009 SIDEみぎわ~かつてない充実感



 地下鉄に揺られること数十分――通勤通学の客が大幅に増えてきた。


 俗に言う通勤ラッシュ。都内に通う人間は、まずこれに慣れるという試練を乗り越えなければならず、一種の苦行とすら言えるだろう。

 そんな中、ロングシートに悠々と座ってのんびりしている者たちもいる。

 有倉みぎわもそんな『勝ち組』の一人であった。


(ラッシュ時に座れるのも、始発の特権みたいなものだよねぇ♪)


 みぎわの会社の最寄り駅は目黒――浦和美園からは一時間ほどかかる。折角始発から乗れるというのに、座るチャンスをみすみす逃す手はない。みぎわは当たり前のように遠慮するつもりもなかった。

 結果、みぎわは実に快適な時間を過ごしていた。

 ラッシュ体験自体は、新卒から数年間は経験していたが、ここまでゆったりと乗車するのは間違いなく初めてだった。

 ある意味これも、貴重な体験である――みぎわは心からそう思っていた。


(それにしても……)


 みぎわは不意に一昨日の夜のことを思い出す。


(まさか私ともあろう者が、メッセージの送り先を間違えちゃうなんてね)


 そう――あの日、みぎわが片瀬律に突如送ったメッセージは、誤送信だった。

 本当は会社の同期に送るはずだったのだ。大学時代からの友達でもあり、同じ女性として色々と愚痴やら何やらを聞いてもらおうと思い、あんなメッセージを打ち込んで送信したのだった。

 その相手が、高校時代からの知り合いである男子であることも知らずに。

 有体に言えば『誤爆』であり、下手をすればとんでもない展開に発展してしまう可能性も十分にあり得た。

 そうならなかったのは、本当に奇跡としか言いようがないだろう。


(今更だけど私……とんでもないことしちゃったなぁ……)


 いきなり一緒に電車に乗ってまで家に押しかけ、あまつさえ二晩も思いっきり泊まってしまった。

 しかも急きょ買い揃えたお泊まりセットを、彼の家に置いてくる始末だ。


(何を考えてるのよ? あれじゃ通い詰めるって宣言してるようなものじゃない)


 また来るね、とは確かに言った。普通ならば社交辞令も良いところな言葉も、あんなことをすれば本気と捉えられても不思議ではない。


(片瀬くんはどう思ったかな? 急に変なことを口走ってくる女とか、そんなふうに思って避けたくなったりしていないよね? 私が置いてきたお泊まりセット、気持ち悪くなって捨てるとか……流石にそれはないと思いたいなぁ……)


 彼は確かに「あぁ」と頷いてくれた。少なくとも拒否反応は見せていない。

 他の男性であれば、判断する材料としては不十分だ。しかしそれが片瀬律であれば話は別だ。


(彼、嫌だと思ったら普通にそのまま言うタイプだもんね。高校や大学の時も、空気読まずにズバズバ言ってヒヤヒヤすることもあったし……でもそれって言い換えれば裏表がないってことだから、拒否していないということはつまり……そういうことでいいんだよね? うん、多分そうだよ!)


 考えているうちによく分からなくなってきたため、自分の中で強引に都合の良い解釈で締める――言ってしまえばそんな感じだ。

 別にそれ自体は珍しくもない。みぎわという人物にとっても例外ではなかった。

 これを口に出していないという点では、流石だと言うべきだろう。


(それにしても……楽しかったなぁ)


 そして思い出すのは、昨日の出来事であった。


(あんなに一日中しっかりと遊んだのなんて久々だったし、おかげで今朝もすっごい目覚めが良かったんだよねぇ)


 なんだったら、かつてない充実感を味わったとすら言えるレベルであった。

 いつもは一時的に心を空っぽにするためのものでしかない映画も、純粋にワクワクして観ることができた。その前後のウィンドウショッピングも、実に楽しく回れたのは間違いない。ただ単に流れ作業の如く回っていた時とは圧倒的に違う。


 彼女自身は気づいていないが――みぎわは『本当の意味』で息抜きができたのだ。


 これまで彼女が行っていた息抜きは、単なる形でしかなく、中身はまるで伴っていないと言わざるを得ない。

 だからこそ流れ作業の如く行うだけであって、心は満たされていなかったのだ。

 それがここに来て急転した。

 奇跡的な再会と、そこから繋げた行動力の大きさが、今の彼女を作り出した。これはとても凄いことなのだが、今のみぎわはそこまで理解できていない。


(浦和美園なら私の知り合いもいないし……来週、本当に遊びに行こうかな♪)


 みぎわは早くも翌週末のプランを考え出していた。


(またショッピングモールもいいけど、近所を二人でお散歩するっていうのも普通にアリだよね? むしろそのほうが彼も落ち着けるかも……片瀬くん、人の多いところあまり好きじゃないし。ご飯は普通にお家で二人で食べればいいだけの話だし。なんだったら私の奢りでウーバー頼むとか……うん、それも楽しそうだわ♪)


 そしてその表情は、どこまでもワクワクした笑顔であった。

 まるで子供のようなそれは全然隠しきれていない。そしてここは、乗客がほぼすし詰め状態となっている電車の中だ。

 そうなれば――


(えっ? 何このOLさん?)

(メッチャ可愛いし)

(この時間にこんな人、乗ってきてたっけかなぁ?)

(俺、明日から毎日この時間に乗るぞ!!)


 周り――特に男を中心に、このような反応を示すのも無理はないものだった。

 みぎわ本人はあまり自覚していないことだが、彼女も抜群のスタイルを持つ立派な美人なのだから。


 しかし、彼女に注目していた男たちは知る由もない。


 みぎわが普段この電車を利用しておらず、あくまで今日が特別なだけであること。明日からは当たり前のようにパッタリと姿が見られなくなることを。


(あー、もうっ♪ 早く次の週末がこないかなーっ♪)


 そんな男たちの注目などまるで気にも留めず、みぎわは彼との時間をどう過ごすかについて、ただ夢中になって考えていた。



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