Episode06

第7話

 窓が一つもなく気が狂いそうなほど真っ白な部屋の中、まだ四つかそこいらの幼い少女が隅の方で静かに座り込んでいた。彼女の両足には小さな身体には不釣り合いな重たい足枷あしかせがつけられている。その枷は部屋の隅にくさりで繋げられ、この部屋からは出ることを許されていないようだった。よく見てみれば少女の大きな蒼い瞳は虚ろそのもので、感情の全てが失われたように思われる。


「No,0251、朝だ。早く支度をしろ」


 番号で呼ばれた少女はぴくりと反応を示すと、目の前に現れた白衣の男を瞳でとらえた瞬間、勢いよく飛び掛かる。そして、容赦なく男の首筋に嚙みついた。

 突然の彼女の行動と、あまりの痛みに男は絶叫する。男が驚いているうちに少女の歯が見事に皮膚を突き破ったのだ。生温かい血が首筋から、背筋へ、胸元へと伝い落ちていく。男は暫く大声で叫び続けていたが、そのうち喉を潰してしまったのか、粘りのある血を吐き出すと後ろ向きに倒れた。ごつんと頭蓋骨ずがいこつが地面にぶつかる激しい衝撃音がした。白衣の男は白目をむいて倒れたまま、身体を何度も痙攣させている。そんな男に構うことなく、少女は彼の上にまたがると小さな手を自身の首よりも太い首に添えた。そして、容赦なく力を込めればぎりぎりと気管が締まっていく音が聞こえた。意識のない人間を絞め殺すのは幼い少女にとってかなりの大仕事だった。しかし、白衣の男が意識を取り戻さなかったことと喉を潰したことが幸いしたのか。彼女は男をその小さな手で絞め殺すことができた。


「実験体No,0251が研究員Sを襲撃!研究員Sの死亡が確認されました!」


 ノイズと雑音の混ざった声で今起きたことを簡潔に報告する男の声が、白い部屋の中に響き渡った。嫌になるほど聞いた不快な声だ。慌ただしい足音が聞こえたかと思うと五人ほどの男たちが部屋の中に入ってくる。彼らの手には鉄パイプのように細長い筒状のものや、ポケットピストルと使い古されたであろう麻縄などが握り締められていた。


実験体モルモットを捕まえろ!襲われる可能性が高い。命を奪わない範囲での発砲を許可する!まずは自身の身の安全を第一に考えて動け!」


 リーダーらしき男が素早く指示を出すと、他の男たちは倒れた男に跨っている少女を囲んだ。少女は虚ろの瞳から、憎悪に満ちた瞳で彼らを睨みつける。白い部屋に中は妙な緊迫感で溢れていた。何を迷うことがあるのか。相手はまだ五つにもなっていない子供だ。リーダーらしい男が声を張り上げた。


「今だ!捕まえろ!死なない程度なら何をしたって構わない!」


 合図と共に男たちが少女に向かって走り出す。少女はそれをかわそうとしたものの、両足につけられた足枷が邪魔をして思うように動けなかった。それを狙っていたのか、一人の男が彼女の細い腕に注射器を突き刺した。彼女の身体が動けなくなるように、麻酔を打ったのだ。少女は顔から地面へと倒れ込む。何度か身体を痙攣させたが、すぐにぴくりとも動かなくなる。


実験体モルモットのくせに人間さまに楯突くとはいい度胸だな」


 少女を地面にうつ伏せに押さえつけられるのを見下ろしながらリーダーらしき男が鼻を鳴らした。それを彼女は恨めしそうに睨みつけると、赤く染まった唇を動かした。


「めねじはもるもっとなんかじゃない!」


 瞳から大粒の涙を零しながら何度も自分は実験体モルモットなんかじゃない、自分は人間なのだと少女は吠えた。


「哀れなやつだ。実の父親からメネジ天罰なんて名を貰っただけじゃなく、他の女の治療費のために売られるとはな」

「カーチェス!余計なことを言うんじゃない。実験体モルモットには不必要な情報だろう」


 一人の男の言葉にリーダーらしい男は不満そうに声をあげた。しかし、それに納得がいかなかったのか。もう一人の男はあからさまに不機嫌そうに顔を顰めた。


「だってそうじゃないか。既婚者のくせに旅行中に出会った女と浮気して、その女との間にできた子供を金のために売ったんだ。でもその女は死んだっていうじゃないか。折角、お前が売られたっていうのに残念な話だよな。全くこれほど愉快で笑える話はないぞ」


 涙を流していた少女の瞳が大きく見開かれた。その瞬間、男はにたりといやらしく笑った。彼は自分が他人よりも優位に立つことが何よりも好きだった。この施設にいる人間たちを見下し、さげすみ、いたぶることができるこの仕事は男にとってまさに天職だと言えるだろう。


「そうだ、お前の父親を奪った女の名前を教えてやろうか。“虎門雪羽とらかどせつは”だ。その息子の名前は”虎門葵とらかどあおい“だ」


 そう男が言った瞬間、彼の顔は跡形もなく吹っ飛んだ。何故なら、少女が吹っ飛ばしたのだ。先ほど打たれた麻酔よりも、自身に向けられた悪意よりもこの世の全てに対する憎悪が勝ったのだ。彼女は甲高い声で咆哮すると、目の前にいた男たち全員に襲い掛かった。

 部屋の中にいた人間も、応援に駆け付けた人間も一人残さず殺し終えた少女は、自分自身が何者で何故こんなところにいるのかわからなかった。ただ自分を苦しめた元凶である虎門雪羽とその息子を殺さなくてはと、深い憎しみだけが彼女の心を支配していた。

 そろそろ夜が明ける。常闇のような空は薄く明るみ、日が昇り始めたのかあたたかい光が窓の隙間から零れる。自身の冷たい手を溶かすようなあたたかみを他所に、アルテアは取り乱したように息を吐き、ソファに腰をおろしていた。

 キニートと些細なことで口論になり、彼はホテルを出て行ってしまった。すぐに後悔に胸が締め付けられたアルテアは彼のあとを追いかけはしたものの、残念なことに彼女は目が見えない。キニートを探すために必要な情報は何一つ持ってはいなかった。そのため誰かに尋ねることは当然できるわけもなく、彼女はすぐにきびすを返すと、大人しくホテルの部屋の中に閉じこもった。一人残されたアルテアには自分が拒絶した言葉を発したことを後悔することしかできなかった。


「このまま、キニートさんが戻ってこなかったらどうしよう」


 ソファに浅く腰を掛けながら、アルテアは頭を抱えた。関係ないと言ってしまった自分が悪いのだと、自分自身を責めているのだ。しかし、いくら自分を責めていても一度口にしてしまった言葉を取り消すことはできない。ゲームではないのだ。当然と言ってしまえば当然だろう。


「どうしよう、こんな時、葵さんや祐春さんたちなら…」


 両手で顔を覆い隠しながらアルテアは久しぶりにその名前を呟いた。名前を呼べばあっという間に思い出してしまう。何も知らないふりをしていたあの日々のことを、もう元には戻れないあの日々のことを。今頃、葵と祐春はどうしているのだろうか。案外、自分とキニートのことなど忘れて日本で楽しく二人で暮らしているのだろうか。それとも、自分たちを探そうと必死になってくれているのだろうか。一度思い出してしまえば、思い出すことをやめることができない。

 ぶっきらぼうで素っ気ないが本当は甘えたがり屋で優しい葵と、いつも明るく場を盛り上げては気遣ってくれる祐春。アルテアの脳裏には日本で過ごしたあの日々が焼き付いては離れない。目が見えなくとも、彼女にとっては充実したひとつの思い出であることに違いはない。

 葵を殺すためにわざわざアメリカから日本にやってきたアルテア。五年も一緒に過ごしていたのだから彼を殺す機会は何度もあった。それなのにどうして自分は葵を殺すことができなかったのだろうか。葵を殺そうとするたびに知らなかった彼のことを知る。そのたびに、アルテアの中にはいつも何か邪魔をする感情があった。それは殺意や憎悪とは違うあたたかくて、心地の良い感情だった。その感情がいつも邪魔をしては、アルテアに葵を殺すことをためらわせた。


「エイダ…私、貴女の仇を殺せないよ」


 首から下げていた十字架のネックレスをぎゅうと握り締めながらアルテアは呟いた。彼女の瞳に焼き付いて離れない彼女の笑顔を思い浮かべるたびに胸が痛くなる。どうしてこうなってしまったのだろう。思い出すたびにいつもそう自分に問いかける。何度も問いかけてはみるが、ちゃんとした答えを見つけることを彼女はできなかった。否、見つけてはいたけれどアルテアには受け入れがたいものだったから、目を背けていたのだ。


「私ったらおかしいわ。あなたのためならなんだってするつもりだったのに、あなたのためならなんだってできるつもりだったのに…」


 彼女の小さな呟きは乱暴に開かれた扉によって搔き消された。アルテアは慌てたように顔をあげると、大きな音をあげた扉の方へ走った。


「キニートさん…」


 変わらず十字架のネックレスを握りしめながら、アルテアは震える声で彼の名前を呼んだ。本当に目の前にいるのがキニートだと信じてやまない声色だった。微かに甘く、でも後味の悪くないキニートが好んで使う香水が彼女の鼻腔びこうを掠めていたのだ。もう一度、キニートの名を呼んで見せるが目の前の人物は口を開こうともしない。


「私、キニートさんのたいしてすごくひどいことを言ってしまいました。ここまで一緒に来てくれた人なのに…」


 ぽつりとアルテアが呟いた。


「でも、本当に理由は話せない…ううん、話したくないんです。キニートさんも知っているでしょう?私が本当はとっても臆病だってことを。だから、ごめんなさい。謝って許してもらえるとは思っていません。でも、本当にごめんなさい」


 ゆっくりとした動きでアルテアが頭を下げた。彼女の短く整えられたプラチナブロンドの髪が、後ろから差し込む光に反射して眩しいくらいに輝いていた。それをじっと魅入るように見つめていた。一晩中、考えていたのが、後悔していたのがばかばかしくなってしまうほどの美しさだ。こくりと喉を上下に動かすと、漸く目の前にいたキニートが口を開いた。


「…俺も、悪かった。無神経なこと言ったって、自覚もある。お前が謝る必要も、自分を責める必要もねえよ」


 そう言うとキニートは手を伸ばした。そして、何故かアルテアを抱き寄せた。華奢きゃしゃな彼女の身体は簡単な力でもゆらりと揺れ、すぐに体格のいいキニートの腕の中にすっぽりと納まってしまう。突然のことに驚いて声も出ないのか、キニートに抱き締められたままアルテアは動けずにいた。


「え、と……キニートさん?」


 漸く絞り出した声はアルテア自身も笑ってしまえそうなほど震えていた。ちらりと顔を上へあげれば、キニートの吐息が鼻にかかる。そのくらい自分たちが近い距離にいることを自覚すると、彼女の白い頬がほんのりと赤く染まった。

 互いに噛み合うことのない視線を合わせる。キニートの瞳に熱の色が帯びたかと思うと、彼は自身の骨張った手をアルテアの後頭部と細い腰に添え、慣れた手つきで顔を近づける。はあ、と二人の息が唇をくすぐったかと思うと、その距離はゼロになった。

 キニートによって重ねられた唇は触れているだけなのに火傷をしてしまいそうなほど熱くて、情熱的だった。アルテアの唇を舌先でいやらしくなぞっては、小さな音を立て吸い付く。何度も角度を変えてはついばむように喰われていく。必死に酸素を取り込もうと開いた隙間から己の舌を滑り込ませた。キニートの舌は逃げようとしているアルテアの舌を捕まえては甘く噛み付いては吸い付き、口付けをさらに深いものへと変えていく。


「ン、ふ…ぅ、あ…ん」


 目尻に涙を浮かべ、キニートの胸を弱々しく叩いたアルテア。酸欠寸前のところで漸く長い口付けから解放された。離された唇はアルテアとキニート、どちらともいえぬ唾液が混じり合い、銀色の糸が引かれていた。その糸は惜しむように途切れると、アルテアの唇に僅かに行為の痕をにじませた。熱に浮かされた表情で見つめながらアルテアはずるずるとカーペットの上に力なく座り込んでしまう。


「アルテア…」


 キニートは彼女の片腕を掴み、もう一度立たせると低く、甘く囁くと今度は優しく口付けた。先ほどのものよりも優しく、まるで陶器を扱うような口付けにアルテアは戸惑った。少し触れてはすぐに離れていく唇に物足りなさを感じてしまう。まるで媚薬びやくか何かで熱に浮かされているようだ。そう思った瞬間、彼女の脳裏にはアルテアと自分の名前を呼ぶ彼の声が聞こえた。縋りつくようにしがみついていたキニートの厚い胸板を押し、密着させていた身体を離すとアルテアは息を荒くさせながら俯いた。


「キニートさん、どうして、突然」


 言葉を途切れ途切れにさせながら、彼女はどうしてこんなことをするのかと尋ねた。そんな彼女の問いに対してキニートの答えは非常に単純で簡単なものだった。


「好きだから」


 キニートがはっきりと好意を言葉にすれば、アルテアは赤く染まった頬をさらに赤くさせると、野良猫が人間を見つけたかのような速さで部屋の奥へと逃げ込んだ。キニートとしては一世一代の愛の告白のつもりだったので、逃げられたことに不満を感じむっとした表情で自分も部屋の奥へと歩を進めた。

 早々に毛布の中に頭から足先まですっぽりと隠れたアルテアは、熱く火照った身体を震えながら先ほどキニートが言っていた言葉について考えだした。好き、すき、スキ。その言葉を思い浮かべるたびについさっきの行為を思い出してしまい、収めようとした火照りがぶり返してしまう。痛いくらいにどきどきと心臓を鳴らしていると、頭上から自身の名前を呼ぶキニートの声が聞こえた。


「出てこい。もうしねえから、顔見せろ」


 彼の言葉にアルテアは無理だと即答した。


「顔の熱引かないし、何より、こんな、突然…」


 声を震わすアルテアにキニートは眉を寄せた。


「だって、私たち、そんなことする仲じゃ…私…」


 アルテアにとったらすべてがはじめてだった。あんなに深く口付けられるのも、真っすぐと愛の言葉を囁かれるのもすべてはじめての経験だった。だから、こういう時にどんな表情をしてどんな言葉をかけたらいいのかアルテアにはわからなかった。勿論、それはキニートも同じだった。はじめて自分が好きだと想った相手に口付けるのも、愛を囁くのもはじめてだった。


「…悪い。その、本当はするつもりはなかった。でも、お前の顔を見たら、お前に触れたくなった」


 掠れるような声でキニートはそう言うと、アルテアが隠れている毛布に近寄った。


「もうするつもりはねえし、その答えなんて求めていないからよ。だから…早く顔を見せろ」


 切なげに名前を呼ばれ、怖々とした手つきで丸い塊になった毛布に触れるキニート。毛布越しに伝わる熱にアルテアが大袈裟なくらいに飛び跳ねた。反動で少しだけずれた毛布からは先ほどよりも落ち着いた表情をしたアルテアが顔を覗かせていた。しかし、一度火照ってしまった熱は冷めないのか顔は赤いままだ。

 キニートはごつごつとした男らしい手で彼女の髪を撫でる。癖ひとつない髪が指と指の隙間をさらりとすり抜けていく。その様子にキニートは少しだけ目元をほころばせ、何度も指通りのいい髪を撫でていた。


「お前の髪は柔らかいな」

「そんなこと、ないですよ…」


 恥ずかしそうに唇を尖らせ、頬を赤く染めた。毛布を掴んでいた片方の手を離すと、彼女はキニートのくすんだ色をしている銀色の髪に手を伸ばした。見た目よりも癖が強く、ふわふわとした触り心地にアルテアは小さく微笑んだ。


「キニートさんの髪はふわふわとしていて気持ちいいですね」


 彼女の言葉にキニートはぴくりと指の動きを止めると、気恥ずかしそうに視線を横に逸らした。


「やめろ、触るな」

「その言葉そのままキニートさんにお返ししますよ」


 まるで先ほどの口付けはなかったかのようなやり取りだ。決して噛み合うことのない視線を合わせると、二人はほぼ同時に笑い合った。

 翌朝、サンマリノの駅周辺でアルテアとキニートは食いつくように駅へ出入りする人々を見ていた。HOPEのボスだという女を探しているのだ。昨日アルテアがフィレンツェで聞いた話通りなら、その女はこのサンマリノに来ているはずだ。もし何か事を起こすのなら人の出入りが盛んな駅か、もしくは駅に続くための入り組んだ裏路地を使うはずだ、そう予想をつけて二人は張り込んでいた。


「それらしき人はいましたか?」


 アルテアは左隣にいるキニートに静かに尋ねた。彼女の問いにキニートはいないと答えると、メリエンダ・メディア・マニャーナ用に買ったパニーニをかじった。まだ購入してからそんなに気時間が経っていないせいか、パンは柔らかく具材の野菜はどれも新鮮でこれは美味いと素直に頷いた。キニート自身はイタリア料理のことはあまり詳しくないし、寧ろ好みではない彼だったがこれは食べれると思ったのだろう。黙々と咀嚼し、飲み込むを何度か繰り返せばあっという間にパニーニは彼の胃袋の中に納まってしまった。


「あっ!あそこ!」

「いたのか?」

「はい、いました!」


 彼女がそう答えると、キニートはパニーニが入ってた紙袋をぐしゃりと小さく丸め、カーキ色のカーゴパンツのポケットに無造作に突っ込んだ。


「ソイツはどこにいる?場所を教えろ」


 そこまで聞いたキニートはふと、妙なことに気がついた。

 視力を失い、目が見えないはずのアルテアがどうしてそこに女がいると声をあげたのだろうか。思わず、キニートは隣にいた彼女から距離をとる。万が一何かあったことを考えての行動だ。そして、恐る恐るアルテアの方へと視線を傾ける。そこには、彼女の首元に太い注射器を突き刺している女の姿があった。針は深々とアルテアの皮膚に食い込み、当の本人は気を失ってしまっているのかぐったりとした様子で女に支えられていた。その女をよく見てみればうなじから背中にかけてぱっくりと開いた洋服を身に纏い、堂々と首の裏にあるHOPEと書かれている刺青を見せびらかしていた。確かに情報通り首の後ろに刺青が入っている。


「ばあ。元気にしていた?」


 こめかみに右手の人差し指を当てながら、舌を出して笑うこの女こそがアルテアたちが探していたHOPEのボスであった。

 アルテアの過去はそれはひどいものだった。

 彼女の本名はメネジという。姓の方は彼女も、他の誰も知らない。彼女の母はメネジが四つの誕生日を迎えてすぐに死に、その後実父だという男に引き渡された。その男は所帯を持っており、男の妻が病にかかってしまいその治療費のためにとメネジは捨てられた。彼女が捨てられた先はアメリカ郊外にある研究所で社会的に認められていない不法な実験を繰り返す施設であった。

 実験所へ置いて行かれたメネジの扱いはもはや人間の扱いではなかった。人間でも、動物でもない扱いをされ、両足には逃げ出さないように足枷をつけられ、首には爆弾さえも埋め込まれていた。今なお彼女の身体には爆弾が入ったままだ。それを取り外すことは決して出来ない。取り外すにはパスワードを打ち込まなければならないのだ。彼女の身体に爆弾を埋め込み、取り外すために必要なパスワードを知る人物はもうこの世にはいない。まだ彼女がメネジであった時に殺してしまっているからだ。

 施設のものを皆殺しにしたメネジは今までのことすべてなかったことにし、記憶の奥底に全てをしまい込んだ。そして、六つになった時アメリカのスラム街でアルテアとして生きた。そのとき、一人の少女に出会った。その少女との出会いこそがアルテアの人生そのものを狂わした元凶でもあった。


「あなた、ここでは見ない顔ね。わたし、エイダっていうの。あなたさえよかったら、わたしたちにところに来ない?」


 そう、あのエイダだ。麻薬の密売や人身売買を行っているHOPEのボスとして君臨しているあのエイダだ。アルテアとはアメリカのスラム街で出会い、幼少期を共に過ごしていたのだ。


「アルテア、あなたはとても優しいのね」


 エイダは独特の話し方をする少女だった。彼女は滑らかかと思えば途端に、聞き取りにくい話し方をする。でも、そんなことは気にはならなかった。スラム街に住む子供たちは皆、何かしらの事情を抱え、何かしらが欠落している。


「わたしね、シスターになりたいと思っているの」

「シスター?シスターってあのシスター?」

「そうよ。シスターになってわたしたちみたいな辛い思いをしている子たちを助けてあげたいの。それがわたしの夢なの」

「すごく、とってもいい夢ね」


 アルテアはエイダは優しく、なんて心の広い人だと心の底から信じていたし、例えるなら何かの宗教の教祖のように心酔していた。普通の人間なら裏のある人間か怪しむが、アルテアはそれをしなかった。否、エイダがそうなるように仕組んだのだ。

 彼女は幼いながら人の心を操ることに長けていた。言葉を巧みに扱い自分自身に心酔させ、依存させ自身の夢のために利用しようと考えていたのだ。他の大人が見たら子供なのになんてずる賢いやつだと思い、その反面彼女の頭脳を羨ましがることだろう。エイダ自身もそう思われているに違いないと、過信していたくらいだ。


「エイダが殺された!三番街の方でだ!」


 そんなある日、アルテアの元に駆け込んできた少年が持って来た訃報は、突然すぎて現実味が欠けているように思えた。エイダが死んだ、そんなことがあるはずない、そう思いながらアルテアは走った。三番と呼ばれている区域の方へ。

 三番街と呼ばれる区域にやってくると肉の焼ける臭いと、錆びた鉄とガソリンの臭いがアルテアの鼻を刺激し、視界を覆うほどの黒煙に彼女と少年たちは包まれた。アルテアは顔を歪めながら、エイダがいるという場所まで進もうと歩を進めた。一歩、また一歩と前に進むたび、むせ返るほどの吐き気が襲ってくる。それでも彼女は前に進むことをやめなかった。自分自身の目で確認しないと、納得できないからだ。


「エイダ!」


 声を張り上げて友の名前を呼ぶが、返事はない。帰ってくるのはごうごうと燃える火の音と焦げた異臭だけだ。


「エイダ!どこにいるの?いるなら返事をして!」


 煙を思いっきり吸い込んでしまい、息苦しそうに咳き込みながらアルテアは必死に叫んだ。


「アルテア!ここだ!ここに、エイダがいる!」


 アルテアにエイダが死んだと教えた少年が、遠くで声を張り上げているのが聞こえた。アルテアは途中、小石につまづきながら彼の元へと駆け寄る。

 少年の腕に抱きかかえられているのは真っ黒になった人の形をしたものだった。よく見てみれば、ところどころに見覚えのあるものが転がっている。あれはエイダが身に着けていた服だ。趣味の悪い派手な柄の洋服を好んで着るのは、この辺のスラム街でエイダぐらいしかいない。ああ、その隣には彼女がよく首から下げていた十字架のネックレスが黒く焦げ付いているのが無造作に転がっているではないか。いや、まだそれだけじゃ信じられない。そう思ったアルテアだったが決定的なものを見つけてしまった。

 エイダには左脇腹から臍にかけて、ひとつの大きな傷があった。アルテアと出会うよりももっと前に斬りつけられたのだと彼女は語った。醜い傷だけど、自身にとっては人を助けるためにできた傷だから誇らしいとも語っていたのを彼女は鮮明に覚えていた。その、傷跡が黒く人の形をしたものに残っているのが、確かに見えた。

 アルテアはそんなことあるわけがない、あっていいはずがない。そう思って彼女を探していたが、アルテアの淡い期待は見事に砕け散った。目の前にいるのは紛れもなく、エイダで間違いないのだ。


「誰がこんなことを…いったい誰がエイダを殺したの?何のために?どうしてエイダなの?なんでエイダが死ななくちゃいけないの?」


 アルテアの瞳に激しい憎しみの浮かび上がった。何度も、エイダをこんな目に遭わせた人を殺してやる、そう呟いてはかろうじて人の形を保っている黒い塊を見下ろしていた。


「俺に、エイダのこと、教えてくれた、やつが言ってたんだ……”トラカド レン”ってやつの名前を…」


 ソイツがエイダを殺したんだろうって言ってた。そう、呟くと少年は声をあげて泣き始めてしまった。彼の瞳から零れ落ちる涙がコンクリートの地面を、エイダを斑点模様に濡らしていく。

 ”トラカド レン”、どこか聞いたことのある名前だ。アルテアはそう思いながらも、しっかりとその名前を胸の中に刻みこんだ。そしてこの時のことを、この憎しみを忘れないために、近くに落ちていた硝子ガラスの破片で戸惑うことも、容赦をすることもなく自身の左右の瞳を深く斬りつけた。硝子片の先は眼球まで届いており、鮮血が滝のように、まるで涙を流しているかのように溢れ出して止まらなかった。

 古い記憶からアルテアが目を覚ました時、あまりの眩しさに顔を顰めた。使い古されたベッドに横にされていることに気が付いたのか、彼女はうぅ、と小さく唸り声をあげながら身体を捩じらせる。アルテアはまるで石にでもなっていたかのように重たくなった身体を無理矢理動かして上半身を起き上がらせた。


「アルテア、目が覚めた気分はどう?」


 耳元のすぐ横で囁くように話しかけられ、アルテアは身を強張らせる。背筋が凍るような低く、ゆったりとした特徴的な話し方。聞き覚えのある声にゆっくりと目を開いた・・・・・のだ。彼女自身どうしてその行為ができるのか、不思議で仕方がなかった。驚いたように何度も瞬きを繰り返し、これまた開いた時と同じようにゆっくりとした動きで瞳を声のした方へと向けた。


「エ、イダ…」


 視力を失い、光すら映さないはずの瞳は、そこにいるはずのない人間の顔をはっきりと映し出した。目の前にいる彼女は昔よりも大人びた雰囲気を纏っているが、特徴的な話し方や笑顔は昔と何一つ変わっていない。


「ねえ、その目ちゃんと見えている?まだ試作品の段階だったから、ちゃんと見えるのか不安だったの。平気そう?」


 小首を傾げ、尋ねてくるのは間違いなくあのエイダだ。アルテアの記憶に、瞼の裏に焼き付いていた彼女で間違いない。瞳に薄い膜を張りながらアルテアが確かめるようにエイダ本人なのか尋ねた。


「えぇ、そう、間違いないわ。アルテアが知っているエイダで間違いないわ」


 アルテアの問いを肯定すると、エイダはしなやかな指を彼女の頬の上を滑らせた。その動きをアルテアの視線が追っていることに気が付いたらしいエイダはにんまりと唇に弧を描かせた。


「ちゃんと見えているようね」


 それならよかったと微笑むエイダに、アルテアは戸惑いの表情を浮かべるばかりだ。


「嘘、よ。だって、あの日、あの時、確かにエイダは死んでいたじゃない…」

「たかが服とネックレスだけでの判断ね、それは」

「傷もあった!あなたの、その脇腹の傷があったの…」


 声を震わせ、瞳を潤ませ叫ぶように言ったアルテアをエイダは冷たい瞳で見つめた。


「全部、偽物に決まっているじゃない」


 そして、平然とそう告げた。


「丁度、そこにいたからわたしの代わりになってもらったの」

「代わりになってもらったって…でも確かに…」

「体格も全部がわたしに似ていたから。あとはわたしだってわかるように傷をつけて、顔がわからなくなってしまえば、アルテア…心がやさしいあなたはわたしが死んだものだって信じるでしょう?」

「じゃ、じゃあ、”トラカド レン”が殺したっていうのも…」


 唇を震わせ、一つひとつ物事を確かめていくアルテア。そんな彼女を見つめたままエイダは丁寧に、アルテアの質問に答えてやる。


「あぁ、それのことね。ある意味合っているわ」


 アルテアの頬に添えていた手を離し、彼女が座っていたベッドから立ち上がりながらつまらなさそうにエイダが答えた。彼女の目鼻立ちの整った横顔を、蛍光灯が点滅するように照らし出した。それを茫然と見つめながらアルテアはエイダの言葉の続きを待っている。


「彼はわたしを殺してはいない。わたしが彼を利用して、殺したの」


 息をのむ音が響いた。こくりと上下に動いたアルテアの喉は痙攣でも起こしているのか、うまく声を発することができなかった。それもそうだろう。今まで自分が信じてきた道が間違いなのだと、見当違いだったと言われているのだから。アルテアは呼吸を荒くさせながら、エイダを見つめる。


「あの男はわたしの思うように踊ってくれた男だったわ。でも、もうあの時には利用価値がなかった。それなら新しい舞台で踊ってもらった方が使い道があるじゃない」


 でも、今回は期待外れだったわ。と、エイダは吐き捨てるように呟いた。


「それよりも、その目の使い心地はどうかしら」


 そう言われ初めてアルテアは自身の目が見えることを気に留めた。右目だけだが確かに視力が戻り、昔のように周りを見回すことができる。決してこれは幻覚や錯覚なんかじゃない、紛れもない現実だ。

 アルテアの右目は他人から見れば異様なものだった。機械的な青白い光を放ち、中央には十字架が刻まれている。それが瞳孔の役割を果たしているのだろうか。彼女の瞳が動くたびに十字架が左右に揺れ動いている。しかし、いったいどうやって失ったはずの視力を取り戻すことができたのか。そもそもそんなことが現代の科学技術でできるのか。詳しいことはエイダと、この瞳を作った人間だけだろう。


「私の優秀な部下に治させたの」


 彼女の言葉にアルテアがはっと息をのんだ。


「目が見えていた方が葵を殺すのに便利だし、何より楽しめるでしょう?」

「どうしてエイダが、葵さんのことを知っているの…?」


 葵とエイダが言葉にした瞬間にアルテアは興奮気味に声を荒げながら、彼女に詰め寄った。何故、彼女が葵のことを知っているのだろうか。何故、彼女が自分が葵を殺そうとしていることを知っているのだろうか。エイダの答えは簡単だった。あまりにも簡単すぎて開いた口が閉じるのを忘れてしまいそうなくらいだった。


「私がすべての元凶で、黒幕だからよ。全部、私が仕組んだことなの」


 その答えはあまりにも単純で、あまりにも残酷だった。アルテアの信じていたものはすべてが嘘だったのだ。この憎しみも、悲しみもすべてエイダによって仕組まれていたことだったのだ。


「あぁ、そうだ。感動の再会の記念にその目意外にも、あなたにプレゼントしてあげることがあるの」


 エイダはゆっくりと微笑んだ。アルテアの記憶の中にあるあの頃と変わらない笑顔で、彼女が言葉にしていくものはどれもアルテアにとって残酷なものばかりだった。


「あなたが殺そうとしていた虎門葵とわたしが利用したトラカドレンの関係には、賢くて聡いあなたならもう気づいているよね」


 彼女の言葉にアルテアがはっとしたように目を見開いた。エイダが何と言おうとしているのか、見当がついているからだ。アルテアは声を上擦らせながらやめてと呟いた。


「ファミリーネームが同じだもの、気づかないはずがないよね。それに彼は良くも悪くもあの男に似ているわ」

「エイダ、やめて…もう、それ以上は」

「あなたをこんな目に遭わせているのは全部、葵の父親のせいよ」


 そこまで言えば、もうこの先の言葉はわかっている。アルテアは瞳に涙の薄い膜を張ると嫌だと被りを振り続ける。これ以上の言葉は聞かないように、聞かなくて済むようにと両手で両耳を塞ごうとしてみるがエイダはそれを許さなかった。互いの息がかかるほどアルテアとの距離を詰めると、エイダは彼女の細い腕を掴んで耳を塞ぐことを許さなかった。


「アルテア、あなたとあなたの母を見捨てたのは、あなたをお金のために売ったのは、あなたの人生を狂わせた男は虎門蓮トラカドレン。葵の父親であり、あなたの実の父親よ」

「お願い、待って、それ以上は言わないで…」

「ここまで言えばもうわかるわね。認めざる負えないわね」


 実に意地の悪い笑みを浮かべてエイダはアルテアを見つめた。


「あなたも、あなたの母親も虎門蓮にしてみたらただの道具に過ぎなかった。彼にとっての唯一は、ただ一人。息子の葵でも、娘のあなたでもなくて妻である雪羽だけ」


 そう言いながらエイダは掴んでいたアルテアの腕をぱっと離した。その反動に彼女の身体がぐらりと力なく揺れ、ベッドの上に転がるように肘をついた。視線ごと顔を下に向け、アルテアは小刻みに震えていた。


「アルテア、あなたがわたしの仇として殺そうとしていた葵は、あなたが愛してしまったひとは…あなたと血の繋がった実の兄・・・・・・・・・なのよ」

「やめて!」


 自身の身体を抱きしめ、声を震わせながらアルテアは叫んだ。甲高い叫び声をあげると両耳を手で塞ぐと、大きな瞳から大粒の涙を零した。涙は彼女の白い頬を伝い、染みだらけのベッドのシーツに斑点はんてん模様を描いていく。


「やめて、やめてよ!それを言葉にしないで!」


 涙を流し、プラチナブロンドの髪をぐしゃりと搔きむしり、アルテアは叫び続けた。そんな彼女を見て、エイダはけたたましい声をあげて大笑いし始めた。彼女が目を逸らし続けていた現実を突きつけたことが、気丈に振舞っていたアルテアが壊れていく姿がエイダにとって愉快で滑稽こっけいで仕方がなかった。


「本当はあなたも気づいていたんでしょう?わたしの仇として彼を調べていくうちに、一緒に過ごしていくうちに、だからあなたは葵を殺すことができなかった」


 そうはっきりと告げられた瞬間アルテアは大きな悲鳴をあげ、周りのものに当たり散らした。彼女を取り押さえようとした者はよくて重傷を負い、悪くて死んでしまっていた。それほど、アルテアにとっては受け入れがたく認めたくはなかった現実なのだ。

 三十分も経てば当たることにも疲れたのか、その場に座り込むと虚ろな瞳で薄汚れた地面を見つめているアルテア。彼女の瞳からは止めどなく涙が零れ続けている。


「部屋に運んであげて」


 一人の男に首でアルテアの方を示すと、エイダは生き残った数人の部下を引き連れてこの場を後にした。


「立て」


 ひどく聞き覚えのある低い声だった。アルテアは重たそうにゆっくりと顔をあげ、声のした方を見た。なんとそこには、今までの旅を共にしてきたキニートがいた。初めて見た彼はひどく歪んだ表情をしていた。まるで憐れんでいるかのような、責めているようなうまく言葉では言い表せないような表情をしていた。

 キニートは黒いスーツを身に纏い、HOPEと文字が刻まれた十字架のネックレスを首から下げていた。彼がどうしてそんな恰好かっこうをして、そんなものをつけているのか、それがいったい何を意味しているのか、わからないほどアルテアは馬鹿ではなかったし落ち着きも取り戻していた。自嘲気味に微笑むと彼女は静かにそういうことでしたかと呟いた。


「どうして、エイダが私のことを捕まえることができたのかようやく理解できました」


 キニートはエイダたちHOPEとずっと裏で繋がっていた。そのうえで彼女と共に行動をし、エイダの組織HOPEについて調べていたのだ。ここにきて、自分がはじめから独りで何の意味にも、得にもならないことをしていたことに気が付いたアルテアはただ静かに笑うことしかできなかった。今さら何かを言ったところで現実に光がさすことはないのだから。

 葵は相変わらず一日の大半を一人で過ごしていた。特にやることもなくせいぜい彼が家事以外でやることとしたらただぼうっとしているか、読書をしているかの二択だった。そんな葵とは打って変わって祐春はアメリカ国内を忙しなく動き回っていた。たまに家に帰ってくるのは本当に眠るためだけと言っていいほど、彼はどこかしらに出かけては帰ってくることが少なかった。祐春がそんなに動き回っているのはきっと、アルテアたちのことを調べるためだろう。


「やっぱりイタリアに行かなきゃわからないか?いや、でもそうなると葵も連れて行かなきゃいかなくなる。命を狙われているアイツをひとりにはさせられないからな…」


 祐春はそう呟くと愛用の煙草に火をつけ、煙を肺いっぱいに吸い込む。吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出すと彼は、腕時計を気にした。今彼は、ニューヨークのまあそれなりに人通りが多い道路の隅に車を止め、人を待っていた。丁度、情報屋から祐春の知りたがっていた情報が入ったと携帯に連絡が入ったのだ。


「それにしても遅いな…約束は二時半のはずだ。もう、約束に時間から三十分も経っている」


 情報屋というのは妙に律儀な奴が多い。相手にいい印象を与えておけば後で何かしらに役に立つときがあるからだ。特に日本人の情報屋はそうだったが、アメリカ人の方は何かとルーズなところがある。祐春はアメリカ人の情報屋のそこが嫌いだった。早く欲しい情報がなかなか手に入らないのは、彼にとったら不愉快だったし待たされるのは時間の無駄だと思っていた。


「…ユウシイナセか?俺だ」


 とんとんと軽く車の窓を叩きながら、慎重に祐春に話しかけた男がいる。顔を見なくとも彼にはその人物が誰なのかわかっていた。二時半に会う予定をしていた情報屋の男だ。肌が黒く、なまりのある話し方をする男だったため印象が強かった。もし印象が強くなければ、にわとりのような単純な頭をしている祐春はすぐに忘れてしまうところだっただろう。


「車に乗せてくれ。あとをつけられている」


 簡潔に今、自分に起きていることを言う男。祐春はちらりと男の方に視線を向け、彼が言っていることが嘘ではないことを確認する。男の約三メートルほど後ろの方で、一人の男がこちらの様子を窺っているのが見えた。どうやら男が言っていることは間違いないらしい。祐春はわかったと短く返事をすると、煙草を灰皿に押し付け、火を消すと男を助手席に乗せ、エンジンをかけ走り出した。

 暫く走ったところで、男が遅れた理由を祐春に伝えた。彼はいったい誰かは知らないが、何者かにあとをつけられていた。それに気が付いたのは、家を出てすぐのことだったらしい。家に戻ってもよかったのだが、祐春と連絡を取っているのは公衆電話だった。祐春も公衆電話からの通知だと情報屋の男だと思い込んでいる節があったため、仮に携帯電話や家の電話機でかけたところ不審がられ、電話に出てもらえないだろうと情報屋の男は考えていた。そのため、彼は危険を承知してわざわざ祐春のもとにやってきたのだ。


「何とか撒いて来ようと思ったんだが、なかなかしつこくてな。やっと一人にまで撒けたから、ユウシのところにきたんだ」

「あとをつけられるってことは、それなりの情報を掴んだって思ってもいいんだな?」

「あぁ。それは間違いないと思う。調べてきた自分自身で言うのもアレだが、なかなかの情報だ」


 男は力強く頷くと、着ていたジャケットの胸ポケットから細長い茶封筒を取り出した。それを丁寧な手つきで開くと、車を運転している祐春に手渡した。受け取った祐春は片手でハンドルをきりながら、渡された紙に目を通す。そこに書いてある情報は日本でアルテアを調べている時から、祐春が特に求めていた情報そのものだった。いったいどこで彼はこの情報を掴んできたのだろうか。FBIに所属していた自分でさえ掴めなかった情報だ。それを一般市民であるこの男が知ってしまったのだ。彼があとをつけられるのも頷ける話だ。


「期待なんて全くしていなかったが、これこそ俺が求めていた情報だ。アンタ、これをどこで、どうやって手に入れたんだ?」

「詳しくは言えない。情報屋としては情報源が晒すのは自殺行為だ。それに何よりも相手からの信用を失うことになる」

「わかっている。でも、俺はこの情報を提供したやつから話が聞きたいんだ。金はいくらでも払おう。教えてくれ、大事なことなんだこれは」


 片手で紙を元の形に戻し茶封筒の中に入れると、祐春は視線だけを男に向けた。男は眉間に皺を寄せながら唸り声をあげている。当然の反応だろう。いくらでも望む分の金を渡すから情報源を曝せと祐春は言っているのだ。男としては欲しい分だけ金が貰えるので悪くない話だったが、情報屋としては情報提供者を教えてしまうのは悪い話だった。


「そんなにこれが大事なことなのか?」


 男が静かに尋ねた。彼の問いに対して祐春は親友のためなんだと即答した。


「そんな風に即答されたら断れないな。その親友とやらは、信用できるんだな?」

「できる。それは俺が保証する」


 祐春が頷いたのを確認した男は溜息にも近い口調でわかったと一言。


「今回だけは特別だ。教えてやる。ただ、一つ約束してもらうぞ、情報提供者ソイツには誰から聞いたとかそういったことは一言も言うな。かなり頭がイカれてんだ」


 男の言葉に祐春はハンドルを右にきりながらわかったと了承の意思を伝えた。


「名前はジャックといって、特徴はドレッドヘヤーで口が悪いガキだ。それと小さな白い女のガキをよく連れている。東スラムの一番奥にいる厄介な男だ」

「他に何か特徴はあるか?」

「たまにだが…大食いの男といるときもある。いつも何かしら食べているし、よく物を落とすからそれも目印になるな。ただそいつに話しかけても意味はないぞ。耳が聞こえないらしい」


 そこまで言うと男はそれ以上のことは知らないと言った。ジャックという男は自分たちのことを他人に知られるのを極端に嫌がる。そのため、見た目の特徴しか伝えることができない。男は少しだけ苦く微笑みながら言った。それを横目で見つめながら祐春はありがとうと礼の言葉を口にした。


「それだけでも十分だ。アンタにとって大切な情報源なのに教えてくれてありがとう」


 祐春は目元を和らげると車のミラーで後ろの方を確認した。先ほど男のあとをつけていたらしい人影はどこにも見当たらない。どうやら完全に撒くことができたようだ。そのことを男に伝え、どこで降りるかを尋ねれば彼は近くの公園で大丈夫だから降ろしてくれと言った。


「ユウシ、また何か欲しい情報があったら連絡してくれ。俺はいつでもお前の為なら調べてやる。お前のその熱さは嫌いじゃないからな」


 男はにこやかに笑うと祐春から金を受け取り、車を降りた。そして反対側の出口を目指し歩き始める。途中、知らない男とぶつかりながら。男とぶつかった直後、激しい爆発音が車を発進させようとした祐春の耳を刺激した。じんじんと奥の方まで振動が伝わる。祐春は、慌てたように車から降りるとすぐに状況確認のために情報屋の男を探した。

 少し離れたところに黒煙が立ち上っているのが見える。いや、そんなまさか。そう言いたげな表情をしながら祐春は慎重にそちらへ足を運ぶ。彼の頭の中をよぎったのは、情報屋が先ほどまであとをつけられていた男に殺されてしまったということだ。いや、しかし、まだ彼の死体を確認したわけではない。もしかしたら、自分の勘違いかもしれない。


「だ、誰か助けてくれ!目が見えないんだ!」

「誰か救急車を呼んでちょうだい!子供が、私の娘が巻き込まれて怪我を!」

「ママ、いたいよ!あしがいたいよぉ!」

「坊やお願いよ、返事をして!」


 祐春が煙が上がっていたその場所に辿り着くとそこはまさに地獄絵図と化していた。

 自身の横で泣き叫び、倒れこんでいる人々。そこから漂う肉の焼ける臭いと、火薬の臭いが混じり合い鼻を掠める。あまりの悪臭に祐春は思わず顔を顰めてしまう。右側のコートの袖を引っ張り、鼻と口元に押し当てなるべく煙を吸わないようにする。暫く歩いたところで、ひらりと空から先ほど別れたばかりの男の服の切れ端が落ちてきた。それが意味するのは男がこの世から遺体も残さずに、情報屋の男は消されてしまったということになる。つまりは、彼が掴んだ情報がそれほど重要で、HOPEという組織に近づいたことを示すことになる。


「まさか、こんなにすぐに消されるなんて…しかも、白昼堂々と人目もはばからずに…」


 いつか自分が調べていることがHOPEに知られれば、HOPEに近くなればなるほど命を狙われることはわかっていたが、こんなにすぐに消されるとは流石の祐春も思っていなかった。彼は急いでコートのポケットから携帯電話を取り出すと、葵がいる自宅にかけた。ワンコールもしない内に葵がはい、と発音の崩れた声で電話に出た。


「葵、今は返事をしなくていい。とにかく俺の話を聞け。わかったな?」


 祐春は早口で葵に話しかけた。僅かに聞こえる音を拾った葵が、わかったと返事すると祐春は先ほど得たばかりの情報を話し始めた。細かいことは後で伝えるからとりあえず、大まかなことだけでもと祐春は焦ったように口を動かし続けた。


「お前の親父さんは今から十一年前、いやそれよりも前に過ちを犯していたんだ。仕事で行ったイタリアで出会った女と関係を持ち、相手の女を妊娠させてしまったんだ。その女は元々身体が弱かったらしいく、子供が四歳になった時に亡くなってしまったそうだ。で、その生まれた子を親父さんは一応認知だけはしていたから引き取ったらしい」


 煙の中を速足で歩きながら、小声で話す祐春。


「生まれた子供は女の子で親父さんにメネジと名付けられたそうだ。メネジっていうのはイタリア語で“天罰”って意味だよ。その子が四歳になった頃、つまりお前が五歳の時だ、何があったのか覚えてるだろう?」


 葵が五歳のとき彼の母親が病に伏した。母が病にかかっていると知った時は手の施しができないほど状態が悪かった。


「親父さんはお袋さんの治療費のためにその子を売ったんだ。国の許可の下りてない違法の研究所にね。それで、その子…メネジって子が、アルテアちゃんだったんだ。彼女はアルテアという名前じゃない。彼女の本名はメネジ・シュティンガーだ」


 そう、祐春が言い切るとパァンと乾いた音が後ろから聞こえた。視線をそちらに向ければ、数人の男が煙に紛れるようにして拳銃の銃口を祐春に向けているのが見えた。どうやら彼らはあの情報屋だけではなく、自分も殺すつもりらしい。今回は運よく外れたが、次は確実に狙いを定めて外さないだろう。そう思った彼は歩くのを止め、思いっきり走り出す。車に乗り込んでしまえば逃げ切ることができる。葵に言って先ほど聞いた情報提供者のジャックという男がいる東スラムに来てもらおう。残りの話はその時話せばいい。


「葵!今、俺は命を狙われている!多分HOPEのやつらだ。どうにかしてやつらを撒いて行くから、東スラムで会おう!いいか、葵!東スラムだぞ!」


 叫ぶように祐春は言った。電話の向こうでは葵が戸惑ったような声をあげているのが聞こえる。祐春は何度も繰り返すように東スラムに来い、東スラムだぞと告げる。東スラムに行けばいい、それさえ葵に伝われば彼は自分の言いたいことを理解してくれるだろう。

 やっとの思いで車に辿りつき、ドアノブに手を伸ばした時に後ろからまた乾いた音が二回ほどした。彼が予想した通り、今度は二発とも命中した。左寄りの脇腹に銃弾を二発食らってしまった。じわりと血が滲み、熱い痛みが脇腹を中心に全身へと走る。祐春は脇腹を抑えてよろけながら、目の前にある車にもたれかかった。その瞬間、甲高い悲鳴があがり、時折、つまづきながら祐春の側から離れていく人々。関係のない自分まで巻き込まれたくないと思ったのだろう。普段の祐春なら心の冷たいやつらだとでも罵るところだろうが、今回だけは別だ。寧ろ、逃げてくれてありがたいとさえ思った。自分の周りに人がいれば彼らに気を使わなくてはいけなくなるし、彼らを守る義務が生じてしまう。


「一発は失敗、二発は成功。せめてあと三発は残ってるかな…次を撃たれる前に逃げないと、本格的にやばいかもしれない」


 急所を外れたとはいえ、相手は人を殺すことなど手慣れしているだろう。残りの銃弾も確実に祐春が動けないようにもしくは、致命傷になるように狙って撃ってくるに違いない。祐春は困ったように小さく息を吐くと、コートの中に隠し持っていた愛用のコルト・パイソンを取り出した。しっかりと構えると安全装置を外し、狙いをしっかりと定めると引き金を引いて発砲した。そして素早く、車を盾にするように祐春は反対の助手席側に回り込んだ。それと同時に、低い唸り声が聞こえた。彼の撃った弾が当たったのだろう。唸り声の後には粘りのある水音がした。その音を頼りにもう二、三発撃てば同じよう苦痛が混じった唸り声が聞こえた。その僅かにできた時間で、祐春は運転席側に戻り、ドアノブに手をかけながらもう一度葵に話しかけた。


「今から行く!葵、身元がばれそうなもの、それに金めのものをかばんに入れてひが……」


 彼が最後まで葵に言葉を投げかけることはできなかった。何故なら祐春がドアを開けた瞬間、目を開けられないほどのまばゆい光を全身に浴び、そして一瞬にして炎に包まれたからだ。

 祐春が情報屋の死体を確認しにいっている間、彼らはその僅かな時間を狙っていたのだ。情報屋を殺したのはついでと言ってもいい。祐春を確実に殺すために爆弾を仕掛けるための犠牲だ。FBIである祐春を簡単に銃殺できるとは彼らは思っていなかった。せいぜいできても致命傷を与えるか、かすり傷ができる程度ぐらいだろうと。だから、念のためにいや、銃撃は陽動とし爆弾で爆死させようとしていたのだ。彼は必ず車に逃げ込むと彼らは踏んでいた。

 彼らの予想通り、祐春を銃殺することはできなかった。しかし、祐春は彼らが思っていた通りに車に逃げ込んだ。そして何も疑うことなどせずに、ドアを開けたのである。開いたのと同時にセットされていた爆弾はスイッチが入り、祐春はその犠牲になってしまった。

 祐春との電話が途切れ葵は、すぐに彼が死んでしまったことを悟った。微かに聞こえていた音を頭の中で整理し、考えればすぐにわかる答えだった。


おぇあ、いとり、にった俺は独りになった


 ついに葵は独りになってしまった。アルテアはキニート共に目の前から消え、祐春は死んでしまった。正直、葵はこの先自分はどうしたいいのか、何をしたらいいのかわからなかった。今まで自分を導いてくれていた祐春はもうこの世にはいない。ここから先のことは葵自身で決めて、自分で行動しなくてはいけなかった。

 祐春が自身の命を犠牲にしてまでも自分に伝えたかったことは殆ど耳の聞こえない葵には伝わってはいなかった。なんとなくわかるのは自分とアルテアには何かがあり、それに父が関係しているのだろうということだけだ。死の間際、祐春が何度も伝えていた東スラムに行かなくては、と葵は座っていたソファから立ち上がった。

 昔、研究所で過ごしていた部屋と全く同じ真っ白な部屋に閉じ込められたアルテアは、鉄でできた扉越しにいるであろうキニートに向かって話しかけた。


「いつからエイダと繋がっていたんですか?まさか、最初っからそうだったとか言いませんよね」


 責めるような言い方をするアルテア。勿論、キニートが答えてくれるとは思ってはいなかったのだが、彼の反応は彼女の想像していたものとは違った。


「金を持ってきたことがあるだろう。あの時からだ」


 キニートはアルテアの問いに素直に答えたのだ。彼女は面食らったように瞳を大きく見開いたが、すぐにいつもの笑顔に戻りそうですかと返事をした。


「あの時、どこからかもって来たか聞いた時、渋るようにしていたのはこういうわけだったんですね」

「交換条件だった。お前の位置を知らせるのと条件に、俺にヴィットリオの首をくれるっていう」

「キニートさん、ずっと言っていましたもんね。ヴィットリオを殺すんだって、妹の仇だって」


 静かな声でアルテアが呟いた。今、思えば彼と一緒に行動していたのは互いの利害の一致からだった。アルテアはHOPEを調べたい。キニートはHOPEの下っ端のヴィットリオを殺したい。利害が一致しているだけで所詮は互いに情などはなかったということになる。アルテアは自嘲気味に微笑んだ。


「私、本当に馬鹿ですよね。人を疑わないで信じて、裏切られているなんて……葵さんがここにいたらきっと苦笑いしますよね」

「アオイはここにはいない」

「葵さんきっと心配してくれてますよね。どこに行っているんだろうって、祐春さんと話してるはずです」

「ユウシもここにはいない」

「あ、もしかしたらいい人を見つけて付き合ってたりしてるかもしれませんね。葵さんかっこいいから…」


 アルテアは葵の名前を何度も上げながら、キニートに話しかけた。そのうちキニートが大声をあげて、ここに葵はいないと言えばアルテアは壊れた玩具の人形のように笑う。実に彼女らしくない甲高い声をあげてアルテアは笑った。


「わかってますよ!そんなこと!」


 鋭く瞳を吊り上がらせアルテアは扉越しに吠える。彼女はキニートに八つ当たりすることしかできなかった。頑丈な部屋に閉じ込められ、見張りまでつけられている以上、簡単にここから逃げ出すことはできないだろう。もし、仮に逃げ出せたとしてもHOPEの連中に殺されてしまうことに違いはない。アルテアは自分に言い聞かせるようにわかっている、わかっていますから、と何度も呟いた。


「逃げたいか?逃げてアオイのところにでも行きたいか?」

「今さら何を…私は葵さんに会いに行けませんよ。最後って言っちゃいましたもん。きっと葵さんは私のことなんか忘れて幸せに暮らしているはずです」


 アルテアの言葉にキニートは違うとすぐに彼女の言葉を否定した。


「アオイはまだお前を探している。ユウシと一緒にお前を探している。最も、アオイは動いてはないけどな」


 キニートはそう言うと重たい鉄でできた扉に背中を預けた。ズボンのポケットからジッポーと煙草を取り出すと、火をつけ口に咥えた。煙を吸いゆっくり吐き出すと、話を続けた。


「アイツはお前を忘れられるはずがない。忘れられないんだ。お前と同じようにずっと見えないものを追いかけている」

「葵さんが私を探してくれていても、私には彼に会わせる顔がありません。堂々とあなたの腹違いの妹ですって言えばいいんですか?…無理ですよ、そんなこと私にはできません」

「お前ができないなら俺が言ってやろうか?アオイにアルテアが義理の妹だって言ってやろうか?」

「やめてください!葵さんには言わないで!あの人にだけには知られたくない!もし、葵さんに知られたら、私は生きていけない…」


 小さな肩を震わせながらアルテアは言った。そのうち大きな瞳からは涙が零れ落ちる。白い頬を伝いコンクリートの地面に丸い斑点をいくつも作り出す。

 葵は祐春に言われた通り東スラムを目指して、街中を歩いていた。祐春のように車は持っていないので、公共機関を使って向かうしかない。あまり外に出ていなかったせいいか、少し歩いただけで葵は疲れてしまう。途中休めそうなところを探しては、そこで一息いれてからまた歩き始める。途方もない道のりに諦めたくなってしまう。もういっそのこと、潔く諦めて家に戻ろうかとも考えたが、祐春が最期まで伝えたかったことも気になる。そうなるとやはり、東スラムに向かうしか葵には道がなかった。


「速報です!本日未明にセントラル・パーク付近にて大規模な爆発テロ事件が起こりました。目撃者によりますと、長身の日本人男性他数人が巻き込まれたようです。身元の特定はまだできていませんが、詳しいことがわかり次第またお伝えいたします」


 高層ビルの上に流れたテレビ情報は祐春の死を確かなものとさせた。ちらりと映った公園の片隅に落ちていたクマのキーホルダーは確かに彼のものだったからだ。そのキーホルダーは葵が高校生の時に祐春の誕生日にあげたものだからよく覚えていた。祐春はそのキーホルダーを気に入り、携帯電話につけてくれていた。毎日、見飽きるほど見ていたものだ。見間違えるはずがない。


ゆぅ、いが、いんだ祐春が死んだ…」


 祐春は一年中うるさくて鬱陶うっとうしくて面倒なやつだったが、葵は彼のことが嫌いじゃなかった。寧ろ、一緒にいると気が楽で過ごしやすいやつだった。もう会えなくなるとわかると寂しくて仕方がない。会いたくて仕方がない。あのにやけた笑顔でくだらない話をする彼に会いたくて仕方がなかった。

 葵の日に焼けた頬に一筋の涙が伝い落ちる。唇と奥歯がかたかたと震え、思い出が溢れ出して止まらない。葵は押し殺すような声でもうこの世にはいない友の名を口にした。


「たった亡くなった方の身元が特定できました。ニューヨーク郊外に住むFBI捜査官のユウシイナセ、現場近くに住んでいた主婦のアロリア・エラー…」


 流れる字幕に友の名が刻まれている。


「今回の事件で真実の鍵を握るのはやはりユウシイナセでしょうか?」

「でしょうね。彼は爆発の巻き込まれる前に何者かと銃撃戦になっていたそうですから、何か大きな組織が後ろにいるのは間違いないでしょう」

「ユウシイナセはFBI捜査官ということでしたが、何かの事件の捜査中だったんでしょうかね」

「そうかもしれませんね。しかし、全ての真実を知るのは犯人と亡くなった彼だけでしょう」

「まさに今回の事件は死人に口なしですね」


 画面の向こうではニュースキャスターたちが好き勝手に憶測を話していた。よくもまあこんなに早く情報が入るものだ、葵は遠い目をしながら思った。暫く、その画面をじっと見つめていた葵だったがすぐに気持ちを切り替えると、彼は東スラムに向かった。ここからだと、東スラムに着くのはあと二日はかかるだろう。できるだけ早く着けるようにと、彼は歩くスピードを速めた。


「アルテア、ユウシが死んだ」


 アルテアが閉じ込められている部屋に入ってきたキニートが開口一番に言ったのは、彼女にとって辛い現実だった。葵の行方もわからないと言えば、茫然と聞いていた彼女はその場で泣き崩れた。いったいアルテアは何度泣けばいいのだろうか。何度大切な人を失えばいいのだろうか。キニートは場違いだと思いながらも、泣き続ける彼女を美しいと思った。


「どうして、祐春さんが?彼は何にも関係ないのに!私と一緒にいたから死んだの?消されたの?」

「エイダに近づいたからだ。ユウシはHOPEに近づき過ぎたんだ。だから、HOPEによって消された」

「それじゃあ……葵さんは?葵さんも消されるの?」


 アルテアに問いにキニートは無言になった。二人の間に流れた静寂が、彼も消されてしまうだろうと物語っていた。


「…お願い!葵さんには何もしないで、何でも言うことを聞くから!私にできることならなんだってするから!だから、あの人には何もしないで!」


 縋りつくようにキニートにしがみつくアルテア。彼女の零す涙が彼のスーツを汚していく。しかし、いくらアルテアが懇願してもキニートが頷くことはなかった。寧ろ、こんなにも彼女に想われている葵が羨ましくて、憎くて仕方がないくらいだ。自分では何もしないくせに、何もできないくせに、他人に好かれて幸せに生きている。自分が経験してこなかったものを経験し、得ている葵が疎ましくて仕方がなかった。


「なんで、お前はアオイをそんなに大切に想う?アイツは…アイツの父親はお前を売ったようなやつだぞ。アオイはその息子だ、それなのにお前は…どうしてそんなに葵に焦がれるんだ」


 キニートが悲痛の表情を浮かべて尋ねた。


「それでも、葵さんは私にとったら大切な人なんです。最初はエイダの仇の息子だと思って命を狙ってました。でも、一緒に暮らしているうちに、同じ時間を共有していくうちに、葵さんのことを知っていくたびに私の中で彼の存在が大きくなったんです」

「俺には理解ができない。憎いやつなのに、殺したいと思っていたやつなのに…」

「あの人は他人の命を奪うことで生きてきた私にとっての唯一の光なんです。葵さんだけが私を、私の弱さを知ってくれた」

「なんでそこまでの感情を持つことができるんだよ……アイツはお前と血の繋がった兄貴なんだよ!」

「それでも、ですよ。それくらい私にとって葵さんは大切な人なんです」


 そう言ったアルテアに対して、キニートは嫉妬と妬みの感情だけで彼女の白く丸みを帯びた頬を理不尽に引っ叩いた。乾いた音が部屋の中に響き渡る。叩かれた反動で、アルテアは床に尻もちをつくように転がった。床に座り込んだ彼女の頬には、赤い紅葉がくっきりと残っていた。


「キニートさんには絶対にわかりませんよ。これは私にしかわからない、私だけの気持ちです」


 アルテアはにこりと目を細めながら笑った。その笑みは彼女の二つ名であるLa Morte死神のようにキニートは思えてならなかった。そのくらい美しく、儚げな微笑みだったのだ。

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Perdita di memoria -記憶喪失- 七妥李茶 @ENOKI01

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