Episode05

第6話

 アメリカのニューヨーク郊外に中古の一軒家を買い、葵と祐春はそこで二人暮らしを始めていた。

 耳の聞こえない葵にとったらアメリカなんて異国の地は住みにくくて仕方がなかった。英語は話せないし、手話もうまく伝わらない。それよりも最悪なのは唯一のコミュニケーションの頼みの綱である祐春が、仕事のためだとか用事があるからだとか言って頻繁ひんぱんに外出してしまうことだった。そうなると外に出るのは面倒になってくるし、家で閉じこもっている方が気が楽だ。何より頑張って相手に意思を伝えようとすることの方が面倒だ。葵はそう思いながら、日本からわざわざ持ってきたシリーズものの小説本を読んで一日の殆どを過ごしていた。

 夜、仕事が終わった祐春は好きな女遊びなどはせずに真っ直ぐと家に帰ってきた。彼は家に着いたらまず一番はじめに葵の安否確認をし、それを終えるとシャワーを浴び、その次に食事をする。アメリカに来てからはその生活リズムが狂うことはほぼなかった。


「今日もそれ読んでたの?」

そぇい、がぃ、やあぅ、おとないそれ以外、やることない

「やることないってお前さ…気分転換に散歩とかすればいいのに」


 祐春はバスタオルで濡れた髪を拭きながら、リビングに現れた。彼の視線の先には今夜の夕食として葵が用意しておいたペペロンチーノとでき和えのサラダ、市販のコンポタージュが並んでいるテーブルがあった。


めぇん、おう面倒

「面倒ってお前なあ…こっちはお前の心配していってるんだぜ?少しはありがたく聞けよ」

ぉこ、がどこが


 ぺたぺたとスリッパの擦れる音を立てながら祐春はサラダに手を伸ばす。少し乾いてしまったレタスを一枚手に取ると、祐春はそれを口の中に運んだ。


「ガードマンついてるんだし多少、外出したって構わないよ。ああ、治安の悪い東側に行かなければの話だけどね」


 手に付いたソースを舌で舐めとりながら祐春が言った。彼の言葉通り、葵には二十四時間彼を警護するためのガードマンが雇われていた。どうやら、心配性の祐春が雇ったらしい。まあ、葵は一度もそのガードマンたちを見たことはないのだが。

 葵は箸で、祐春はフォークでペペロンチーノを食べていた。トウガラシなどのびりっとしたほどよい辛さが舌を刺激していく。その辛さのおかげか、ぬるくなってしまったコンポタージュが冷たく感じた。


「そういや、前から言おうと思ってたんだけどさ。最近、パスタ多くない?しかも、ペペロンチーノオンリーってさ、何?」


 祐春の言う通りでここ二週間の夕食はパスタばかりだ。朝はシリアル、昼はそれぞれ別々のもの、夜はパスタといったメニューだ。


「せめて他のものにしない?百歩譲って毎日がパスタでもいいけど、ナポリタンとかカルボナーラとかパスタにも色々種類あるじゃん!」


 文句を言いつつも祐春はよく食べる。三人前くらいの量のパスタを用意していたのに、既に彼の皿の上には半分になったペペロンチーノがある。それを上目遣い気味で見つめながら葵は口いっぱいにパスタを頬張った。


こぇ、しがづ、ぅえにゃ、いこれしか作れない

「え?まさか、これしか作れないとか言ってないよね?今までの生活どうしてたんだよ」

ぁっう、らぁあんとが、うぇん、どぉカップラーメンか弁当


 葵の言葉に祐春が栄養バランスを考えろよ、と呟いた。


「ぉえ、つにおあぇに、あ、かんぇいない、ぉな別にお前には関係ないよな

「今はめちゃくちゃ関係あるの!俺たち一緒に住んでいて、飯の用意はお前の役目だろ?で、お前の選ぶメニュー次第で俺の健康がかかってくるわけよ。健康ってホントマジで大事だからな。俺の言ってる意味わかってる?」

あい、はぃはいはいわぁってうよわかってるよ


 絶対にわかってないだろ、いやわかってるってとくだらない押し問答をしているうちにペペロンチーノは徐々に冷めていき、冷たく不味くなったパスタを二人は渋々食べる羽目になった。やっぱりパスタは温かいうちの方が美味しい、そう思いながら葵は最後の一口分のパスタを口の中に放り込んだ。

 アルテアと決別したような別れになってしまい、ひどい喪失感に襲われていた葵だったが、祐春の懇願でアメリカについてきたのはある意味よかったのかもしれない。気を紛らわすのには仕事に没頭するよりも、馴染めない環境に身を置いて生きていくことに必死になることが他のことを何も考えなくて済む一番簡単な方法だった。

 薄暗くなったイタリア、フィレンツェの街の入り組んだ路地裏に物騒なものを持つ男女の二人組がいた。女の方は背が低い割には大きな武器を持ち、男の方は背が高い割には小さな武器を持っていた。正反対の武器を持つ二人組だった。


「キニートさん、ちゃんとってきてくれたんですよね?」

「悪い。うっかり一匹ネズミを殺すの忘れているかもしれないな」


 ポケットピストルをくるりと器用に片手で遊びながら男がにやりと笑った。そんな彼に対して女は不服そうに顔を顰め、手に持っている鎌の持ち手部分で彼の脇腹を突いた。からんと鎖が音を立てて硬いコンクリートの上に渦を巻いた。


「わざとやりましたよね」

「さあ、どうだろうな」


 その二人組はアルテアとキニートだった。日本を出て行った二人は、持っている力と能力を使いヨーロッパの方に来ていたのだ。一定のところに住むことはせず、ホテルを転々としていくという流浪の生活を送っていた。なんとも財布に優しくない生活なんだろう、とアルテアは一度嘆いたことがある。嘆いただけでその生活をやめる理由にはならなかった。節約をするよりも彼女にはやらなくてはいけないことがあったからである。


「姉ちゃん、そこの男の連れかい?」


 路地裏にアルテアとキニート以外の声が響いた。ほぼ同時に声のした方へ顔を向ければ、先ほどキニートが殺し損ねたという男が増援を引き連れて二人を睨みつけていた。彼らの手には各々得意としているであろう武器が握り締められている。それをキニートが目の見えないアルテアにもわかるように合図を出せば、彼女は小さく首を上下に動かした。


「非常に残念なことにそうなんですよ」


 アルテアはくすくすと笑い声をあげながら微笑むと、愛用の鎌を時計とは反対に回すと目の前にいる男たちに向かって振り下ろした。鎌は甲高い金属音と肉の裂ける鈍い音を路地裏に響かせ、硬いコンクリートに突き刺さった。男が引き連れてきた増援の大半がたったひと振りで全滅させられてしまった。それを彼はわなわなと全身を震わせながら見つめていた。


「こんなところまでわざわざ追いかけてきたって言うのにざまあねえもんだな。ギャングの下っ端っていうのはこんなもんなのか?」


 呆気なさすぎると鼻を鳴らしながらキニートは目の前の男を睨みつけ返した。男はいまだに震えている身体のまま、着古された革のジャケットの裏に手を突っ込んだ。彼が取り出したのはその辺のスーパーにでも売っていそうな小さな果物ナイフを取り出した。


「おいおい、ガキ同士のお遊びじゃねえんだぞ。いくらなんでもそれはないだろうが」

「ふ、ふざけるな!おれ、俺たちは、こ、こんな目に遭うとは聞いていない!」


 取り乱したようにナイフを構えた男だったが、護身用にと持っているだけで殺しの経験の浅い男だったのだろう。彼はからんとナイフをいとも簡単に手放すとその場から逃げ出そうと後ろを振り向いた。地面には仲間として連れてきたはずの男たちが無造作に転がっている。それを一瞥いちべつすると男は迷うことなく走り出そうと右足を前へ踏み出した。

 アルテアの長い鎌の刃先が男の足を掠めた。前に出したはずの右足は自身の身体よりも後ろに有名なアーティストの展示品のように置いてある。それを目視した男は、目玉が飛び出てしまうんじゃないかっていうくらいに見開かせると、喉が潰れてしまいそうなほどの悲鳴をあげた。


「あぁ、ヴぁ、アァッ…あぁ、あッ」


 すぱんと切られた綺麗な切り口からは鮮血が滝のように溢れ出て、コンクリートに小さな池を作り始めた。軸足を失った男はその池の上に転がると悶絶しながら泣き叫んだ。そんな彼に構うことなく、キニートは男に近づくと彼の前髪を掴み無理矢理自身と目を合わせるように持ち上げた。


「ヴィットリオの居場所を知っているか?」

「し、知らねえよ…」


 肩を何度も揺らしながら泣きじゃくりながら男は答えた。それに対してキニートは柔らかく微笑んで見せると次の瞬間、男の顔面を勢いよく地面に叩きつけた。突然のことに防ぐことができなかった男の顔はコンクリートの上に転がる小さな石やガラス片が刺さり、鼻は折れてしまっているのだろう。止めどなくぼたぼたと血を流していた。


「知らねえってことはないよな、ン?俺たちに売った情報はどこから仕入れたんだ?」

「だ、だがら、ぞれを、おじえるわげにば…」


 男がキニートが望む答えを言わない限り、彼は男の顔を地面に叩きつけるのをやめなかった。


「わがっだ!いうがらぁ!」


 鼻声交じりに男は叫んだ。先ほどキニートたちに売った情報は確かにヴィットリオの組織から仕入れたものだと白状したのだ。男のその言葉を聞いたキニートは漸く男の前髪から手を離してやった。その時、はらりと数本彼の髪の毛が地面に散らばった。それを横目にしながら、キニートは次の問いを用意した。


「なあ、HOPEって知ってるか?」


 男の額に拳銃を突きつけながら、キニートは尋ねる。男は恐怖に満ち、引き攣った表情で知らないと首を左右に振って見せた。そんな男に対してキニートはそうかと満足気に笑ったかと思うと、安全装置をかちりと外し引き金を容赦なく引いた。パァン、と乾いた音が路地裏に響き渡る。撃たれた男は自身の頭の重さに後ろにゆらりと揺れ、地面へと倒れこんだ。何度か身体を痙攣けいれんさせると、男の忙しなくぱくぱくと動いていた唇の動きが止まった。男が完全に絶命したのだとわかっていたが、キニートはもう一度ピストルの先を男に向けると容赦なく発砲した。念には念を、ということなのだろう。


「結局、大した情報は手に入りませんでした」


 アルテアは残念そうに呟いた。手に入った情報は何度か聞いたことのある噂話のようなものばかりだった。肝心な根拠と証拠がない。無駄な金と労力を支払ってしまったとアルテアは心の中で後悔していた。そんな彼女に反して、キニートは得意げな笑みを浮かべていた。


「お前にしてみたらロクな情報じゃなかっただろうが、俺にしてみたらいい情報だ。ヴィットリオがこの周辺にいるのがわかったからな」

「彼は滅多に人前に姿を現さないはずでは?」

「確かにお前の言う通り、あの男は用心深い。だから、近くにいるとわかるんだ」


 キニートの言葉にアルテアは小首を傾げた。彼の言っている言葉の意味がよくわからないのである。


「用心深い男ほど、遠くにいるもんじゃねえぞ。アイツは情報を売る時、いつも部下の中に紛れ込んでやがる。姿を現すのはお得意さまか、自分以上に身分が上な組織の人間くらいだけだ」


 自分自身が彼の部下だったからわかるのだ。そう言いたげな表情をしてキニートは言った。


「まあ、肝心な手がかりはなかったが、おかげさまでいいものを手に入れた。これを売れば当分の間は働かなくても生きていけるぞ」


 欲しかった情報を得られず落胆しているアルテアとは違い、キニートは満足気に先ほどの男たちから盗ってきた高価な指輪やネックレスなどの装飾品を彼女に見せびらかした。確かにキニートの言う通りで質屋で売ってしまえばかなりの金になるものばかりだ。暫くの間働かなくても二人分のホテル、食事、その他生活面で必要なものを買える金額になりそうだった。


「それは嬉しいですが、HOPEについて何の情報もないんですよ。お金よりもそっちのほうが大事だと思いませんか?」


 頬を膨らませながらアルテアは言った。自分が出した話題に対して触れないアルテアに、不満を感じたのかキニートは返事すらしなかった。なんとも、自分勝手な男だ。


「生きていくうえで金より大事なモンは命だけだ。それにHOPEはイタリアのマフィアやギャングをまとめてる連中だ。そのうちお前の欲しがっている情報も手に入るだろう」


 確かに彼の言葉はもっともだ。金がなければ命を繋いでいくのは難しい。しかし、それでも納得はいかないのかアルテアは頬を膨らせたまま、器用に溜息を零した。


「とにかく今日はもうホテルに戻りましょうか。キニートさんが発砲したせいで、そろそろ騒ぎを聞きつけた警察が来てしまうかもしれませんし」


 アルテアはそう言うと彼女の言葉に不機嫌になったキニートと共に自分たちが寝泊まりしているホテルへと足早に向かった。途中、キニートが男たちから盗んだものを質屋に売りに行くと言って寄り道をした。しかし、それはある意味二人にとっては好都合であった。質屋で物を売っている際に店の前を警察の車が慌ただしくサイレンを鳴らして通り過ぎて行ったからである。

 二人の泊まるホテルは値段がとにかく安い。シャワーはあるがトイレと脱衣所も兼用しているし、キーチェーンは錆びれており、簡単に壊せてしまうだろう。ベッドはシングルサイズが一つだけで当然、食事なんてものはつかない。キニートとしてはもう少しいいホテルに泊まりたかったが、アルテアがそれを嫌がった。いいホテルになればなるほど値段は高くなるし、金がかかる。そのためには、金を稼ぐために仕事も増やさなければならない。まともな世界で生きてきたことが少ないキニートと、目が不自由でまだ未成年なアルテアには到底無理な話だった。仮に働けたとしても、ホテル代やら生活費やらが十分なほど貯まるのは何年先かわからない。二人とも今回のことにそこまでの時間も労力もかけたくはなかった。そのため彼らは今ある金でやりくりしなければならないわけだ。当然、いいホテルなどには泊まることができない。


「キニートさん、一週間後にはこのホテルを出ましょう。本当は今すぐに出るほうがいいかもしれませんが、新しい情報がないので…」

「そうだな。ヴィットリオのやつもまだこの近くにいるかもしれねえからな」


 アルテアの提案にキニートは頷きながら答えた。

 彼らが葵の家を出てすぐのことだった。アルテアがHOPEについて調べようと決めたのは。アルテアと共にタクシーに乗っているとき、キニートはなんとなくこれからどうするのかを尋ねた。どうしようと自分は彼女についていく気だったが、一応聞いてみたのだ。


「キニートさん、私HOPEについて調べてみようと思うんです」

「アオイ殺しはどうするんだ?」

「それは…」

「まさか、死神と呼ばれた女が情に流されたとかいうんじゃないだろうな」


 棘のあるキニートの言葉にアルテアは顔を顰めたがすぐにいつもの感情の読みにくい笑みを浮かべた。


「そんなこと、あるわけないじゃないですか。ただ、葵さんを殺すにはまだやるべきことが…やらなくちゃいけないことがあるから」


 アルテアはキニートへ向けていた顔を横に逸らすと、静かに口を開いた。事細かに事情を話しはしなかったが、キニートが彼女の意見に賛成するには十分な内容だった。


「俺はヴィットリオのやつさえ殺せればアオイを先に殺すか、HOPEを探すかの順番なんてどっちだっていい。まあ、お前が早くアオイを殺さねえとヴィットリオが全総力を挙げてお前を殺しに来そうだな」


 にやりと笑うとキニートは次に情報を買い占めるぞ、と言い始めた。

 二人はHOPEについて知るギャングや情報屋と呼ばれる裏社会に詳しい人間たちに情報を求めた。彼らは報酬として当然のように大金を強請ねだった。何度かもう少し安くできないのかとアルテアは彼らに言ったが、それならば情報を売ってやることはできないと口を揃えて言った。ならば、致し方ない。アルテアは彼らに言われた通りに金を支払い、自分たちが求めていた情報と違っていたり、噂話程度の情報を提供してきたものを片っ端から始末していった。当然支払った大金はアルテアたちの懐にも戻るし、彼らがHOPEを探し回っているという情報も彼らには伝わらない。まさに一石二鳥だった。


「ねえ、キニートさん何かおかしいと思いませんか?」


 安物のベッドのふちに腰をおろしたアルテアがふと、思い出したかのように尋ねた。それをキニートがああ、と声を裏返すようにして聞き返した。


「だっておかしいじゃないですか。私とキニートさんのことこんなにもよく調べられた祐春さんが追ってこないだなんて。彼は私たちのような裏の人間を知ることのできる人物だって、私の買いかぶりすぎだったんでしょうか」

「確かにな。そこに書いてある内容すべてを調べられたユウシなら、俺たちの居場所を突き止めるのも難ないはずだ」

「もしかして、彼の邪魔をしている人間がいる?」

「邪魔をしているやつがいるなら、お優しいこった。むしろ、それは邪魔というよりHOPEには近づくなって言う警告かもしれねえなあ」


 キニートの言葉に彼女の耳がぴくりと動いた。


「祐春さんはHOPEとは遠い関係だと思いますが」

「俺たちが近づいているからだろ」


 ぼそりと彼は自身の考えを口にした。


「俺たちが近づけば近づくほど、HOPEは力を見せびらかすように俺たちに関係するやつや、HOPEアイツらにとって目障りなやつを殺すだろうよ。HOPEにしてみりゃあ、ユウシなんてその辺にいるありなんかと大して変わらねえよ。指一本で殺せちまうような人間だ」


 アルテア自身の知る情報でも確かに、まるで小さな子供が人形遊びでもしているかのように簡単に人間を殺せるような組織だということは認知していた。HOPEの中でも下っ端であるヴィットリオの部下だったキニートが、今まで彼に命じられて行ってきた仕事も先ほど彼女に言ったような仕事内容が多かったのも事実だ。キニートの言葉を聞いたアルテアはそれほどHOPEという組織は大きく巨悪な存在なのか、と認知の仕方を改めるのと同時にくすりと小さく微笑んだ。


「なら、私もそのHOPEも蟻たちと変わらないってことですね」

「どういう意味だ?」

「だって、私たちはお互い甘いあまい餌に釣られている人間なんですから」


 微笑みを浮かべた彼女をキニートはただ、じっと見つめていた。二人で行動する前から、ヴィットリオの元に居た頃から彼女のことは知っていたが、今でもアルテアの本心はよくわからない。否、キニートの常識の範囲内では測りかねる。そんなことを頭の片隅で考えていれば、目の前の彼女は今日はもう休みましょうかと別の話題を口にしていた。


「大した情報を得られませんでしたので明日もまた、いちからの情報探しですから」

「でも、金は手に入ったぞ」

「そうですね。でも、肝心なものは得てはいませんよ」


 今のアルテアにしてみたら金集めよりも情報収集の方が最優先事項だ。それをつまらなさそうにへえへえと答えるキニート。


「適当に答えないで…はあ、もういいです。キニートさんに理解を求める方がばかばかしいです」

「てめえ、いつか必ず殺すぞ。ヴィットリオの次に殺してやる」


 彼が今すぐ殺すと言わないあたりそれほど嫌われてはいないのだろう。と明るく受け止めた。

 二人で行動するのにまず必要なのは相性の良さと協調性があるかどうかだ。その次に信頼できるかどうかとコミュニケーションだとアルテアは思っている。キニートとの相性の良さは胸を張って良いとは言えないが、でも悪くない方だろう。協調性に関しては彼は問題ばかりだ。唯我独尊で身勝手な行動が多い。コミュニケーションも同じだ。口は悪いし、すぐに殺すだの殺してやるだのと物騒なことを言う。それでも、キニートはひとりの妹を持つ兄だった。それなりの優しさは持っていただろうし、何よりヴィットリオの元についたのが妹の仇だからという理由だった。アルテアが彼を信頼するのには十分だった。

 アルテアはベッドのふちに座ったまま、キニートに向けて声をかけた。


「昨晩も私がベッドを使わせてもらったので、今夜こそはキニートさんが使ってください」

「俺には小さいからいい、椅子で寝る。ベッドはお前が使え」


 彼女の提案を断ると、キニートは立ち上がりアルテアの転がっているベッド近くへ椅子を一つ運んだ。どす、と偉そうに腰をおろすと足を組み目をそっと閉じた。それをアルテアはくすりと微笑んで様子を窺っていた。彼はぶっきらぼうだが優しい。シングルサイズと言っても男一人で寝るには十分な大きさだということは目の見えないアルテアにもわかっていた。しかし、それでもアルテアにベッドを使わせるのは何かあった時、目の見えるキニートの方がすぐに察知することができ、動けるからだ。目に見えない彼女ではそう簡単に状況判断をするのが難しいと彼はわかっているのである。だから、自分が椅子で寝ると言って聞かないのだ。アルテアはキニートの優しさに甘えることにし自身も眠りにつくことにした。

 霧が濃く、光の当たらない薄暗い道を少女は泣きじゃくりながら歩いていた。まだ幼さが残っている容姿はとても愛らしく見える。長く伸びた金髪を二つに結び、手を誰かにひかれていた。誰に手をひかれているのかはわからない。黒い霧のような靄がかかっていてよく顔が見えない。ただ、身長と手の大きさから男だということだけはわかる。


「君はこれから、ある場所で暮らすことになる。そこには夢も希望も、未来も何もない所だ」


 目の前の男は淡々とした口調でそう話しかけた。少女は男の言葉にひっくとしゃくりを返すことしかできない。彼女はまだ母親を亡くしたばかりなのだ。うまく状況が呑み込めてもいないというのに、男はそんな少女に構うことなく薄暗い道を進んでいく。


「いいこにするから、おねがいだから」


 大きな瞳から涙を零し懇願する少女に男は見向きもせずに彼女の手を引っ張っていく。途中握る手の力を強くさせ、彼女が逃げ出さないようにした。ギシ、と骨と関節のきしむ音が少女の柔らかく小さな手から聞こえた。


「おねがいだから、わたしを、おいていかないで」


 目的地に着いたのか、男は灰色の扉を一度叩き、間を置いてから三回叩いた。暫くしてから、扉の隙間から瘦せこけた男が顔を覗かせた。痩せこけた男の視線が少女に向けられると、彼女の手を引いていた男が話を始めた。男たちが何度か言葉を交わすと、繋がれていた手は呆気なく離された。そして、男はもう一人の男に少女を渡し、分厚い茶封筒を受け取ると少女の方など見向きもせずに来た道を戻っていく。少女は大きな瞳をさらに大きくさせ、慌てたようにこの場から立ち去ろうとしている男に泣き叫ぶように声をあげた。


「やだ、いかないで!わたしを、ひとりにしないで!おいていかないで、おとうさん!」


 少女の悲痛の叫びは男には届かなかった。否、届いていたが男は自分には何の関係もないと少女の叫びを無視したのである。男は最後まで決して振り向くこともなく、立ち去ってしまった。それを待ちわびていたかのように痩せこけた男は少女は髪を引っ張り、自身の方へ顔を無理矢理向かせた。痛い、と少女が声をあげる前に男に頬を引っ叩いた。それは彼女が泣き止むまで続いたあまりにも理不尽な暴力だった。漸く、静かになった少女の頬は真っ赤に腫れあがり、小さな唇の端は切れてしまい、血が滲み出ており、先ほど流した涙と混じり合い、見るに見ていられない有様だった。


「いつまで泣いているつもりだ!お前は捨てられたんだ!」


 男の容赦ない言葉に少女はもう一度、大きな瞳から涙を零した。彼女の口からはもう、嗚咽すら出ることはなかった。壊れた人形のように涙を流し続けた少女が泣き止む頃には、灰色の空から白い雪が降り注ぐ。


「アルテア!」


 突然キニートに大きな声で名前を呼ばれ、アルテアは飛び起きる。寝汗を掻いていたのか、服が背中にべっとりと纏わりついていて気持ちが悪くて仕方がない。ふうふうと荒く肩で息をしながら、固く閉じた瞳をキニートの方へ向ける。瞼越しに感じる光がまだ弱い。ということはまだ夜は明けてはいないということだ。そのことにアルテアは少しだけほっと胸を撫でおろした。


「かなり、うなされていたようだったが平気か?」


 キニートの言葉に少しずつアルテアの呼吸が落ち着きを取り戻し始めた。


「えぇ…ちょっと夢を、見ていたんです」


 左胸を抑えながらアルテアは小さく謝った。


「なんでお前が謝るんだ?別に謝る必要なんかねえだろ」

「そう、ですね…すみません」


 妙に歯切れの悪いアルテアは、彼の知っている彼女ではないように思えた。いつもならすぐにへらりと間抜けそうに笑うのに、今だけは違う。うっすらとした光で見える彼女は何かに怯え、恐怖に満ちた表情をしている。


「そんなに悪い夢か」


 キニートは低い声で尋ねた。そのことにアルテアが驚いたように肩を揺らした。まさか、彼がそんな問いを投げかけて来るとは思ってもいなかったからである。戸惑いがちにアルテアが幼い頃の夢だと告げれば、キニートは静かにそうかと頷いた。


「まだ、私がイタリアにいた時の、幼い頃の夢です」


 そこまで言うと夢のことを、幼い頃のことを思い出したのか、アルテアは黙り込んでしまった。唇を固くひとつに結び、何も話したくないそう行動で示している。察しの良いキニートはそれ以上何も聞かなかった。これ以上のことは聞くべきではないと判断したからだ。


「夜が明けるにはまだ早い。眠れそうか?」


 キニートは静かな声で尋ねる。


「すみませんが、眠れそうにもありません。少しだけ外の空気を吸ってきてもいいでしょうか?そしたらきっと、夜が明けるまで眠れると思います」


 苦く微笑みながらアルテアは答えた。彼女の言葉にキニートは何かを言うことはなかった。それを了承した意味だと取ったアルテアは重たそうに腰を持ち上げた。が、すぐにベッドの上に押し倒されてしまう。不思議そうに瞼を天井に向ければ、何かが覆いかぶさる布の擦れる音が耳を掠めた。


「キニートさん?」


 それが彼だとわかったのは、ほんのりと香る自分と同じシャンプーの匂いがしたのだ。


「外なんか行かなくてもいいだろ」


 アルテアの外の空気を吸ってきてもいいか、という問いがただこの場に居たくない嘘だということはキニートにはわかっていた。自身の妹も嫌な夢を見たり、嫌な思いをした時は外に逃げているのを何度も目にしてきたのだから。妹が願うたびにキニートはは彼女の願い通り外に出してやっていたが、それが妹を死なせてしまう原因になってしまった。その後悔からなのだろうか。それとも胸を突き刺すようなあまい痛みのせいなのだろうか。キニートはアルテアの願いを叶えてやろうとは思わなかった。


「別に俺はお前がここで泣こうとも、怯えようとも構わない」

「そうしたら、今度はキニートさんが寝れなくなっちゃいますよ」


 渋るように言葉を返すアルテアに、すぐさま返事をすれば彼女は戸惑いの表情を浮かべた。


「十分寝た。お前が寝不足な方が俺は困る」


 ぶっきらぼうで、素っ気ない言葉だったがキニートはアルテアのこと心配しているようだった。捲れた毛布をアルテアに被せると、キニートは静かにベッドのふちに腰をおろした。


「お前が寝付くまで起きててやるし、目が覚める時もそばにいてやる。何かに怯える必要も、恐怖に感じる必要もない。だから、安心して寝ていい」


 実に自分らしくないとキニートは思った。実の妹にさえこんなに優しい言葉をかけた記憶はない。寧ろ、彼女の言葉通り放置していたくらいだ。キニートの中に小さく芽生えた感情、それがいったい何なのか察しの良いキニートにはわかっていた。ただ、それがこの瞬間のものだけだと己を叱咤するとキニートは毛布越しに彼女の頭を撫でてやる。彼のその行動にアルテアは、鼻の奥が熱くなるのを感じた。


「どこにも、行かないでくださいね。朝、一番におはようって…」

「言ってやる。だから早く寝ろ」


 アルテアは弱々しく約束ですよ、と呟く。ぎこちなく頭を撫でるキニートの体温に、やさしさに今度は嫌な夢を見ないで寝られそうだ、と思った。

 翌朝、アルテアが目を覚ますと昨夜言った通りにキニートが目の前におりすぐにおはよう、と声をかけた。それをアルテアは嬉しそうに微笑み返した。

 二人が決めていた一週間が経った。相変わらずHOPEについての情報は何も得られていない。キニートの怒りは最高潮に達しそうだったし、アルテアの貯金もそろそろ底がつきそうだった。金がなくなったら本当にお終いだ。情報屋から情報を買うことも、どこかに寝泊まりすることも、食事をすることだってできなくなる。


「キニートさん、何か仕事を探しましょう」

「何の仕事だ?俺たちみたいなのができる仕事なんざ限られてるだろう」


 う、とアルテアが言葉を詰まらせ、眉間に皺を寄せた。キニートとアルテアは今まで寝泊りをしていたホテル近くの公園のベンチに腰を掛けて話していた。カフェに入れば何かしら頼まなくてはいけないから、という理由でアルテアが嫌がったのだ。キニートとしてはそれくらい別にいいじゃないかと思うのだがそうできない理由が彼女にはあった。


「それに突然なんだ。仕事を探そうって。俺たちは出稼ぎに来てるんじゃねえんだぞ」

「お金が底をつきそうなんです。キニートさん、湯水のように使うからあっという間になくなっちゃう」

「人が無駄遣いしてるみてえな言い方すんな。最近、やたらと物騒だからな。新しくピストルを買っただけだろうが」

「それが無駄遣いって言うんですよ。何もあんなに高いものじゃなくてもいいのに」


 むすっとしたように呟いたアルテアにキニートは腹正しそうに舌を鳴らした。


「キニートさん、自分でお金出してないんですよ。全部、私の貯金だってわかってます?」

「わかってるよ、くどくどと面倒くさいやつだな」


 本当ならキニートのものは彼自身の金で支払うべきだ。だが、残念なことに彼は一銭も持ち歩いてはいなかった。貯金は勿論していたが、おろすために必要なものはすべてヴィットリオのアジトに置いてきてしまっている。日本にいた時でさえただの居候というだけで、金を稼ぐことは何もしてこなかった。


「これじゃあ、ホテルに泊まれても食事が何とかっていう感じですよ…」


 不満げに呟くアルテアを横目に、キニートは先ほどの言葉通りに面倒くさそうに溜息を零した。そして、少しの沈黙が流れる。


「金、か。ユーロでいいのか?」


 沈黙を破ったのは意外にもキニートの方からだった。少し、気難しそうな顔をしてアルテアに問いかける。


「え…あぁ、はい。まだイタリア…というか、ヨーロッパの方でHOPEを調べるつもりなので」

「いくらぐらい必要だ?」

「少ないよりかは多い方がいいですけど…」


 突然の質問に、何事かと戸惑ったアルテアだが一緒に就職先を探してくれるのだと思い、快く彼からの質問に答えた。気になることをすべて聞き終わったのか、顎に手を添え悩んでいる素振りを見せるキニート。時折、キニートから不満げな声が零れている。


「二万ユーロぐらいあれば、あと一週間ぐらいは平気だな?」


 琥珀色の瞳が鋭くアルテアをとらえる。向けられた視線に思わずこくりと小さく喉を鳴らすアルテア。


「た、多分そのくらいあれば…平気だと思います」

「そうか。なら、すぐに用意できる。それ以上の金も用意できるが……持ってくるのが面倒だ」


 そう言うとキニートは立ち上がり、どこかに向けて歩き出してしまう。アルテアは慌てたように彼を追いかけようとしたが、彼についてくるなと断られてしまった。しかも、公園の目の前にあるカフェの中で自分がくるまで一歩も外に出るなというのだ。当然だが、アルテアは抗議の声をあげる。しかし、キニートがそうしろと強く譲らなかった。あまりにも圧力のある視線を向けられ、アルテアは渋々と首を上下に動かし彼の言う通りにカフェの中に入った。

 それから、約八時間と三十分ほど経った頃に大きなボストンバッグを持ったキニートがアルテアの元へやってきた。彼の持っていたボストンバックを開けてみれば日本円で約二百四十八万円ほどの金が入っていた。手で何度も触り、本物の金だと確認をしたアルテアは声を上擦らせながら、キニートにこの金はどうしたのか尋ねた。


「キニートさん、このお金どうしたんですか!」


 こんな大金、そう簡単に手に入るものではない。いったいどこから、どうやって持ってきたのかアルテアは執拗にキニートに尋ねた。が、彼はまあと言葉を濁すだけで明確な答えを口にはしなかった。それをアルテアは怪しいと思い、まさか盗んできたんじゃないでしょうねと問い詰めるような口調でキニートを一方的に責めた。


「あぁ、もう、しつこいやつだな!盗んできたんじゃねえよ!正真正銘、対価として貰った金だ!それ以上に何を言えばお前の気が済む?」


 何度もしつこく問われ、キニートの方も限界がきたのだろう。アルテアに向かってそう吠えた。彼女はあまりの勢いに呆気に取られていたが、状況をすぐに飲み込むと小さく喉を上下させ、謝罪の言葉を口にした。


「対価って何の対価なのか聞いても?」

「そんなもん聞かなくてもわかるだろう。俺にできるのは人を殺すことくらいだ」


 アルテアの静かな問いにキニートは呟くように答えた。

 漸く金の問題は解決し、二人はとりあえず列車に乗ると少し行った先のサンマリノで下車した。そして、そこで暫く寝泊まりするためのホテルを取った。今度のホテルは前回のものよりも少しだけいいホテルにしたのは、アルテアなりにキニートに気を使ったのだろう。


「久しぶりにいいホテルじゃねえか」


 珍しく表情を柔らかくさせたキニートは、部屋の中を物色し始めた。確かに彼の言う通りで今回泊るホテルの個室はかなり広い。それに綺麗だし、シャワーなどの設備がきちんとしている。ベッドも二つあって扉のキーチェーンも錆びれていない。こんな部屋に彼らが泊まるのは、ほぼ半年ぶりだった。それほどキツキツとした節約生活を送っていたことになる。


「それにしてもなんでまたサンマリノなんだ?別にローマまで行ってもよかったんじゃねえのか?」 


 機嫌よくベッドの上に転がりながらキニートが尋ねた。アルテアは彼とは違うベッドのふちに座り、自身の愛用の鎌の手入れをしている最中だった。刃を拭いていた止め、顔をキニートの方へ向ける。


「実は、キニートさんを待っている時にいたカフェでHOPEの話を聞いたんです。HOPEって刺青の入った女がサンマリノにいく列車に乗ったのを見たって」


 声を小さくさせながらアルテアは答えた。


「前に聞いたことがあるんです。HOPEのボスは女で、首の後ろに組織の名前の刺青をいれてあるって」


 噂話で本当なのかはわかりませんが、と言葉を付け加えるとアルテアは顔を元の位置に戻し、鎌の手入れを再開した。


「それでここってわけか」

「はい。信憑しんぴょう性がないのは重々承知です。でも、その情報にもうしがみつくしかないじゃないですか。フィレンツェでは何の情報も手に入らなかったのですから」


 苦笑交じりに答えるアルテアに反してキニートの表情は暗くなっていく。まるで何かを抱え込んでしまったような、追い詰めているような表情だ。目の見えないアルテアには彼の表情の変化はわからない。ある意味、それはそれでよかったとキニートは思う。彼女に表情の変化を悟られてしまったら、自分はどうしたらいいのかわからなくなってしまいそうだったのだから。


「なあ、一つ聞いてもいいか」

「なんですか?」

「お前は何でアオイを殺そうとしていたんだ」


 キニートの問いにアルテアは答えない。否、答えられないのだ。ただ答えられない、そういうわけではない。彼女の消し去りたい過去も、すべてキニートに知られてしまうのだ。アルテアにとったら、そう簡単に他人に話せるようなものではない。


「人に話せるようなものじゃないのか?」


 冷ややかな声でアルテアに話しかける。彼女は聞こえないふりでもしているのか、淡々と鎌の手入れを行っている。刃を磨き終えると、次は持ち手に付いている鎖に移った。そんなアルテアの反応にキニートは顔を顰め、聞いているのかと語尾を強めながらもう一度尋ねた。


「…話したくありません。それに、キニートさんには関係のないことです」


 やっとアルテアが口を開いたかと思うと、彼女の言った言葉は拒絶だった。それはキニートを不愉快にさせるには十分だ。眉間に皺を寄せながら、彼女の方へと近づくとキニートはやや乱暴に作業をしているアルテアの手首を掴んだ。ギリ、と骨が軋むほど強く握られ流石のアルテアも痛みに堪えれず、眉を寄せて離してと素っ気なく言った。


「関係ないとは随分ひどいやつだな」

「本当のことですよ。葵さんを殺すことにキニートさんは何の関係もありませんから」

「確かに関係ないけどよ、行動を共にしている仲だろう?少しくらい話してくれてもいいんじゃねえの?」

「キニートさんの言う通りですね。でも、心を許した相手でも話せる内容と話せない内容っていうものがあります」

「そんなにやましいことなのかよ」

「そうじゃないです」

「じゃあ、なんだよ。話せない理由があるならそれを言えよ」

「そうですか、理由を言えばいいんですね。葵さんを殺すのは個人的なことですからあまり話したくないんです。これでどうですか?満足していただけましたか?」


 あおるようなアルテアの物言いにキニートはかちんときた。掴んでいた彼女の手首を乱暴に振って離すと、革靴の音を立てて勢いよく部屋から飛び出してしまった。部屋に一人取り残されたアルテアは自分が言ってしまった言葉に後悔することとなった。後悔すると頭の中に押し寄せてくるのは不安と恐怖で、アルテアは手に持っていたものを全て放り投げると、彼女もまたキニートのあとを追うように部屋を飛び出した。しかし、目の見えないアルテアにキニートを探すのはあまりにも無謀むぼうで、愚かな行為だった。

 その日の祐春は朝から不機嫌だった。いつもなら真面目に仕事を行くのに何故か今日は行かないで家にいる。こんなことは二人でアメリカの住み始めて初めてのことで、葵にはどうしたらいいのかわからなかった。どうしたのか尋ねてみようとも思ったが、機嫌の悪い祐春に話しかけるのはかなり面倒で厄介やっかいだ。少しでも気に食わなければ、殴りにかかってくるし、言葉遣いも荒くなって一方的に責められてしまうのだ。古い付き合いの葵だからかもしれないが、兎にも角にも機嫌の悪い祐春に関わっていいことは何もない。これは断言できると言っても過言じゃない。


「あのさぁ…」


 低い声で祐春は葵に話しかける。唇の動きを呼んでいた葵は、びくりと肩を揺らした。機嫌が悪い祐春が突然話しかけてきたのだから当然と言ってしまえば当然だった。


「俺、すっげぇ機嫌悪いの。葵ならわかるよね」


 そのくらい今のお前を見ていればわかる、と言ってやりたい気分だったがそれをぐっと飲み込み、首を小さく上下させ肯定してみせた。葵としてはせいいっぱいの返事だったが、きっとその返事も機嫌の悪い彼にとっては不愉快で仕方がないだろう。


「その理由は見当つく?」

つ、がぁいつかない

「だろうね。まあ、葵には言ってないことだし…むしろ知ってたら怖いし、俺がキレるところだよ」


 今回は今までの機嫌が悪い時よりも面倒だった。葵は長く深い息を吐くと祐春の方を見た。一人かけのソファに深く腰掛け、両足を乗せて体育座りの姿勢で自分の方を見ている。なんていうか、一言でいうのなら気持ち悪い。構ってほしい感が溢れ出ている。葵はそんな感じがした。


「あのね、あの後もアルテアちゃんたちのことずっと調べていたんだ。葵には言わないで。それでね、昨日の夜新しいことを知ったんだ。かなり重要なことで最悪なことだっったんだ」


 アルテアという言葉に葵はピクリと耳を反応させた。


「アルテアちゃんは今キニートと一緒にイタリアにいるよ。イタリアのどの街かまではわからなかった。多分、居場所を知られないように転々と場所を移動させているみたいだ」


 そう言って祐春は両足をソファの上から降ろす。


「HOPEっていう組織を調べているみたいだ。前にも言ったよね、HOPEのことは…覚えてる?」


 祐春の問いに葵は素直に頷く。忘れるはずがないだろうと言いたげな表情だった。そんな葵を見て祐春は漸く表情を少しだけ柔らかくさせた。


「俺さ、どうしてアルテアちゃんが葵のことを知っているか気になったんだ。彼女に情報を売り続けていたヴィットリオってやつにも興味はあったし…陶芸家として名の売れていたお前の親父さんならともかく、お前は作品は売ってないだろう?それ以外に何か葵に繋がるものがあるのかってずっと気になってたんだ」


 葵はなんて危ない橋を渡ろうとしているのか、と妙に冷静な気持ちで彼の言葉を聞いていた。不思議なものだ。今までならすぐにかっとなっていたはずなのに、今はそうはならずに静かに聞いている。例えるなら、母親に特に興味もない絵本を読んでもらっているような感じだ。


「繋がりはお前の親父さんだったよ。お前の親父さんがHOPEと繋がっていたらしい。多分そこからお前を見つけて、アルテアちゃんに情報を渡してたんだと思う」

ぁんで、おうぁ、ぃはなんで親父は…」

「聞いた話によるとお前のお袋さんの治療費を払うためだったらしい。あの時、親父さんの作品は言っちゃ悪いけど全然売れてなかっただろ?お袋さんがさ、病気になっちまって…必死に治療費を払い、お前を育て、仕事もやらなきゃいけないかったんだ。親父さん結構辛かっただろうし、しんどかったと思うよ」


 勿論、お前がされてきたことは許されないことだけどね、と言葉を付け加えると祐春。彼は知っていることを葵に包み隠さずにすべて伝えた。金のためにHOPEという麻薬密売、人身売買組織に関わっていたことや他にも堂々と人前で言えないようなことをしていたということ。葵はそれを聞いてなるほどと思った。今思い返せば当時、父はそんなに家にいなかった。たまに帰ってきては葵に金を渡して帰っていく。あれはそういうことだったのか、と思えた。


「俺が思うにね、親父さんの死ってHOPEが関係してるんだと思うんだよね。親父さんとHOPEの間で何かしらのトラブルがあって、親父さんの存在が邪魔になったんだ」


 祐春の言葉に葵がこくりと喉を鳴らした。


ぁや、そぉい、うらが、ぉろい、あのか?じゃあ、そいつらが殺したのか?

「わからない。これはあくまで俺が考えた可能性の話だよ。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」


 両手の指と指を絡ませ、眉間に皺を寄せ、葵から視線を外すようにして彼は言葉を続けた。


「でも、ひとつだけわからないんだ。どうしてアルテアちゃんがお前を狙っていたのかだけが、わからないんだ。情報も何もないから推測すらできないよ」


 肩を竦めながら、祐春は言うとゆっくりと立ち上がった。


「もしかしたら、アルテアちゃんは親父さんの方と何か関係があったのかも。親父さんはもう死んでるから、だからその息子の葵を狙ってるのかもしれない」


 祐春の言うことは確かにそうだとも思えるが、そうでもないとも思えた。それだけこの話が現実味が欠けているのだ。身近ではない話をされているのだから当然と言ってしまえば当然だ。葵は何か物言いたげに顔を顰めると、祐春を見つめた。その視線に彼は少しだけおどけたように笑ってみせた。


「葵、お前の心配することはないよ。これは俺が勝手に調べたくて調べていることなんだから」


 彼はどんな時でも優しい。葵の欲しい言葉を、望んでいる言葉をくれる。それくらい人の感情にも表情にも鋭い。


「昔の話するのは嫌だよな。葵からしてみたら、親父さんっていい人とは言えねえもんな。まあ、それは俺から見てもだけど」


 父は息子には酷く厳しく、母には甘い男だったのを葵は今でも夢に出てくるほど鮮明に覚えている。

 葵の母親は幼い頃に病にかかって亡くなった。

 母親が病にかかっていることを父子が気が付いた時にはもう手の施しができないほど悪い状態だった。それでも父は愛している妻を助けたくて、あちこちの病院に連れて行っては無駄に母を弱らせていくばかりだった。

 そんな生活が二か月も続けば元々状態の悪かった母は、葵が九つの時に呆気なく亡くなってしまった。弱っている母を連れまわし、結局死に追い込んだのは父だったはずなのに彼はそれを決して認めようとはせず、葵が生まれたことを悔やみ、全てを葵の責任だと言い放った。


「お前さえ生まれてこなければ、彼女は生きていられたのかもしれない。全てはお前の責任だ。お前さえ、きちんとした子供であれば」


 八つ当たりもいいところである。しかし、それでも葵は父に認めてもらいたかった。一度でもいいから、父に愛していたと言ってもらいたかった。葵が陶芸家になったのも父の影を追い求めていたからである。

 そんな父は葵が成人した日に海外へ仕事に行き、そこで交通事故に巻き込まれ死んでしまった。

 葵にとって父は痛みだけを、苦しみだけを与えてくれた存在だった。決して自分を愛そうとも、認めようともしてはくれなかった。そんなひどい父親だった。


「お前が今、何考えてるのか当ててみせようか」

「いぃ」

「嫌なこと思い出させてごめんな。でも、俺はもう少し調べるつもりだよ」


 そう言った祐春を葵は心配そうに見つめた。ただでさえやばいと言われている組織に関係しているということがわかったというのに、これ以上の深堀は祐春の命すら危ぶまれてしまう。そう葵が心配していることは付き合いの長い彼には全てお見通しだったようだ。


「安心しろって、何かある前にはやめる。あと少しだけ、調べたらもうこれ以上の深堀はしない。俺は絶対にお前をひとりになんかしないから」


 にんまりと唇に弧を描き意味ありげに笑う祐春。久しぶりに見た友の癖に、葵は珍しく苦笑いを浮かべた。

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