第4話

――それは激しい雨の降る日だった。


 学校に行くために知らない場所に引っ越してきたばかりでの慣れない独り暮らしで、まだ周りにも馴染めない頃。


家庭科の成績が悪くて居残りしていたら、帰り際雨がひどくなってた。


 視界のよくないなかで泣きながら帰宅しようとしていた私は、うっかり普段と反対の道に進み、道に迷ってしまった。


それだけじゃなかった。ぬかるんだ道に足をすべらせて、すべった私は、そこに前のめるように倒れた。


「いたーい……」

 雨足は強くなる。

帰るどころか、私は疲弊してしまい、心が折れかけていた。


いつのまにか、くじいた足を引きずり、学校に引きかえそうそこで休ませてもらう方がいいと判断して逆方向へ向けて歩く。

横を、すごい速さでトラックが走ってきた。

「きゃっ!」

私はビックリしてまた転びそうになり、なんとか踏み留まりながら歩道の白線から出ないよう、ゆっくり歩いた。


「あぶないなあ、もう……」


――いいですか。

味噌汁くらい作れないと、卒業なんてできませんわよ!


先生の言葉が脳裏に浮かぶ。

今日は、なんなのよぉ。

そうこぼしそうになったタイミングだった。

足もとの道が崩れていた。道路が、割れていた。行き止まり、と看板がある。


「嘘……」


転んだことで引き返すのを忘れて、また同じ道に来ていたとやっと気がつく。



そして、この道からは帰れない。


もう60分は歩いたのに……


「とほほ」


私は自分にあきれながら、また歩き出す。

近くには家も何もない。

 気温がさがってきており寒さが私の熱を奪っていく。

ここは田舎で帰り道が山の中だ。すぐコンビニが見つかるとこじゃない。

かじかんだ手足。

思考がうまく回らなくなってきた。


これは、まじでやばい。


もしかして、もう死ぬのか。

生きてるうちにお味噌汁くらい、作れるようになりたかったな……


空はだんだん暗く影を増していった。

一人で暗闇の中をずっとあるく。もはや歩いてるのか、身体がゆれているだけなのかわからない。

 ふっと意識が遠退き始めた頃。

背後から車の音。


え、嘘。

わざわざこんなところに人が来るわけがない。


数メートル先から、窓の向こうでぱくぱくと口を動かす男の人。


「え? なに?」


私は夢中でそっちに向かった。もはや頭がまわらなかった。

せめて、一瞬、誰かとふれあって死のう……


「きみ、大丈夫だったー? あのさ、さっき俺の車の横でこけてたでしょ!」

停車すると、そこから駆け寄るのは梅雨の空の暗さには似合わないくらい少し日に焼けた、健康的な青年。

さっきから、大丈夫だったかと私に聞いてたらしい。



「あぁ、はい……」


「良かった! 俺味噌汁持ってるんだけどさ!」


そう言ってあたたかそうな水筒をこちらに渡そうとしてくる。


「え? あのっ」


「この辺ややこしいからなー。この雨で、道間違えちゃったんだろ」


「はい」


ずいぶん自分のペースで話す彼は、自分が濡れるのも気にせずに味噌汁をひたすら押し付ける。


「冷えたでしょ。な? あったかいもの飲んで、頑張って帰りな」


「は、はぁ」


「俺はこの崖に用があるから、送れないけど」


「あっ田中さーん、生きてますかー?」


 彼は走っていき、崖に、やまびこみたいに声をかけている。エコーさんは返事をしない。


「あ……あぁ……」


流れで手にした銀色の水筒。開けたら、ほかほかと湯気がたっていた。

ごくっと、味噌汁より先に唾を飲む。


「飲んじゃいなー! イエイ! 熱々だよーん!」


田中さんと私に交互に話しかける青年。


「はい……」


「毒は入ってませーん! ついでに俺口つけたりしてないからご安心を! うちの母ちゃんに証言とれるんです」


「へぇ」


お母様を存じない。


 つまりあの人は、私に渡すためだけに味噌汁を作ってきたのか。

なんてことだ。


「田中さーん!」


青年が元気よく声をかけている。何があったかは知らないけど、田中さん無事だろうか。


心細さが一気にほどけてきて、私は、なんだか胸がいっぱいで泣きそうになっていた。

そっと、蓋のコップに注いだ味噌汁をすする。

あたたかさが身体中に染みていく。


あぁ、生きている。


中から小さなにぼしが顔をだした。


「やぁ。無事でよかったね」

とくん。


「俺は、しがない、にぼしだよ」


にぼし、は銀色のボディを見せつけながら私に挨拶する。にぼし、さん……



「彼から、きみのことを任されたんだ。だから俺は、この味噌の海を通り、ここまで来た。

さあ、食べてくれ」


「でも、食べてしまったら、貴方は……」


「そのくらい覚悟できてんだよ! なめんな」


「……っ」


なんて雄々しいのだ。

私の両目から涙が溢れる。


「おいおい、しゃあねーやつだな。接種したばっかの水が流れるだろ」


「田中さーん! 田中さああん!」


「……ああああっ。にぼしさん、嫌、せっかく、せっかく会えたのに!」



運命だったのだ。


こうやって、出会えたこと。


「おい、そんなに泣くなよ。

別れるんじゃない、お前と一緒になるだけだ」




にぼしさんが、水筒から私を困ったように見つめる。

なかなか決心がつかないからだろう、諭すように彼はゆっくりと私に語りかけはじめた。


「あいつが、抜き忘れたんだ。はやくのまねえと、渋味がどんどん出て、

どのみち、味噌汁が俺にそまっちまう。


それは、したくねぇ。


頼む。あいつに、お前に合わせてもらったあいつの味噌汁が、俺になっちまうのは、嫌なんだ!!」



さぁ、早く、と彼は諭した。


私は涙をぬぐいながら、「わかった」と、

覚悟を決めた。


それを飲んでいく。

ゆっくり、ゆっくり。


ゆっくり、ゆっくり。


「ごめんね」


ごく、ごく、ごく……


頬に、一筋涙が伝う。







私たちの出会いは


運命だった。


まだ、あなたの感触が染み付いている。





あなたが、私に愛することを教えてくれた。





















「こうして、私は、無事に家に帰ることが出来たの」


私はこれまでの全てを、途中何度も涙ぐみながらも語った。

今も、忘れていない。

私が愛したひと。

ううん、にぼし。


手のひらにいる、そのにぼしは、「そうか……」と答えた。


「残念だが、それは俺じゃないな。うちの家系の誰かだろう」



「それでも……私、私、会いたかった。

ごめんなさいって、もう少しお話すればよかったって」



セグロは、私に言う。


「そいつは、お前の力になりたかったらしい。


それができて、うかばれてるさ」




そうかな。

だったらいいな……


それとあの青年と田中さん。今、どうしてるのだろうか。



「お前がにぼしを愛したのはわかった、だが、それは俺じゃない」


「まって、続きがあるの!」


それから私は、あのにぼしに会いたくて毎日近所のお店を回った。


ううん。

いないって、わかってる。なのに、どうしてか、足を運んでしまう。




あの感触を、忘れたくないから。


私も誰かに、お味噌汁をつくれるようになろうと決意したから。

 にぼしが売られるコーナーを、放課後は必ずチェックしていた。

だけど、買う勇気が出る、ピンとくるものは、何ヵ月と、何年と現れなかった。



「でも今日ね……スーパーであなたに、会ったとき、私、なぜか吸い寄せられるようにレジに走ってた」


運命だった。

パッケージ品なのかすらわからない、絶対このにぼしだって確信もなかった。

あの青年ともあれからすぐ別れて、聞けなかったし、また会うことはなかった。


なのに。


「昨日、お味噌汁を作ろうと、そのにぼしを開けたら、涙がこぼれたわ。


あの香り。

あの色。



あの日と、おんなじ」





夜、にぼしを食べた。


その瞬間、恋に落ちてしまった。


美味しかったのだ。


にぼしを食べることの喜び。

にぼしを愛することの喜びを知った。



私は、やっぱり、にぼしを愛している。

何度も探して、こんなに嬉しくて。



その想いの強さを、深く知った。




私は帰宅しておやつがわりにと味噌汁用だった袋を手にしたそのときから……

恋は始まる。


運命の歯車のなかで、私たちは、出会った。



「好き、好きなんです!

セグロさん。

会えて、嬉しかった」


たとえ、にぼし子さんが居ても、


私。


うああああん!


私は泣いていた。

にぼし子さんと幸せになって欲しい。

ただ、私は。私は……


「にぼし子? おいおい、にぼし粉のことか。 あれはにぼしをもとにした粉末だよ」


「え?」


涙が、ひっこむ。


「俺は誰とも付き合わず、

気がつけば、にぼしになっちまったんだ。それに、そりゃ、前のにぼしを引きずってんだろ」



「違いますっ!」


似ていたからってだけじゃない。


「私ね、今日、はじめて、自分でうまくお味噌汁を作ったの。


あの日から苦手な家庭科も、一杯練習して、成績があがったよ。

だけどね、昨日のは、まだ、試作。飲んでなくて……本番は今日」














「だから、あなたが、今、あの袋にいるにぼしが、私のファースト味噌汁なのよ」

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