリー。貴女の主の名ですよ」
疑問に答えたのは家令で、呼ばれた本人はムッとした顔をつくる。
「子どものころの愛称だ。いつまでも呼ぶな。忘れろ」
「あのころはとっても可愛かったわよね」
「ソフィ」
艶々した黒い髪を肩口で切り揃えたお坊ちゃまは、女の子と見まがうばかりの可愛さだったことを、幼なじみのわたしは知っている。
ヨハイ男爵領はクロズリー辺境伯領に隣接しており、地方領主の結束故か、権力的には大きく差があるにもかかわらず親交があり、年齢が近かったわたしと彼は共に過ごすことも多かった。
自然あふれる土地で育ったわたしはわりと野生児だったので、黙って立っていると、どちらが女の子かわからない、なんて言われたりもしたものだった。
アンヌが『あたしの名前』と豪語したあれは、もちろん彼女の名などではない。
失敗が多々見られるため読みにくいけれど、彼の瞳の色を模した糸で『アンリ』と刺している、十歳のわたしにとっての精一杯の刺繍だ。
伯父に引き取られることになり、王都へ向かうことが決まったわたしは、決して自分を忘れてくれるなという願いを込めて、あれを彼に贈ったのである。
ただね、それを今も持っているのは想定外。
だってもう、あらためて見ると本当にひどい。ぐっちゃぐちゃだ。恥ずかしいから返して欲しいのに、頑として首を縦に振らない。頑固なところ、変わってないわ。
睨み合っていると、アンヌがまた反旗を翻した。
この子もこの子で結構しぶとい。そのガッツ、わたしは嫌いじゃないんだけど、キーロンはあからさまに顔をしかめた。
「ですが、この方はやはり奥さまにはふさわしくないです。だって旦那さま以外の男性と頻繁に文を交わしていたのです。これが証拠!」
そして彼女は例のアレを堂々と掲げたのである。
素っ気ない白い封書はどこの町中にでも売っていそうなシンプルなもの。上質な紙を使用する貴族階層には似つかわしくないものなので、どこの馬の骨とも知れない男と不義密通! と息巻いているが、えーとどうしましょう。
この邸に届いたものは家令を通じて分配されるので、当然のことながら家令のカリムは手紙の存在を知っているし、なんだったら差出人だってわかっている。さすがに内容までは改めていないとは思うけど。
アンヌが騒ぎ立てるし、邸の主人が戻ってきているということで、使用人も幾人か集まってきてしまった。
これはますますマズイのでは?
余計な騒ぎになるまえに事を収めたかったのに、もう無理そう。
「……お嬢さま」
「ごめんなさい、カリム。あなたのせいではないのよ。わたしがうっかりしていて、手紙をひとつ引き出しから落としてしまったらしくって。それをアンヌが拾ってしまったの」
「お仕えする主の私物を着服するなど、もってのほかでございますよ」
カリムの顔も怖くなった。
この家令はとっても優秀。わたしが子どものころ暮らしていた邸で執事をしていた男で、当時は父の片腕、あるいは参謀として辣腕をふるっていた。
男爵領がなくなったあと、功績を買って辺境伯さまが雇用してくださったのだ。他の使用人も同様で、辺境伯のお邸、あるいは別邸などで受け入れ体制を整えてくださったらしい。
使用人仲間の登場で勢いがついたのか、アンヌは事もあろうか内容について言及しはじめた。
「男をたぶらかす悪女という噂はみんなご存じでしょう? このひとは嫁いできたというのに、別の殿方から愛の言葉を引き出しているのよ。早く逢いたい、これからはずっと一緒にいよう、ですって。間男を引き入れる計画まで立ててるのよ。とんだあばずれだわ、そう思うでしょう!?」
場が静まった。
地を這うような声色でキーロンが言う。
「……どういうことだ」
「そうですよね旦那さま、この女は」
「おまえのことだアンヌ・リード。何故おまえが手紙の内容を知っているのだ」
「だって不貞ですもの。きちんと正さないといけないわ」
「不貞だと? 愛する女にようやく逢えたと思えば入れ違いで遠征へ行く羽目になり、せめてもと送った文のどこが不貞か」
「――は、い? そ、それは、つま、り」
「ソフィアと文をやり取りしていたのは俺だが、それがなにか?」
女嫌いで名の通っているクロズリー辺境伯子息のまさかの発言に、アンヌ以外のメイドたちがちいさく悲鳴をあげた。これは恐怖からのものではなく、麗しき恋愛小説を種にしてコイバナで盛り上がる類の悲鳴だ。
わたしだって、まさかこんな怖い顔の、色恋なんて毛嫌いしていそうな武人が、読んだだけで赤面しそうになる愛の言葉を綴ってくるだなんて思ってもみなかったのよ。最初はただ、お礼の文を送っておこうと思っただけだったのに。
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