Episode04

第5話

 アルテアとキニートのことを祐春に知らされて以来、葵は彼らにどう接していいのかわからなくなってしまった。普通に今まで通りに接しようとしてもどこかよそよそしくなってしまい、まともに顔を見ることも会話をすることもできなくなってしまった。そんな葵とは正反対に祐春はいつもと変わらない態度で接し、ふざけたり騒いだりしていた。こういう時、葵はそんな風にできる祐春のことを心底見習いたいと思った。


「アルテアちゃん、今日の夕飯は鍋でいい?」

「私は平気ですが、キニートさんは大丈夫ですか」

「別になんでも。ただ味の薄すぎるものはやめてくれ」

「葵は?葵は平気?」

「…へぁ、き平気


 同じ空間にいるのは全然平気だし、寧ろそうしていないとあのことを考えてしまい、余計に気になってしまうのだ。ただ同じ空間にいるだけで、それ以上何もない。葵は彼らとなるべく話さないように部屋の隅に座って本を読んでいる。といっても、内容は頭の中に全然入ってこないのだが。


「葵さん、後で一緒に…」

ぅうあ、に、ぃっえ、おらえ祐春に行ってもらえ

「え、葵さん…」

やう、ことぁ、あゆやることがある


 そう言うと葵は居間を後にしてしまった。アルテアは追いかけようとも足が鉛のように重く感じ、葵の背中が見えなくなるまでじっと見つめていることしかできなかった。そんな彼女を憐れむように祐春が、葵に怒りを感じながらキニートが互いに顔を見合わせた。

 今までなら葵と来ていたはずの散歩の公園にアルテアは祐春と来ていた。一応、キニートにも声をかけてみたが彼は行かないと彼女の断りを一蹴した。

 公園の片隅にあるベンチに二人は腰をおろしていた。見るからに彼女はがっくしと肩を落とし、溜息ばかりついていた。葵に素っ気ない態度を取られショックを受けているのだろう。どうして避けられてしまうのだろうか、と何度も考えてはみるものの明確な答えは見つからず、次から次へとこうなのでは、ああだったのではと新しい疑問ばかりが増えていくばかりだ。そんなアルテアを横目がちに見つめていた祐春は静かに彼女の名前を呼んだ。


「アルテアちゃんはさ、葵に避けられてるの悲しい?」


 実にやさしい声色だった。祐春は眼鏡のレンズ越しにアルテアを見据えながら、葵と話せないのは辛いか尋ねる。


「あたり、まえじゃないですか…祐春さんは誰かに避けられて悲しいと、辛いと思わない人間がいると思いますか?」

「ごめん。そら、そうだよな。悲しいって、辛いって思わないやついないよな」


 アルテアの言葉に祐春が申し訳なさそうに答えた。


「でも、俺はどっちかというとそっちの方が気が楽なんだよね」


 葵は別だけど。と笑うと、祐春は器用に膝の上で頬杖をついた。


「こう見えて、結構さっぱりしてる方なの。群れたりするのが嫌いなんだよね」

「意外、ですね。祐春さんは誰かに囲まれて生きていたような方に見えますから」

「結構言われるよ、意外って。でも、本当にそうなんだ。群れて生きていくことが俺は好きじゃない」


 そう言うと祐春は視線をアルテアから、自分たちの目の前で楽しそうに遊ぶ子供たちに視線を傾けた。子供たちはサッカーボールを片手にどうやってチームを分けようかと話し合っているようだ。


「俺と葵がまだ中学生の時さ、俺はかなり荒れてたんだよね。学校に行かないのは勿論、夜更かし飲酒煙草って未成年がやっちゃ駄目なことばっかしてたんだよ。あ、犯罪なんかはしなかったよ?でも、大人たちは当たり前に怒るわけで…大人たちに怒られりゃあ当然、こっちもブチギレするわけ。な、手のつけられないどうしようもないクソガキだろ?」


 にやりと口角をあげて笑う祐春は悪戯いたずらっ子のようだ。といっても、それは目の見えないアルテアには見えないのだが。


「そんな時さ中学生のくせに生意気こいてるんじゃねえよってさ、俺らよりも二つ年上の高校生のやつらにシめられたことがあるんだよ。そんとき、本当にマジで死ぬかと思ったんだよね。めちゃくちゃ腹は蹴られるし、顔は殴られるしで血は止まらないわ、吐くわでさ。本当に酷いと思わない?」

「今の、祐春さんからは想像できませんね」

「だろ?でも、実際そうだったんだよ。つっぱることが男らしいって思ってたんだよね」


 傷は男の勲章だっていう言葉があるだろ。と祐春は笑った。


「でさ、話は戻るけど…マジで死ぬわって思ってた時に葵が来たんだよ。アイツ、耳聞こえねえから高校生になんて言われてるのかなんてわかってもないのにさ。退けとか、お前も同じようになりたいのかとかさ。すっげえ酷いこと言われてるのに、葵ったらさ、いつもと同じように仏頂面してがったがたの発音で帰るぞって俺に言ったんだよ」


 目の前の子供たちが漸くチーム分けできたのか、真剣な表情をしてサッカーボールを蹴って試合を開始した。ボールは自由気ままに地面を転がり、子供たちの足によって行く手を阻まれている。その様子を見つめたまま、祐春は言葉を続ける。


「葵も勿論、高校生たちにシめられたよ。お互いにぼろぼろもいいところでさ。で、俺がなんで来たんだよってアイツに聞いたわけ。アイツは目が見えるから耳からの情報がなくとも、俺がかなりやばいところだったってことはわかるのに。わざわざそんなところに飛び込んできた理由がわからなかったからさ」


 そしたらアイツなんて言ったと思う。祐春は穏やかな声色で尋ねた。その問いにアルテアは少し頭を悩ませたが、これだと思う答えが思い浮かばなかった。素直にそのことを祐春に伝えれば、彼はくしゃりと笑った。


「それがさあ、今でもわからねえんだよね。葵がなんて言ってたのか。でも、アイツは俺なんかと違って頭がよかったから、そんなクソみたいな俺のことを放っておくこともできたんだ。でも、アイツはそれをしなかったんだよ。なあ、アルテアちゃん、俺の言いたいことわかる?」


 突然の昔話に戸惑いを感じていたアルテアだったが、祐春の言いたいことを察したのか。ふわりと柔らかく微笑んで見せた。先ほどとは違う、落ち着いた様子のアルテアに祐春は苦く微笑んだ。


「葵はやさしいよ、すごく。だから、その分追いつけなくなる時があるんだ。だからさ、アルテアちゃん」


 ここで言葉を一度止めると祐春は、大きく息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐き出す。


「アイツのこと悪く思わないでやってくれよ。信じてやってくれ。アイツはアイツなりに人を想う優しさがある。ただ、それをうまく表現できないだけのやつなんだよ」


 そう言うと祐春は立ち上がり、彼女に一言断りを入れるとその場を離れた。暫くして彼は缶を二つ手に持って戻ってきた。先程まで座っていた場所にもう一度腰をおろすと、りんごジュースと書かれている方の缶をアルテアに手渡す。彼女が受け取ったのを見ると、すぐに自身のコーラの缶のプルタブを開けた。そして、そのまま口をつけるとしゅわと炭酸が喉奥へ染み渡る。


「葵はさ、いつも仏頂面で何考えるかわけわからなくて、とっつきにくくて近寄りがたいようなやつだけど…俺からしてみたら、本当にいいやつなんだよ」

「…祐春さんの言いたいこと、なんとなくわかります。葵さんがいい人だってことは。五年前もそうでしたから」


 缶をぎゅうと握り締めながらアルテアが呟いた。彼女の脳裏には五年前、葵とのやりとりが浮かび上がっていた。


「葵さんにしてみたら私なんて見捨ててもいいくらい他人なのに、病院に運んでくれて…それだけじゃない。行く当てがないからと居場所まで与えてくれた。あの人は本当にやさしい人です」


 今まで出会ったきた誰よりもやさしくて、お人好しだとアルテアは心の中で呟いた。彼女の横顔を見つめながら祐春はそうだねと小さく答えた。


「勿論、祐春さんも私からみたらいい人ですよ」

「え、なんでそこに俺が出てくるの?」


 祐春は目をぎょっと丸くさせながらアルテアに尋ねた。それを彼女は右手の人差し指を立てると自身の唇に押し当て、意地の悪そうな笑みを浮かべる。


「ふふ、内緒です」


 先ほどの祐春にも似たような笑みを浮かべると、彼女はゆっくりと立ち上がった。彼女の着ているワンピースの裾がひらりと風になびいた。


「家に帰ったら葵さんとちゃんと話をしてみようと思います。逃げないで聞いてくれるといいです」


 静かに微笑んだアルテアの後ろで子供たちが無邪気な声をあげて、ボールを蹴っていた。蹴られたボールは天高く飛び、そして呆気なく地に落ちる。それはまるでそう、天使が撃ち落されたかのような光景にも似ているように思えた。

 一方その頃、家では珍しい人物が葵の仕事場に訪れていた。同じ家に住みはするが殆ど接することのないキニートであった。彼が自分の意志で葵の仕事場に来たのは、今回が初めてである。そのことに驚きを隠せなかったのか、瞬きを何度もする葵。それを不愉快そうに見つめるとキニートは琥珀色の瞳を葵から少し横へとずらした。気まずそうに何度も口を開いては閉じてを繰り返す。

 正直、葵と話すのは気味が悪くて仕方がなかった。彼の耳が聞こえないからとかそういう理由ではない。葵自身が纏う気配というか、雰囲気がどうしても好きにはなれなかったし、居心地が悪かった。それにわざわざ彼と親しくする必要もなかったのだ。キニートにとったら葵なんてどうでもいい存在なのだ。


「話がある」


 長い時間をかけてたった一言そう言うと視線へ葵へと戻した。彼は粘土をいじっていた手を止め、キニートをじっと見つめている。葵はキニートの真意を知りたそうに見つめていたが、彼のその瞳が見透かすような目つきに思え、キニートは不愉快そうに眉を寄せた。彼は苛立ったように左手で頭を掻くと、小さく息を零した。


「いいからこっちに来い」


 葵の答えも聞かないままキニートは無理矢理、彼の腕を掴むと力づくで立ち上がらせた。そして、そのまま仕事場から家の中のキニートの部屋としてる場所に引っ張って連れ込んだ。途中、泥まみれの彼に手を洗わせたり、洋服を返させることも忘れずに、だ。

 キニートがしてきた今までの仕事はあまり人には公にできないものばかりだったせいか、何かを話すときは外か互いのアジトか、はたまた車のどれかしかなかった。その時の癖が抜けないのか、自分が何かを話すときは特にアルテア以外の人と話す時はこうやって外か家の中の自分の部屋に連れていくことが多かった。その癖を知るのはキニートのことをほどよく知るアルテアただ一人だけだろう。

 キニートの部屋につくと葵は落ち着かないといった様子で立ったまま、自分の部屋よりもさらに物が少ない彼の部屋を眺めていた。そんな葵を見て、キニートは舌打ちをしてから早く座るように言った。当然、耳の悪い葵には聞こえてはおらず彼はそわそわとしたままだった。


「座れって言ってんだよ!」


 左手で葵の肩を乱暴に叩き、自分が話しかけていることを教えてやる。これはアルテアから教えられたものだ。いくら話しかけても葵が反応しないのは聞こえていないことがあるから、肩などを叩いて知らせろ、と。

 キニートが話しかけていることに漸く気が付いた葵は、もう一度言ってくれと発音の崩れた声で話しかけた。やや面倒くさそうに眉間の皺を寄せると、キニートは座れともう一度言い直した。漸く彼の言いたいことが伝わったのか、葵はキニートの指示通りにその場に腰をおろした。


はぁ、じっ、でぇあん、だ?話ってなんだ?

「アルテアのことだ」


 葵の問いに素早く答えるとキニートは、切れ長の瞳を鋭くさせた。


「お前はアイツの事をどうしたいと思っているんだ」

どぉ、っえどうって……」

「ここ最近のお前の様子がおかしいことに、俺が気付かないとでも思っていたか?残念なことに、お前が思うよりも俺は人間ひとをよく見ている。お前たちの些細な変化にだってすぐに気づく」


 耳の聞こえない葵に対して気遣いのない早口だったが、葵は彼が何を言いたいのか理解することができた。彼の言葉ではなく、視線や表情がすべてを物語っているからだ。


「はじめのお前はアルテアを”大切”にしているように見えた。けど、今は違う。そうだけどそうじゃない。俺の言いたいことがわかるか?」

ぁ、がうわかる

「お前はアイツをどうしたい?飼い殺しにでもさせるのか?それとも、鑑賞人形にでもするつもりか?」


 皮肉めいた口調で、嘲笑うかのようにそう言うキニートの瞳には敵意がむき出しだった。それが何を意味するのか、彼が何を思ってその言葉を口にしているのか、わからないほど葵も馬鹿ではない。ただ、そういう時どう反応するのが正解なのかは葵にはわからなかった。彼は戸惑いがちに視線を伏せては、時折キニートの様子を窺うように瞳を上へ持ち上げた。


ぉ、では俺はぉうも、ごう、お、ぁう、えあをどうもこうもアルテアを…」


 それ以上言葉が出てこなかった。キニートの言っていることはひどく正しかった。

 彼女を調べたことで葵は、今まで何も疑問に思っていなかったことに疑問を持ち、不安を抱いている。どうやって接したらいいのかもわからず、アルテアに対して宙ぶらりんな態度をしているのも事実だ。はっきりと言葉にして伝えられたことに、葵は動揺するしかできなかった。そんな彼に対してキニートは相も変わらす嫌悪感と敵意をむき出したまま、言葉を続けた。


「俺はまどろっこしいことは嫌いだ。だから、はっきり容赦なく言わせてもらう。俺はお前が嫌いだ。偽善者のような態度のお前が、何も話さないお前が、突き放すお前が嫌いだ。気味が悪いとさえ思っている」


 葵は何も答えない。否、答えられないのだ。彼から向けられる感情には薄々と気づいていたからである。それでも、葵が文句を言わなかったのは全部アルテアのためだった。彼女の望んだことだから、だから葵は何も言わなかったのだ。そのことをキニートもわかっているのだろう。だから、前置きとしてはっきりと言わせてもらうとの言ったのだ。


「はなっからお前に答えなんて求めてはいない。だけど、これだけ忘れるな。もし、アルテアを大事に思ってるならそれでもいい。だが、アイツに期待はするな、希望も持つな。アイツは死神に取り憑かれてる哀れで可哀そうな女だ」


 話はそれだけだ、と一方的に話を終わらせるとキニートは葵を自分の部屋から追い出してしまった。廊下に放り出された葵は、彼の忘れるなと言った言葉を思い出していた。彼女が死神に取り憑かれているとはいったいどういう意味なのだろうか。葵がキニートの言葉の意味を考えていれば、家の中に祐春の明るい声が響き渡った。

 日が沈みかけた頃アルテアは、葵に話があると伝えた。逃げないで聞いて欲しいとも言った。葵はキニートとのこともあってか、彼女の願いを聞き入れてやった。

 話す場所は特に決めず、庭をぐるぐると歩き回っていた。話があるといったもの、どう切り出せばいいのかアルテアは悩んでいた。この際はっきりと言ってしまった方が伝わりはするだろうけど、その後のことを考えると遠回しの方がいいと思ってしまう。どうも、ここ最近の自分はあまいところが多くなった。


ぅ、てあアルテア……」


 低い声で名前を呼ばれる。隣を歩いていたアルテアが足を止め、顔ごと葵の方へと向ける。彼女の表情は実に悲しげで、寂しそうだった。


ぉえんごめん

「何が、ごめんなんですか?私を避けていたことですか?」

ぅえんぶ全部

「全部、ですか」


 葵の言葉にアルテアが静かに復唱した。


「全部って何ですか?葵さんにしてみたらそんな簡単な言葉で片付けられるようなことなんですか?」

ちぁ、う違う

「そうじゃないですか。はっきりとしたことは言ってはくれない。ここ最近の葵さんは、おかしいですよ。ずっと、おかしいんですよ。いつもの葵さんじゃない…」


 責め立てるようなアルテアの物言いに葵は顔を顰めた。そんな葵を気にも留めずに彼女は言葉を続けた。


「私、何か気に障ることをしましたか?それとも、これのせいなんですか?」


 そう言って彼女が取り出したものはつい最近、祐春と共に見ていたアルテアやキニートについて書かれている手紙だった。確か、この手紙は祐春が持っていたはずだ。あの用心深い男がそう簡単に見つかるような場所に置いておくようには思えない。そうなるとアルテア、キニートのどちらかが彼の部屋をあさり、そこから持ってきた、ということになる。


ど、ぉいでそ、れをどうしてそれを…」


 驚かずにはいられなかった。目の見えないアルテアにもわかるほどの動揺を見せた葵。彼がここで反応しなければよかった、そう思った時は遅かった。アルテアの眉間には深く皺が刻まれ、葵を軽蔑でもするかのような表情をして見つめていた。決して彼女の交わるはずのない視線が確かに葵を突き刺したのである。


「私たちのこと、調べていたんですね」


 そう言って封筒を葵の方に見せつけるアルテア。


「祐春さん、あの人のことは初めから信用できないとは思っていたんです。きっといつか、私のことを探るんだろうな、知られてしまうんだろうなって…そう、思っていました」


 やや自嘲気味に微笑むとアルテアは手に持っていた封筒を葵に押し付けるように持たせた。


「これを見つけてからは確信しました。あの人はやっぱり敵なんだと。でも、まさか葵さんに伝えるとは思ってもいませんでした。祐春さんも、それくらいわかってくれる人だと思っていたんですけどね。だけど、これを知った葵さんは優しいからきっと反応に困るだろうなってことも、想像できていました」

ぁう、てあアルテア…」

「本当のことを言わなかったことも、勝手に祐春さんの部屋をあさったことも悪いとは思っています。でも、人のことを勝手に調べる方がもっと悪いことだと思いませんか?」


 アルテアは早口でまくしたてるように言った。彼女なりに怒っているのだろう。一方の葵は思考がほぼ追い付いて来なかった。アルテアの態度の変わりようにも、話し方に棘があることにも、封筒の中身を知られてしまったことにも、すべてが理解しきれないくらい。葵の脳は考えることを、答えを出すことをできることならやめてしまいたかった。何故なら、考えてしまえばしまうほど、きちんとした答えを出してしまえばアルテアとはもう元の関係には戻れないとわかっていたから。


「私、寂しかったんですよ」


 ぽつりとアルテアが呟いた。


「葵さんに避けられて、本当に寂しかった。それなのに、葵さんは私のことを信用していなかったんですね。もしかして、祐春さんが来たのも葵さんのお願いですか?」

ぉえは、いがうそれは違う!ぁい、づはが、ぁっにかえっ、てきただえ、でアイツが勝手に帰ってきただけで…」

「でも、タイミングがいいとは思いませんか?葵さんのところに祐春さんがやってきて、キニートさんとも暮らし始めてから調べるだなんて」


 まるで計画でも立てていたみたい。アルテアの言葉がひどく胸に突き刺さる。キニートと話していた時と同じで、すべて図星とも取れたから。葵は自身の唇を噛み締めながら、視線をアルテアから地面へと落とした。


「こんな風に”最後”が訪れるとは思いもしませんでした」


 慌てて見上げた彼女の表情がふっとやわらかくなった。いつもと同じように温かく優しい微笑みを浮かべてこちらを見つめている。しかし、彼女は今何と言ったのだろうか。自分の聞き間違いでなければアルテアは最後と言ったようが気がした。それを確かめるために葵が戸惑ったように、最後と言ったのか尋ねれば彼女は先ほどと変わらない笑みを浮かべたまま葵を見つめた。


「さようなら、葵さん。私はもうここにはいれらない」

「あ、うぇあ」

「今までありがとうございました。葵さん、私ね寂しいって言ったの…それは本当のことなんですよ。”最後”くらい、嘘つかなくたっていいですよね」


 そう言うとアルテアは勢いよく走り出してしまった。彼女が向かう先は山を下る道がある方だ。一本道だから今すぐ追いかければ追いつくのに、葵は走って追いかけることができなかった。まるで鉛でも括り付けられているかのように足が重たく感じたのだ。一歩踏み出すのさえできないくらい重たく、地面に沈み込んでいくようなそんな感覚だった。

 結局、アルテアはキニートと共に葵たちの目の前から跡形もなく姿を消した。まるでそれこそ、計画でも立てていたかのように。

 祐春がアルテアと葵のやり取りを知ったのは、それから二時間ほど経ってからだった。なんで追いかけなかった、と葵を思い切り殴り飛ばした。葵は抵抗も反撃もしなかった。ただ、アルテアがあの手紙を見つけ、消えてしまったという事実だけを何度も口にするだけだった。


「見つかるはずがないと思って、隠していたのにそこまでして俺の部屋を探し回るとは思ってもみなかった。これは俺のせいだ。俺の責任だ、お前のせいじゃない。それは謝る」


 祐春の言葉に葵は何も反応を示さない。それだけ葵の中のアルテアという存在は大きかったということだ。


「こんな時に言うなよって思うかもしれないけど、お前に隠していたことを今ひとつ言うぞ」


 いつものふざけた口調ではなく、真剣な口調で祐春は言った。それを葵は茫然としたように見つめていた。光を失った瞳に見つめられながら祐春は重たげに唇を動かした。


「前に言ったよな。彼女がやばい組織と情報を交換していたって。」


 確かに祐春はアルテアがHOPEという組織と関わりのある組織たちと情報を交換していた、と言っていた。彼の言葉に葵は小さく首を上下に動かした。


「葵、お前だったんだよ。お前のことだったんだよ!アルテアちゃんが情報を求めていたのは葵のことだった。彼女がここ日本に来たのはお前を…葵を殺すためだったんだ。アルテアちゃんがお前の前に現れたのは偶然なんかじゃない。必要なことだったんだ。お前を殺すために、お前に近づくために」


 そう言い切ると祐春は唇を噛み締め、右手で顔を覆い隠した。そんな情報を今まで一人で抱えていた彼を思えば、当たり前の行動だともとれるが今の葵にはそんな風にはとることができなかった。できることなら知らせてくれなくてよかった情報だ。


「彼女が日本に来たのも、キニートと繋がっていたのも全部お前だったんだ。お前を殺すために、繋がっていたんだよあの二人は。詳しい理由はまだわからない。調べてくれていたやつとはもう連絡が取れないんだ。きっと殺されちまったんだろうな……だから、言っただろう?”彼女は何かを持ってくる”って」


 彼の声はひどく揺れていた。きっと連絡の取れなくなってしまった仲間を想ってなのだろう。指の隙間から除くレンズ越しの彼の瞳は珍しく薄い涙の膜が張っていた。


「彼女の真似をするわけじゃないけど、俺もここを出ていくよ。なあ、葵。お前も俺と一緒にアメリカに行こう。狙われているお前独りぼっちにしておくことは俺にはできない」


 だから一緒に行こうと祐春は言った。それでも葵は反応を示さない。何を思っているのか祐春にもわからなかった。ただ客観的に見てわかるのは、葵が壊れかけてしまっているということだけだ。


「ここであの子を待っているつもりか?アルテアちゃんは”最後”だってお前に言ったんだろう?それなら、彼女はここに戻ってくることはないよ。もし、仮に戻ってきたとしてもその時はお前の”最期”だ」

ま、っでえう待ってる…」

「聞いていたのか、葵。次に彼女と会えたとしても、それはお前の最期なんだよ!」


 顔を隠していた手を離し、葵の肩を強く掴んだ。彼の身体を揺さぶるようにしながら祐春は言葉を続ける。


「このままだとお前は殺されるんだよ!アルテアちゃんに!それをわかってるのか?」

ぁう、えあにごぉ、あえ、う、なぁいぃアルテアに殺されるならいい


 祐春は葵の言葉に思いっきり彼の頬を叩いた。乾いた音と共に葵が畳の上に勢いよく転がる。葵は倒れたら倒れたままで起き上がろうとはしなかった。畳の上で肩を揺らし、嗚咽を漏らしていた。それは祐春も同じで彼の瞳からは大粒の涙が零れ、涙は頬を伝い、首筋へと流れ落ちていく。


「ふざけるな!彼女になら殺されてもいいだなんて話があるか!」


 顔を赤くしながら叫ぶ祐春に葵は驚いたように目を見開かせた。そして、何か言いたげに口を開いては閉じてを繰り返す。もどかしそうに顔を顰めては責めるような目つきで葵を見つめる祐春。


「…なあ、頭のいいお前ならわかるだろう?アルテアちゃんがどうしてこういう選択をしたのかも、何もかも全部!俺なんかよりも彼女のそばにいたお前ならわかるだろう!」

ゅうじ、おえ、あ祐春、俺は…」

「お前がいくら待っていても、願っていても彼女は戻ってこないんだ!なあ、葵。頼むよ、俺と一緒に向こうへ行こう。あっちなら俺が…俺たちFBIが守ってやれる」


 ふうふうと鼻息を荒くさせていた祐春だったが次第に落ち着きを取り戻し始める。ゆっくりと息を整わせながら彼は、じっと葵を見つめた。


「お前まで死んだら俺はどうしたらいいかわからない。ぺネオも、メシリアも、アーメンダーも、ウォリックも皆どこにいるかわからないんだ…誰ひとりとも連絡がつかないんだ!お前をひとりにさせたらきっと俺は今みたいな後悔をすることになる。だから、アメリカに一緒に来てくれ、頼む…」


 葵に縋りつくようにしがみつきながら祐春は叫んだ。お前まで失いたくない、一緒に来てくれ、喉が潰れてしまいそうなほど何度も叫んだ。葵が行くと答えるまで、やめないつもりなのだろう。そんな祐春に押されてなのか、葵は小さくわかったと彼の願いに応えてやることにした。

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