Episode02

第3話

 今日も今日とて葵は普段と変わらない生活をおくるはずだった。そう、はずだったのだ。ある男が葵たちの元に来なければいつも通りの何気ない日常だった。

 趣味の悪い派手な模様の着流しを身に纏い、焦げ茶の使い古されたカンカン帽にゆるく一つに結われた栗色の髪に黒い縁のウェリントンをかけたあまりにも特徴的で独特な男は、蒸し暑いなか険しい山道を登っていた。漸くたどり着いた民家は最後に来た時と何も変わらない。そのことに男はほっとしたように息を吐いた。


「よう、久しぶりだなあ」


 にんまりと唇に弧を描き、何か意味ありげに笑うのはこの男のいやな癖であった。

 仕事がひと段落した葵はうんざりしたように見つめていたが、関わると面倒事に巻き込まれると思ったのだろう。早々に男のことを見なかったことにして、葵は休もうと家に上がった。普段ならアルテアが居間の方から少し慌てたように、でも嬉しそうな微笑みを浮かべて現れるのだが、今日は来なかった。いや、正確には彼女は来ようとはしていたのだ。それをある男がさせなかったのだ。

 不審に思った葵は、アルテアともう一つ気配のある居間へ足を運ぶ。するとそこには、アルテアに絡みつく先ほどの男で葵の友人の稲瀬祐春いなせゆうしがいた。彼は葵の唯一の友ともいえる男でもあった。気の抜けた笑みを浮かべ、余裕そうにひらひらと左手を振っている姿に葵は無性に腹が立つ。そんな祐春の向かいには困ったように眉を寄せているアルテアの姿があった。


ぁ、んえ、おあぇが、こぉこに、いうんぁなんでお前がここにいるんだ

「折角、お前に会いに来たのに無視されちゃったからさあ。どうせお前のことだから家の鍵なんて開けっ放しだと思って、家ん中をちょこっと覗いてみたらこんなにカワイコちゃんがいてびっくりしたよ、俺は」

あって、い、ぁいっあのか勝手に入ったのか


 葵の問いに祐春は違うと被りを振って見せた。


「裏の方を回っただけだよ。そしたら丁度、洗濯物を取り込もうと外に出てきたアルテアちゃんと遭遇そうぐうしたってわけな。あっ、言っておくけど何もやましいことなんてないよ」


 両手をあげておどけたように笑う祐春をきつく睨みつけながら葵は彼の言葉の続きを待った。まだ、これだけじゃ彼の言葉が信用ならないのだ。祐春とはそういう男なのである。彼の学生時代の人間関係、特に女関連の悪い話は途切れることはなかった。だからこそ、祐春の言うことは信用ならないのだ。


「あ、葵、お前…俺がアルテアちゃんに何かしたと思ってるんだろ。本当に何もしてないから」

いん、ぃあえ、ない信じられない

「葵さん、稲瀬さんの言う通りですよ。何もされていませんから」


 慌てたようにアルテアが二人の会話に割って入った。祐春の味方をしたことが面白くなかったのか、葵はじとりと葵が彼を睨みつける。暫く睨みあった後、葵は小さく溜息を零した。


「それよりもまだこんな山奥に住んでいたのか。もう、とっくにどこか別の場所に引っ越したかと思っていた」

ぉ、あえ、にあお前には

「関係ない、だろ?お前の言う事なんて言われなくたってよくわかってるよ」


 それならわざわざ言わせるようなことを言うなと言いたげに祐春をもう一度睨み付ける。


「それにしても、アルテアちゃんだっけ。本当にカワイイね!」


 満面の笑みを浮かべながらアルテアの手を取り、彼女を称賛した祐春を見て、葵はひとまず彼の広い背中に蹴りを入れた。別にこのくらいしてやっても構わないだろう。彼は人の断りもなく家に上がり込もうとしたのだから。葵はふん、と鼻を鳴らしながら祐春を見つめていた。

 祐春は非常に賑やかな男だ。葵はその賑やかさが好きでもあったし嫌いでもあった。彼といれば退屈はしないし、新しい知識を得ることができる。その反面、妙なことや面倒ごとに巻き込まれることも少なくはなかった。そこが彼といる上で嫌な部分ではあった。

 久しぶりの再会なのだからと気を使ってなのか、アルテアは洗濯物を取り込みに外へ出て行ってしまった。居間に残された二人は彼女が外に出て行く前に出してくれた麦茶と煎餅せんべいを囲いながら、だらだらと話をしていた。といっても、祐春が一方的に近況報告をしているだけなのだが。


「いや、最近さ千佳ちかちゃんっていう子と付き合っていたんだけどさ。実はその子、俺ともう一人とで二股かけてるとんでも女だったんだよ。まぁ、ここはいいとしてもだよ。よくあることじゃん?そのあとなんだよ問題なのは!」


 二股なんてよくあることじゃない、と悪態をつきながら葵に祐春は苦笑いを浮かべ、まあまあと彼を宥めた。


「相手のもう一人があのモールトファミリーの奴でさ!しかも、若頭っていう肩書き付きでさ。おかげさまで銃弾二発も食らっちゃったのよ」


 げらげらと自身の左脇腹を叩いて笑う祐春の馬鹿げた話を聞き流しながら、葵は窓越しにアルテアを見つめた。せっせと洗濯物を家の中に取り込んでいく姿に見惚れてしまう。ゆらりと揺れるプラチナブロンドの髪が太陽に反射し、オレンジ色に輝いた。


「葵、あの子どうしたの?」

や、ぉっ、あ雇った

「ふうん。”雇った”のか」

「あぁ」

「…気をつけろよ。これからよくないことが起きる匂いがする。それも今までで一番最悪なことになりそうな匂いだ」


 頬杖をつき葵と同じように窓の外を見つめながら祐春はそう言った。たまに彼は妙に真面目くさった顔でこんなことを言うことがあった。それは決して冗談なんかじゃなく、祐春が悪いことが起きる気がするといえば必ず悪いことが起きた。必ず、だ。外れたことは今までで一度もない。


「アルテアちゃん、きっと何かを持ってくるね。いや、もう持ってきてるのかもしれない。わからないけど…葵にとって良くなくて、でも幸せなものだ」


 横を向いたまま祐春はそう言うと黙り込んでしまった。それからなんとなく会話が途切れ、互いに何かを話そうとはしなかった。数年ぶりの再会だ。積もる話など山ほどあるはずなのに。

 すると、窓の縁に手を乗せ居間に顔を覗かせながらアルテアが小さな声で葵を呼んだ。それを祐春が葵の肩を叩いて教えてやれば、彼の視線は自ずと窓の方へと向けられる。


「お話終わりましたか?」


 葵は静かに終わったと発音がばらばらな言葉で返事をする。


「今日のお買い物はどうしますか?葵さんも一緒に行きますか?」

「ぃ、く」


 葵の答えを聞くと、アルテアは不安げに祐春の方へ閉じたままの瞳を向けた。そして、祐春も買い物に来るかを尋ねた。正直、葵はついてこなくていいと言いたげに二人の会話を見ている。


「俺も行っていいの?だったら勿論行く!俺ってこう見えて結構、買い物上手なんだ!」


 アルテアの問いに満面の笑みでそう答えると、祐春は勢いよく立ち上がり窓の方へ駆け寄った。窓を覗いている彼女の柔らかな左頬に自身の頬を寄せるとちゅ、と小さなリップ音を立てる祐春。そして葵の方へ瞳を向け、得意げに微笑んで見せた。憎たらしげにウィンクまでしているのが腹正しい。葵は小さく舌を鳴らすとうとましげに祐春を見つめた。


ぅ、えあが、ら、ぁなえおアルテアから離れろ

「単なる挨拶だって。実際にキスしてるわけじゃないんだし、そんなに怒るなよ」

ぉえに、おごっえ、あい別に怒ってない

「いや、全然怒ってるだろ。顔すっごいことになってるって」


 その言葉に葵はむ、と唇を突き出した。不満そうな表情を浮かべる葵に祐春はくすりと笑い出してしまう。まるで、学生時代に戻った時のようだ。


「悪かったって。アルテアちゃんもごめんねぇ、嫉妬深い葵がいて」

「私は大丈夫ですよ。日本に来る前にいた国ではチークキスも、ハグも当たり前のようにしていましたので」


 柔らかく微笑むとアルテアは今から支度をしてきますので少し待っていてください。と一言残すと、洗濯かごを抱えながら家の裏に回った。

 祐春を連れて葵とアルテアはいつも行くスーパーへとやってきた。二人はいつものように葵がカートを押し、アルテアがその腕につかまり物を見て行く。互いに何かしらの障害があるというのになんて器用さだ、と祐春は思いながらその後ろ姿を見つめていた。


「葵さん、今日は何が食べたいですか?」

な、んぇ、も、いなんでもいい

「その答えが一番困るんですよ……」


 野菜売り場にて普段通りの会話をする二人。祐春はそれを微笑ましそうに眺めていた。他人に対してとげのあった葵にもこんな一面があったことは祐春も知らない。


「稲瀬さんは何か食べたいものありますか?」

「アルテアちゃん、なんでも作れるの?」

「日本料理は苦手ですが…言ってくれれば頑張ります」

「それじゃあ…カレー!カレーが食べたいな!」


 きょろきょろと辺りを見回してから、祐春は言った。特別カレーが好きだというわけでもなく、祐春がカレーと言ったのは丁度、人参にんじんとジャガイモが目に入ったからだである。きょとんな顔をして彼を見つめていたアルテアだったが、カレーを暫く食べていないことを思い出し彼の提案通りに夕食はカレーにすることに決めた。


「カレー、ですね。家にスパイスありましたっけ…葵さん」


 カレーをスパイスから作るとアルテアが言い出し、祐春は慌てたようにレトルトでいいと声をあげた。流石の祐春でも、スパイスから作るカレーには抵抗があったらしい。いや、今の時代わざわざスパイスからカレーを作る人間はそうそういない。レトルトカレーが当たり前のようになっている世の中だ。スパイスから作ろうとせずとも簡単に作ることができるものがあるのだ。しかも、簡単に作れるだけじゃなくて味も美味いときた。


「スパイスから作るのはまた今度にしてよ。今日はレトルトにしてさ」


 祐春がなだめるようにそう言えば、アルテアは少しだけ眉尻を下げながらそうですねと静かに頷いた。

 スーパーで必要なものを揃えると、彼らは祐春の提案により近くのカフェで一休みをしていた。

 カフェは程よい混み具合で、三人は天気もいいことだしとテラス席を選んだ。丸いテーブルを囲うようにアルテアと祐春の間に葵が入り込むような形で、椅子に腰をおろす。どうやら、葵はまだ先程のことを気にしているらしい。そのことに気づいたらしい祐春が苦笑混じりに笑った。


「ここのフラッペどれも美味しいでしょ。特に季節限定もののなんて最高に美味い。昔の彼女たちに教えてもらったんだ」

「稲瀬さんはプレイボーイなんですね」

「いやぁ、それほどでもあるんだけどね。人気者って困るねえ!」


 気分良さそうに笑うと祐春はテーブルの上に置いてあるプラスチックのカップに手を伸ばした。

 葵は砕いたココア味のクッキーが散りばめられたチョコレイトのフラッペを、アルテアは祐春に勧められた夏季限定の夏蜜柑なつみかんのソースがたっぷりかかったバニラ風味のフラッペを頼んでいた。一番乗り気でいた祐春は抹茶に生クリームをたっぷりつけるように指定し、さらにその上にシナモンパウダーをかけていた。どれもひんやりと冷えていて、買い物で出歩いたために熱く火照っていた身体には丁度良かった。葵は楽しそうに話している二人を横目にフラッペを口にする。


「葵さんもよく、こういうところに来たりしていたんですか?」


 アルテアは葵の骨張った手に触れ、彼の視線を自身に向けてから静かな声で尋ねた。葵がゆっくりとつむがれる彼女の唇の動きを読むと、静かに答えた。


だぁぶ、あえぃだいぶ前に

「だいぶ前に、ですか」

「あれ、五年も一緒にいるんだからアルテアちゃんと来たことくらいあるんじゃないの?」

ぅ、えあとぁ、こぃうとぉろに、ごなぁいアルテアとはこういうところに来ない

「ふうん。アルテアちゃんだって来たかっただろうな。流行りに無頓着なお前とは違って年頃の女の子なんだぜ?」


 少しは気を使ってやれよ。と祐春が葵の腕を叩いた。それを葵はひと睨みするとそのまま瞳をアルテアの方へと向けた。彼女は寂しい笑みを浮かべてこちらを見つめている。そのことに祐春も気が付いたのかどうしたのか尋ねれば、彼女は少しだけ言葉を詰まらせた。


「もしかして、アルテアちゃんこういうところに来たことないの?」


 初めて、と頬杖をつきながら祐春は彼女に尋ねる。言った後に無神経かと思ったものの好奇心には勝てなかった。彼女の言葉を静かに待っていれば、やはりアルテアは寂しげな笑みを浮かべながら口を開いた。


「何度か遠目で見たことはあったんですが、実際に入ったのは今日が初めてです。興味がないって言ったら嘘になりますが、入ってみる勇気もなかったんです」


 彼女のその言葉を聞いて祐春はやはり自分は無神経だと思った。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだ。アルテアは表情を暗くさせたものの、すぐに明るい笑顔を彼らに向けた。祐春は夏の温度で生温くなってしまったフラッペを、喉の奥へ流し込んだ。それがひどく熱に浮かされた気分を沈めるかのようにひんやりとしていた。


「アルテアちゃんはどこの国出身?日本も入ってそうだけど…それだけじゃなさそうだよね」


 祐春は先ほどと変わらぬ態度で尋ねる。やはり、好奇心には勝てない。祐春は彼女に申し訳なく思いつつも気になったことを次々と言葉にした。


「イタリア人と日本人のハーフです。でも、育ちはイタリアではなくてアメリカのスラム街なんです。あんまりこういうこと周りに言うと敬遠されがちなんですけど…」


 アルテアは笑ったままそう答えた。


「そっか、言いにくいこと言わせてごめんね。でも、スラム出身らしいけど日本語の発音すごく上手だね。どこかで習ったりしたの?」

「はい。スラムの生活が嫌で飛び出して、彷徨っていたところ漸く辿り着いたところが教会だったんです。その教会の神父さまはとっても優しくて、スラム育ちの汚い私でも受け入れてくれたんです」


 まるで模範解答のようだとひっそりと思いながらも祐春は質問を続けた。否、これは質問というより尋問に近いだろう。彼の好奇心という名の警戒心がそうさせているのだ。そのことに気が付いていないのは葵ただ一人だろう。彼だけは祐春がどんな風に、どんな声色でアルテアに質問をしているのかなんて聞こえてなどいないのだから。


「教会ってことは…アルテアちゃん、もしかしてシスター?」

「見習いでしたが少しの間だけ…でも、今は訳あってやめています」


 困ったように笑うとアルテアは、固く閉じた瞳を葵の方へ向けた。当の本人は関係ないと言いたげに、フラッペを飲んでいた。時折、クッキーが喉奥に引っ掛かるのか苦しそうに咳き込んでいる。


「祐春さんは今まで何をされていたんですか?」

「俺?別に大したことじゃないよ、仕事でちょっと各国走り回ってただけ。まとまった休みが取れたから久々に日本こっちに帰ってきたんだ」


 そうなんですね。とアルテアは表面だけの言葉を返した。それ以上深く問うこともせずに、目の前にあるフラッペに口をつける。


「そろそろ帰りましょうか?」


 アルテアの提案に葵が小さく頷いた。


「そうだね。これが飲み終わったら帰ろう」


 二人のやりとりを見た祐春はさも自分の家に帰るかのようにそういうと残りが少なくなったフラッペを飲み干した。

 家に着くとアルテアは畑に、葵と祐春は葵の仕事場と二手に分かれていた。

 脚立きゃたつに腰をおろした祐春が静かな声で葵を呼んだ。が、耳の聞こえない彼にはその声は届かなかった。もどかしげに首筋をくと彼の右肩を叩き、視線と意識をこちらへ向けさせた。葵がこちらを向くと祐春は静かな口調で尋ねた。


「彼女のこと知ってたの?」

ぁ、いが何が

「スラム出身だったこととか、シスターだったこととか色々だよ」

ぃらあい知らない


 葵は土を捏ねながら、祐春の言葉に返事をする。そんな彼の姿を相変わらずだなと思い、祐春は言葉を続けた。


「どうせお前のことだ。何も聞かないでいたんだろ」

ぉ、うだそうだ

「やっぱり。だからお前は駄目なんだよ。人が良すぎる」


 呆れたように笑うと、祐春は葵の癖のある髪へ手を伸ばした。学生の頃からの癖なのか、何かあると祐春は葵の髪を撫でる。何度かやめるように言ったが、彼がやめることはなかった。


「少しは警戒しろよ」

ぇい、あ平気だ

「何を根拠に言うんだよ」

ぃあ、あでの、ぇいがう、がぁる今までの生活がある


 葵の言葉に祐春が眉を寄せた。確かに今まで二人で生活してきたという五年がある。けれど、たかが五年だ。人を信用するにも信頼するにも十分すぎるほどの時間ではあるが、祐春はアルテアのことがどうも信用ならなかった。上っ面だけの女かと思ったがそうでもなさそうだ。先ほどのカフェでの受け答えがあらかじめ用意されていたもののように思えてならない。祐春は葵の髪から手を離すと彼はアルテアが先ほど置いていった麦茶を喉の奥へ流し込んだ。


「それ、売り物?」

ぃがう違う

「つーか、お前作品何か売ってるの?」

ぅっえない売ってない

「なんでさ。売ればいいのに。親父さんのよりもお前の作品の方が今の時代にぴったりな作品ばっかりだよ」


 今度は祐春の言葉に葵が眉を寄せる番だった。祐春はそう反応が返ってくることを承知して言ったのだろう。特に気にもせずに売ればいいのにと素直な気持ちを伝えた。


ぇ、んど、ぁ面倒だ

「面倒ってお前な…そういう問題じゃないだろう。いくら親父さんの遺した遺産と貯金があるからっていつまでも山奥に引っ込んで暮らせるはずないだろう」

「ぉえのお、うっえもべうに、なぁんの、どぐにもなぁない俺のを売っても別に何の得にもならない

「いやその逆で得にしかならねえだろ。金になるんだぞ、生きていくための資金だ。アルテアちゃんの生活費だってお前の財布から出てるんだろう」


 葵は眉間に皺を寄せ、不愉快だと言いたげに祐春を睨みつけた。なんとも思わないのか、祐春はじっと彼を見つめ返していた。


「少しでも足しにするつもりがあるなら売った方がいい。実際、注文や依頼は山ほど来てるんだろう?」


 その言葉に葵は是とも非とも答えなかった。葵のその反応に祐春はいつものことのように見つめているだけで、それ以上何も言わなかった。

 葵の手によって柔らかく練られた土が轆轤ろくろの上で形作られていく。ある程度の形になると、葵は糸を取り出し、下の方で丁寧な手つきで切り離していった。それを楽しげに祐春は見ていた。彼は元々何かをじっと見ていることが好きだった。人でも植物でも、何でも観察するのが好きだったのだ。だからこそ、葵と仲良くなったのかもしれない。


「今、作ってるのはつぼ?」


 脚立から落ちないように身を乗り出し、興味津々といった表情で祐春は尋ねた。葵は一瞬だけ嫌そうな顔をしたがすぐにあぁと言葉にはしなかったが頷いて見せた。

 葵はそっと隣の台に壺の形になった土を置いた。そして、新しい土を形作りしやすいように練り始める。それを飽きもせずに祐春はじっと見つめたままだ。


「次は何作るんだ?」

「さ、ら」

「皿、か。お前、皿作るの本当に好きだよな。学生の時からよく作ってたけど…もしかして、今もまだ一日一枚は皿作ってんの?」

ぃ、じが、ぁんだ、ん一番、簡単


 ゲホッ、と苦しそうに咳き込み、葵は口元を汚れていない腕で抑えた。それを祐春は慌てたように脚立から飛び降りると、今だに咳き込んでいる葵の背中を優しく叩いた。


「大丈夫か?土でも口ん中入ったか?」

ぇ、いき平気…」


 ひとつ苦しそうに咳をすると、葵は祐春の手を振り払った。葵は振り払った手を額に当てもう一度、平気だと言う。どう見ても平気そうには見えない、と言いたげに顔をしかめ祐春は口を開く。


「今日はこの辺にして休んだらどうだ?ついでに家で口の中も洗ってこい」

ぇいきだ、てぃってう平気だって言ってるまだ、やうまだやる

「キリがいいところでやめておけって。どうせ、一年中寝不足なんだろう。それじゃあ、アルテアちゃんだって心配するだろう」


 葵はアルテアの名を出されたら、嫌でも休むしかなかった。簡単に言うのなら彼女に心配や迷惑をかけたくないのだ。彼はそれを察して、そういう言葉を言ったのだろう。葵はなんて狡賢ずるがしこい男なのだろうと言いたげに彼を睨みつける。


「はい、立って、そんで歩いて」


 祐春に指示されながら立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。その姿は傍から見れば操り人形マリオネットのようだ。


「葵さん?」


 仕事場の引き戸をゆっくりと開いた先には不思議そうな顔で、葵のことを見つめているアルテアの姿があった。といっても彼女の瞳は硬く閉じられ、視力は失われてしまっているのだが。


「もう今日のお仕事は終わりですか?」


 手にはかごいっぱいに採れたての野菜が詰まっており、顔や身体のあちこちには泥がついている。そんな彼女はやはり、不思議そうに葵に尋ねた。葵が日が昇っている時間に仕事を切り上げ、家に戻ろうとしているのだ。こんなこと滅多に起きることではない。アルテアは小さく右に首を傾げた。


「珍しいですね、こんな時間にお仕事を終わらせて家に戻るだなんて」

「そうなんだよ。話が盛り上がりすぎて仕事にならなくてさ。そんなら、家の中で酒でも飲んで話そうかってなったんだよ」


 祐春の言葉が本当なのか尋ねるようにアルテアが葵に視線を向けた。葵はその視線に静かにそうだと呟いた。それを聞いたアルテアは葵、祐春という順で顔を交互に動かし、暫く間を置いてからわかりましたと言った。


「でも、まだお酒を飲むには早い時間ですよ。お茶を用意しますね。葵さんのお部屋に持って行けばいいですか?」

「あぁ」


 笑顔で頭を下げると、アルテアは一人で家の中へ上がった。

 葵の部屋へ入った瞬間、祐春は目を飛び出してしまいそうなほど丸くさせ、大袈裟なくらいなまでに大きな笑い声をあげた。あまりにも昔とは違う葵の部屋に笑いを堪えられなかったのだ。葵は何故自分の部屋を見て祐春が笑うのか理解できなかったし、そんな彼に対して何か文句を言うのも面倒だしだるいと思った。しかし、このまま何も言わないでいるのもしゃくだ。ひとまず、祐春の背中を思いっきり蹴飛ばし、気を紛れさせると自分は机の前にある椅子に腰掛けた。


「本当にこれ葵の部屋?あの葵の?」


 けらけらと笑う祐春の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。


「昔は美術雑誌やら骨董品こっとうひんやらで散らかり放題だったのに、こんなにもまあこじんまりとさっぱりとして」


 そう言った祐春の視線の先にあるのは白と黒のシンプルなデザインの机と椅子のセットと使い古されたであろう洋服タンスに、それなりの数の本が積み重ねられている本棚。葵の部屋にあるのはたったそれだけだった。


「お前、随分ずいぶんと物が減ったな」

ぃつよう、ぁいてげんお、もおだぇ必要最低限の物だけ

「置いてるってか?本当にあの学生ん時から比べると…」

ぉ、えうらぃが、ふづうこれくらいが普通


 それにしたって少ないよ。と笑う祐春に葵はむっとしたようにそっぽを向いた。

 そもそも学生時代は思春期特有のこだわりがあったわけであって、成人し三十路みそじも近くなっている今では興味あるものとないものは当時とは異なってくる。それに祐春が知る頃は母が早くに亡くなり、父と男二人の生活をしていたのだ。葵と父は互いに興味のあるものにはとことんのめり込んでいくタイプだった。だから雑誌や、コレクションが増えていくばかりだったのだ。父が出先の事故で亡くなると同時に彼がコレクションされていたものは次々と処分されていった。少なくとも葵にとって父親の存在はうとましかったし、何より仲が良くなかった。

 そういえばアルテアと住み出したのは、丁度父が亡くなってからそんなに日数が経っていない日だった。そんなことを頭の隅で考えていると襖を叩く音が聞こえた。


「葵さん、お茶を持ってきました」


 襖の近くにいた祐春が開けてやればアルテアがどうぞと柔らかく微笑みながら、お盆を差し出した。お盆の上には葵の作った湯呑みと二つずつ乗っていた。湯飲みの中身は麦茶のようだ。


「ありがとう、アルテアちゃん。グッドタイミング。丁度、喉乾いてたんだよ」

「それは丁度よかったです」


 差し出されたお盆を受け取りながら答えた祐春にアルテアがほっとしたように答えると、彼女は何かあったら台所へ来てくださいねと言い残して葵の部屋を後にした。


「本当、アルテアちゃんってよくできた子だね。お前とは本当に大違い」


 祐春はにやりと口角を上へあげながら葵を見つめた。それを葵は両手の人差し指の指先を両耳にあてて、捩じるように回した。うるさいと手話で答えれば祐春はお盆を持って葵に近づいた。


「うるさいとはなんだよ、うるさいとは。普通、部屋っていうのはこういう感じのを言うんだよ」


 そう言いながら祐春は着流しの左の袖口に手を突っ込むと、シルバーのスライド式の携帯電話を取り出した。彼の持つ携帯は新しく出たばかりの機種のようだ。葵は初めて見るその形に目を丸くさせ、少しだけ興味津々に見つめていていた。


「これこれ!これが普通の男の部屋だよ」


 携帯電話の画面に映しだされていた写真は、祐春の部屋で彼とグラマラスな女性が二人で仲よさげに写ってるものだった。それを見た葵は呆れたような顔をしながら両手をグーにして、胸の前で上下に少し離して置いた。それを左右に引き離すと同時に両手を開いた。


「お、お前、だらしないって…酷いこと言うなよ!しかも、さっきから手話ばっかりやめろ!せめて指文字にしようぜ?そっちの方がまだ覚えていられるし」

「ぃ、や」

「じゃあ話せよ!」


 葵が話せることを知っているから祐春はそう言った。わりと要領がよく物覚えがいい祐春でも手話を全て覚えることは難しかった。葵と会話をするためにいくつかは覚えたがまだ、指文字の方が手話よりも簡単で祐春は楽だった。小学生の頃、ローマ字を覚えるのと大して変わらないと彼は学生時代に言ったことがあった。寧ろ、そっちを覚える方が大変だろうと葵は思ったが、その言葉が祐春の優しさだとわかっていた彼は何も言わなかった。


「というか、これのいったい全体どこが何がだらしないっていうんだよ」

ぇや、いあ、ない家が汚い

「え?よく聞き取れなかった。もう一回言って」

きぁ、ない汚い

「汚い?どこが?」


 手話を使わずとも、葵は読唇術どくしんじゅつで相手が何を言っているのか読み取ることができるのだ。だから余計に手話を覚えようとしなかったし、使うこともしなかった。ある程度聞き取れる音にならって言葉にしてみればいいのだ。まあ、それを葵の父は酷く嫌っていたのだがそんなことはどうでもいい。わかってくれる人間ひとがいてくれるのだから。

 祐春がもう一度己の部屋を写していた携帯電話を見直してみるが、何度見ても自分的にはだらしなくとも、汚くとも思わない。何故葵にそう言われてしまうのかわからず、小さく唸り声を上げながらどこがだらしなく汚いのかを考えた。が、結局答えは見つかりそうにもなかった。


「何度見ても自分じゃ全然わからねえ。本当、俺の部屋のどこが汚いわけ?だらしないわけ?」


 元々、少し抜けている部分のある祐春だ。葵の言った言葉についてどんなに考えても答えが出るはずがなかった。仮に祐春が頭が良かったとしても無理な話だったのかもしれない。何故なら葵の言ったことは祐春の部屋のことをだらしがなく、汚いとけなしたわけではなく、彼自身を貶したのだ。女にだらしがない、汚いと言ったのだ。彼の部屋は綺麗だったが明らかに一夜限りの女だとわかる雰囲気の女と彼は映っていたのである。


「わかった。お前、俺の部屋じゃなくて俺自身のことをだらしないって言ったんだろう」


 葵はやっとか、と言いたげに息を吐くと静かに首を上下させた。それを見た祐春は、口をあんぐりと大きく開け、暫くしてから彼を睨みつけた。


「酷いやつだな。この写真のどこがそう見えるって言うんだよ」


 そう言うと祐春はごろりとたたみの上に転がった。畳独特の匂いが鼻を掠め、先ほど馬鹿にされたことなどどうでも良くなってしまうほど心地良かった。久しぶりに日本に帰ってきたのだと改めて実感する。祐春は目をゆっくりと閉じ、なあ、と葵に声をかける。葵がこちらに視線を向けたことを確認したうえで、祐春は声には出さず指文字を使って話し始めた。


「アルテアちゃんはいったい何者なんだろうね」


 またその話か、と言いたげに祐春を睨みつける葵。


「スラム出身で見習いシスターだったアルテアちゃん。彼女の掌にはタコができてたよ。普通の女の子ならできないものだ」


 そう指文字を使って言うと祐春はゆっくりと閉じていた目を開く。彼の薄茶色の瞳が葵をとらえると、鋭く細められた。


「俺はお前が心配だよ。何かあってからじゃ遅い。彼女のこと、一度調べてみるか?」


 お前が決めていい、とはっきり言うと祐春は両足を高く上げるとそのまま畳に向かって振り下ろした。その反動で飛び跳ねるように起き上がると、葵に背中を向けて胡坐あぐらをかいた。

 葵はというとどうしたものか、と考えていた。自分を心配してくれるのはとてもありがたいことだ。それくらいは葵にもわかる。だが、その心配でアルテアのことを調べてもらうのはどうなのだろうか。別に彼女のことを何も知らなくてもなんだかんだと五年もやってこれたんだ。今更、彼女のことを調べる必要があるのだろうか。葵の表情は徐々に険しくなっていく。そのことに気が付いたらしい祐春が困ったように首筋を掻いた。


「別に今答えを出さなくてもいい。いつか、何か起きそうな時にまた聞いてやる。その時には答えを出してくれればいい」


 そう言うと、祐春は顔だけを葵の方へ向け柔らかく微笑んだ。


「お話し中すみません。葵さん、稲瀬さん、少しいいでしょうか?」


 部屋の外から控えめな声が聞こえた。話題に上がっていたアルテアの声だ。突然の彼女の登場に葵も祐春も驚いたように身体を震わせたが、すぐに構わないよと一言声をかけた。その言葉にゆっくりと襖が開かれる。可愛らしいピンクの花柄のエプロンを身に纏ったアルテアが申し訳なさそうに、でも少しだけ嬉しそうな表情をして立っていた。


「どうしたの、アルテアちゃん」

「あの、お茶菓子と言ってはなんですが…これよかったらと思って」


 アルテアはおずおずとエプロンのポケットから饅頭まんじゅうを二つ取り出した。白と茶の饅頭には兎が描かれていて、とても愛らしいものだった。


「それどうしたの?静岡の方にある有名な店の饅頭だよね」


 胡坐をかいていた祐春は、饅頭を指差しながらアルテアに尋ねた。


「近所といっても、少し距離のある家なんですが藤塚のおばあちゃんが旅行のお土産だってこの前言ってくれたんです」


 にこりと笑うとアルテアは、葵と祐春の手を取り、その上にそっと饅頭を二つずつ置いた。男二人の手の上に可愛らしい兎の饅頭があるとは、なんとも言えない光景だ。現にそれを見た祐春は、大笑いをしているのだから。


「やばい、この絵面は笑しくてお腹痛い」


 そう言って腹を抱えて笑う祐春。葵とアルテアは何がそんなに可笑しいのかわからず、不思議そうに首を傾げて彼を見ていた。


不愛想ぶあいそうな葵がカワイイ兎の饅頭と似合わなさすぎる」


 葵は先ほど祐春にして見せたように手話でうるさいと言うと、彼の背中を蹴飛ばした。それを祐春は、笑顔から一変して不満そうに顔を顰める。


「なんか今日のお前、俺に対して失礼すぎだろう」

ぉ、あえ、だ、からお前だから

「俺だからいいって?うわ、最低!」

お、あえ、いぁい、い、わ、ぁいお前以外言わない

「え?なんて言ったの?もう一回言って!」


 面倒で手話を使わないで話すとこうなる。祐春は本当に簡単なものしか手話はわからない。難しいものをやれば、祐春が理解できないのは長い付き合いである葵にはよくわかっていた。まあ、だからといって手話を使わなかったわけじゃないのだが。


「お前以外言わない、ですよ」


 葵がもう一度言う前に、アルテアが答えた。思わず、祐春と葵はほぼ同時にアルテアの方を見た。彼女はにこりと笑って二人を見ている。


「ア、アルテアちゃんよくわかったね。長い付き合いの俺でもすぐにはわからなかったのに」

「葵さんとは言葉でしか感情を伝えることができないから、なるべく聞き逃さないように気をつけているんです」


 彼女の言う通りで葵とアルテアの会話といえば、言葉しかないのだ。何度か瞬きを繰り返し、祐春はそっかと小さく呟いた。


「それしかないなら、わかるはずだよね」


 当たり前と葵が両手に親指と人差し指を合わせて、左右に素早く二回ほど開いた。祐春はいったい何が当たり前なのだと言ってやりたかったが、それは面倒だと思ったのか彼はふうと息を吐いてから自身の掌の上に乗っかっている兎の饅頭に視線を向けた。


「それでこれ本当に貰っちゃってもいいの?」

「はい。まだいくつかあるので…あ、もしかして足りませんか?もしそうでしたら持って来ますよ」

「いいよいいよ!そんなに食いしん坊じゃないから!」


 軽く腰を上げたアルテアに祐春は慌て、すぐに止めに入った。


「俺たちにこんなにくれてアルテアちゃんの分がなくなっちゃうんじゃないかと思って」


 祐春が苦笑い気味にそう言えば、彼女はなるほどと頷いた。彼はアルテアを気遣って貰ってもいいのか尋ねたのだと理解したからである。


「そぉ、うえあ、ぉあえは、いうまえ、ごこに、ぃうつおりなんあ?そういえばお前はいつまでここにいるつもりなんだ?

「え、暫く居候させてもらおうと思ってきたんだけど…駄目?」

だ、えあ駄目だ

「俺さ、親父もお袋も早くに死んじゃってるしさ。仕事の拠点地がアメリカって言うこともあって実家を売り払っちゃってて、今日本に住むところがないんだよ。な、親友の一大事だぜ?頼むよ!」


 両手を合わせ目をつむって家主である葵に頼み込む祐春。そんな彼の必死な様子を感じ取ったのか、アルテアはいいですよ、と言ってしまう。葵はその言葉に顔を顰め、祐春は歓喜に満ちた表情をした。


「流石、アルテアちゃんは優しいねえ。同居人の彼女もこういってるんだし、いいよな葵」


 葵は面倒くさそうに息を吐いた。彼はアルテアが良しとしたらそれ以上のことは言わないのだ。一言で言うのなら葵は彼女に甘いということだ。

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