12・美沙の母親

第21話

その後はどうやって帰って来たのか、よく覚えていなかった。


 送らなくていいって断ったけど、やっぱり家の前まで海斗が一緒だったとは思う。ただ、何かを話した記憶も無く、もしかしたらずっと無言だったのか、それとも海斗が何か話していたのか……。


 私は自分が守ってきた世界が壊れていくような気がして、それが恐かったのかもしれない。これから漠然と考えていた未来が変わっていくのだろうか……?


 だけど、海斗が言っていた通り、友達と呼べる海斗と美沙の存在自体がもう既に一人で生きてきた世界から変化が起きていた。今までの世界が壊れても、綺麗な世界が待っているような、そんな錯覚さえあって混乱していた。


 これ以上考え込んでも仕方が無いと思って、寝るために部屋の電気を消そうとした時、LINEの受信音が鳴り響いた。


 海斗かと思って見るのを少し躊躇したけど、送信者は美沙だった。


『話したいことがあるの。明日会えないかな』




 部屋に掃除機をかけているとチャイムが鳴った。足音を立てて物凄い勢いで睦月が玄関へ飛び出して行ったのが聞こえた。


「パパ! ママ! 葉月ちゃんの友達が来たよ!」


 ご近所中に聞こえるんじゃ無いかというくらいの大声で、睦月が大声で両親を呼んでいる。


 いや、この場合は私を呼ぶのが普通だと思うけど……。


 私は掃除機を片付けて一階に下りていくと、両親と睦月に囲まれた美沙が見えた。表情は分からなくても、多分、とっても困っているだろうと思われた。


 母が美沙をリビングに連れて行こうとしていたから、慌てて「私の部屋に通して!」と母に強い口調で言った。


「ごめんね、家に友達が遊びに来るなんて小学校に入学した頃以来だから、家族が舞い上がっちゃって」


 私は小さな白いテーブルの上に、紅茶を出して美沙に勧めた。


「いや、歓迎されて嬉しいよ。……葉月のその顔を認識出来ないっていうの……病名があるよね?」


「病名はついたこともあるけど。私の症状とぴったり合うのは無いんだよね」


「そうなの? 調べてみたけど、同じような症状の人が結構いるって知ってビックリした」


 美沙も気になって調べてくれたのか。海斗も話した次の日に、調べたって言ってくれたな……。


「葉月、元気ないんじゃない? 何かあったの?」


 美沙が私の顔を覗き込んだ。笑っているわけじゃなくて、表情は相変わらずよく分からない。


「そうかな? 美沙の方こそ、話って何?」


「うん……。あ、そう言えば、葉月って私の顔も分からないんでしょ? でも、私だって認識していないと感じたことは無いんだけど。どうして?」


 美沙は髪型や髪飾りをよく替えるから、認識までには少し時間が掛かる方だった。


「いつも、すぐには分からなかったの。髪型とか毎日違うし。でも、美沙は大体話し掛けてくれるから、声や仕草で分かるし。それに、その大きな目と口元のホクロが目印かな?」


「そうだったんだ。葉月も色々と苦労してきたんだね……」


 美沙は紅茶のカップを手に取ると、小さくため息をついて口へ運んだ。多分、私ではなく自分の苦労へのため息では無いかと思った。


「昨日はいきなりだったし、長谷川君もいたからきちんと話せなかったんだけど……」


 病院にいたお母さんのことだろう、というのはすぐに分かった。


 だけど、そこから美沙はなかなか話が出来なかったようで、紅茶をすすりながら、カップをソーサーに戻さずに握り締めるように抱えていた。


「そうだ、長谷川君の好きな人って分かった?」


 どうしても本題に入れないようで、そっちへ話が行ってしまった。私はため息をついて下を向いた。


「ごめん、聞いちゃダメだった?」


「……そういう訳じゃないけど」


 出来れば、今はあまり思い出したくない。海斗のことを思い出すと、返事を考えなくてはならなくなるから。


 私は黙ったまま紅茶に砂糖を入れて、スプーンでかき混ぜた。


 そうして暫く沈黙が続いて、二人ともただ紅茶を口に運んでいた。


「……昨日の、あの病院でのこと。誰にも言わないで欲しいの」


 ふいに美沙が口を開いて沈黙を破った。


「……もちろん。そんな発想なかったし、私には話す人もいないから」


「そっか、ごめん。そうじゃなくて……これから話すことも」


 一瞬、美沙が口止めをしに来たのかと思ったけど、美沙もそう思われたと感じたようで、それを否定するかのように慌てていた。


「分かった」


 私は美沙を見て微笑んだ。


「うちの母親はね、私の兄を殺したあと、はじめは病院じゃなくて刑務所に入ったの。その間、私と妹は児童相談所って所に連れて行かれて、この後どこに行くかを決められたの。父親は兄の死がショックで、私たちと暮らすことを拒否したから」


 美沙の紅茶のカップを握る手が、小刻みに震えているようだった。


 美沙の双子の妹の話になると、どうしてもあの雪町駅のベンチで発見された推定年齢七、八歳の女の子の顔写真が思い出されて仕方が無い。三年前には私達は中一だったから、どんなに背が低くてもそこまで小さい子には思われないだろう、と分かっているけど……。


 そんなはずは無いのは分かっていても、あの女の子と美沙が双子のように似ていると思えた。少なくとも、鼻と口はそっくりだった。


「妹は子どもがいない夫婦に引き取られて養子になったの。父は二人とも養子にと言ったようだけど、母がどうしても一人は手元に残したいと言って、姉の私が残された。私は児童養護施設に行ったの。当時のことは何となくしか覚えていないけど、私は三年間そこにいて、小学校に入る年の春休みに母が出所して一緒に暮らすことになったの」


 精神を病んで息子を殺めた母親が、また他の幼い子どもと一緒に暮らすことを許されるのか。精神的に正常だと認められての同居なんだろうけど……その現実に愕然とした。


「父は母が刑務所に入っている間に離婚して1人で暮らしていたけど、施設には時々面会に来てくれたの。だから、いつかお父さんと暮せるって思っていたんだけど、迎えに来たのは母だった。母のことはあまり覚えていなかったのだけど、それでも自分にお母さんがいたことを知って嬉しくてね」


 当時、美沙は母親が兄を手に掛けたことを知らされていなかったという。だから、ただ優しいお母さんが迎えに来た、と美沙は喜んでいたのだった。


「だけど、母と暮らすのは大変だった。急に機嫌が悪くなったり、予定を忘れてしまったり、一つのことに固執してしまうと、何も出来なくなったりしていて。何とか働いていたようだけど……」


 美沙は段々話すのが辛くなって来ているようだった。私は美沙が話したいならと思って聞いているけど、どうしてこの話を私にしているのかよく分からなかった。


「……話すのが辛かったら、無理しなくていいよ」


「ううん、葉月に聞いて欲しいの」


 吐き出したい想いがあるのだろうか。


 私はゆっくり頷いて、美沙の大きな瞳を見た。


「母はね、母親としての役割はあまりしてくれなかったの。ご飯の準備とか、家の掃除とかは勿論だけど、学校に必要な物も準備してくれなかったし……。それを助けてくれる人もいなくて、学校の先生が何かと面倒を見てくれた。だけど、着る物は同級生のお下がりを貰ったり……それでからかわれて惨めだったな」


 私の小学校時代も誰の顔も覚えられず、何が何だか分からなくて酷いものだったけど、美沙もまた違う次元で辛い幼少期を過ごしていたんだ。


「それから、どうしてバレたのか分からないけど、母が兄を殺したことが職場にも近所にもバレてね。母が歩いていると人殺し! って石を投げられるし、住んでいたアパートのドアにも落書きされて、当然仕事はクビになって学校でも人殺しの子ども呼ばわり。毎日泣いていたけど、給食を食べるために虐められても学校に行っていたの」


 美沙の大きな目から涙は出ていなかったけど、涙声になってきたのが分かって、私の目に涙が溢れてきた。でも、手の甲で涙を拭いて泣かずに聞こうと思った。


「母は追い詰められて“さとしを助ければいい”って言い出したの。過去に戻って兄を殺さなければ、今のこの辛い生活は無くなるって考えだと思う。私もそうして欲しいと本当に願ったわ」


 美沙の口元が笑ったように見えたけど、目は相変わらず笑っていなかった。


「そのうち、母は朝になる度に、『過去に行ったけど、また聡を助けられなかった』って言うようになったの。時々『聡じゃなくて、あんたを殺せばどうなるかしら?』なんて言ったりして……段々母が恐くなってきた」


 小学1年生の女の子がそんな母親と2人暮しなんて、私には想像もつかなかったけど、考えるだけで恐かったと思う。


「……母はそれから間もなく、あの病院に入ったの」


 美沙はまだ何かを言おうと口を動かそうとしているように見えて、私は暫く話の続きを待っていたけど、美沙はそれ以上何も言わなかった。


「どうして、お母さんの話を私に聞いて欲しいと思ったの?」 


 私は話が終わったと感じて、後ろのベッドに上がってバラの形のクッションを抱えた。


「昨日、お母さんのところで会ったから……。誰にも話せないけど、誰かに知って欲しいって気持ちが常にあったんだと思う」


「そっか。それは少し分かるな……」


 それでもどうしても引っ掛かるのが、あの白い花束だった。私は思い切って聞いてみようか、やめようか……と、心の中で考え始めた。


「あの日……葉月に買い物を付き合ってもらったでしょ?」


 思いがけず、美沙の方からその話をしてきた。


「あの花束のこと、葉月は気付いたよね? あの遺体の顔写真も私と似ていたって……」


 私は何か良くないことを言われるような予感がして、少し胸の高鳴りを感じながら小さく頷いた。


「あれは……私なんだ。母が過去か未来か、どこかで殺した私」


 美沙が何を言っているのか分からず、私はただ呆然と美沙を見ていたけど、美沙はもうそれ以上は自分の話はしなかった。

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