第16話
ボスネコさんだけが私の涙を最後まで見守ってくれていた。
野良であろう黒い猫は、大きくしなやかな身体で黒豹のようだと兄さんは言っていた。確かに他の猫たちに比べて立派な体格をしていた。
あの日も、琥珀のような瞳で私を静かに見守ってくれていた。
「黒崎さんの目って……そっか、ボスネコさんに似てるんだわ」
妙な親近感はそのせいもあるのだろう? そんな事を思いながらあの日のボスネコさんの責めるでもなく同情するでもない瞳を思い出した。あの静かな眼差しに救われたのだ。
私が泣き止むと、大きく伸びをしてコツンと頭をくっつけてヒョイっと塀にあがりフイっと帰っていった。
大きなお月様のような静かな黒猫は夜に溶けてしまったように見えた。
「あー疲れた。一杯飲ませて」
ひとしきり泣いた私が黒くて美しいボスネコを見送ると、そう言いながらさおりさんが入って来て業務用の大きなパックに入ったワインのコックを捻った。
「蜜ちゃんも飲む?」
私は厨房の電気を消すとエプロンを外してカウンターに座りチェイサーグラスに注がれた赤ワインを飲んだ。
「……まずい」
「そう? 業務用にしてはわりといけるわよ」
「……うん」
「どっちよ?」
兄さんにある程度の事情を聞いているであろうさおりさんは、くすくすと笑うと何も言わずワインをゆっくり飲んだ。
しばらくグラスの中を見つめていた私は口を開いた。
「ねえ、さおりさん」
「なに?」
「私は間違ってたのかしら?」
「……」
「生まれて初めて泥棒猫って言われたわ」
「なかなか言われない言葉ね、すごいわ」
「ふふふっ……でしょ?」
さおりさんはワインを飲み干した。
「誰かを好きになるのに間違いはないのよ。好きになってはいけないなんてものはないわ。あるとしたら……そうね、社会的なモラルだけよ……でもねぇ誰かのものを好きになると悲しいのよ、自分も誰かも。だから、みんな。自分の誰かを探すんじゃない?」
「自分の誰か……」
「物みたいに言いたくないけどね……蜜ちゃんの誰かが必ずいるわ」
さおりさんは私の頬を撫でた。
「その、誰かに会うために必要な時間だった。そう思いなさい」
「……うん」
3年だ。
あの人と出会ってからの3年は、無駄な時間ではなかつたとしても随分遠回りをした気がする。
「ねえ、さおりさん。男の事で髪を切るってナンセンスかしら?」
「そんな事ないわよ、きっかけなんて大抵くだらないもんだわ」
「あはは! そうかもね」
ワイングラスに映った自分はとても情けない顔をしていたけれど、初めての給料日に自分へのご褒美に奮発して買った小さなダイヤのスタッドピアスがキラキラと光って綺麗に見えた。
「気が向いたらいつでもいらっしゃい」
「うん……モノクロの映画なら髪を切って新しい恋が始まるんだろうけど」
「ふふふ、そうね。じゃあ、ハッとするようないい女にしてあげるわよ」
私は翌日、髪を切った。
あの日から、毎晩やって来ていた黒猫は今夜は来なかった。
代わりになってきたのは、無骨な感じの背の高い男だった。
「明日は、来るかしら? 定休日だけど……アジを焼いてあげようかしら」
恋人でも待つような気分だった。
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