第2話 それぞれの「好き」
そのとき、渡り廊下をひとりの教師が通りかかった。
校内でいつも白衣を着ている人は限られているから、保健室にいる里見先生だ。すらっとした細身で、長い髪をひとつに結んでいる。
目が合ってしまい、軽く会釈すると、
あれ? という表情で、足を止めた。
「どした?」
「……何でもないです」
いろいろ
「何でもないわけ、ないよね」
ひらひらと手招きして
「保健室においでよ。ひとりで考えごともいいけど、そこにいると日焼けしちゃうぞ〜」
にこーっと笑って、待っている。私が行かなければ、動かないつもりらしい。
仕方なく、腰を上げた。
「はい、どうぞ」
保健室で先生はお茶を淹れてくれた。
「いただきます」
カップから、とても良い香りがふわっと立ちあがった。
「これは……ハーブティー?」
「うん。カモミール。リラックスに良いらしいよ」
里見先生は黙って、ただじっと、ハーブティーを飲む私の様子を見ていた。
「橘さんは、夜、よく眠れてるかな?」
「え?」
もしかして、生徒全員の名前を知っているのだろうか。ちょっと驚く。
「……あまり」
「そっかぁ。じゃあ、はい、これ。寝る前に飲んでも、ノンカフェインだから大丈夫。牛乳や蜂蜜を入れるのもオススメだよ」
ティーバッグをいくつか渡された。青いパッケージに白い可愛いお花のイラストが描かれている。鼻に近づけると、今、飲んでいるお茶と同じ香りがする。
「ありがとうございます」
先生と一緒にいても、気詰まりな感じはなかった。お茶の効果なのか、思わず小さなアクビが出てしまった。
先生はクスッと笑うと
「お昼寝でもしていく? ベッド、空いてるけど」
「ゆっくりしていってね」
ベッドの周りの白いカーテンが閉められると、小さな空間は落ち着いて心地よかった。制服のまま寝るなんて、なんだか変な感じがしたけど、いつのまにか私は寝入っていた。
—— 先日、パパとママが離婚したばかりだった。
有無を言わさず、親権を持つのはママに決まった。
教会牧師のパパは、各地の教会を転々と移動する生活で、本部からの入金は少ない額だし、信者さんからの寄付に頼る収入も不安定だった。
ママは看護師で、今までは「どこでも働けるから大丈夫」と言っていたけれど、今回だけは違った。
次の赴任先の六ヶ岳には、もう一緒についていかないと言った。
自慢じゃないけど、ママは綺麗で、すごくモテる。患者さんをはじめ、同僚の医師や男性看護師、他の医療スタッフ……等々、キリがない。そして、パパは気がついていないのだろうけど、恋多き人なのだ。
整形病棟の主任さんとして、バリバリ仕事ができるママ。
パパが教会のクリスマスの飾り付けをしていて、脚立から落ち、入院した時に、ママの方がひと目惚れして、猛アタックしたらしい。
そして……私が生まれた。
ママは入籍したけど、職場ではずっと旧姓の「橘」を使っている。
私は、毎晩遅くまで、ふたりがリビングで話しているのを知っていた。
パパは決して声を荒げることなく、ママが一方的に言うことを聞いている。
「あなたは、いつもそう。自分のことも家族のことも全て後回しで、教会のことばかり優先して。私はあなたのいちばんになりたかった」
ママ、それは絶対に言っちゃダメなヤツだ。私にだってわかる。
『神様と私、どっちを選ぶの?』なんて、パパに聞いたらダメだ。残酷過ぎるよ。
今までパパは、ママや私に信仰を強要したりしたことは一度もない。
パパはママに恋人がいるのを知っていた。
「ごめんね、永遠。パパはこれからも君のパパだからね。それはずっと変わらない」
「どうしてパパが謝るの? パパは知ってたの? 知っていて止めなかったの?」
「誰かを、何かを好きになるのに、理由なんてないよ。好きになる気持ちは止められない」
寂しそうに、パパはそう言った。
「好きになって、それで誰かを傷つけることになっても?」
パパは微笑んだ。
「そうだね。とても難しいけれど、たとえ理解できなくても、誰かが大切に思っているものを大切にしてあげられる、そういう人になれたらいいと思ってる……かな。それが大切な人のものだったら、なおさら、ね」
「……ねぇ。パパはママを許せるの?」
「許すなんて……! パパはそんな偉い立場じゃないよ。ただ、ママには笑っていて欲しい。僕がこれからはできない分も」
—— 目が覚めたら、保健室に差し込む光が夕方の色に変わっていた。
「よく寝てたねぇ」
「……スミマセン」
先生は顔の前で手を振って
「いやいや、気持ちよさそうに眠ってたから起こさなかったけど、お友達が心配してたよ」
先生が示す先に、私のカバンが置いてあった。
小さな
『永遠ちゃん、大丈夫? また明日ね』
利理子ちゃんが届けてくれたんだ。……ありがとう。
「ああ、橘さん」
保健室を出るとき、呼び止められた。振り返った私に
「あのね。入れ物のラベルが変わっても、中身まで変わるわけじゃないから。いつでもまたおいで」
「ありがとうございます」
もうお世話になることはないだろうと、このときは思っていたのだけど、そういうわけにはいかなかった……。
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