第18話

「どこに行くの?」


 銀杏が丘駅に入ったから、電車に乗ると分かって海斗が聞いた。


「……私の思い出の場所」


 なんて言うと綺麗な思い出の懐かしい場所のように聞こえる。だけど、思い出と言っても決して良い思い出では無かった。


 どちらかと言えば、黒歴史と言える……。


「おまえさ、美醜もわからないって言ったよな」


 私について来るように電車に乗ると、海斗が私の顔を覗き込んで来た。


「うん。顔の美醜が分からない」


 このまえ海斗が言っていた失顔症というものだったら美醜の分かる人が多いって話だった。

 それは顔自体の認識は出来るのかもしれない。ただ、誰という認識が出来ないか覚えられないのだろう。


 私は顔というもの自体が分からないから、美醜も分からない。だから、顔に火傷の跡や傷痕や痣なんかがあっても、どの場所にそれがあるかという認識は出来ても、それが醜いという認識は持てない。


 海斗が私の髪を撫でるように触れてきた。


「自分の顔も美醜も分からないのに、どうして綺麗じゃないって思うの?」


「別に顔に対してコンプレックスは無いって前にも言ったよ。自分で美醜の判断ができないから、自分が美人でもブスでもどうでもいい。ただ、傍から見たら綺麗な部類じゃないってことを知っているだけ」


「てことは、誰かが葉月にそんなことを吹き込んだのか?」


 私は去年の文化祭後の出来事を思い出した。その前から容姿に対してプラスの言葉を聞いたことなんて無かったけど、あれがやっぱり決定打だったんだと思う。


「まあね。ハッキリとブスって言われたこともあるよ。でも、私は自分の顔が分からないから、客観的にどう思われていても本当にどうでもいいの。長谷川君がどんなにイケメンでも、私には認識できないのと同じ」


「ふうん……」

 

 まだ何か言おうと口を開けかけたように見えたけど、長谷川君はそれ以上はなにも言わなかった。


 電車に乗ってから数駅目で私は「ここで降りる」と言った。


 改札を出るとすぐに有名な大病院が見えた。私は海斗と手を繋いだままその病院の方へ歩くと、海斗の足が止まった。


「ここだよ」と、私はその病院を指差した。


 海斗は黙ったままその病院を見て、それから私を見た。


 病院の窓にはどこも鉄格子があって、よくある奇声のようなものは聞こえなかったけど、ひっそりと静かな入院病棟だった。


 そう、ここはこの辺りでは有名な精神病院なのだ。


「私、小さい頃ここに入院していたことがあるの」


 私はそう言って、海斗の手を引いて病院の庭へ回った。海斗はただ無言でついて来た。


 まだ母が診断名を出して欲しいと思っていた頃のことだ。

 私は誰のことも覚えられなくて、内科やら脳外科やらで検査をしたけど異常がなく、結局小学校に入ったばかりの夏休みに精神病院で数日の検査入院をさせられた。


 個室で完全看護だから親は一緒に泊まってくれず、夜になると部屋は外側から鍵を掛けられた。見回りの看護士さんはきちんと部屋の中まで入って相手をしてくれたけど、少しの時間しかいてくれずにまた鍵を掛ける。

 そして、近くの部屋からは叫び声も聞こえてくる。


 幼かった私にとっては顔の分からない人たちの存在自体が恐かったのに、そんな恐怖の館のような場所に閉じ込められてしまって怖かった。

 そのうち自分もああなるんじゃないか、という恐怖に駆られて未だにトラウマになっているような数日間だった。


 今日ははじめから海斗をここに連れて来よう、と決めていた。それは、初めは海斗が私のことを好きなのかもしれない、と思ったから海斗に嫌われるためだった。

 今は他に好きな子がいると知ったから、それはそれで私の方が海斗に心を開きすぎて近寄り過ぎないように、という線引きをしたかった。


 精神病院に入院経験があって、精神が壊れかけたような人は引かれるのではないかと思った。海斗の方から、今より少しでも距離を置くようになってくれたらいいと……。


 庭には家族や看護師と一緒に散歩している入院患者が数人いた。私はそれを眺めながら、隣に立っている海斗の方を見た。


「私、ここの422号室に泊まったんだけど、知らない入院患者の人が時々ノックをしてくるの。開かないドアの前で言うんだよ、『422号室は死にに422来た人だ』って。語呂合わせでね。で、さっきのホラー映画みたいに高笑いして去って行くんだよ。すっごく恐かった」


 私は思わず笑いながらそう言うと、繋いでいた手を離してベンチに座って海斗を見た。海斗は何も言わずに私の横に座った。


「人の顔が見分けられないのは頭がおかしいことで、どんどん私は狂っていくんだって不安になったんだよね」


 私は噴水の水が青空に向かって吹き上げて飛び散る様子を眺めながら、つぶやくように続けた。


「今でもね、そう思うことがあるの。今の状態も、これで終わらないでどんどん色んなことが分からなくなるんじゃ無いか、って思ったり、分からなくなった先にはどうなるのか? って思うと本当に気が狂いそうになる」


 そこまで言うと海斗が抱きしめてきた。

 あっ、油断しちゃった。

 私はまた胸を押して離れようとしたけど離してくれなかった。


「泣かないから!」


 私は海斗を見上げて笑った。


「泣けよ。俺のことでは勝手な想像で泣けるんだから、自分のことでも泣けるだろ?」


 ふいに、噴水の向こうから私達と同じくらいの年頃の女の子が現れた。


「……小松?」


 海斗が私から手を離して、その女の子を指差した。


「あいつ、小松じゃない? って言っても、おまえには分からないか……」


「えっ? 美沙なの? こんな所に?」


 そんなやり取りをしているうちに、その女の子がこちらに気付いた。


「葉月……? 長谷川君も? 何で?」


 確かに美沙の鼻に掛かった声だった。近づいてくるその人は、大きな瞳に口元のほくろ……やっぱり美沙だろうと思えた。


「やっぱり殺してしまうの! 何度やり直しても、さとしを殺してしまうの! いつも同じなのよー!」


 狂気の叫び声をあげて髪を振り乱した寝間着姿の女性が、美沙に掴みかかろうとして、付き添いの看護師に抑えられていた。


 美沙は耳を塞いで走り出した。思わず追いかけると、美沙は病棟に駆け込んで階段を上がって行った。後から追いかけて来た海斗が私より早く階段を駆け上がって、美沙の後を追いかけたから私もそれに続いた。


 美沙は最上階まで駆け上がると、屋上に出る扉が開かなくてそこでうずくまって泣き出した。私はゆっくりと近づいて美沙を抱きしめた。


「美沙。私ね、昔、ここに入院したことがあるの」


 私は泣いている美沙に、自分が顔というものを知らないと話した。

 小学生の頃はそれで酷くからかわれたことや、だから今は人と接しないようにしていることも話した。


 美沙は泣きながらも、私を抱きしめてくれた。それから、涙を拭いて少しずつ話し出した。


「あの人は……私の母親なの。昔から精神を病んでいてね。初めは少し情緒不安定なだけだったようで、父が支えながら一緒に暮らしていたらしいんだけど、ある時、当時五歳だった私の兄の首を絞めて殺してしまったの。それから、あの人はずっとここに入院しているの」


 そう言うと、美沙は小さくため息をついて俯いた。


「何度やり直しても殺してしまう、ってどういう意味?」


 海斗はさっきの美沙の母親の言葉が気になったようだった。


「……あの人は自分が過去や未来を行き来できるって思い込んでいるの。それで、過去に戻って兄を殺した事を無かったことに出来たら、って思うみたいなんだけど、どうしてもそれが出来ないって言っているの。そりゃあそうだよね。実際は殺しているんだから……」


 美沙は片手で目だけを覆って泣き出した。


 その顔を見ながら、私はやはり鼻と口だけ見ると、あの三年前に亡くなった少女の鼻と口が思い出された。


「美沙の妹さんは、その頃何歳だったの? お兄さんが亡くなった時」


「三歳……」


 やっぱり年齢が合わない。あの女の子はやっぱり美沙とは無関係なんだろうか……?


「私、人の顔は分からないんだけど、その分、顔のパーツはよく見ているみたいなのね。雪町で三年前に遺体で見つかった女の子……あの子の鼻と口元が美沙によく似ているのが凄く気になっているの」


 それに、あの時美沙は白い花束をあのベンチに置いていたし……。


 美沙は私の顔を見ていたけど、少ししたら目を逸らした。表情は読み取れなかった。


「妹は双子で、三年前は十三歳だよ」


「……だよね。妹さんは今一緒に住んでいるの?」


 その問いには答えたくないようで、黙ってしまった。


「そろそろ行こうぜ」


 海斗が私を肘で突付いた。あまり触れない方がいいと、海斗も思ったのだろう。


「ねえ、二人は結局付き合っているってことなんだよね?」


 美沙が急に明るい調子で聞いてきた。私は慌てて首を振った。


「違うよ。あれ、長谷川君の冗談だったのに、みんなが大騒ぎしちゃって否定し損ねちゃっただけ」


「何言ってんの。こんな所まで一緒に来ているくせに」


 美沙が目を細めて笑っているようだった。


「だって、長谷川君は他に好きな子がいるんだから。あんまり噂になると悪い」


 美沙が大きな目をもっと大きく見開いて、海斗の方を見た。


 海斗は肩をすくめると私の頭に手を置いて、エレベーターの方へ促した。


「じゃあ、葉月は長谷川君の好きな人は誰だと思っているの?」


「分からない。だって、私には顔が分からないから。すっごく綺麗な子なんだって。美沙、誰かわかる?」


 美沙がクスクスと笑い出して、からかい口調で海斗に聞いた。


「で、長谷川君の好きな凄く綺麗な子って誰なの?」


「さあな」


 エレベーターが来たから、海斗が私の背中を押した。私は美沙に手を振った。


「そう言えば美沙の声、今は聞こえたみたいだね」


「ああ、今日の小松は声が上ずっていなかったからな」


 そう言えばそうだった。多分、こんな所で急に会って動揺して緊張どころじゃなかったのだろう。


 病院から出るといつの間にか夕焼けが空に広がっていて、海斗の横顔を赤く染めた。


「腹減らない? おまえ、さっき何も食べなかっただろ? 俺もホットドッグだけじゃ足りなかったな」


 そう言われてみると、お腹が空いていることに気がついた。

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