11・夜の教室で

第20話

結局何を怒っているのかも分からず、いまいちの雰囲気のまま叔父さん達に挨拶をしてお店を出た。外に出るともうすっかり暗くなっていた。


「まだ時間大丈夫?」


 海斗が腕時計を私に見せた。黒いダイバーズウォッチを覗き込んで、私は時間を確認してから頷いた。


 海斗はお店の裏に停めてあったいつもの黒い自転車を出して来て、「後ろ乗って」と言った。


「どこに行くの?」


「学校。校舎の中に入れる場所、知っているんだ」


 夜の学校なんて、気味が悪いだけだ……と思ったけど、わりと近くてあっという間に着いてしまった。正門は施錠されているけど、林を抜けたところにある裏門はいつも施錠されていない。海斗は校舎の裏にある窓の下に自転車を停めると、「ここは鍵がバカになっていて掛からないんだ」って言って校舎の一階にある窓を開けた。


「なんで学校なんて来たの? 夜の学校ってちょっと恐い」


「俺の好きな子の席、教えてやるよ」


 席を教えてもらっても、それが誰だか分からないと思う。教えるなら名前でいいのに。


「二組の子?」


 薄暗い中、階段を上がりながら聞いても答えてくれない。


 一年生のクラスがある四階に着くと、海斗が入ったのは私のクラスだった。


「二組じゃない。五組なんだ」


「そうなの? だったら、月曜日にその席に座った子を確認すれば分かるかも……」


 そう言っていると、海斗がおもむろに椅子を引いて腰かけた。


「ここの席の子」


「…………そこ、私の席だけど」


「知っている。だから葉月が好きなんだ。ずっと伝えようとしていたのに、全然分からないんだよな、おまえ」


 えっ? どういうこと? 


 暫しの混乱のあと、私はマズイ、と思った。

 綺麗な子だっていう言葉に騙されて、すっかり自分を除外していた。


 つまり、やっぱり海斗が好きなのは私だったということ、だよね?


 だけど今日だってはぐれたり精神病院に連れて行ったり、引かれる要素も満載だったと思うんだけど……。


「どうして……?」


「だから言ったじゃん。一番は綺麗だから。すげえ綺麗に笑うんだよ、おまえ。それに、俺の耳にも聞きやすい声だから自然体で話せるだろ? 本当に一緒に居ると楽なんだ。自分のことでは泣かないのに俺のために泣いたりして……可愛いところもいっぱいあるしな」


 海斗は嬉しそうな弾んだ声で、目を三日月にしながら私を見ている。


 もう少し気をつけておけば良かった。もしも海斗が私を好きなら、ウンザリするほど嫌だと思わせたかったのに。


 私を好きなことは無いと思って油断して、思いっきり告白させてしまった。


「質問を変えるけど、どうしたら好きじゃなくなるの?」


「……どうしても好きだと思う」


 私は少し離れた机に腰掛けて海斗のイケメンと言われる顔を見た。私には目やら鼻やらは目に入るけど、やっぱり顔という概念が分からず、イケメンというものも全く分からなかった。


「私は長谷川君の顔が分からない。どんなにイケメンでも、それが全然分からないの」


「それも知っている。だから、顔は関係なく俺と純粋に会話をしているんだよな」


「だけど……顔が分からないから、私は人を好きになることが出来ないの」


 海斗の目はもう三日月の形をしていなかった。暫く私の目を見ていたけど、少し視線を外した。


「それは、違うんじゃないのか? おまえが人を好きになろうとしていないんだと思う」


 私は少し離れたところから、はっきりとは認識できない海斗の横顔を見ていた。


「そりゃあ、人を好きになるのに顔って大きいと思う。俺だって綺麗な子はそれだけで気になるし、俺に寄って来ていた歴代の彼女達だって俺の顔を見て好きになったんだと思う。だけど、実際に失顔症の人だって盲目の人だって恋愛や結婚をしているよ」


 それは知っている。

 私が自分で好きにならないようにしているのも自覚があった。

 顔が分からないから人を好きになれないなんて、たしかに私の言い訳だとわかっている。


「葉月が俺と一緒に居るのが楽しいと思えて、友達としてでも俺を好きだと思えるなら、とりあえず付き合ってみようよ」 


 とりあえず……?

 中学の時にかなりの人数と付き合っては別れてをくり返した海斗には、そんなノリで付き合えるのかもしれないけど……。


 私はそんな嫌味が口から出ないように、ギュッと下唇を噛んで下を向いた。


「待ち合わせの時は俺から声を掛ける。今日みたいに手を繋いでいたらはぐれないだろ? 表情が読めないなら何を考えているか出来るだけ言葉で伝えるよ。俺のこと知ってもらえるように、気持ちも隠さずに話す」


 優しい口調で前向きなことを話す。私には恋愛とかよく分からないけど、そんな海斗を好きじゃないわけが無い。


 たぶん、一般的にはそんなにイケていない私を綺麗だと言ってくれる。海斗がイケメンだということは私には分からないけど、それを海斗自身はどうでもいいと思っている。


 顔なんて分からないけど、海斗が男前でいい人だってことは分かる。そんな人が付き合おうって言ってきたら嬉しいに決まっている。


 だけど、私はずっと唇を噛んだまま下を向いていた。


「……血ぃ出てるぞ。口」


 あんまり強く噛みすぎて唇が切れていたけど、それでも、私は唇を噛んだまま顔を上げられなかった。


「……無理だよ」


 私は一言だけ言うと、それ以上余計な事を言わないように、また唇を噛んだ。


「なにが無理なんだよ。付き合ってみなきゃ分かんないじゃん」


 海斗の声は相変わらず明るかった。きっとあの三日月のような目で微笑んでいるのだろう。


「だって、さっき紹介してくれた長谷川君の叔父さんも叔母さんも、従姉のお姉さん達だって、私は次に会っても分からないよ。長谷川君の家族だって、友達だって覚えられない。会う度に紹介するの? この前のあの人だよって教えてくれるの? それとも、私には面倒だから会わせない?」


「別にいいじゃん。必要なら毎回紹介するし、毎回教えるよ。おまえが会いたくなかったら会わなきゃいいし」


 穏やかな明るい声のまま、海斗は相変わらずポジティブに返してくる。


「長谷川君の顔だって分からないんだよ。今はいいかもしれないけど、私にはずっと分からないんだよ」


「笑っている目は分かるかも知れないんだろ? だったら、出来るだけ笑っているよ。それに、俺にはおまえの顔が分かるから……。だから、俺は辛くない」


 私はそれでも、顔を上げずに唇を噛んだ。


「それやめろよ、タラコ唇になるぞ」


「……別にいい。どんな酷い顔になっても、私には分からないし」


 海斗の小さなため息が聞こえた。


「そんなに自分の殻の中に閉じ篭んなよ。おまえが思っているより、世界は恐いところじゃないって。そりゃ、前に色々とあったのかもしれないけど、それが全てじゃないんだから。外に出ないと何も始まらないだろう?」


 優しさはそのままだったけど、海斗の口調が少しずつ強くなっていった。


「……じゃあ、長谷川君に私の声が聞こえなくなったら?」


 私は少しだけ顔を上げて、上目遣いで海斗を見た。海斗の目が真っ直ぐ私を見ていた。


 それから、その目はまた三日月になって「それでもいい」と言った。


「声が聞こえなくても、色んな方法で話は出来るから。音声を変えるアプリもあるし、筆談だって出来るだろ? おまえがそういうの面倒だって言うなら、俺がもっと読話を練習する。読話って、唇を読んで相手が何を言っているか分かるようにするんだけど、今はまだあまり出来ないんだ」


 海斗は自分の事に対しても本当に前向きなんだ。


 どうしたら、そんなに強くなれるんだろう……。


「だけど、俺は葉月の声が好きだから。ずっと聞こえなくならなければいいな……」


 それを聞いて、酷いことを言ったと後悔した。海斗に向かって、もしも聞こえなくなったら、なんて言えてしまう私は最低だ。


 そう思ったら、また顔を上げられなくなった。


「ごめんなさい、酷いことを言った」


「……謝るようなことは言ってないよ。葉月の不安は当然だし」


「だけど、付き合うのは無理だから」


 私は下を向いたまま、また唇を噛んだ。


 暫くの間、海斗も黙ったままで、夜の教室の中が静まり返っていた。


 もう帰りたいと思ったけど、自分から動くことが出来ずにただ唇を噛み締めていた。


「唇噛むのやめて、言いたいこと全部言えよ」


 言いたいことじゃない。唇を噛むのを止めてしまうと、言いたくないことを言ってしまうんだって、海斗は分かっていない。

 私は涙が出そうになったのを必死にこらえた。


「何言われても怒らないから」


 そう言った海斗の声は穏やかだったけど、さっきまでの明るさは消えていた。


「……言いたいことなんて無い」


「じゃあ、なんで付き合えないのか教えろよ。納得が出来ていないんだ。おまえの不安には全部答えたよ、俺」


 そうかもしれないけど、こっちだってそれで納得したわけじゃない。

 家族や友達の前で会う度に覚えていないと失礼だし、相手が不快に思う。そういう子なんだって説明しても、海斗の大切な人達に不愉快な思いをさせることには変わりが無い。


 海斗の顔が分からないことだって私は嫌だし、自分の声が海斗に届かなくなるのも嫌だと思う。


 だけど本当は――付き合えない理由はそんなことよりも、もっと前の段階にあった。


「長谷川君が言う通り、私は誰かを好きになろうと思っていないの」


「だからさ、そんな頑なにならないで、試しに付き合ってみようよ」


 海斗が座っていた私の席から立ち上がろうとした。


「試しに? そんな気軽に言わないでよ」


 私が低い声を出したから、海斗は立ち上がったまま動きを止めて、その場で私の方を見た。


「長谷川君はいくらでも次があるんだから、別に私じゃなくてもいいよね。たまたま今は好みだと思って、声も聞こえて一緒に居ると楽かもしれないけど。でも、長谷川君ならそんな子はこれからだっていくらでも出会えるよ。中学の時みたいに受け身じゃなくなれば、いくらでも見つかるよ。私には分からないけど長谷川君は超イケメンなでしょ? 優しくて心も大きくてポジティブだから、誰だって好きになってくれると思うよ。だから、私のことは放っておいて!」


 後半は涙声になったから、また唇を噛んで涙をこらえた。


「……葉月が何を怒っているのかよく分からないけど。俺は葉月を好きだって言っているんだ。好きになれる子を探したいって言っているわけじゃない」


「そんなこと知っているよ。失礼なことを言っているんだって分かっている。だけど、私はずっと一人でいいと思ってきたの。それを変えてしまうと、また元に戻ることが出来なくなるかもしれない。付き合うって永遠じゃないんだから、相手が嫌になったり自分の方が嫌になったりって絶対あると思うし。そうなった時に、普通は友達がいたり、また他の人と付き合えたりすると思うけど、私はずっと一人でいたから、何も無くなっちゃうんだよ。そういうのが見えるから、初めから誰かと付き合おうなんて思わない」


 海斗がゆっくりこちらへ近づいて来ると、ポンポンと私の頭の上に手を置いた。


 それから、私の座っている机にくっついている隣の机に腰を下ろした。


「だからさ、そんな風に狭く考えるなよ。葉月は一人だって言ったけど、今は俺だって小松だっておまえの友達じゃん。顔を分からないってことも知っている。そうやって、少しずつ信頼できる友達を作っていけばいいと思う。それに、もしも俺たちが付き合ってその後に別れたとしても、葉月は次にも誰かと付き合えるようになるって断言できる」


「あんまり適当なことを言わないでよ」


 私はまた下を向いた。私は誰かに心を開くと、自分が傷付かないようにそれを閉じる準備をしなければいけない。海斗と友達のうちはまだいいけど、付き合ったりしたらハッキリとした別れが必ず来る。そうやって誰かに心を閉じたその後に、また誰かと付き合えるとは思えなかった。


「大体、私に近づいて来た物好きは長谷川君だけだよ」


「それは違うね。葉月に近づくことが出来た奴が、俺だけだったって言うのが正しい」


 また三日月目になって、海斗がケラケラと声を出して笑った。


「本当はあんまり言いたくなかったけど、葉月って本当にめっちゃ綺麗なんだよね」


「……いいよ、それはもう。長谷川君がそう思ってくれているのは分かったから」


 どうせ顔なんて自分では分からないから、私には本当にどうでもいいことだから。

 コンプレックスを持っていると思われるのも少し違うんだけどな。


「じゃなくて、本当に一般的に美人なんだよ。だから、おまえは自分の顔が分からなくて可哀相だって前から思っていたんだ」


 一般的にって言われても、他の誰かに言われたわけじゃない。いや、海斗の親戚達には言われたけど……。


 もしも私が綺麗だったとしても、やっぱりそれはどうでもいい事のような気がした。自分では分からないんだから、美人でも違ってもやっぱり同じだと思った。


「葉月は次席ってことは、学年で二位の成績じゃん、女子ではトップ。で、好みだ何だと関係ないくらい誰から見てもすっげえ綺麗な容姿なんだよ。だから、他の奴らには高嶺の花なわけ。俺はそんな葉月より唯一成績が良くて、超イケメンと言われる容姿だから、俺しかおまえに近付ける奴がいなかったってこと」


 相変わらず海斗本人が言うと腹が立つようなフレーズもあるけど、理屈としては合っているような気がした。


「それに女子達がなんで俺と葉月に対してあんなに応援モードかって言うと、やっぱり成績優秀で美男美女の二人だからお似合いって感じらしいんだよね。葉月が自分達に敵うような相手だったら、あんな風に応援しないでもっと敵視されているだろ」


 中学の時に待ち伏せして文句を言って来た女子達の事を思い返すと、これも正論に聞こえるけど……。


「よく分かんない。たとえ私の容姿が本当に綺麗だったとしても、やっぱり自分では確認できないから関係ないよ。美人だろうがブスだろうが、私の生きている世界ではどっちでも同じなの。自分の顔が分からないんだから」


「だけど、こっちの世界の男どもには全然違うんだよな」


 海斗は私の方を向いて、私の髪を梳かすように撫でた。


「だからさ、話は戻るけど、もしも俺と付き合ってその後に別れることになっても、葉月がその気になったら付き合いたいって思う男は沢山いるんだよ。おまえが言っていた通り、人を好きになるのに顔って大きいからな。特に男って美人が好きだし。葉月がにっこり笑いかけるだけで、ついて来る奴は山ほどいるぞ。葉月の方は容姿を問わないんだから、いくらでも選べるだろ」


 それはそれで嫌だな、と思った。顔だけで好きになられるなんて、それこそ私には何の意味もないことだ。まるで海斗の中学生の頃と同じじゃないだろうか。


 海斗は立ち上がって私の背中を軽く叩いた。


「ってことを踏まえたうえで、俺と付き合ってみない? まだ何か不安があったら何でも答えるし、何でも一緒に考えていけるよ」


 海斗は本当に優しい。気持ちもとっても伝わったと思う。

 とにかく前向きだから、きっとどんな不安も取り除いてくれるだろう。


「それでも、無理だと思う。長谷川君のことがどうっていうんじゃなくて、自分自身の問題で誰かと付き合いたいと思えないの。できれば、このまま友達がいい。長谷川君は友達が無理なら、もう一切関わらなくてもいいから」


「そういう返事なら、今すぐ答えないで。純粋に俺と付き合いたいか、付き合いたくないかで返事が欲しい。葉月の心が決まってからでいいから。それまでは、俺は今まで通り自分の思うように行動するよ」


 純粋に海斗を好きか嫌いかだったら、好きだと思う。友達か恋愛かの線引きは分からないけど。だけど、付き合いたいかどうかだったら、今以上の返事ができる自信は無かった。


 それから、海斗は私に手を差し出して「遅いから、もう帰ろう」と言った。


 私が手を出せずにそのまま座っていると、片手を掴んで引っ張られた。仕方が無く、そのまま手を繋いで教室を出た。

 こんな場所ではもうはぐれてしまう心配も無いのだけど……。

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