第22話

「……彼」


思わず声に出た。


「ふふふっ、そう。この辺りのボスなのよ? 彼」


俺は人間にならない方が良かったのだろうか? と一瞬思いながら返事をする。


「……いい男なのか?」


俺の返答に蜜さんは目を大きく見開いて、にこりと笑った。


「とっても! 美男子だし筋肉質だしね」

「へえ」

「そしてすごく優しいのよ」


 何だか得意気に笑った蜜さんに微笑み返すと煙草を消して厨房に戻った。


 湯気のあがるジャガイモをマッシュしたり、玉葱を炒めたり、明日の下ごしらえが済むと蜜さんは拍手をした。


「嘘みたい! こんなに早く終わるなんて」

「勝手がかわってれば、もっと早く済んだんだが」

「ううん、充分早いわ」

「そうか……なら良かった」


 俺はエプロンをはずしながら言った。

蜜さんに案内されて、住居のドアを開けるとリビングキッチンに通された。


「一応、休憩室兼更衣室。コックコートとかここにしまって?」


ロッカーと言うには上等すぎる収納扉を開けてコックコートをかけた。


「明日は何時に来ればいいんだ?」

「あ、えっとランチは11時半からだから9時半とかでいいですよ」

「やることあるなら早く来る」

「……じゃあ9時で」

「わかった」


 俺がそう言うと蜜さんは目玉をくるんとさせて少し考えて言った。


「ねえ、黒崎さん、今日はこのあと予定ってなにかある?」

「別に」

「じゃあ、良かったら、ショッピングモールに付き合ってくれない? ランチマットを新調したくて」

「……かまわないが」

「……?」

「黒崎さんと言うのは慣れない」

「そうなの?」

「ハルでいい」



蜜さんは耳を真っ赤にして両手を前に出すと勢いよくふった。


「ムリムリ、無理! そんな、失礼だわ」

「俺がそうしてほしいと言ってるんだけど」

「……でも」

「……」

「じゃ、じゃあ。ハル……さんでどう?」

「……まだその方がいい」

「オッケー! うん、ハルさん! で」


 うんうんと自分に言い聞かせるようにして言う蜜さんはなんだか可愛らしかった。

 正直、猫だった俺にとって苗字というもので呼ばれるのは不慣れな事もあるが、どこかくすぐったく他人事のような気がしていたのだ。


「えっと、じゃあ。、ハルさん! 行こう?」

「ああ」


 エプロンをとった蜜さんはTシャツのしたにロングスカートをはいていて爽やかなスタイルだった。

 いつもコックコートしか見ていなかったからか、すごく新鮮だった。


「ん? どうかしましたか?」

「いや……服」

「えっ! なんか変ですか?」

「違う……その……俺は流行とか何とか疎いけど……いいな、と……思った」

「! あ、ありがとうございます!」


蜜さんはテレながら裏の鍵をかけた。


「あら? 蜜ちゃん?」

「あ、さおりさん……あっ! 彼、黒崎陽月さん。新しいコックさん、兄さんから聞いたでしょ? ハルさん、彼女は兄の奥さんのさおりさん、カリスマ美容師ってヤツよ」

「あはは! カリスマではないけど、ここで美容師やってるおせっかいハバアよ、よろしくね」

「よろしくお願いします」

「へえ……昨日聞いたけど、話通りイケメンじゃない! 腕も確かなんだって?」

「うん。おかげで仕込みもこんなに早く済んだの。、だからランチマット買いに行くのに付き合ってもらおうと思って」


さおりさんと言う女性は俺の目をまっすぐに見て大きく頷いた。


「デートね」

「で、デート!ってハルさんに失礼だよ!」

「何でよ? 恥ずかしがる年でもないでしょ? ねえ?」


俺はふっと笑うと頷いた。


「そうですね」

「わ! 酷い!」

「あはは! ひどくない。さあさあ、早く行きなさいな。デート」

「もう! さおりさんってば」


さおりさんは手をヒラヒラとふった。

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