Episode03

第4話

 祐春が居候し始めて約二ヶ月が経った。相変わらず面倒なところもあるこの男だったが、役に立つところもある男だった。特にアルテアにとったら大変心強い男である。何故そんなことまで知っているのかと思うほど物知りだし、葵よりも力がある。背も高いし、手先は器用。駄目なところといえば無駄におしゃべりなところと、女たらしということだけだ。


「アルテアちゃん、藤塚のばあちゃんとこの孫が来てるよ」


 両手いっぱいに粘土の入った袋を持ち裏口から、台所にいるアルテアに話しかける祐春。その声に一瞬、驚いたように身体を飛び跳ねさせたアルテアだったがすぐにはいと返事を返した。

 エプロンで手を拭きながらアルテアは、駆け足で玄関の方に向かった。

 玄関には背の高い青年とその逆で背の低い少女がビニール袋を重たそうに持って立っていた。最も、アルテアには目が見えていないのだから、彼らの背が低かろうが高かろうがどうでもいいことなのだが。アルテアの姿が見えると、背が高く仏頂面の顔をした男がうっすと小さく挨拶をした。


「これ、ばあちゃんからっす」

愛夢めぐむのおばあちゃんが作ったなし、すごく美味しいからおすそわけに来たんだ!」


 そう言って背の低い少女がアルテアに持たせるように、たくさんの梨が入った袋を手渡した。


「愛夢ったらここに来るまでずっとそわそわしてたんだよ。アルテアさん綺麗だから、緊張するんだろってぼくが言ったら愛夢は違うって言うんだよ。絶対にそうだよ!ねえ、愛夢!」

「ちょ、ありす、お前は黙ってろ!」

「でもアルテアさんが綺麗なのは本当だろ!ぼくだって本当はここに来るの緊張するんだよ。アルテアさんとどんな話しようとかさあ、いろいろ考えるんだよ!」


 けらけらと笑う少女と、それに対して恥ずかしそうに怒鳴り声を上げる青年。アルテアは仲よさげに話す彼らが、可愛らしいと思うと同時に羨ましいと感じていた。

 昔、自分が同じように友人と話していることを思い出したからである。いくら願っても戻ることのできない楽しかった日々のことだ。アルテアは胸の奥にある隠していた気持ちが溢れそうだった。それを隠しながら彼女は目の前の二人に顔を向けた。


「二人とも、おひさ!どう、学校は楽しい?」


 ひょこ、とでも音が付きそうな感じに現れた祐春。よく見てみれば、彼の右頬は真っ赤な紅葉が咲いていた。葵に何か言って機嫌を損ねて叩かれでもしたのだろう。容易に思い浮かんだことに二人は特に何も言わずにそれぞれの答えた。


「まあ、それなりに」

「すっごく楽しいよ!」

「それはよかった。確か高校生だったよね。高校生活ってあっという間に過ぎていくから大事にするんだよ」


 そう言えば、二人って付き合ってるの。と尋ねながら彼は履いていた下駄を脱いだ。ぺたりと足音を立ててアルテアの隣に並ぶと彼女が持っている袋を代わりに持ってやる。そんな気遣いを見せた祐春にアルテアは小さく微笑んだ。


「そ、そんなんじゃ…なめたこと言ってんじゃねえぞ!」


 勢いよく吠える愛夢の顔は真っ赤に熟れた林檎りんごのように染まっていて、瞳が忙しなく左右前後に泳いでいる。そんな彼の表情は説得力がないなと祐春は思った。


「ぼくは愛夢のこと結構好きだぞ!皐月さつきも大地もぼくと愛夢はお似合いだなって言ってくれたぞ?」


 不思議そうに首を傾げ話し出すありすに、愛夢はすぐに彼女の口を大きな手で包み込むように覆うように抑えこんだ。むぐ、とくぐもった声を出すとありすはじたばたと暴れだした。途中、呼吸するために離せと抗議の声を上げている。


「ばあちゃんからのはちゃんと渡したんで!」


 まるでTVアニメにでも出てくる悪役のような捨て台詞ゼリフを吐いて愛夢はありすの口を抑えたままアルテアたちの家を後にした。嵐のように立ち去った彼らを見て、アルテアは小さく笑い出した。それを祐春はきょとんな顔をしながら見つめ、どうしたのと尋ねた。


「あの子たち、すごく可愛くて…ああやって楽しそうに話せるのすごく羨ましいです」


 口元を手で隠しながら笑う彼女が、祐春には別人のように思えた。何かを隠し、決意したようなそんな微笑みだ。出会ってまだ二ヶ月しか経っていない祐春だったが、彼の性格と仕事柄人をよく見ていた。ほんの少しの違いがわかるほどに人を見ていた。祐春が感じた違和感は、きっとアルテア自身は気づいていないだろう。そのくらい、些細ささいな変化だったのだ。それを誤魔化ごまかすように彼は梨の入った袋に視線を落とした。


「祐春さん」


 名前を呼ばれた祐春は梨の入った袋から視線を外し彼女を見つめた。


「今日の夜もちょっと用事があるので、葵さんと二人でお夕飯食べてください。食事の用意はしておきますので」


 アルテアはそう言うと家の奥へと行ってしまった。その後姿に食いつくように祐春は見ていた。

 一度、感じた違和感は簡単に拭い切れそうにもなかった。

 家から離れた仕事場では、葵がこの前作ったものをかまに入れ焼いているところだった。まだ本焼きではないが、気の抜けない作業であることに変わりはない。このペースだと本焼きは夕方になってしまうだろう。そう思いながらごうごうと音を立てて燃えている火を眺めていた。


「葵!」


 どん、と葵の背中を押すように抱きついてきた祐春。抱きつかれた葵は発音の崩れた声で痛いと言うと、不満そうに唇を尖らせた。


「どう、吃驚びっくりしたっしょ?」


 当たり前だと手を動かせば、首元で祐春が笑った。葵は耳と首筋にかかる息がくすぐったいのか、身を捩らせる。


な、ぁ、いあアルテアは

「アルテアちゃん今日も何処かに行くらしいよ。夕飯は俺たちだけで食べてくれだとさ」

まぁ、たがまたか

「そ、また、だよ。ねえ、葵、不安にならない?怖くならない?」

ぁい、が何が

「アルテアちゃんが何をしてるとかだよ。彼女気づいてないと思うけど、前から俺たちがアルテアちゃんが深夜こっそり出かけてるの知ってるって」


 そう、ここ最近のアルテアは深夜家を抜け出すように出て、翌朝何事もなかったように家にいることが多くなっていた。はじめは特に気にもしていなかった葵だったが、祐春のいう彼女の変化に気がついた時はこう、焦るような気持ちになったのだ。その気持ちがなんなのかは葵にはわからないのだが。


「やっぱり俺さ、あの子のこと調べようと思ってる」


 指文字を使いながら祐春が真剣そうに言った。それを葵はまたかと言いたげに顔を顰めて見つめる。


ぃ、いいいまぁしあ、べな、うて、ぁいまだ調べなくていい


 前に何度かアルテアを調べるか祐春に聞かれていたが、葵は決して首を縦には振らなかった。調べる意味も必要性も彼には全く感じなかったから縦には振らないのだ。まあ、普通の反応だとも言えるだろう。


「嫌な予感がするんだ。もしかしたら…何かと繋がっているかもしれない」


 何故、祐春はアルテアを調べたがるのだろうか。葵は今まで一度もそれを聞いたことはなかった。聞いても意味が無いと思っていたからだ。しかし、ここまで頑なに調べたがるとは彼なりに何か引っかかることがあるのだろう。葵は何をそんなに焦っているのか、調べたがっているのか敢えて指文字を使って尋ねた。


「誰にも言わないか?」


 祐春は声を低めながら葵に尋ねた。その問いに彼は静かに頷いた。


「…アメリカで麻薬の密売をしている組織がいくつかあるんだけど、その組織の中央にイタリアを拠点としたものすっごくでけえ組織が絡んでいる。まだ、可能性の段階だけどな。そうと決まったわけじゃない」


 そう伝えたところでなかなか続きを言わない祐春。普段なら一度話し出してしまうとうるさいくらいに饒舌じょうぜつなのにしまうのに、黙り込んでしまうとはおかしい。葵は眉間に皺を寄せながら、後ろにいる友を見上げる。


「そこにアルテアちゃんらしい人物がいたんだ。今思い返せば思い当たるところがあるんだよ、ありすぎて寧ろ気づいていなかったことに笑えるレベルだ」


 くつくつと喉を鳴らしながら笑うと、祐春は葵の体から己の体を離す。そして向き合うように座りなおすと、葵の瞳をじっと見つめて離さなかった。


「本当はそのために俺はこっち日本に来たんだ。なあ、お前ならわかるだろ?俺とは違ってお前は頭がいいんだ。ある程度の予想は着いていただろう」

「ぉんとうい、ぁうえ、が、かぁっえう、しょぉこは?本当にアルテアが関わっている証拠は?

「それを調べようと思っている」

もじお、かぁっえるっで、あがっぁらもしも関わっているってわかったら…」

「上に報告してきっと捕まえて来いって言われるだろうな。そうしたら彼女はFBI俺たちのところに連れていかれる」

ちが、っあ違ったら…」

「その時はその時だな。でもまあ、ろくな結果にはならないと思うよ。アメリカ向こう日本こっちもどっちも腐っているから」


 祐春はそう言うと煙草たばこを吸っていいか葵に尋ねた。彼から了承を得ると着流しの懐からセブンスターと明記された煙草を取り出した。セブンスターは甘みがあり初心者でも吸いやすい種類である。祐春は基本的にこの煙草しか吸わないが、セブンスターがないときは仕方なくCASTERも吸うことがある。CASTERも甘みがあり吸いやすいものだ。これはバニラの香りがする。ちなみにセブンスターはココア風味がするものでもある。


ぃらえべ、てもいぃ調べてもいい


 ジッポーを取り出し煙草に火をつけたところで、葵から話し掛けられた祐春は肩を何度か揺らした。煙草を落とさなかったのは不幸中の幸いか、胸を撫で下ろすとすぐに彼は葵の方に顔ごと向ける。そして、どうしたと尋ねた。


ぅて、あを、しあえ、て、くれアルテアを調べてくれ

「後悔…しないか?正直、お前に伝えるべきことじゃないのはわかっていて俺はわざとお前に判断を委ねたよ」


 自嘲じちょう気味に笑う祐春の笑みは実に痛々しい。


「調べた結果は勿論、俺の上司にも伝える。それでも構わないんだな」

ぁ、あああかあわ、な、ぃ構わない


 葵の瞳が揺らぐことはなかった。祐春としては揺らいでくれた方がよかった。嫌だと今までのように否定してくれていた方が彼の気持ち的に楽になれていたのだ。酷く罵り、責めてくれた方が何よりも楽だ。祐春はそれ以上何も言わずにくわえたままの煙草の煙を思いっきり吸い込んだ。

 深夜、日が落ち人っ子一人もいない路地裏にてアルテアは真っ黒に身を包んだ男たちと会っていた。といっても、感動の再会でも、一生の別れでもない。頭から足先まで黒一色で統一された男たちはいかにも裏の世界の住人ですと言いたげに、拳銃けんじゅうをアルテアの額に突き付けている。明らかに不仲のもの同士が密会しているようにしか思えない。


「何度も言っているように今はまだ時期じゃないんです。時期が来たらちゃんと殺しますよ…あの人はエイダのかたきなんですから」


 アルテアの秀麗な顔を月明りが揚々と照らした。


「そう言って何年経っていると思うんだ?もう、五年だ。あと少しで六年になる。これ以上は俺たちも待てない」

「アンタがやらないなら俺たちがる。わざわざ見ず知らずのアンタに情報を何年も売ってやっていたんだ。そろそろ本気出してくれてもいいよなあ?」


 彼女の左右に立っていたやけにがたいのいい男たちが、顔を覗き込むようにしてアルテアに話しかける。時折、左側に立っていた男がアルテアの細い腰をいやらしく撫でながら。


「それ以上私を不愉快にするならあなたたち、死にますよ」


 そう言った瞬間、彼女の左右にいた男たちが悲鳴をあげて崩れ落ちる。

 月が雲に隠され暗くなった路地裏にはびちゃびちゃと粘りのある水音と男たちの低い唸り声、それに何か重たいものが地面に落ちる音がした。雲の隙間から月明りが溢れると、左側に立っていた男は左腕が、右側に立っていた男は右腕があったであろう箇所を押さえて、地面に座り込んでいるのが照らされた。


「こ、このアマ!こっちが下手に出てりゃいい気になりやがって!」


 左腕を失った音がジャケットを乱暴にめくると腰に巻かれたホルスターから拳銃を取り出した。オートマチックピストルのガスオペレーションという種類のものだ。彼の愛銃はガス直射式のもののようだ。


「待て!早まるな!」

「ボスから女は殺すなと言われているはずだぞ!」


 仲間の制止の声も聞かず男は感情のまま安全装置を外し、引き金を引き、アルテアに向けて発砲した。静かな路地裏には乾いた銃声が鳴り響いた。男はアルテアを殺したのだと思い、満足げに微笑んだが視界がぐらりとかすみ揺れた。


「……ど、どうし、てッ」


 男が膝から崩れ落ちるように地面に倒れ込んだ。地面に顔がぶつかる頃には彼は絶命していた。どうやって自分が死んだのかさえ分からないまま、彼の命は散ってしまったのである。

 その一方で、彼が発砲したはずの弾はアルテアがいたはずの壁にしっかりと埋め込まれていた。

 いつの間にか彼女は顔や服には返り血を一滴も浴びずに目を閉じたまま、大きな鎌を手にして立っていた。己の背をとっくに越してしまっている鎌の刃の部分は十字架にかたどられた穴が開いている。長い取っ手の部分にはこれまた長い鎖が絡みついている。先の方には小さな鉄球がくっついていた。その鎌の刃からはぽたりと赤い血が地面に丸い模様を描くように落ちていく。それを見た周りの男たちはこくりと喉仏を上下させた。


「流石、La Morte死神と呼ばれた女だな」

「…死神なんて呼ばないでください。そんなもの存在しないんですから」


 手を弾く乾いた音を立てながら、一人の男が集団の中から現れた。その男だけは他の男たちとは違って趣味の悪い紫色のストライプ柄というスーツを身に纏っていた。


「お目にかかるのは初めてかな、シニョリータ。俺は一応、こいつらの頭のヴィットリオっていうんだ。今回のことは水に流してくれねえか?俺の教育が悪かったんだ。なあ、キニートお前も悪いと思っているよな?」


 ヴィットリオと名乗った男は、アルテアの右側に立っていた男に尋ねた。キニートという男は、彼の言葉に静かに頷く。それを見たヴィットリオはにこりとでも効果音が付きそうな顔をして笑った。が、次の瞬間彼の表情は一変する。まるで般若のように瞳を釣り上げ、キニートを睨みつける。


「お前もきちんとLa Morteに謝らねえかッ!」


 底が厚く重たい革靴で容赦なくキニートを蹴りつけるヴィットリオ。すねを蹴られたキニートはその場に倒れ込んだ。彼の怒りは止まらないのか、倒れ込んだキニートの身体中を何度も蹴りつけた。それだけじゃ足りないのか、彼の銀色の髪を掴み上に持ち上げ思いっきり顔を殴りつけた。鈍い音がすると、鉄の匂いがアルテアの鼻を掠めた。キニートの唇と鼻からは止めどなく鮮血が零れ、頬や瞼は殴られたせいで赤くれている。


「この、俺に、下っ端の、お前が、恥を、かかせんじゃ、ねえッ!」


 言葉を区切りながら、部下を蹴りつけるこの男には良心というものは無いのだろうか。アルテアは目の前にいるヴィットリオを心の底から、軽蔑した。流石のアルテアもそこまでの暴力はふるわない。例え、自分の責任不足だとしても。

 キニートが意識をなくして地面に伏せたのを見て、単純なヴィットリオは満足気に笑うとアルテアの方へ体ごと向けもう一度にこりと微笑んだ。


「La Morte悪かったな。見苦しいところを見せて」


 全くだ。身内同士のくだらない言い争いを見せられたアルテアは気分が悪くて仕方がない。そんな謝りじゃ足りないほどの気分だ。だが、そんなこと今は関係ない。


「まあ、さっきこのクズが言った通りだ。アンタが殺らないなら俺たちが代わりにソイツを殺る。俺たちの組織に情報をくれるやつもソイツを狙っているそうだ。ソイツももう、これ以上は待てないんだとよ。アンタだって仇を他のやつに盗られたくはねえだろう」

「わかっていますよ。ただ、今はまだ殺すべきタイミングじゃないだけです」

「その言葉は五年間飽きるほど聞いた。もう、いいだろう殺したって。それともなんだ、情が沸いたのか」


 ヴィットリオの言葉にアルテアはあからさまに嫌そうな顔をした。


「今回の情報提供には感謝していますが、その質問には答えかねます。それに、もう家に戻らないと」

「そうだな、帰ったほうがいい。夜が明けそうだ」


 ヴィットリオはかなり大袈裟な例えをした。まだ、夜が来て一時間も経っていないというのに、もう夜が明けそうなど大袈裟もいいところだ。アルテアは眉間に皺を寄せて、ヴィットリオを見やった。彼は彼女との合わない視線が絡むと、床に倒れている男二人だけを残してヴィットリオたちは帰ってしまった。彼らが死んだと思ったから、誰も来ないこの路地裏にでも捨ててしまおうと考えたのだろう。しかし、ヴィットリオの考えは甘かった。キニートはまだ死んでいない。早く手当すれば彼は助かる寸前のところにいたのだ。

 仲間に捨てられた男を哀れに思ったのか、それとも元シスターだったからなのかアルテアは自分よりも大柄な彼の腕を自分の肩に回し、ズルズルと引きずりながら近くのネットカフェに入った。


「……ここ、は」


 キニートが目を覚ましたのは、ネットカフェに入ってから約三時間経った頃だった。その時には簡易的ではあるがアルテアによって応急処置が施されていた。


「目が覚めましたか」


 アルテアは淡々とした口調で話しかけた。顔さえもキニートには向けず、ただ前だけを見ていた。


「なんで、お前が……う゛ッ!」


 勢い良く起き上がったものの、キニートの身体はあちこちが骨折、打撲していて起き上がってすぐにソファへと倒れこんだ。勿論、倒れこんだ時にも痛みが身体全身に巡った。痛みに苦しむキニートを見てアルテアは、ふふっと笑う。一人で痛がっては文句を垂れる彼が面白かったのだ。


「何笑ってんだ!こっちは痛くて仕方ねえんだ!」

「ごめんなさい、笑っちゃいけないですよね…でも、本当にあなた一人のやり取りが面白くて……」


 笑いすぎて涙が出てきてしまったのか、目元をそっと拭うと体ごとキニートの方に向けるアルテア。


「あなたはこれからどうするつもりですか?」

「どうするって……どうしようもない。元々俺はヴィットリオを殺すつもりでアイツの下にいたんだ。生きて戻ったところですぐにヴィットリオに殺されるだろうな」


 ぼそりと呟いたキニートの口調は、先ほどよりもだいぶ崩れてきている。どうやらあの時はヴィットリオがいるから、多少かしこまっていたようだ。


「彼を殺す…ヴィットリオはあなたの主人でしょう?それはどうしてか尋ねても?」

「妹を殺した組織の幹部なんだよ、アイツは。直接じゃなくとも、手っ取り早くあの組織に近づくにはアイツの下に行くしかなかったんだ」


 キニートの言葉にアルテアはそうですかと小さな声で答えた。


「それなら、行く当てがないのなら私のもとへ来ませんか?彼とのやり取りは今までと同じように続けるつもりですから」

「はあ?お前のところってあのオンボロ屋敷だろ!」


 あからさまに嫌そうに顔を顰めるとキニートはゆっくりと身体を起き上がらせ、なんとか座ることに成功した。それでもずきずきと傷口は痛むのだが、これは致し方ない。


「来たくないならそれでも構いませんよ。私にしてみたらあなたなんてどうでもいいんですから」

「なら、なんで助けた。どうでもいいやつを助けるのがお前の趣味なのか?暗殺を生業なりわいにしているLa Morteさんよォ」


 ちらりと向けられるキニートの視線はまるで無数の針を突き刺すかのように鋭い。


「シスター見習いだったからとでも言っておきましょうか?それとも、素直にあなたの力が欲しいと言って欲しいですか?」


 アルテアは静かに答える。


「あなたのような目が見える殺しに慣れた人が欲しい。私には手足があっても目はない。それを補ってくれる人も」

「だから、そこでヴィットリオに捨てられた俺に目をつけたってか?それこそ今さらだ。死神と呼ばれるほどの殺しっぷりを見せたくせに何を今さら目を欲しがる?お前が必要としているのは目でもなんでもない」


 使い捨てのできる人間が欲しいだけなのだろう。とキニートは冷ややかな口調で告げた。それをアルテアは手厳しいですねと苦く微笑む。


「そうじゃないと言ってもきっと、信じてはもらえないのでしょうね」

「そうじゃなければお前が俺を欲しがる理由がない」

「キニートさん、でしたよね。あなたのこと私なりに少し調べたんですよ。銃の使い方は勿論、殺しにも長けていてヴィットリオの元にいるのが勿体無いくらいの良い人材だと思っています」

「褒めても変わらねえよ。ここまで運んで手当てしてくれたことには感謝するが、これ以上お前と関わるつもりは…」


 キニートは言葉を途中までしか言えなかった。何故なら、アルテアが小さく折り畳まれたナイフを彼の首に押し当てたのだ。黙れ、と言っているような仕草にキニートは言葉を失った。


「あの人を殺すのには私一人で充分。でも、もう一人いるんです。その人はそう簡単にはいかないでしょう。私のことを怪しんでいる人ですから」

「俺をそいつにあてがおうってか」


 そういうことです。とアルテアが笑った。


「……いいだろう。お前に拾われた命だ。お前にくれてやろうじゃねえか」

「契約成立として受け取っていいですね、その言葉」

「男に二言はねえよ。でも、その代わりだ。ヴィットリオとの次の取り引きの日には俺も同行させろ。その日、アイツは殺す。その条件を飲むならいくらでも使われてやろうじゃねえか」


 アルテアの固く閉じられた瞳とキニートの琥珀こはく色の瞳が何度か交差する。そして暫く間を置いてからアルテアが小さく口を開いた。


「葵さんと祐春さんには私から言っておきますから、安心してくださいね」


 その言葉はキニートの提案に彼女がのったと、了承したと言うことである。柔らかく微笑んだアルテアの笑みはまさに死神そのものだとキニートには思えた。

 アルテアがキニートを連れて葵たちと住む家に帰ったのはそれから約五時間後のことだった。


ぉ、そい遅いどぉ、えあに、いてぁどこに行ってたんだ

「その、お友達と話した後倒れているキニートさんを見つけて…」

ぅえて、あっえと連れて帰ったと

「そうです」


 家に帰ったアルテアを待っていたのは、珍しく起きて怒っている葵だった。昨晩は寝ないで彼女が帰ってくるのを待っていてくれたのか、いつも以上に目の下の隈が濃くなっていた。それを見ると嘘をついてしまうのが申し訳なくなってしまうが、本当のことを言うつもりもない。結局は真実を嘘で塗り替えてしまうしかアルテアに残された道はなかった。キニートには話がややこしくなるから何も話すなと、ネットカフェを出た時から耳にタコができてしまうくらいに言い聞かせている。そのためか、彼は関係ないと言いたげに襖に寄りかかり、知らんとした顔で欠伸をしていた。


ぅそ、だ嘘だ

「嘘じゃないです、本当です、信じてください」


 固く閉じた瞼を少しだけ震わせながら、アルテアは葵に嘘ではないと言った。


「ぉう、ぃても、たぁごどじゃぁな、いの、ぁがるどう見ても只事じゃないのはわかる

「それは、その、この方には深い事情があって、それで」


 普段、他人のことなど気にもしない葵がここまでキニートを怪しむのだ。やはり、うまく丸め込むのは難しいのだろうか。アルテアは少しだけ眉間に皺を寄せた。


「まぁまぁ、その辺にしてやれよ葵。アルテアちゃんだってもういい年頃の娘さんだぜ。一人や二人の男と一晩泊まったくらい…」

ぞぉいうごと、お、ぃっえうんゃないそういうことを言っているんじゃない


 祐春の言葉さえ疎ましいのか葵は右手のひらを下に向け、人差し指を立てる。その指先を耳の穴にあて、二回程捻る動作をした。手話だけではなく、唇を動かしてうるさいと言った葵に祐春は苦く笑った。


「葵が怒るのもわかるよ。普通のことが起きているんじゃないって一目見て俺だってわかるんだから。でも、事情があるんだっていうアルテアちゃんの話は聞いてやんないの?」

「祐春さん…」

「俺だって思うよ。連絡くれればどうにかしてやれたはずだから。でもね、そうしなかったできなかった理由だってあるんだよ。お前にだってわかるだろ、そのことくらい」


 祐春ははやし立てるように指文字を使い、アルテアにもわかるように言葉にしながら言った。穏やかな笑顔を浮かべている彼だったが、本当ははらわたが煮えくり返りそうなほど腹正しい。なんとか冷静さを保とうとしているだけで、本当は今すぐにでも物に当たり散らし、蹴り飛ばしてしまいそうなほど苛立っている。それを抑えようとしているのは葵のためでもあったし、昨晩二人で話し合い、彼女に知られずに素性を調べると決めたことを守るためでもあった。


「葵さん、本当にごめんなさい。もうこんな無茶なこともしません。ですから、許してください」


 アルテアは震える声で謝った。彼女なりに頑張った結果がこうだった。


わ、がっぁわかったお、いぇも、わゆ、ぁ、た俺も悪かった


 葵も彼なりに必死に抑えたのかそう言うと、さっさと居間を出て自分の部屋へ戻ってしまった。取り残されたのは祐春とアルテアとキニートの三人だけ。なんとも気まずい空気だ。祐春はどうにかしてこの気まずさを無くしたかったが、たまたま己の目の前に座っているキニートと目が合ってしまいそれは無理だろうと察した。彼の表情野犬出す雰囲気は警戒心剥き出しの野犬のようだ。


「私、もう一度葵さんのところに行ってきます。祐春さん、彼…キニートさんのことを頼んでもいいでしょうか」


 アルテアは祐春にそんな面倒で気まずい頼みごとをして居間から出て行ってしまったのだ。嘘だろ。そう言いたげに彼女が出て行った襖を見つめる祐春とキニート。なんとなく互いに視線を合わせてみたが、やはり気まずい。すぐに視線を外しあうと、互いに別々の方向を向いた。

 居間を後にしたアルテアは二階にある葵の部屋を訪れていた。なんとか部屋に入れてもらうことは出来たものの、話しかけるにはとても勇気が必要なくらい気まずい沈黙だった。しかし、このまま黙っているわけにもいかないだろう。アルテアはどうするべきか考えあぐねていると意外にも、沈黙を破ったのは葵の方だった。


「……ぅ、えあアルテア


 まさか、葵の方から話しかけてくれるとは思っていなかったのかアルテアは小さく肩を二、三度揺らした。


さ、っは、おぇが、わぅ、あったさっきは俺が悪かった

「葵さんは全然悪くないです。私が悪いんです。ですから、葵さんが怒ってしまわれるのも当然のことです。でもどうか、お願いします。キニートさんもここに置いてはもらえないでしょうか?」


 アルテアは閉じられた瞼を葵に向ける。それを気まずそうに居心地が悪そうに葵は顔を顰めながら見つめていた。彼女の願うことで自分に叶えられるものがあるのならできる限り、叶えてやりたいと彼は思う。が、今回のことはそれだけじゃない。別に居候がもう一人増えようと葵にとってはどうでもいいことだった。祐春が増えたことで自分たちの生活に何か支障ができたわけでもなかったから。しかし、今回ここまで葵がキニートの居候を渋るのには他に理由があった。葵自身それがいったいなんなのか、自分自身では気づけそうにもなかった。ただ、なんとなく彼女とキニートの親しげな様子を見て、腹の奥底がむかむかとしているように感じたのである。


「キニートさんは今、片腕をなくしたばかりです。日本じゃ行く当てがないんです、手持ちのお金にも限度がある。五年前の私と同じなんです。だから、お願いします。葵さん、彼をここに置かせてください。私の身勝手な頼みだってことは重々承知しています」


 土下座でもするんじゃないかってくらいに頭を下げるアルテアに葵は言葉を詰まらせた。優しい彼女にこんなことをさせているのはいったい誰か。それは間違いなく自分自身だ。葵が彼女にそうせているのだ。必死な顔をして、頭を下げるアルテアの姿に酷く胸が痛む。突き刺すような痛みに耐えながら、葵は小さくアルテアの名を呼んだ。


「ぉう、いどり、ふぇてお、あいじて、かぁらないもう一人増えてもたいして変わらないあ、うぇあのうぃな、おうに、すれぁいぃアルテアの好きにすればいい


 葵が出したせいいっぱいの答えだった。彼の言葉にアルテアが驚いたように声を上擦らせ、いいんですかともう一度確認の言葉を返した。


「あぁ」


 その答えにアルテアは嬉しそうに微笑んだ。葵はその笑みに胸が締め付けられる。どうにもならない思いだ。そんな葵に気づきもしないアルテアは膝立ちになり、細くしなやかな指先を彼の頬に添えた。ひんやりとした彼女の体温に葵は驚いたように瞳を丸くさせた。


「寝ていないで待っていてくれたんでしょう。隈が酷くなってしまいますよ」


 しなやかな親指をするりと陶器でも撫でるかのように動かし、アルテアは葵の身体の心配をした。もし葵に何かあったら自分は生きていけない、そう言いたげな表情で彼の頬を何度も撫でた。撫でられるたびに、葵の心臓は大きく音を立て飛び跳ねた。


あぅ、えあ、やめ、ぉアルテアやめろ

「もう少しだけ、葵さんに触れていたいです。駄目、ですか?」


 寂しそうな表情で尋ねるアルテアに葵は弱かった。断ることなどできず、彼は渋々彼女の願いを聞き入れることにしたのだった。

 一方、初対面のキニートと二人取り残された祐春は気まずさが限界を超えてしまいそうだった。見る限りキニートは明らかに表の世界の住人ではなく、裏の世界しか知らない人間なのだろうということがわかる。そんな男と一体、何を話せというのか。もっと言ってしまえばキニートは日本人ではなかった。一体何語で話せば通じるのか、祐春の中にはそんな疑問もあったのだ。


「…おい、日本人」


 意外にもキニートは日本語が話せるようだった。それもアルテア並みに流暢りゅうちょうな日本語だ。祐春は少しだけを上擦らせながら、何ですかと一言。


「あのアオイってやつはどんなやつなんだ?」

「葵?アイツはいいやつだよ。思春期でグレてた俺のことを怖がらないでさ、よく一緒にいてくれた。無愛想で素っ気ないけど本当にいいやつだよ」


 顎に手を添え、昔を懐かしむように祐春は言った。葵とは小学校からの付き合いだが、成人してもなお変わらず自分のそばにいて、一番理解してくれる葵とは本当に長い付き合いなのだと祐春は感傷に浸った。


「父親や母親はいないのか?」

「お袋さんは葵が中学生の頃に病死、親父さんは五年前に事故死したけど…それが何?」

「いや、まだ若いのに一人で住んでるのかと思ってな」

「一人じゃなくて三人。俺と葵と、アルテアちゃん」


 なんだかんだ普通に話せるやつじゃないかと祐春は内心そう思っていた。葵みたいにひねくれていて、変わり者だったらどうしようか、と焦っていたのだ。それに暗いのがもう一人増えられても困る。家では明るくなるべくなら、気を使わないでいたい。まあ、この家は祐春の家ではなく葵の持ち家なのだが。


「アンタ名前は?なんて言うんだ?」

「稲瀬祐春、そっちはキニートであってるよね」

「あぁ。イナセユウシ、ね。これからよろしくな」

「よろしく、キニート」


 まさか、気まずいと思っていた男と握手することになるとはいったい誰が予想できただろうか。否、これはアルテアとキニートの作戦の一つであった。


「キニートさん、いいですか。あの人は一番、警戒心が強くて人を見る目を十分なほど養われています。もしかしたらあなたが何かの組織やファミリーに属しているんじゃないかって勘づいてしまえそうなほど、あの人は人をよく見ています」

「…で?俺にどうしろって言うんだ」

「大事なのは第一印象ですよ。裏の世界の住人とばれてしまっても構いません。もしそこで何か、探りを入れられたのなら同情を誘うんですよ。でも、何も言われなかった場合、人当たりの良い人を演じてください」

「そんなに警戒するようなやつが簡単に騙されるかと思うのか」

「目的はその人じゃありませんので、何の問題もありません。大事なのは葵さんが私の言葉を信じてくれるのかどうかですよ」


 彼女の指示通りに動いただけなのにキニートは非常に愉快な気分だった。すべてが彼女の掌で踊らされていることも目の前にいる男も、アルテアのもとにいるあの男も知らないのだから。こんなに愉快でおかしな話はない。

 あの一件が片付くと、今まで通りに生活をして約三ヶ月が経過していた。しかし、その中でも今まで通りに生活できたのは葵とアルテア、それに祐春の三人だけだった。利き腕である右腕を失ってしまったのは非常に生活を困難なものにさせた。今までなら出来た料理も、着替えも、食事もすべてが一人では出来なくなっていた。慣れれば少しずつだがそれなりにできるようにはなっていくが、今まで通りとまではいかなかった。

 前に一度祐春の知り合いだという医師に義手をつけてもらったことがあるが、接続部分がうまくいかずんでしまい、結局キニートは義手をつけることはできなくなった。更にその前には自分の右腕を回収しようとしてみたが、かなりの日数が経過していたせいで腐敗が進んでおり持ち帰って埋めるのさえ断念した。今思い出しても全身に鳥肌がたちそうなほどの腐り具合だったことをキニートはよく覚えていた。

 結果、今のキニートには片腕がない生活をおくるしか選択肢はなかった。


「おい!アルテア!」


 キニートはやりたいことが出来ないとすぐにアルテアを呼んだ。祐春は手伝いはするものの必ず茶化してくるし、葵はただ耳が聞こえず話さなくて気味が悪かった。そうなると必然的にアルテアを呼ぶしかなかった。


「どうかしましたか?」

「ボタン、つけろ」

「……Tシャツ着てくださいって何回言えばわかるんですか」

「あの柄が気に食わねえ」

「知りませんよ。自分で買いに行かないからああなるんです」

「だからって、ユウシに頼むやつがあるか!アイツの妙な着物姿を見てみろ。ユウシのセンスなんてたかが知れている」


 眉間に皺を寄せ不機嫌そうにキニートは言った。それをアルテアはやや面倒くさそうに見下ろしている。


「キニートさんのお洋服を買いに行く時、葵さんは外に出かける用事があっていなかったんです。私も色々あって忙しかったんですから。仕方ないじゃないですか」


 だから文句を言わないでくださいとキニートの、逞しい左腕を思いっきり引っ叩いた。


「そういえば、鼻の調子はどうですか?まだ痛いですか?」

「当たり前だろうが。折れてんだぞ、骨が」

「普通ならもう治っていてもいいのに…」

「ヴィットリオの靴底はただの靴底じゃねえんだよ」

「どんな靴底なんですか?」

「…説明するのが面倒だ。いいから早くシャツを着せろ!」


 なんて自分勝手な男だろうか。ボタンをアルテアに留めて貰わなくては、まともに自分で服を着ることが出来ないというのに。アルテアは渋々とキニートのシャツのボタンを留めてやる。すべてのボタンが留め終わるとキニートは満足げに鼻を鳴らした。


「人に頼みごとをしたのならお礼を言うのが常識ですよ」

「あいにく、俺はその常識から外れた人間だ。お前たちの常識に俺を当てはめるな」

「キニートさん、郷に入っては郷に従えっていう日本のことわざがあるのを知っていますか?」

「それがなんだ。何と言われようとも、俺はお前たちのなれ合いごっこには交わる気はねえぞ」


 彼の言葉にアルテアは顔を顰めるばかりで、何も答えなかった。それに対してキニートはなんでもないような顔をして見つめていた。


「それよりも次、いつヴィットリオに会う予定なんだ」

「早くてもキニートさんの怪我が治ってからですね」


 アルテアの答えにキニートが苛立ったように声をあげた。


「ンなもん、いつになるかわからねえってことと同じじゃねえか!俺との約束を忘れたとかいうんじゃねえだろうな」

「忘れたなんてそんな。あなたのほうこそ、ご自分の状況理解していますか?その状態で彼らと戦えると?殺り合うことができると本気で思っているんですか?」


 問い詰めるような、責め立てるようなアルテアの口調にキニートは顔を顰めた。まさに彼女の言う通りだ。身の回りのことも自分一人でまともにできないキニートがいったい何の役に立つというのだろうか。あの時と同じようになぶられ、痛めつけられ、今度こそ確実に殺されるのが目に見えている。せいぜい役に立つとしたらアルテアの盾となり、身代わりに殺されることくらいだろう。それはキニートもよくわかっているのか、それ以上ヴィットリオとのことについて彼が話すことはなかった。


「アルテアちゃん、今日はスーパー行く?」


 いつの間にかキニートの部屋に来ていたらしい祐春が扉に寄りかかりながら彼は尋ねた。そのことにアルテアとキニートは驚いたように飛び跳ねた。今の話を聞かれただろうか。もし聞かれていたのなら彼はどう反応するのだろうか。キニートは値踏みでもするかのような目つきで祐春を見つめた。


「そのつもりです。あと、今日はキニートさんのお洋服も見に行こうと思います」

「また?この間買ってきてやったのに?」

「どうも、柄が気に食わないそうなんです」

「えぇ!俺がせっかく選んだやつなのに!あの柄が気に食わないだなんて…キニート、お前どんな感性してるんだよ!」


 Tシャツの柄が気に食わなかったことをアルテアが、祐春に伝えると彼は大きな声であり得ないと言った。あり得ないのはお前の方だと言いたい気分だったが、キニートはそれをぐっと飲み込んだ。どうせ文句を言ったところでこの男の感性は他とは違うのだ。今、来ている着流しだっていったいどこで手に入れているんだと言いたくなるような模様をしている。


「まあ、いいや。アルテアちゃん歩いていく?それとも俺が車でも出そうか?」

「そうですね。帰りのことを考えると、車を出してもらった方がいいかもしれませんね」


 苦笑交じりにアルテアは笑ったところで、キニートが祐春に車を出してもらうことを渋った。帰りには荷物があることをアルテアが言えば彼は口早に自分がすべて持つからいいと言い出した。珍しく自分から荷物持ちをするというキニートにアルテアは少し悩む素振りを見せてから、わかりましたと言った。そして、祐春の方に顔を向けて、車は出してもらわなくていいとキニートの意見を尊重した。アルテアの言葉を聞いた祐春は何か言いたげに僅かに口を開いたが、結局何も言わず立ち去った。


「これでいいですか?」


 彼女の言葉にキニートは静かに頷いた。


「一緒に暮らしているんですから、少しは仲良くしてください」

「俺はこれでも仲良くしているつもりだぜ」

「それのどこがですか。キニートさんには協調性ってものがありませんよ」


 呆れたように笑うとアルテアはゆっくりと立ち上がった。

 ストライプ柄のシャツにカーゴパンツ、黒と茶色の混じった暗めの色のブーツを身に纏ったキニート。自分の持っている服で唯一まともな服だ。一方のアルテアは白一色のワンピースで裾には可愛らしいレースが控えめにつき、ワンピースと同じ白いパンプスを履いたアルテアはキニートの腕に自身の腕を巻き付けていた。はたから見れば美男美女のカップルに見えるような容姿の二人が、ひどく寂れた商店街を並んで歩いていく。


「で、どこにデパートがあるんだよ」

「もう少し先に、居酒屋の与平さんがあるはずです」

「…あったぞ」

「そこを左に曲がってください」

「足元に空き缶があるぞ。気をつけろ」

「はい、ありがとうございます」

「で、次は?」

「ゴミ捨て場を右に、少し行ったところを右に行けばデパートにつきますよ」


 アルテアのあまりにも的確な道案内にキニートは思わず本当は目が見えているんじゃないかと、疑ってしまう。実際に自身の腕を切り落とした時はあまりにも正確に、無駄のない動きをして見せたのだから。


「お前、本当は見えてんじぇねえの」

「そんな、まさか。私にはあの時の光景・・・・・・・・が瞼の裏に焼き付いているだけで、それ以上のものはもう忘れてしまうくらい何年も見ていないですよ」


 デパートの三階に紳士服売り場がある。二人は迷うことなく、真っ先に紳士服売り場に足を進めた。先にスーパーで食品を買ってしまったら、服を選ぶ時間が減ってしまうからである。


「キニートさん、どうぞ好きなお洋服を選んでください」


 私は大人しくついていきます、とアルテアは笑った。


「とりあえずあそこの服屋が見たい。真っすぐ行ったところだ、行くぞ」


 腕にしがみついているアルテアに一言断りをいれると、キニートはゆっくりと歩き出した。

 キニートの選んだ服は、祐春が選んだものとは真逆だった。彼が好むものはシンプルなものが多かった。シンプルといっても、少しは柄のあるものもあるが祐春の選んだものよりずっといい。祐春の選ぶものは大体が派手で妙な柄物の服が多い。それにビビットカラーも多かった。着る人によっては笑われてしまうのでは、というくらいに個性的なものだ。

 服選びがひと段落したところでキニートが自身の腕にしがみついているアルテアに視線を向けた。彼女はいつもと変わらない表情をしていたが、どこか疲れているようにも見える。キニートがぶっきらぼうにどこかで休むかと尋ねた。それをアルテアは大丈夫ですと一蹴いっしゅうしてしまう。折角、気遣ってやったのに。そう言いたげな

表情をして彼女に向けていた視線を横へと逸らした。


「あ、もしかしてキニートさんが休みたかったですか?そろそろメリエンダ・メディア・マニャーナの時間ですもんね」


 同居してから知ったことだが、キニートはスペイン人であった。

 彼の食事は基本一日五回。朝食のデサユーノ、午前の間食のメリエンダ・メディア・マニャーナ、昼食のアルムエルソ、午後の間食のメリエンダ、夕食のセーナの五回だ。日本人である葵とその生活に慣れている祐春とアルテアには何故そんなに食べるのか不思議で仕方がなかったが、まあわざわざ聞く必要もないと思って深くは聞いてはいない。


「…そうだな」

「メリエンダ・メディア・マニャーナは昼食に備えるものでしたっけ?」

「説明が面倒だ」


 キニートはなんだかんだと面倒くさがることがある。自国のことを知らないものに自国のことを伝えるのは確かに面倒だと思うが、もう少し頑張ってくれてもいいじゃないかというのがアルテアの本心だ。まあ、それを言えば彼がへそを曲げることは間違いないので言わないでいるのだが。


「あそこのカフェにでも入りましょうか」


 そう言って彼女が指差したのは女ばかりが集まるような可愛らしいカフェだった。


「絶対に嫌だ。その隣にしろ」


 目が見えていないからそういった心遣いができないのだろうと思ったキニートは、アルテアの提案したカフェの隣にあるどちらかと言うと渋めの喫茶店に入るように言った。しかし、アルテアはそれを断って自分の提案したカフェに入るように言った。聞き間違いかと思ってキニートはもう一度言うように言った。


「だからあのカフェに行きましょう。あのお店、前にテレビでオススメされていたカフェらしいんですよ。私、一度でもいいから行ってみたかったの!」


 そう楽しげに言ったアルテアは年相応の女に見える。結局、キニートは彼女の希望したカフェに入ることにした。自分のわがままに付き合わせてしまっているのだから、このくらい聞いてやらなければと彼なりの考えがあってだった。

 店内はピンクと白を基調とした壁紙に、ハートやらリボンやら派手に装飾されているしゃんでりあと如何にも女の子という言葉の似合うレイアウトだった。案内される席に向かう途中に置いてあるクマやウサギのぬいぐるみに同情する。お前たちもこんなところに飾られてかわいそうに。と思いながらキニートはアルテアと二人、店の一番奥の席に通された。


「お待たせしました!さつまいものパウンドケーキとホットの林檎の蜂蜜はちみつ入りコーヒーのセットと、サラダマリナーラとアイスのブラックコーヒーのセットです!」


 元気よく注文したものを読み上げる店員には悪気はないのだろうが、キニートはぶん殴ってやりたい気持ちだった。自分なりに考えて彼女の望みを叶えてやったがこんな愛らしいものしかないカフェに入って気分は最悪だった。ただでさえ、外人二人というだけでも目立つというのに。


「キニートさん、食べられますか?」


 その挙句、右腕がないせいでキニートは一人ではうまく食べられないのだ。左手で食べる練習を何とかしているがやはり、聞き手と同じようにはいかに。そうなるとアルテアに助けてもらわなければならない。折角、頼んだマリナーラを無残にもテーブルの上に落とすことになるのは勿体ないし、食べ物に対して失礼だとキニートは思っている。


「早く食わせろ。そんでさっさとこんなところ出ていくぞ」


 早くしろ、そう言いながらアルテアに自身が頼んだマリナーラを手に取らせた。アルテアはくすりと笑うと、小さな子供にでも食べさせるかのようにゆっくりと彼の口元へと運んだ。しかし、目の見えない彼女だ。うまくぴったりとキニートの口元に運んでやることはできない。彼は何も言わず彼女が持ち上げた手首を掴み、うまい具合に自分自身で口の中に運んでいく。


「美味しいですか?」

「微妙だ。お前が作った方が何倍もうまいだろうな」

「ふふっ、冗談はよしてくださいな。はい、もう一口」


 彼が食べ終わったのを確認すると、アルテアはキニートに次を食べるようにうながした。


「本当だ。こんなところの店の飯よりもお前の飯がうまい」


 それだけ言うと、がつがつと残りのマリナーラも食べてしまった。ついでに、と言わんばかりにアルテアの手についてしまったソースも舐めとってしまう。突然のことにアルテアは、金魚のように顔を真っ赤にさせ口をパクパクと動かした。


「なっ、何するんですか!」


 裏返った声でそう言ったアルテアを見て、キニートは珍しく喉を鳴らしながら笑った。死神と呼ばれる女も案外、初心で可愛らしいところもあるじゃないか。そう言いたげな表情だったが、そのことに目の見えない彼女が気づくことはない。

 家に帰ると祐春による服の物色が始まった。これは色が悪いだとか、柄が変だとか、とにかく自分基準の感想を言った。勿論、言いたい放題だ。それをうんざりしたようにキニートは聞き流していた。


「ユウシが選んだものよりはましだと俺は思うがな」

「それって俺のセンスが悪いって遠回しに言ってる?」

「そう聞こえたんならそうだろうよ」

「ひどい!葵はどう思う?俺の方が絶対にキニートよりもセンスいいよね!」

ぉえは、あいなそれはないな

「葵までひどいな。俺たち親友だろうが!じゃ、じゃあ、アルテアちゃんはどう思う?俺たちの中で誰が一番センスがいいのか!直感でいいからさ!」


 葵とキニートにセンスが悪いと言われショックだったのか、祐春はアルテアに尋ねた。思わず、聞いた本人である祐春含め男たちはこくりと喉を鳴らした。アルテアが目が見えないということは忘れているかのような反応である。


「ううん、祐春さんかしら。香水もとってもいい匂いだし…着ているお洋服とかはわからないけど、でも私祐春さんの香水の匂い好きですよ」


 小首をかしげながらアルテアが出した答えに祐春は大喜びで飛び跳ね、キニートは不愉快だと言いたげに舌打ちをし、葵は瞬きを何度もしていた。葵とキニートの二人はまさか、彼女が祐春を選ぶとは思っていなかったのだ。


「アルテアちゃん、俺の香水の匂いわかってたんだ」

「はい。とってもいい匂いだなって初めて会った時から思っていましたし、祐春さんのことはそれで判断していましたよ」


 にこりと笑うと祐春の物色によって散らかされた服を片付け始めるアルテア。


「きょ、今日の夕飯俺頑張っちゃう!」


 満面の笑みでそう宣言したもの、その日の夜あまりにも張り切りすぎて失敗したのは言うまでもない。

 祐春が葵の部屋に来たのは、時計の針が午後十時を指した頃だった。寝る支度をしていた葵は少し眉間に皺を寄せながらも、祐春を部屋の中にあげた。二人で向かい合うように座ると、派手な着流しの袖口から白い封筒を取り出した。既に開けて中を確認していたのか、カッターで切られたあとが残っていた。


「やっぱりそうだったよ」


 隠すこともせずはっきりと言った。変に誤魔化せば後に苦しくなってしまうことが、分かっていたからなのだろう。祐春は嘘じゃない、とも言葉を続けた。葵が封筒を受け取り、中身を確認し終えるのを待つと今度は指文字を使って祐春は話し始めた。


「あの男、キニートのことも調べてもらった。アメリカを拠点地に動いているまあ、何でも屋みたいな組織なんだけど…ヴィットリオっていう男の下で働いていたやつだ。HOPE希望っていうイタリアを中心としてま、色々とヤバいことをやっているやつらとも関りがあるやつらだ。こいつらが何をやってたかなんて言わなくてもわかるだろ?」

ま、あぅ麻薬

「そう、それとか人身売買とかね」


 詳しくはここに書いてある、そう言いながら白い封筒とは違う封筒を取り出しそれの中身を葵に見せる。それを見た葵の表情が少し歪んだ。書いてあるものはどれも信じがたく、現実に起きているとは思えないようなものばかりだった。葵の住む世界とはあまりにもかけ離れている世界だ。


「それで彼女のことだけど…ヴィットリオとはかなり親しい関係だったみたいだよ。情報の交換をしていたらしい」

じょぉ、おう?情報?

「うん。何の情報を欲しがっていたのかはまだわからないけど、そういう組織からの情報だ。そういうこと・・・・・・に使うんだろうな」


 一通り話し終えると、祐春は煙草を取り出し火をつけて吸い始めた。香ってくる臭いが甘ったるく葵はさらに眉間に皺を深く寄せた。


「これからもっと確実な情報を得られるようにする。もしかしたら彼女は利用されてるだけかもしれないしね」


 ふう、と紫煙しえんを吐き、憂うような顔つきでそう言う祐春。そんな彼のことなんか見もせずに葵は、ただじっとアルテアとキニートのことを調べてある紙を見つめていた。

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