第46話

大きく息を吸い込んで厨房のドアにカギを差し込むとゆっくり開く。


キギキ、と油が足りてない金属のきしむ音がする。


シンとした厨房の電気をつけて、部屋の方を覗くとバスルームの方から音がした。


「蜜さんは、風呂……か」


 俺はエプロンをつけるとまな板の上で細かくチョコを刻んで、バターを一緒に湯煎にかけて溶かした。


 甘ったるい香りがして、そこへふるった薄力粉とココアを一緒に入れてグランマニエというオレンジのリキュールを加えた。大抵はラム酒を入れるのだろうが俺はどういうわけか猫だった頃からこの柑橘系の酒の匂いが好きだった。

猫は柑橘系が苦手だと言われるだけあってレイや他の猫たちは眉をひそめたものだった。


 そしてそこにしっかりしたメレンゲとオレンジピールを混ぜてユキに貰った型に流し込んだ。


 チョコと生クリームを合わせて作ったガナッシュを中心にいれて、予熱したオーブンに入れるとタイマーをセットした。


ドアを開けて煙草に火をつける。


 そういえば、魔女猫が吸っていた煙管からの煙はココアに似た香りがしていたと思い出していた。


「なんだかわからなくなってきた」


俺は猫だったはずなのに、本当に猫だったのかわからなくなってきた。もしかしたら、夢なのかもしれない。魔女猫の事も全部が夢でこれは現実で……。そう考えれば考えるほど何がどうなのかわからなくなってきたのだ。


「……完璧な人間なんかいない……か……そうかもな。なんか考えるの……めんどくせえ」


煙草の煙が月に向かって流れていく。


月はいつもと変わらず同じ場所にあって、俺を黙って見つめていた。


「……ハルさん?」


振り向くとタオルで髪を拭きながら蜜さんが厨房に降りてきた。


「あ、蜜さん」

「……いい香りね。チョコレートと……オレンジ!」

「ああ、正解だ」

「ブラウニー?」


オーブンの中を覗きこんで蜜さんはクンクンと鼻を動かした。


「もうすぐできるから、ちょっと待ってろ。味見させてやる」

「本当に? うん。楽しみだわ」


ワクワクとした表情で蜜さんは笑ってタイマーを見た。


「焼けるまでこっちでコーヒーでもどう? 美味しい粉をもらったのよ」

「……そうか」

「兄のお店に来るお客様がね、くださったんですって」


そういいながら厨房の横の部屋に入るとコーヒーメーカーをセットした。


コポコポっと音をさせて、コーヒーが作られていく。


蜜さんは無造作に髪を拭くとタオルを洗濯籠に入れた。


「ドライヤーかけないのか?」

「……うーん、面倒で」

「風邪ひくぞ」

「短いし、夏だから大丈夫よ」


俺は洗面台からドライヤーを持ってくるとコンセントを繋いだ。


「ほら、座れ」

「え!」

「髪……乾かしてやるから」

「わ。悪いからいいですよ!」

「いいから」


そういうと蜜さんの腕をひいて座らせて、ドライヤーをかけながら手櫛で髪を動かした。


「あ……りがとうございます」

「いくら髪が短いって言ったって、俺よりは全然長いからな」


蜜さんは少しだけ振り替えって俺を見るとクスクスと笑った。


「確かにそうですね」


サラサラと指を抜けていく蜜さんの髪はあの頃と同じ花のような香りがした。


ドライヤーの音とコーヒーが出来る音と虫の羽の音が微かにしていた。


「もうすぐ……夏も終わりですね」

「……そうだな」


心地のいい沈黙が流れる。


「よし、ほら。こんなすぐに乾くじゃねえか」

「あはは、ですね……じゃあまた今度もお願いします」

「!」


おどけたように言った蜜さんの顔を見て俺は固まった。


「う、嘘です! ごめんなさい!調子に乗りました!」


慌てた様子で俺専用になったのマグカップに出来立てのコーヒーを注ぐと笑った。


ビーッと音がしてオーブンが焼き上がりを知らせる。俺は立ち上がると厨房に行き、中からそれを出して冷ました。


「少し冷ました方がいいから、もう少し我慢しろ」


蜜さんは微笑んで頷いた。


「……ドライヤーな、かけてやるのは構わないが……そうしたら、俺はオマエが風呂から出るまでいなくちゃいあけないな」

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