ぶらさがり女が、今も窓の外にいる
黒澤カヌレ
ぶらさがり女
女がじっと、僕を見ていた。
部屋の窓にはりついて、じっと瞬きもせずに両目を見開いている。
顔以外には姿が見えない。窓から見えるのは首から上の部分だけで、体がどんな風になっているのかはわからなかった。
僕の家はマンションで、この家は十五階に存在している。間違っても、窓の外に人がいられるような環境にはない。
その上で、この女のいる位置は明らかにおかしかった。
上下が逆転している。どこかからぶら下がったような状態になっていて、窓の上の方から顔だけが覗いている。女の長い黒髪は重力に引っ張られ、ダラリと真下に垂れていた。
息を呑み、部屋のドアをそっと見やる。
その瞬間、女がニタリと笑ってみせた。
「『ぶらさがり女』の噂って知ってるか?」
小学校でその話を聞いてから、不安で仕方なくなっていた。
「この噂を聞いた人のところに、一週間以内に現れるんだって」
軽いイタズラ程度の気持ちで、クラスの友達は話をしてきた。でも、『ぶらさがり女』の話はとても不気味で、想像しただけで背筋が寒くなった。
噂が本当なのかどうか、すぐにインターネットで検索してみた。
こっそりと学校に持ち込んでいたスマートフォンを取り出し、ベランダで噂の内容をチェックする。
そこで、はっきりとした話を目にした。
『ぶらさがり女は超能力者である。強いテレパシーの力を持っていて、自分の存在を知った人間がいるのを察知すると、必ずその人間のもとへと姿を現す』
そういう説明が書かれていた。
『ぶらさがり女が来ないようにするためには、話を聞いた後で「呪文」を唱えればいい』
インターネットのサイトには、はっきりとその呪文も書かれていた。
万が一にでも、そんなものが来てしまったら大変だ。だから、すぐに指示に従った。
「今日の天気は雷です。今日の天気は台風です。ぶら下がり女さん、お体には気を付けてください」
しっかりと三回、その場で呪文を口にした。
どういうことなんだろう、と頭の中が冷える。
本来だったら、呪文を唱えたことで『こいつ』は現れなくなるはずなのに。
ぶらさがり女はずっとニヤニヤと僕に笑みを向けてくる。
堪えられなくなり、すぐにカーテンを閉めた。
でも、今日は八月の五日。時刻は午後の三時。太陽の光が強く、カーテンを閉めても『ぶらさがり女』の影がカーテンに映り込む。
女の頭と、そこから下に向かって垂れ落ちた髪。
一度大きく息を吸い、すぐに部屋のドアへと手をかけた。
ガチャガチャ、と何度もノブを揺する。
だけど、開かなかった。
ドアには鍵なんてかかっていないのに、ノブが途中で引っかかって回らなくなっている。
後ろをそっと見やり、カーテンに映る影の様子を見る。
あいつが、やったんだろうか。
よくわからない力を使い、僕をこの部屋に閉じ込めた。
コン、コン、と窓を叩く音がする。
カーテンの方を振り向くと、細い二本の腕が伸ばされていた。その片方が振動し、『コン、コン』と再びノックする音が聞こえる。
「あけて」
かすれた声が響き、全身に震えが走る。
まずい、と思ってもう一度ドアノブに手をかけるが、やはり開いてくれない。
それなら、とすぐにスマートフォンを取り出して、電話帳を呼び出す。
キシオだったら、何かを知ってるはず。元々は、あいつが『ぶらさがり女』の噂を話してきた。あいつなら、こういう時どうすればいいかも知ってるはずだ。
「はい、もしもし?」
間延びした声が聞こえ、僕は大きく息を吸い込んだ。
「今、ぶらさがり女が部屋の窓の外にいるんだよ。逃げたいのに、なぜかドアが開かなくなってるんだ。これ、どうすればいいの?」
ひと息に今の状況を伝えようとする。
でも、相手は「ふーん」と静かな声を出した。
「まあ、大丈夫じゃないの? 昼間はおどかしちゃったけど、ぶらさがり女って別に悪い物じゃないから。とりあえず、窓を開ければいいと思うよ」
「は?」と声に出した。
「それじゃあ、早く開けて」
軽く言うと、すぐに電話を切られた。
首筋に汗が浮いてくる。
コン、コン、と再び背後からノックの音がする。
「あけて」
スマートフォンの液晶画面を睨み、部屋の隅へと移動する。
少しでも、『あいつ』から距離を取らないと。
『ぶらさがり女』と検索し、対処法はないのかと調べようとした。
いくつものページタイトルが表示される。上から順に素早く開いていってみた。
『ぶらさがり女が家に現れた時の対処法』
すぐに、欲しかった情報が目に入る。
『とにかく、窓を早く開けること』
しかし、次に出てきた言葉を見て眉をひそめた。
『ぶらさがり女は悪い存在ではない。ただ、君と友達になりたいだけ。窓を開ければ、素敵な場所へ連れて行ってくれる。だから、早く窓を開けましょう』
その直後に、また『コン、コン』とノックの音がした。
その次に続く言葉には、耳を塞ぎたくなった。
「他には」とすぐに別のページを開ける。
『ぶらさがり女が部屋に来たら、すぐに窓を開けましょう』
『窓から訪ねてくるからと言って、差別をしてはいけません』
『開けましょう。窓をとにかく開けましょう』
何もかもが、そんな言葉で埋め尽くされていた。
おかしい、とすぐに唇を噛む。
昼間に検索した時には、絶対にこんな話は出てきていなかった。『ぶらさがり女』が凶悪な存在で、捕まった人間が行方不明になっていることなどが書かれていた。
「もしかして」とカーテンの方へと顔を向ける。
女の頭や垂れた髪。そしてノックする腕のシルエット。
念のため、もう一度キシオに電話をかけてみる。
「ねえ、あけて。まど、あけて」
キシオの声で、『何か』が語りかけてきた。
今度はこっちから電話を切った。
息が乱れる。スマートフォンの画面を睨みながら、必死に息を整えようとした。
あいつが、僕のことを閉じ込めている。そして、よくわからない力を使って、電話やインターネットにも影響を与えてる。
あいつが現れたことで、『噂』の内容が書き換えられている。
おかげで、対処方法やあいつの実態についての情報が入って来ない。
どうしよう、とスマートフォンを持ち上げた。
試しに、『110番』へとかけてみた。
「すみません。家の外に不審者がいるんです! すぐに来てください」
電話に出たおまわりさんに、必死に助けを求めてみた。
「はい。それではすぐに伺います。窓を開けてお待ちください」
そう告げるなり、電話は切られてしまった。
やっぱり、ダメだった。
電話回線は完全にあいつに支配されている。
インターネットも、全部が使えなくなっているのか。
諦められず、次々と色々なページを開けてみた。『ぶらさがり女』の正体は何か。家に現れた時にはどうすればいいのか。
僕は、どうやったら助かるのか。
でも、どれもダメだった。
『窓を開ければ、とにかく全部解決します』
『窓を破れば怪我をします。そうならないよう、窓を開けてあげて下さい』
どのページも、あいつの力で書き換えられていた。
いつからなんだろう、と涙が滲んできた。
今日の昼間、僕は『呪文』を唱えた。それであいつが来なくなるはずだった。
でも、あの瞬間に既に、あいつが『噂』を書き換えていたとしたら。
あの呪文というのは、本当は『あいつを呼んでしまう』ものだったんじゃないか。
そうだとしたら、これから何が起こるんだろう。
「まだだよ」と声に出し、検索を続けていく。
インターネットには数えきれないくらいの情報がある。あいつの力でも、全部を変えることはできていないかもしれない。だからどこかに、本当の情報があるのではないか。
『ぶらさがり女は、とても非力な存在。だからこそ、窓を破るようなことはせず、ただノックをするのみとなる』
ようやく、手ごたえを感じる話が出てきた。
『ただ無視をすればいい。そうすれば、いずれは諦める』
深々と、溜め息をついた。
そうだよ、と納得する気持ちが生まれる。
コン、コンとまだノックは続いている。
でも、これが答えでもあったはずだ。もしも本気で僕を襲うつもりなら、今すぐにでも窓を破ればいい。そうしないということは、それだけの力はないということ。
これでいいんだ、とすぐにスマートフォンを床に置いた。
部屋に隅で座り込み、僕は体を蹲らせる。
両目を閉じ、耳には人差し指を入れた。
こうして、目も耳も塞いでしまえばいい。あいつの存在をシャットアウトして、これから数時間我慢すればいい。
お父さん、お母さん、早く帰ってきて。
どうしても、洩れ聞こえてくる音がする。
後ろの方で、カチャリと鳴る音がした。一瞬だけ風が入り、首筋に冷たいものが走る。
気にしない、と体の震えを必死で抑える。
ゆらりと、床を踏むような気配がした。
その直後に、肩に何かが置かれた。
◆◆◆
ニュースを見て、また気持ちが沈み込んだ。
小学五年生の男子が行方不明になったこと。
私は肩を落とし、インターネットのサイトに目をやる。
また、『ぶらさがり女』の被害者が出た。
どうにか、あいつの被害を減らせないものか。
『ある呪文を唱えると、ぶらさがり女が家までやってきてしまうこと』
これが第一の禁止事項。
ここで間違ったことにより、これまで何人が犠牲になったのか。
でも、この段階ならまだ助かる見込みがある。『次の禁止事項』を踏みさえしなければ。
ぶらさがり女には、超能力で人を閉じ込めることもできる。当然、窓の施錠だって簡単に開けることができる。
あえてそれをしないのは、『人に姿を見られたくない』ためだ。
ぶらさがり女は、自分自身の姿を恥じている。だから首から下の体を人に見られたくない。そのため、自分から窓を破って侵入するようなことはしない。
だから、絶対にやってはいけないことがある。
『どんなに怖くても、目と耳を塞いではいけない』
部屋に蹲り、目や耳を塞ぐような姿を見せてしまえば、相手にとって都合のいい状態が出来上がる。その瞬間に、ぶらさがり女は家の中へと侵入する。
「ちゃんと、書いておいたはずなんだけど」
ホームページを見る度に、いたましい気持ちにさせられる。
ぶらさがり女には、『噂』を操作する力がある。それによって、警告のために書いた情報までもが、あいつの都合のいいように改竄されてしまう。
唱えてはいけない呪文のことが、あいつを遠ざける呪文のように書かれている。
それでも、諦めるわけにはいかない。
私は事実を知っている。だから、あいつから人々を守らないと。
ホームページだけじゃきっと足りない。だから、もっと別の場所にも発信しよう。
思い立ち、『小説投稿サイト』に書き込むことを決めた。ここでなら多少は人の目に触れるはずだし、もしかしたらあいつの干渉を受けずに済むかもしれない。
一人でも多くの人に、この事実が伝わればいい。
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