Perdita di memoria -記憶喪失-

七妥李茶

プロローグ

第1話

紅葉の刺繍のつけられたバンダナを頭につけ、青みを帯びた癖のある黒髪を揺らし、瞳の下にくまを付け背中を丸めた男は路地裏でぐったりと横たわる少女にしてはだいぶ大人びている雰囲気のひとりの女を見つけた。行き倒れにでもなっているのか、彼女の顔色は悪い。例えるなら、そう生気をなくした死人のようだ。

 建物と建物の僅かな隙間から差す光が、女の髪を照りつけ、プラチナブロンド色の髪がまばゆいほどに輝いていた。しっかりと閉じられた両の目には痛々しい傷跡が一つずつつけられており、彼女が失明しているであろうと男は思った。

 男はじぃと女を見つめていたが、女が苦しそうにうなり声をあげ身をよじらせる。それを見た男はとりあえず病院に連れて行くべきかと思考を巡らせる。いや、しかし見知らぬ女を助けてやる義理など自分には何の得もない。が、放っておくことも男にはできなかった。彼は見た目以上に心の優しい男だったのだ。少し悩んでから、己よりもだいぶ小さな女を肩に担ぐと男はそのまま路地裏から出ていった。向かうのはこの近くにある病院だ。

 病院に運ばれた女はただの栄養失調と、身体の数カ所に打撲、捻挫があるだけで目立つほどの大きな怪我も病気も何もなかった。そのことにひとまず、男は心をほっと撫で下ろした。次に医者に女との関係を問われ、男は右肩を右手の指先で二回はらって関係ないと答える。


「あぁ、耳が聞こえないんだね」


その言葉に男は少しの間をおいてから二回ほど首を縦に振った。


「君の、おかげで、彼女は、もう、平気、だよ」


 ゆっくりと口を動かしながら、手を動かしていく。少しの知識でだが、医者は手話を知っていたし簡単なものなら使うことができた。男は不思議そうに首を傾げていたが、医者の言葉を何と無くだが理解できたのだろう。胸の前でわからない、と右手を左右に動かした。その動きに医者は苦く微笑むだけでそれ以上は何も言わなかった。


「先生、患者さんの目が覚めました」


 医者の後ろのカーテンが開き、看護婦が安心したような笑みを浮かべて現れた。


「そうか、今から行くよ。君も、来るかい?」


 看護婦の言葉に頷くと、医者は目の前にいる耳の聞こえない男に尋ねた。男は少し悩むふりをしてから、行くと口を小さく動かし座っていた椅子から重たそうに腰を持ち上げた。

 女は目を覚ましてすぐに、慌てたように辺りを見回した。といっても、彼女の瞳は視力を失っているため

目で見ることはできないのだが。

 すん、と鼻を鳴らし周囲の匂いを嗅ぐ。意識を失う前に嗅いだ臭い汚物などの臭いはなく、きつい消毒液などの薬品の刺すような匂いが鼻をかすめた。そこである一つの場所が思い浮かんだ。


「ここは…病院?」


 確かめるようにその場所を高いソプラノの声を部屋中に響かせた。彼女は手をパタパタと動かし自分の周りにある物を確かめる仕草を見せた。てのひらから指先にかけて柔らかい感触。これはきっと布団と枕だろう。その隣にあるのは少しぐにゃりした柔らかくもかたくもない、妙な感触がした。渦を巻いているそれがナースコールのコードであることに気が付くと女はやはり、ここは病院なのだと結論に至る。


「目が覚めたようだね」


 医者は優しく声をかけながら扉を開けた。


「…病院の方ですか?」

「あぁ、そうだよ。ここにいる彼は…あぁ、目が見えないんだったんだね。今私の隣にいる男性が君をここに運び込んでくれたんだ」


 そう言われ女は医者だと言う男の声がした方へ顔を向ける。そっと神経を集中さえてみせれば、ここに自分以外三人もの人がいることがわかった。そのうち二人は医者と看護婦であろう。もう一人は、医者の言った自分を運んだと言う男なのだろうか。女は首を傾げたまま、見えない目をそちらへ向けた。


「運んでくださってありがとうございます。私は、アルテアと申します。お礼をさせていただきたいのですが、貴方の名前を伺っても?」


 耳が不自由な男だとは知らず、アルテアと名乗った女は柔らかく微笑みながら男に名を尋ねた。

 聞こえないはずなのに男の耳にはアルテアの声が聞こえたように思えた。何度か瞬きを繰り返してから、唇をゆっくりと開き言葉らしきものを紡ぐ。


とあ、か、ぉう、い虎門葵


 男は言葉にならないまま自身の名を名乗った。医者には当然、発音の崩れている言葉で答えた彼がなんと言っているのか理解出来なかったが、アルテアには何故か理解することが出来た。男は確かに"とらかどあおい"と名乗ったのだと。

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