第36話
俺はここにいる。
黒い猫だった俺はここにいる。
ついこの前まで、あの汚い路地の奥の寝床で仲間たちと雨露をしのいで、毎食を色んな所にご馳走になりに行ってた猫だ。
『ボス』『クロ』『クロスケ』『フク』『ニャン』その他にもみんな好き勝手に俺を呼んでいた。
俺の本当の名前を知っている人間は蜜さんなんだよ。そう思いながらフォークを動かす。
黒い猫は、月に飲み込まれたんだ。
あの猫は、人間に恋をして月に浸食されたって、そんな御伽噺みたいな事を行ったら蜜さんはどんな顔をするだろうか?
『俺があの猫だよ』
そう叫んで蜜さんを抱き寄せたかった。
それをぐっと堪えてただ黙って微笑むぐらいしかできないのは、猫だった頃となんら変わらないんだと感じていた。
いやむしろ理性や道徳なんていう物が常に付きまとう人間の方が厄介な生き物なんじゃないかと思ったりもしていた。
俺はぼんやりと思い出していた、あの下品な笑みを浮かべる男の嫁と言う立場の、化粧の濃い女がやって来たあの日に蜜さんの涙を止めることも拭うこともできなかった自分を……その頃の俺と今の俺とは何が変わっただろうか?
勿論人間になったという事は大きく変わった。だが、それだけじゃなくて少しだけ蜜さんを支えて役に立つことは出来てるだろうか?
猫と人間の違いは何だろうか?
涙を拭う事が出来るのと、言葉で伝えることができるぐらいじゃないのか? こんな時に無力なのは猫も人間も同じなんだと失笑したのだった。
俺はどうしたいのだろうか? そう考えながらポンと浮かんだ言葉はなんてことない言葉だった。
蜜さんを守りたい……。
ただそれだけだった。
その気持ちを伝える術は言葉でしかないが俺はその言葉を上手く操る事ができるだろうか……でも、蜜さんが笑っている姿を見ることが出来て、その手助けができたらそれだけでいいと思いながら微笑んだ。
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