第15話

彼……黒崎さんは片づけまで済ませて帰っていった。


2ブロック先の輸入食品店の2階が自宅だと言った。

おばあさまから譲り受けた店と住居をリノベーションして、妹さんとその婚約者の方が店をやるのだそうだ。それを機にこの町で仕事を探そうとしていたそうだ。

 履歴書代わりのレポート用紙に名前と住所を書きながらそう言った。


「うちも2階が住所なのよ、このあたりの商店街の店で昔からあるところは作りが割りと似てるのかもしれないわね、うちは厨房の奥が住居のリビングキッチン兼休憩室、2階が私の部屋になってるのよ」


兄さんはコーヒーを飲みながら眠たそうにあくびをした。


「俺はこの前の美容室が家だからね、まあ、ここは実家ってやつなんだけどね。今はコイツひとりで住んでるってわけよ、兄としては若干心配なんだけどね」


「でも、妹とその男と一緒に住むのもいかがな物かと思いますよ……俺、邪魔感満載ですから」


彼は、そういって少し笑った。


 なんて、顔をして笑うのだろうか……そう……久しぶりに、誰かの……男性の笑顔にときめいた。こんな気持ちは高校生とかそのくらいの頃に感じた記憶で、忘れていた感情だった。


 彼も兄さんも帰って行った家の中はいつものように静か過ぎて無駄にテレビをつけた眺めた。

 お風呂を済ませて部屋に戻ると立て掛けた鏡を見ながら化粧水を叩き込む。みていないテレビでお笑い芸人がよくわからないギャグを連発していた。


 タオルを外して無造作にガシャガシャと髪を拭くとドライヤーも当てずに大きく伸びをした。


「そうえば、ドライヤーなんていつから使ってないんだろう」


大きな独り言を吐き出す。


 いつからちゃんとしたメイクをしていないだろうか? とりあえず普通に客前に出て恥ずかしくない程度の化粧しかしていない。


あの頃は、トイレに幾度に化粧なおしをしていた。まつエクに行き、その上にさらにまつげをつけて元の顔が分からないような化粧だったかもしれない。


はじめの頃は下ごしらえしかさせてもらえず、爪はボロボロだったのにシャワーのあとにネイルケアもかかさなかった。

仕事中はきっちりとまとめなくてはいけないのに朝眠くても早起きをして髪を巻いて出勤した。


そうだ

あの人は、長い髪が好きだった。


「君の髪は絹糸みたいだな。しっかりしてるのになめらかだ」


あの人は、私の名前を呼ばなかった。

知ってはいたはずだが、一度も呼んだことがなかった。情事の最中も、店でも、どこでも『君』と呼んだ。


奥さん、という肩書きの人が来て頬を叩かれたあの日。終わっていたはずの感情に泣いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る