第41話

うたた寝をしてハッとして起きる。


猫に戻る時間が全くないわけではないというのに、完全に寝ていた自分に絶望する。こんなにも気を抜いていいわけがない。


「はぁ……何やってんだ俺は」


そう言いながら体を起こすと、横ですやすやと小さな寝息を立てる蜜さんを見下ろして髪をそっと撫でた。


なんて無防備な寝顔なのだろうか。まるで子猫だ。


 そんな事を思いながら、よろよろと立ち上がってキッチンに降りる。ステンレスの厨房の匂いが落ち着く。


「……っ」


起きている時間に初めての経験だった。


チリチリと体が捻れるように疼く。痛みとは違うが不快感であることに違いなかった。


呼吸と動悸がリズムを狂わせて眩暈を起こしそうになる。


「……はぁっ……ヤバイな」


ドアを開けて空を見上げるとうっすらと朝が始まろうとしていた。


 俺は深呼吸を繰り返した。


鼓膜の奥で何かがキイインと鳴っていて不快極まりない状態だと言う他は、景色も匂いもいつもとなんら変わりない夜明けの風景だ。


白くなった空の中に薄くなった月が金色に光っている。


「お……月様」


カタンと音がして、蜜さんが厨房にやってくる足音が近づく。


「……ハルさん?」


後ろから蜜さんの声がした。


「……まぁ! ボスネコちゃん……随分久しぶりね! どうしてたの? 見かけないから心配してたのよ! 元気そうね、良かったわ! あ、そうだわ! ねえ。少しまってね」


 どうやら俺は今、猫に戻っているらしい。

蜜さんの足元で顔を見上げた。


 蜜さんは乱れた髪をさっさと手櫛で整えて奥に入ると電子レンジになにかを入れた。


しばらくして戻ってくると俺の前に皿を置いた。


「こんなものしか用意できなくてごめんね」


そういいながらしゃがみこんだ蜜さんは細い指先で俺の前に頭を撫でた。


「ねえ。あなたが来ない間に、うちのお店すごく繁盛して忙しいのよ? ハルさんっていう素敵な料理人さんがキッチンにきてくれてね。グッドルッキングってヤツだから女性のお客さんがすごく増えたのよ……アナタよりイケメンかもしれないわ、ふふふ」


ほのかに湯気の上がるアジを見て俺はひと口かじった。


「ハルさん背が高くて、無口ね……でも、すごく素敵なのよ? 少し意地悪だけどね、料理の腕はすごいのよ……あのね。わたし……好きなの」


俺は顔をあげた。


「気がついたら、ううん。きっと彼がこの店に入ってきた瞬間から……好きだったのね。色んな物が変わったわ、ねえ、さっきね沢山キスをしたけれどまだ足りない……もっと彼を感じたいの触れたいの……エッチな女よね」


 俺はなんだか恥ずかしくなって俯くとアジを食った。

刺身のアジは美味かったが、人間になって食ったアジの方が数倍美味いと思いながら蜜さんの言葉に耳を傾ける。


「こんな気持ちになるなんてね……あなたが人間ならいいのにって思ったから、お月様があなたを人間にしてくれたのかと思ったわ」


ドキンと心臓が跳ねる。

この人はもしかしたら、俺が人間になったという事に薄々でも気が付いているんじゃないかと思ったりして苦笑する。


 びりびりと尻尾の先が痺れ出した。

内臓やら骨やらが傷むように揺れる。人間に戻るかもしれないと察した。


「にゃあ」


ひとつ小さく鳴くと塀に上がった。


「……ボスネコちゃん……もしかして……もう来ないの?」


蜜さんは、そういって俺を見上げた。


「……」


 不覚にもこうして戻ってしまって、彼女の想いを聞いてしまった事は嬉しかったが複雑でもあった。


 空が朝を連れてくる。


黙って蜜さんを見つめると、彼女はふわっと笑って言った。


「ありがとう」


 ヒゲの先までジーンとした痺れがやってきて、俺はたまらず走り出した。

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