地上の楽園

ヤマシタ アキヒロ

第1話

  地上の楽園



 最近、私の家に「出る」のである。

「出る」といっても、お化けではない。いや場合によっては、お化けよりももっと性質たちの悪いである。夜な夜な天井裏を走り回り、どこをどう通ってか、必ず食べものの在りかを見つけ、独特の丸い歯型を残し、満腹しては煙の如く立ち去る、そう「ネズミ」である。

 初めに異変に気付いたのは家内であった。築三十年、ローンで買った、ささやかながら愛着のあるマイホームの、自分なりに使いやすいようアレンジしたキッチンの物品たちが、何者かの手によってその配置を変えられている。

「昨日ここに置いといたお砂糖のビンが、なぜか床に転がってるのよ。あなた触った?」

「触りゃしないさ。コーヒーなら書斎で飲むし、勝手に触ると文句いうだろう」

「そうよね。おかしいわね……」

 首をひねりながら、彼女がビンを定位置に戻したとき、その背後に見つけたのは、端のやぶれた小麦粉の袋であった。

「あら!」

 散乱する白い粉を手でおさえ、袋を掲げてよく見ると、袋の底には丸い形に穴があいている。

「まさか……」

 私は長年のスーパー勤めの経験から、それが他ならぬネズミの仕業であることを確信した。以前スーパーの倉庫に奴らが出たときも、同じ形の丸い穴が、さまざまな商品の袋にあけられていた。

「これは長い戦いになるぞ」

 私はネズミ駆除に悪戦苦闘した日々のことを思い出した。どんなに巧妙にトラップを仕掛けても、敵もさるもの、罠をくぐり抜け、我がもの顔に狼藉をはたらく。まるでスーパーの倉庫は、彼らにとって天国のようであった。

「あと一週間で捕まえられるかな」

 われわれは一週間後に、海外旅行を予定していた。結婚三十年を記念して、南の島へ七泊八日の旅に出る。

「それまでになんとか、犯人を取り押さえたいわね。でないと、家が荒らされ放題になってしまう」

 その日からわれわれは、ネズミ退治に血道を上げた。いろんな場所にベタベタのシートを仕掛け、となる食べものをばら撒く。チーズであったり、パン屑であったり、鰯の煮干しであったり、彼らの傾向を読んで、こちらも知恵をしぼる。

 しかし予想通り、なかなか捕まらない。おとりのエサはまんまと掠め取られるばかりだ。

「時間との勝負だな」

 出発の日程まであと二日―――われわれ熟年夫婦の顔にも、しだいに焦りの色が浮かんだ。

 しかし出発の前日、勤めから帰った私の目の前に、家内は高々とネズミホイホイを掲げて見せた。「やっと捕まえたわ。とっておきのパイナップルの缶詰めを奮発しちゃった」

 家内は得意そうに、獲物の入ったトラップを私に見せ、そのままコンビニ袋にゴミとして放り入れた。とうとう一週間の戦いにわれわれは勝利したのである。

 出発の日は晴れ晴れとした気分だった。

 飛行機のタラップを、柄にもなくサングラスで気取ったわれわれは、アロハシャツをはためかせて歩いた。後顧の憂いもなく、これからのんびりと、地上の楽園と呼ばれるリゾートライフを楽しむのだ。

 赤道直下に位置するその島は、聞きしに勝る美観であった。白い砂浜、コバルトブルーの海、地元民によるダンスを堪能したあと、夜空を見上げれば南十字星―――

「これまでつつましく生きてきた甲斐があったね」

 われわれはうっとりと夜のデッキチェアで囁き合った。

 二日目はスキューバダイビングを楽しんだ。若い頃、いちど経験があったので、われわれは簡単な講習を受けるだけで美しい海にもぐることが出来た。ウミガメや鰯の大群に遭遇したときには、この世にこんな世界があったのかと驚きを新たにした。

 三日が経ち、四日が過ぎ、楽しい時間はあっという間に流れて行く。

 食事も満足のいくものであった。炎に囲まれた夜のバーベキュー会場で、われわれは豪華なステーキや南国のフルーツを存分に味わった。私の好物であるチーズや、オリーブ油をしみ込ませ、こんがりと焼いたパンそのものが美味しかった。

 そしていよいよ最後の日、まぶしい朝日の差す中、眺めのよいプールサイドのテラスへわれわれは案内された。

「こちらでございます」

 ボーイはスマートではあるが、心なしか目が赤く、すこし尖った鼻先を小動物のようにクンクンと動かした。

「当ホテル特製のカクテルでございます。アルコールは大丈夫でしょうか?」

 見るとテーブルには、贅沢にパイナップルをしつらえた、あざやかなカクテルが二つ用意されていた。

「大丈夫ですとも!あとは飛行機でグーグー寝るだけだから」

 私と家内は日焼けした顔を見合わせて笑い、ホテルの満ち足りたサービスを喜んだ。

 そして勇んで席に着いたである。

 テーブルに影を作っていた大きなパラソルが、まるで生き物のように、われわれ夫婦をテーブルごとパタリと鷲掴みにした。

 見る見るうちにロープで吊り上げられ、捕獲されたわれわれは、南国の空へと昇って行く。そして上空で待機していたUFOの底が開き、ロープはするすると中へ格納された。

 つづいて室内でパラソルが開き、われわれの目の前には、奇怪でグロテスクな宇宙人が現れた。しっぽの生えた哺乳類のようである。

「やっと捕まえたぞ。四十年の戦いに我らは勝利した」

「パイナップルが決め手だったナ」

 カクテルのグラスを握りしめたわれわれを、ひげの生えた、前歯の大きい、赤い目をした巨大なが取り囲んでいた。


                           (了)

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