008 何故か妙にしっくりくる
迎えた翌朝――時刻は七時に差し掛かろうとしていた。
「それじゃあ片瀬くん、色々とありがとうね!」
玄関先で有倉がクルッと振り返り、朝に相応しい明るい笑みを見せてくる。
いつもならグダグダとしている時間帯ではあるが、今日は違っていた。背筋を伸ばしてスーツを着こなすその姿は、まさに『ビシッ』という擬音がピッタリであり、髪を後ろで束ね、ナチュラルメイクで仕上がったその笑みは、実に凛としていてカッコ良いという以外の言葉が思い浮かばない。
まさにバリバリのキャリアウーマンと言ったところか。
とても昨日みたいな子供っぽい表情をしていた人物と同じだとは、全くもって思えないほどであった。
「朝ご飯も美味しかったよ♪ また遊びに来るからね」
「あぁ。またな」
俺もそれ以上は言うつもりもなかった。別に今生の別れというわけではなく、何だったらまたすぐに会える予感しかしないというのが正直なところだ。
何せ有倉のヤツ、この休み中に着ていた私服や洗面用具を、当たり前のようにウチに置いていくと言い放ったからな。俺も思わず反射的に「あぁ、そう……」と頷いてしまったほどだったよ。
けどまぁ――悪い気分が全くしない自分がいるのも、また確かであった。
むしろ妙な安心感が体の中を過ぎっている。思うように言語化できないという意味では得体の知れないものではあるが、何故か不快感はなく、むしろ心地良いとすら思えてくるから不思議だった。
今の俺にとっては、その気持ちだけで十分だった。
ここで『何故?』という疑問をわざわざぶつける必要もないだろう。余計なことを言わずに、お互い爽やかな気持ちのまま別れる――それでいいじゃないかと。
「良かったら駅まで見送るぞ?」
「ここでいいよ。また歩いて戻ってくるの面倒でしょ?」
苦笑する有倉の反応は、正直ありがたかった。何せここから駅まではニ十分くらいの距離なのだ。ゆっくり歩けば平気で三十分にはなるだろう。
そんな距離を歩いて戻ってくるのは、流石に好き好んでしたくはない。
だからここは、素直にお言葉に甘えさせてもらおう。
「――電車は始発だから座れるとは思うが、まぁ気を付けてな」
「ありがと♪ じゃあね片瀬くん」
手を軽く振りながら、有倉は颯爽と歩き出す。まさにその後ろ姿は、これから戦いに挑む企業戦士という言葉がピッタリに思えてならない。
有体に言えばカッコ良く感じたのだった。
だからといって、もう俺がその立場になるつもりは、サラサラないんだけどな。
この土日で少し考えてみたが、やはり俺に会社勤めは無理だ。まぁやろうと思えばできなくはないだろうけど、無理がたたって体を壊す未来しか見えてこない。
そうなったら本末転倒もいいところだ。
実家の両親に余計な心配をかけさせてしまう。それだけは避けたいところだ。
「土日は知り合いの家に泊まって、そのまま直で出勤か……よくやるわ」
声に出して呟くと、有倉の凄さが改めて分かったような気がする。日曜日で十分にリフレッシュしたことを考慮しても、そのエネルギッシュさは半端ないと。
俺だったら週明けは『だるい』の一言でしかないのにな。世の社会人や学生の七割くらいはそうだと思う。
あくまで多分ではあるが、何故か妙な自信はある。不思議なことにね。
そんなどうでもいいことを考えつつ、俺は家の中に戻った。
元々小さな平家であり、有倉がいたことで余計に狭くなっていた。それが今しがたいなくなったため、元の広さに戻ったのだ。
しかし――
「……なんかちょっと広いな」
思わず声に出してしまうくらいに、そう強く思った。ついでに言えば、余計に静まり返った感じさえする。一昨日まではこれが当たり前だったのに、今では何故かそれが少し寂しく感じて仕方がない。
不意に俺は、ちゃぶ台の一角を見下ろす。
ほんの十数分までそこに座っていて、無防備に見上げてきていた笑顔は、もうそこにはいない。
まるで当たり前にいた人が、忽然と消えてしまったかのように。
――もしかして俺は、楽しかったのか?
不意にそんな答えが頭を過ぎる。
何を馬鹿なことを、と自分で自分を笑い飛ばしてやりたいはずなのに、何故かそれができない。むしろよく導き出せたなと、褒め称えたくなる。
脳内に蘇るのは昨日のこと。
ショッピングモールで過ごした二人での一日が、鮮明に思い出せてしまう。
いや、それを言えば一昨日の夜も――
新宿駅前で偶然の再会を果たし、なんとなく二人で過ごすことになったあの時からずっと――
色々と吹っ飛んでるのに、何故か妙にしっくり来てしまう。
高校や大学が同じだったとはいえ、友達と呼べるほどの付き合いがあったわけでもない男女が、いきなり再会してここまでのことをするだろうか?
いや、普通はしない。
むしろその場で別れてハイ終了……が関の山ってもんだ。
なんか前にも同じことを考えたような気がする。
「……いっけね。洗い物してなかった」
不意に流しのほうを見て、二人分の朝食を終えた後の食器が水に晒されたままであることに気づいた。最初は有倉が洗うと言っていたが、出勤の準備もあるだろうからといって、俺が後回しにさせたのだった。
そう考えると俺って、なんか有倉の保護者みたいな感じするな。
行動だけ考えれば、割と間違っていない自信がある。
昨日の夕食も作ったのは俺だったもんな。有倉が実は料理苦手だと知って、自然とそうなっただけの話なんだけど。
しかしまぁ、別に悪くはないとは思っていた。
俺の作ったカレーを『美味しい美味しい』と笑顔で食べてくれる姿は、純粋に嬉しいと思ったからな。
それから交代でシャワーを浴びて、そのまま就寝したのだが、その流れも実に自然なものだったと言えるだろう。
当たり前のように何もなかったのも凄い気がする。
「さてと……」
洗い物を終えて、俺は部屋の隅っこに視線を向けた。
そこには部屋干ししてある有倉の私服があり、これをどうにかしなければならないという問題が残っていた。
「確かどっかに一つ……カラーボックス余ってたよな?」
もはや細かい疑問など浮かぶこともなく、俺は家の中を探し始めた。
結果的に大掃除レベルの捜索をする羽目になり、今日一日の予定がそれで潰れてしまったことを、ここに追記しておこう。
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