Episode01

第2話

 憎たらしいほど揚々ようようと輝く太陽を睨みつけてから、虎門葵とらかどあおいは古びた玄関の戸に手をかけた。建付けの悪い引き戸はがたがたと大きな音を立てながら開いた。戸が開かれると裸足はだしで床を走る音ともに短く切り整えられたブロンドの髪を揺らしたアルテアが現れた。


「葵さんおかえりなさい」


 ひらりと片手を上げ葵は、家の中へと上がる。彼の仕草はアルテアには見えてはいなかったが、彼女は微笑んだまま葵の側へ駆け寄り、今日の仕事の成果を尋ねた。


うぉ、き、でぇ、たうまく出来た

「そうですか。それは良かったです。あっ、そうそう、今日お買い物行き忘れたのであとで一緒に行ってくださいね」


 そう言って笑うアルテアに、葵は頷くとそのまま居間の方へと歩を進めようとした。


「手、洗ってから居間に来てください。葵さん、泥だらけでしょう」


 アルテアは頬をりすのようにまるくふくらませながら、葵の骨張った手を取り洗面所の方を指差した。目が見えないと言うのによくもまあ、手が取れたものだと感心しながら葵はわかったと口を動かし、洗面所の方へ足を出した。

 葵とアルテアが出会ったのはもう五年も前のことになる。まだ、葵がこの家に住み始めたばかりの頃のことだった。スーパーへ行く時に使う路地裏で倒れていた彼女を見つけたのが始まりだった。行く当ても、何の荷物も持たない彼女を自宅に置いておくと決めたのは意外にも葵だった。

 当初は事情を知る医者と、彼らによって呼ばれた警察にやめたほうがいいと制止されたが、葵が陶芸家でその助手という形で雇うと言い出したのである。彼自身、何故ここまで見知らぬ女にしてやるのか自分でも不思議で仕方がなかったが、嬉しそうに微笑んだアルテアを見てその考えはどうでもよくなった。


「葵さぁん、買い物の前に麦茶用意しておきましたよ。喉乾いたでしょうから、飲んでから行きましょう」


 言葉の間を伸ばしながら、居間にいるであろうアルテアは大声を出して洗面所へやっとついた葵へと話しかける。葵は返事はせずにさっさと手を洗い、うがいをして居間へと向かった。居間では買い物へ行くための葵の洋服と、彼用の湯飲みになみなみと注がれた麦茶が用意されていた。アルテアは取り込んだ洗濯物を畳みながら、どうぞと一声かけてから話を続けた。


「今年のきゅうりはそろそろ収穫できそうですか?」

へ、きぃひぉできそう

「え?もう一回言ってもらえますか?」

「で、き…」

「あぁ、できそう、ですね。それじゃあ、今年もきゅうり祭りですね」


 目の見えないアルテアと、耳の聞こえない葵。二人は会話などほぼと言っていいほど、成り立ってはいない。互いが意思疎通するための部位が欠けているのだから。

 葵は耳が全く聞こえないというわけではない。先天性難聴せんてんせいなんちょうの中度と高度の中間くらいである。なのである程度は聞こえるから日常生活をするうえでそこまで手話を必要としたことがなかった。といっても、葵が嫌がってほぼ手話を覚えようとしなかったというのが一番の理由だが。

 なので葵とアルテアの会話は彼が口の動きを読み取り、それに彼女が返事をする。返事も返事で手話ではアルテアは目が失明しており全く見えないので伝わらないし、文字も見えないから同じだ。そうなると、葵にできるのは言葉で伝えるしか手段はない。

 一方のアルテアは、葵の言葉だけが彼との会話になる。葵のように目さえ見えればなんとかなったかもしれないが、その肝心な目が見えないのだから仕方ない。耳だけを頼りにしていくしかない。元々、勘のいい彼女は葵の発音の崩れた言葉でもきちんと聞き取って返事を返してくれる。それは非常に葵にとってはありがたかった。

 葵がとんとんとちゃぶ台を二回叩いた。これはおかわりの合図だ。暮らし始めてすぐの時に彼女と決めた合図の一つである。合図らしいものはいくつか決めたが、ほとんどそれが実行されることはない。何故なら、決めた本人である葵が面倒くさがりだからである。


「麦茶のおかわりですね。コップここに置いてください。今、淹れますから」


 柔らかく微笑んだアルテアは、葵に指示した場所へ湯飲みを置かせると器用にペットボトルから湯飲みへと麦茶を注いでいく。湯飲みいっぱいになるかならないかのところで注ぐのをやめるアルテア。本当は目が見えているんじゃないかというくらい彼女は器用である。


「美味しいですか?」


 ごくごくと喉を鳴らしながら麦茶を飲んでる葵に、アルテアは楽しそうに尋ねた。葵はそんな彼女を見つめ、湯飲みを持っていない方の手でアルテアの柔らかい髪をそっと撫でた。


「ふふ、くすぐったいですよ…」


 ブロンドの髪を撫でていたかと思うと、そのまま彼女をグイッと己の方へと抱き寄せる。彼女の白く細い首筋へ顔を埋め、発音がしっかりとしない言葉でアルテアの名を呼ぶ。葵の言葉にアルテアは静かにはい、と答え彼の背中に手を回した。


「…葵さん、今日は甘えたさんなんですね」


 くすりとアルテアがおかしそうに笑った。


ぃ、てあアルテア

「はい、ここにいますよ」

ぉ、あに、いえそばにいて


 二人は別に付き合っているわけでもないが、こうやって抱き締め合うのは当然のようにしている。なんの抵抗もなく受け入れてくれるのはアルテアが外国人だということもあるだろう。

 元々、虎門葵という男は甘えたがりで寂しがりな性格をしている男であった。それを素として、人前に出さないのは厳しい父親の影響もあったのだろう。葵と同じ陶芸家の父はいつも葵のことを叱ってばかりだった。いくら点数の良いテスト結果を残そうとも、作品を作ろうとも、ボランティアに参加しようとも葵の父は決して彼自身を見てくれることはなかった。病で倒れ、亡くなってしまった葵の母であり、彼の妻である女の面影を探すように陶芸作品を作り続けていた。

 そんなことを思い出しているといつの間にか、葵の瞳からは涙が溢れていた。そのことに気がついたらしいアルテアが困ったように葵さん、と彼の名を呼んだ。


「お買い物に行きましょう」


 すん、と鼻を鳴らしてから葵はアルテアを抱き締めていた腕を緩め、湯飲みに一口分残っている麦茶を喉の奥へと流し込むと、ゆっくりと立ち上がった。流れる動作でアルテアに向かって手を差し出せば、彼女はその手を取りゆっくりと立ち上がる。

 葵の逞しい腕につかまりながら、アルテアはスーパーの中を歩いていく。白杖がないのだから仕方がない。真剣に何を買うか悩んでいるアルテアの隣ではつまらなさそうな顔をしながら、葵は片手でカートを押していた。


「ちょっと、斗和とわ!あんたいくつドーナツ買うつもりなのよっ!」

「だ、だって佐助がいいって言ったから…買ってるだけだし……蛍だって、紅茶のティーパックいくつ買うつもりなんだよ!そんなに要らないだろ…」

「私はいるのよっ!あんたはどうせ、食べないうちに賞味期限が切れるに決まってるわ。これとこれ、あとこれも置いてきなさい!」

「あっ、勝手に決めないでよっ!」

「こら、姫さんたち喧嘩しないのっ!」


 スーパー内は今日も賑やかだった。アルテアは楽しそうに騒いでる兄妹の話し声を聞きながら、葵と菓子パンコーナーを通り過ぎていく。通り過ぎ、兄妹たちの姿が見えなくなるとアルテアがこっそりと内緒話でもするかのように葵の耳元に唇を寄せた。


「あの子たちいつもいるのよ。お兄さんとお買い物出来るなんて羨ましいわ」

ぁ、らえ、は、ぉ、れと…アルテアは俺と

「勿論、葵さんとお買い物出来て私嬉しいわ。きっと周りの人からみたらとっても羨ましいに違いないはずよ」


 アルテアは葵の腕から手を離し、骨張った手を優しく取り指と指を絡ませた。その仕草に葵は言葉を詰まらせるような、苦虫でも潰したかのようななんとも言えない表情を浮かべながら見つめていた。

 彼女に触れられるのは嫌ではない。寧ろ、もっと触れて欲しいとさえ思っている。だが、時折胸を突くような痛みと警告音のような耳鳴りは一体なんなのだろうか。葵がぼうとした目つきで宙を見上げていると、くいと繋がれた手が引っ張られた。


「ねぇ、葵さん。今日のお夕飯何が食べたい?葵さんの好きなものを作るわ」


 そう言われ葵は己の好きなものを思い浮かべる。やはり、昔から好んで食べていた大根と人参を酢で和えたものだろうか。首を傾げながら、もう一度食べたことのあるものを考えた。


「そんなに悩まなくてもいいのに」


 苦笑いを浮かべながら、アルテアは葵を見上げる。


「思い浮かんだら教えて、ね?」


 そう言うとアルテアは目的の場所であったジャムなどの置いてある一角で立ち止まった。

 色とりどりのジャムが可愛らしい小瓶に詰め込まれ、それぞれの名前とフルーツのイラストがプリントされたシールが貼ってある。アルテアにはそれがなんなのかはわからなかったが、一つひとつを手で確かめ小瓶を鼻の近くへと持っていく。スン、と鼻を鳴らし瓶越しに微かに香るフルーツが甘く煮詰められた匂いを、確かめていった。


「葵さん、今回はシナモンと林檎のジャムにしましょうか。パンに塗ったらとっても美味しそう」


 小さくはにかみながら、小瓶をカートの上に乗っているカゴに入れアルテアは、次はと必要なものは何かを考え出した。


ぅ、るて、あアルテア

「はい?」

つく、ぅもの、なら、ぁんで、もぃい作ったものならなんでもいい


 葵の言葉にきょとんとした表情を見せたアルテア。彼は拙いながらもアルテアの作ったものならばなんでもいいと言ったのである。


「なんでも、いい……お夕飯のことですね、うーん、なんでもいいですか。その答えが一番困るんですよ」


 昨日のおかずの残り物があるからおかずはそれでいいとして、と頭を悩ませるアルテア。その隣ではやはりつまらなさそうにカートの取っ手に頬杖をついた葵がいた。暫くしてアルテアが決めました、と言えば葵は頬杖をやめ取っ手に骨張った手を置き、ぐっと前へと押し出した。


「パスタにしましょう。きのこのパスタですよ」


 茸、ということは彼女が味付けるのだろう。葵はアルテアに何も聞かずに茸の売っている方へカートを押し始めた。


「あ、葵さん!その前にパスタの麺を買わなくちゃ!確か、家にある分じゃ葵さんには足らないはずですから」


 見た目に反して大食らいの葵のことを考えると、家に残っている分じゃ心許ない。自分の目の前をさっさと歩いていってしまう葵に一声かけ、アルテアは慌てたように彼の腕に自身の腕を絡ませた。こうすれば彼が離れることも、どこかへ行ってしまうことはないと彼女は知っているのだ。

 買い物を終え、自宅に着くと夕食までまだ時間があった。早めに作るとしても早すぎるくらいだ。

 二人は居間でテレビをつけ麦茶を飲んでいた。耳の聞こえない葵と目の見えないアルテア。テレビなどつけていても何の意味も持たない。音声と映像、両方があってからこそのテレビなのだ。


「あっ…」


 葵がつまらなさそうに瞳を閉じようとした時、アルテアが小さく声を漏らした。偶然なのだろうか。葵には聞こえもしないはずなのに、その声に気がつきアルテアの方へゆっくりと顔を向けたのだ。テレビの中では明るいキャスターがアメリカの自由の女神像をバックに、歴史について嬉々として話している姿が見えた。


ぉう、か…した…か?どうかしたか?


 彼女の反応に不思議そうに首を傾げながら葵はそう尋ねた。


「あぁ、いえ、なんでも…ないですよ」


 そう答えたアルテアの声は少し震えていたが、耳の聞こえない葵にはそれはわからなかった。ただ彼女がなんでもない、と言ったということ以外は何も伝わってはいなかった。

 アルテアは眉間に皺を寄せ、引きつった笑顔を葵へと向ける。なんでもない、なんて嘘だということは葵には胸が痛いくらい彼女の表情から伝わっていた。しかし、問い詰める言葉も権利も彼にはない。それほど彼女との関係は浅く、深入りすることはできないのだ。ひとつの防波堤とでもいうのだろうか。葵は喉の奥まで出かかった言葉を飲み込み、何も見なかったことにした。それが彼女に対して葵が唯一してやれることだった。


「そろそろ、お夕飯の支度して来ますね」


 それを察したであろうアルテアが重たそうに腰を持ち上げ、ゆったりとした動きで居間を出て行く。そんな彼女の小さな背中を葵は見ていることしかできなかった。

 台所で規則正しいリズムでキャベツを牛蒡ごぼうと人参を切り刻んでいくアルテア。時折何かを思い出すような顔つきで手を止めるが、すぐに目の前の作業に戻る、を何度か繰り返している。先ほどテレビに少しだけ聞こえた言葉。彼女はそれが気になって仕方ないのだ。思い浮かんでは消そうとするものの、やはり、そう上手くは消えてくれそうにない。アルテアは重たげに息を吐くと、動かしていた手を止めた。


「何年経っても、あの時のことはまだ忘れることはできないのね」


 アルテアはひどく小さな声で呟いた。そして、固く閉じられた目元へ手を当てる。縦長に入った痛々しい傷跡を撫でるように触れ、彼女は小さく息を漏らす。つんと鼻を刺すような熱い痛みと共に、喉の奥が引きつり低い音を鳴らした。熱い痛みに耐えきれなくなったのか、大粒の雫を溢しながらアルテアは嗚咽を零した。


「エイダ…」


 彼女の柔らかな唇から零れ出した名前は、虚しくも静寂に掻き消されてしまう。いや、寧ろそれでよかったのかもしれない。耳の聞こえない葵に自分の情けない声を聴かれずに済むのだから。しばらくしてアルテアは落ち着きを取り戻し、夕食作りを再開した。

 よく見なければ気づかないほど目の腫れが引いた頃、アルテアは夕食を葵と一緒にちゃぶ台に運んでいた。といっても、ほとんどが目の見える葵が運び終え、彼女は箸と小皿を運んだだけなのだが。


「葵さん、美味しい?」

ぅ、あい美味い

「そう、それなら良かったです」


 丸いちゃぶ台には、シメジ、エノキ、舞茸などの茸が入ったパスタに、牛蒡と人参のキンピラ、細かく切り刻まれたキャベツが並んでいた。

 葵は器用に箸でパスタの麺を一口分に摘むと口へと運んでいく。そんな彼の様子を動きの音で確認したアルテアは、柔らかく笑むとフォークでくるりと巻きスプーンを下で支えるようにしてパスタを口に運んでいった。目が見えないのにそうやって器用に食べることができるのは育ちが良かったからなのだろうか。葵はそう頭の片隅で思いながら、彼女特製の茸のパスタを口に運んでいく。


さ、っき、ぁるてあさっき、アルテア

「はい?」

ぁ、いえあ?泣いていた?

「えっと…」

な、い…ぇあ泣いていた


 葵はパスタを飲み込むと、彼女の肩を軽く叩き話しかけた。といっても、彼の発音の崩れた言葉はなかなかアルテアには通じはしないのだが。何度か単語を口にするが、それでもアルテアにうまく伝えることができない。面倒になったのか葵はアルテアの手首をやや乱暴に掴み、己の口元へと運ぶ。


「葵さん?」


 唇を彼女の手首に押し当てゆっくりとした動きで先ほどと同じ単語を紡げば、くすぐったそうにアルテアが葵の名前を呼んだ。


「えっと……アルテア、さっき、泣いてた…?」


 そこまで言ってアルテアはピタリと身体を強張らせた。葵が台所での出来事を見ていたのである。彼には聴力がほぼないのだから、自分の泣き声が聞こえたわけではない。アルテアは焦ったように何を言っているんですか、と呟いた。


「な、泣いている、だなんて…そんなわけないじゃ、ないですか」


 言葉を濁らせながら、葵の言葉を否定した。


ぇ、もでも…」

「ねぇ、葵さんこの話やめませんか?」


 アルテアは声を震わせながらそう呟いた。彼女の声の震えは耳の悪い葵には当然伝わらない。でも、彼女がこの話題を避けたいと思っているのは触れている手首から伝わる震えから、アルテアの表情を見れば一目瞭然いちもくりょうぜんだった。ゆっくりと彼女の細い手首から手を離せば、アルテアが気まずそうに眉を寄せて微笑んだ。


わ、ぁがったわかった


 発音の崩れた言葉でそう言うと、葵は冷え切ったパスタと茸を箸で摘み口の中へと運んだ。少ししてからアルテアは震えたままの手でフォークを握り、小さな茸を刺し口の中へ押し込んだ。

 食事が終わり、アルテアは台所で後片付けを、葵は自分の仕事場で仕事をそれぞれやるべきことをしていた。

 葵はいまいち売れない陶芸家であった。葵の父も陶芸家であった。彼の父の作品はかなり注目を集めてはいた。そのため、その息子である葵にも世間の目は向けられていた。しかし、葵自体が自分の作品に興味関心がなかったのか、メディアからのインタビューや資産家からの依頼を断り続けていた。次第に彼の名を口にするものは少なくなっていた。虎門葵という陶芸家を知るものは口を揃えて言うだろう。父の才能を引き継げなかった欠落品だと。


「葵さん、麦茶持ってきました」


 土を柔らかくするために練っていると、滑りの悪い木で出来た引き戸を開けながらアルテアが入ってきた。葵は土をいじる手を止め、アルテアの方へ視線を向けた。彼女は夕食の時のような表情は見せず、いつもと変わらない柔らかい微笑みを浮かべていた。


「どうですか?調子は良さそうですか?」


 葵の近くにあるちゃぶ台にお盆に乗せてある麦茶を置いた。腰を折りながら葵の耳元で小さく問いかけた。あぁ、と唇を動かすと葵は土をいじる手をまた動かし始めた。

 ある程度の柔らかさになると葵は立ち上がり棚に置いてあった轆轤ろくろを手にし、先ほど座っていた場所に戻り土をその上に乗せ右に回した。器用な手つきで土を思うように操る葵の手は魔法のようだと、アルテアは彼と暮らし始めた頃言ったことがある。最もアルテアには目が見えないから葵がどのように土を操るのかは知らないのだが。


「今日は遅くまでやるんですか?」

こぇ、あ…できぁら、ねうこれができたら寝る


 そうですか、と答えるとアルテアは立ち上がり、麦茶の入った湯飲みの乗ったお盆を置いて葵の仕事場を後にした。

 一人残った葵は黙々と土と向かい合った。しかし思うような物がなかなかできず、何度かやり直しようやく完成した頃には日が完全に登り切っていた。

結局一睡もしなかった葵は、ようやく思った通りの形になった土を乾かすために棚に置くと汚れた体と手を洗うために家の風呂場へと足を運んだ。


「葵さん、おはようございます。結局寝ませんでしたね…夜更かしは体に悪いですよ」


 風呂場の扉を開こうと取っ手に手を伸ばしかけた時、勢いよく扉が開かれ葵と向かい合うようにアルテアが立っていた。頬をりすのように膨らませながら、葵を睨みつけている。どうやら彼女は昨晩、葵が寝なかったことを怒っているようだ。葵はどうしたらいいのかわからず、困ったように眉間に皺を寄せながら首筋をいた。


ごぇ、んごめん


 葵は何かに夢中になると周りが見えなくなる性格の男である。今日のように今までも何度か一睡もせずに作品作りに没頭していたことがあった。アルテアはそれをよく思っておらず、寝ない日があるとこうやって怒る時があるのだ。その度に彼は謝るが、それが口先だけなのはアルテアは嫌になるほど思い知っていた。


「本当にそう思っているなら、もうしないでください。お風呂、用意しておきましたからはやく温まってきてください。それと朝ご飯は何にしますか?」

な、んでぇ、も、いぃなんでもいい

「その答えが一番困るんですよ」


 アルテアは苦く微笑んだ。

 風呂に入った葵とは別にアルテアは台所で、朝食の支度をしていた。トントンとリズムよくキャベツを切っていく。細かく切られたキャベツを二皿分だけ残し、余ったものをタッパに入れ冷蔵庫の奥へ押し込んだ。代わりに卵を三つ取ると、二つだけボウルの中に割って入れ菜箸で空気を入れるようにしてかき混ぜていく。少し泡立った溶き卵の中に醤油を数滴垂らし、塩をひとつまみ入れまたかき混ぜていった。長方形のフライパンにサラダ油を薄くのばし、程よい温かさになると溶き卵をゆっくりと流し込んでいく。


「…また、失敗してしまったわ」


 左頬に手を当て、小首を傾げるアルテアの前には形が崩れ焦げ目のついているものが一つ皿の上に乗っていた。その隣には綺麗に丸い形で湯気の立っている目玉焼きが一つあった。


「卵焼きだけはどうしてもうまく作れないわ」


 目玉焼きの隣にあるものはどうやら卵焼きだったようだ。あまりにも形が崩れ、焦げすぎてしまっているためどう見ても卵焼きには見えないのだが。


「…味は問題ないんだけど、形づくりが難しいわ」


 味付けだけは上手くできたものの、形を整えることがアルテアには難しかった。それもそうだ。彼女は目が見えないわけだし、日本人ではないから元々卵焼きなんか知らないのだ。日本に来るまで住んでいたところで作っていたのは、形を整えなくても問題のないスクランブルエッグくらいだ。葵と住むようになってから卵焼きを知り、作り方を知ったのだ。それじゃあ当然上手くできるはずがない。彼女は己に言い聞かせるようにそう呟くと、失敗してしまった卵焼きを隠すようにラップで包み冷蔵庫の奥へ隠しこんだ。


「葵さんに見つからないようにしなくちゃ…」


 もし見つかってしまったら葵のことだ、断りもせずに食べるに違いない。いや、仮に聞いてきたとして駄目だと言っても食べるに違いない。葵は料理が失敗してようがしてなかろうが関係ないのだ。食べられるものなら何でもいい、そう思っているからだ。


ぁ、えてあアルテア


 冷蔵庫の扉を閉め、一息をついていたアルテアに追い打ちをかけるように風呂から上がった葵が話しかけてきたのだ。びくりと肩を二、三度揺らしてから固く閉じた瞳を葵の方へ向ける。そんな彼女に葵は不思議そうに首を傾げた。


「もう、上がったんですか。ちゃんと身体は洗ってきましたか?」

きょぉ、あ、だ、めあ今日は駄目だ

「あぁ、今日は洗剤は使えない日でしたか。後で背中に薬を塗ってあげますね」


 葵は敏感肌で、洗剤には弱い。そのため一日にちごとに洗う部位を分けていた。ボディソープは刺激が強すぎてヒリヒリと赤く腫れてしまうのだ。いろんなものを試してみたが、いまいち自分の肌に合うものが見つからない。まあ、ボディソープに対してそこまでの執着心はないのでいずれ見つかればいいと葵は思っている。そんなことよりも彼は気になっているものがあった。今さっき彼女が冷蔵庫の中に隠したものだ。それがいったいなんなのか気になって仕方がないのだ。


なぃ、あぅし、た?何を隠した?


 冷蔵庫を指差しながら葵は不思議そうに尋ねた。アルテアはもう一度肩を揺らし葵に視線を向けた。


「えっと、ど、どうかしましたか…?」


 自分でも笑ってしまえそうなほど下手な演技だった。声は裏返るし、言葉が詰まってしまう。はっきりと何かを隠していると言っているようなものだ。アルテアは葵から視線を外しながら、必死に話題を変えようとした。


なぃ、あぅし、た?何を隠した?


 彼は声を低くさせながら、もう一度尋ねる。どうやら葵はアルテアが返事をするまで、この話題から別の話にするつもりはないようだった。アルテアは諦めたように溜息を零すと、葵に笑わないか尋ねた。


わら、あな、ぃ笑わない


 葵がそう答えるとアルテアはふうとゆっくり息を吐き、心の決心をしてから冷蔵庫の扉を開けた。奥へ隠した卵焼きの乗った皿を手に取り冷蔵庫の中から取り出した。入れてからそんなに時間が経っていないせいか、まだ温かくて作りたてなのがわかってしまいアルテアは少し眉を寄せる。取り出した卵焼きを葵の前に持ってきて、ゆっくりとした動きで湯気がたち曇ってしまったラップを取った。もうここまで来たらやけだ、と言いたげにこれは卵焼きだとアルテアは葵に告げる。


たあ、ぉや、い卵焼き

「失敗したんです。葵さんには見られたくなくて折角隠してたのに…結局見つかってしまいました」


 もう知られてしまったのなら怖いものなど何もない。半ばやけくそになりながらアルテアは今までのことを全て話し始めた。それを葵は静かに聞いていた。


そ、ぇ、たぇるそれ食べる

「駄目ですよ!こんなに焦げてしまっていますし、私が後で食べますから…」

「あうぇ、が、へぃき、な、あ、おえも、へぇ、いお前が平気なら俺も平気

「そ、そうかもしれませんけど…葵さんには失敗したものを食べてほしくないんです。今度こそは成功させますから、その時まで待ってください」


 アルテアはあからさまに嫌そうな表情をして、差し出していた皿を引っ込めようとした。が、それを葵が許さなかった。彼女の細い手首を掴み、しまわれようとする卵焼きを引き留めた。


ぃ、あだいやだ

「話を聞いてください!」

き、ぉ、おえあい聞こえない

「葵さんったら!」


 葵は彼女の制止も聞かずに、焦げた卵焼きに手を伸ばし一欠片を手に取ると、それを迷うことなく口の中に放り込んだ。口の中には見た目通りの苦みと共に、ほんのりと醬油と卵の味がした。彼女が心配するほどの味ではないと葵は思った。だからこそ、彼は素直に美味いと感想を言った。


「そんなわけないです!形は悪いし、焦げてますし…きっと苦いです」


 確かに彼女の言う通りに目の前の卵焼きは形は悪いし、焦げている。食べれば当然苦みだってあった。それは否定しがたい事実だ。だが、葵の言った美味いという感想も事実である。彼の味覚が狂っているのかはさておき、兎にも角にもアルテアの失敗だと思っていた卵焼きは葵の口には合っていたし、見た目が悪く焦げてしまっているからといって食べられないものではなかった。葵としたらこれはこれでいいんじゃないかと思うが、彼女が納得しなければ何の意味もない。それにこのままこの話を引き延ばしても自分に何か徳があるわけというでもない。


「でも、葵さんは嘘つきませんからきっと本当に美味しいって思ってそう言ってくれたんだと思います。それでも私の気が済みません。だから、これは食べちゃ駄目です」


 そういうとアルテアはくるりと体を九十度回転させると、もう一度残りの卵焼きにラップをかけると慌てたように冷蔵庫の奥へしまい込んだ。


「葵さん勝手に食べたらわかるんですからね。絶対に食べちゃ駄目ですからね」


 語尾を強めながらそう言うアルテアに葵は不満そうに唇をへの字に曲げた。別にそこまでしなくてもいいだろうと言いたげな表情だったが、また何か言えば今度こそ彼女は食べさせてくれない。そうだ。もし機会があれば、彼女にばれないようにして食べてしまおう。それが一番手っ取り早くていい。葵は密かに心の中でそう思いながらも、口では納得したようにわかったと告げた。

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