旅人の夏、永遠の夢

春渡夏歩(はるとなほ)

第1章 永遠

第1話 青い空の向こう

「なんでこうなっちゃうんだろう……」

 たちばな永遠とわは、ポツリとつぶやいた。


 中学の校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の横の小さな中庭、そこにあるベンチに腰をかけ、足を投げ出して、空を仰ぐ。

 

 すぐ横にあるのは、何代も前の卒業生が植樹したらしい小さな樹。立札は既にかすれて読めない。この樹が育ったら、きっと気持ちいい木陰になりそうだけど、その頃、私はもうここにはいないだろう。


 校舎で切り取られた四角い青空。白い雲が、ポカリと浮かんでいるのが見える。


「パパ、元気かな」


 パパのいる六ヶ岳むつがたけとも、この空は繋がっているのかな。


 六ヶ岳の高い深い青空。「六ヶ岳ブルー」と言うらしい。


 「いつでも遊びにおいで」

 パパはそう言った。


 夏が近い……。


 午後の授業を進める教師の声が、微かに聞こえる。


 こうして、授業をサボっている後ろめたさと、若干の解放感。日差しが眠気を誘う。

 このまま帰ってしまおうか、家に帰っても誰もいないし、きっとママは早退したことにも気がつかないと思う。

 

 ああ、でも、カバンは教室に置いたままだ。

 小さくため息をついて、他にする事もなく、青い空を流れていく雲をぼんやり見ていた。


 —— それは、午後の授業が始まって、すぐの出来事だった。


 理科を担当する山﨑先生は、クラス担任で、年配の女性だ。


「いろいろ大変でしょう。困っていたら、何でも相談してね。今度、お昼休みに準備室にいらっしゃいね」

 以前、猫なで声でそう言われたけれど、笑顔が何だか嘘くさいと思ってしまった。


「はあ、ありがとうございます」

 一応、返事はしたけれど、昼休みに先生のお気に入りの取り巻きがつどう、理科準備室の仲間に入りたいとは思わなかった。

 それが反抗的な態度だと、気に障ったのだろうか。


 名前が変わる、というだけで充分、注目を浴びることになってしまう。

 今までずっと、なるべく目立たない生徒でいようとしてきたのに。


 「……橘さん。た・ち・ば・な、さん」


 授業中、窓の外をぼんやりと眺めていたら、

永遠とわちゃん、永遠とわちゃん! 呼ばれてるよ」

 隣の席の利理子りりこちゃんにつつかれて、気がついた。

「あ、はい」

 いけない。注意していないと、まだこの名前に慣れなくて、自分のことのような気がしない。

 たちばな、という漢字もスラスラ書けるようになったのは、つい最近のことだ。


「ずいぶん余裕があるみたいですけど、私の授業は退屈ですか? 集中してください」

「……すみません」


 私はこの教師せんせい標的ターゲットにされてしまっているらしい。

 お昼を食べてすぐの授業は、眠気もあって、みんな緊張感が足りない。


「今月の目標は『忘れ物を無くそう』ですね。では、教科書を忘れた人は立ってください」


 ……あ、しまった。

 今朝は時間割をよく確かめずに、慌てて家を出た。こんな日に限って、忘れるなんて。


 立っているのは、私ひとりだけだった。


 にこやかな顔をしているけれど、私を見る山﨑先生の目が獲物を見つけた! というみたいで、きっと心の中ではニヤリとしているのに違いない。


「橘さん、授業を受けるのなら、他のクラスで教科書を借りていらっしゃいね」


 利理子ちゃんが気の毒そうに私を見上げた。


 「……先生」

 肩あたりまで挙げた彼女の手が、微かに震えている。普段はおとなしい利理子ちゃん、きっと勇気をふりしぼってくれたのだ。

「私が一緒に見せてあげますから」


「そうやって甘い気分でいるからいけないんです。自分だけ特別だなんて、思わないことです」


 ……特別? 何が特別だと言うんだろう?


 仕方なく、教室の後ろの扉から廊下に出た。

 でも、他のクラスの授業を中断させてまで、誰かに教科書を借りる気にはならなかった。だいたい、あまりよく知らない相手に貸してくれるものとも思えない。


 教室に戻る気にもなれず、行くあてもないままで、中庭のベンチを見つけたのだった。


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2024年10月7日 12:00
2024年10月8日 12:00
2024年10月9日 12:00

旅人の夏、永遠の夢 春渡夏歩(はるとなほ) @harutonaho

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