第七話/引子守
引きこもりの息子を捕まえて下さい。
鹿又がインターネットの知り合いから経由して出会ったそのバイトは、依頼内容の文言が奇妙なものであった。
引きこもりの息子を捕まえるって、何だろうか。引きこもりなのだから、息子は部屋から逃げるなんて事はないのだろうに。
しかも、報酬はとても高かったのだ。少し不審に思いつつも、最近金銭的に厳しさを感じていた鹿又は、すぐにそのバイトを引き受ける事にした。
「……で、なんでアンタがいるんですか」
仕事先へ向かう車を運転しながら、鹿又はバックミラーをちらりと睨む。後部座席には、ニコニコと笑う吉田の姿があった。
「あの、俺は今から仕事なんですけど?」
鹿又はため息を付いた。そんな鹿又に、吉田は「知ってるよ」と目を細める。
「ヤバいバイトなんだろ。鹿又がロボアニメの鼻歌を歌う時いつもそうだから」
ニヤリと笑った吉田。「人の癖を見抜くな!」と、恥ずかしさのあまりに鹿又は叫ぶ。車が事故を起こすのを避けたくて平静を取り戻そうと必死になる鹿又の後ろで吉田が言った。
「それにさー、心配だったんだよ。鹿又に何かあったら嫌だし」
意外な吉田の言葉に、鹿又が目を丸くする。たまには先輩らしい事を言うんじゃないかと吉田を見直した鹿又だったが、次に吉田はこう言った。
「で、報酬いくらなの?」
屈託のない笑みを向けられ、鹿又は大きく舌打ちをした。
****
「お待ちしておりました」
埼玉県所沢の外れにあるマンションの一室。鹿又と吉田を迎えたのは、紺色のシャツにグレーのエプロン姿の女性である。家主及び依頼人と思われるその女性は、微笑む事も無く二人を迎え入れた。
鹿又達は、程よく長い廊下を抜けてほんのり暗いリビングへと通される。女性はそのままキッチンの中へと入っていき、吉田は「お茶でも出してくれるのかな」などと呑気に思っていた。
一方の鹿又は、部屋の中を静かに観察していた。特に荒れた様子もない、どこにでもある平和なリビングだ。棚には家族の写真がいくつも飾ってあり、埃一つ被っていない。目に入ったローテーブルも床も、きちんと掃除されている。生活感がしっかりとあった。
「あ、あのー、今回の依頼について、詳しい事を聞きたいのですが」
キッチンの方に、吉田が声を掛けた。まるであたかも自分が引き受けたみたいな言い方だ。仕事を請け負ったのは俺なんですけど、と鹿又は吉田を見る。吉田は「まあ俺に任せておけ」というジェスチャーをして、笑みを作る。
だが、一向にキッチンから女性は出てこない。五分以上経っても女性はキッチンから姿を現さず、鹿又はその場に立ち尽くし、吉田は暇を持て余して辺りを物色し始めた。
「……これが息子?」
吉田は棚に置いてあった家族写真に手を伸ばす。鹿又が「ちょっと、先輩」と注意する。構わず、吉田はじっと写真を見つめた。
言ってしまえば、ありきたりな笑顔を浮かべた三人家族の写真である。多分、何処か旅行に行った時に撮った写真なのか、草木の生えた風景が見える。眩しいくらい、普通の家族写真だ。
他の写真を見ても同じだ。家族が三人並んで笑う姿ばかり。……でも、逆にそれが不気味に見えるのは何故だろう? 部屋が暗い所為だからだろうか。
「依頼の件ですが」
突如、女性の声がした。二人がビクッと肩を揺らして声の方を見ると、女性が無表情で立っていた。吉田は慌てて写真を元に戻し、笑顔を繕う。すると、女性がスタスタと吉田の方に歩いていく。鹿又が息を呑み、吉田は怒られると思って目を閉じた。
女性は吉田を引っ叩くのではなく、棚の所に立て掛けてあったあるものを手に取った。吉田が恐る恐る目を開いたのと同時に、女性はそれを手渡す。吉田は何を手渡されたのか一瞬分からずぽかんとしてから手元を見た。
「む、虫網……?」
吉田と同様に鹿又もまた、ぽかんとする。何故虫網なんて渡されるのだろうと二人が疑問を浮かべていると、女性が今度は棚の下を漁る。
次に女性が取り出したのは、虫カゴだ。目が痛くなるような緑色のそれを、鹿又に渡す。鹿又は「あ、あの……」と戸惑い、言葉に詰まった。
「これで、息子を捕まえて下さい」
女性はそう言って、廊下の方へと歩いていく。二人が呆然としていると、女性は振り返る。
「息子の部屋はこちらです」
廊下へ歩いていく女性を、ハッとして鹿又が追う。その後に吉田が続いた。女性は廊下の途中にあるドアの前で立ち止まって、「中へどうぞ」と不愛想に言う。
鹿又と吉田は、若干躊躇いを感じたものの、言われるがまま部屋に入る事にした。
「……失礼します」
ドアを開けて、先に入ったのは鹿又だ。これも金の為だと言い聞かせて、カーテンの閉め切られた部屋に入っていく。吉田はというと、「無理そうだったら俺だけ車に戻ろう」と思っていた。だが、部屋に入った途端にドアが閉ざされ……外側から鍵を掛けられてしまう。
吉田は鍵が閉まったのに気が付いたが、昼間だというのに真っ暗な部屋にパニックになってそれどころではなくなった。
「ヒッ、か、鹿又ッ? 何処にいんの!」
吉田の悲鳴に、鹿又は「デケェ声出さないで下さいよ!」と叱咤する。だが、叱咤した吉田の事が暗くてよく見えない。鹿又は、部屋の電気を点けたくて辺りを見回す。
「吉田先輩、ライトとか持ってないですか。部屋の電気が何処だかわかんねー」
すると吉田はハッとして、ポケットを漁った。指先に当たったそれをポケットから取り出すと、鹿又の方に「ライター! ある!」と見せびらかした。いや、見えないから早く点けてくれよと鹿又が思っていると、吉田が慌ててライターに火をつける。
吉田がカッコつけて火力の強いライターを使っていたおかげで、部屋がうっすらと見渡せるようになった。
「も、もしかしてさー、息子ってネズミとか、猫ちゃんなのかな! アハハ……」
吉田が現実逃避でそんな事を言う。そんな訳がない事を、もはや二人共分かり切っていた。
「……?」
ふと、鹿又は気が付いた。部屋の端に置かれた椅子に、うっすらと人影らしきものが見える。ゴクッと息を呑んで、鹿又がそれを見つめる。人影は、微動だにしない。
鹿又が黙っているのが不安になって、吉田が鹿又を呼ぶ。だが、鹿又は返事をしなかった。人影に釘付けになっていた。
静かな足取りで、鹿又が人影に近づいていく。数秒して、吉田が人影に気がつき絶叫しそうになった。鹿又が「先輩、静かにして!」と即座に吉田へ指示を出し、吉田は慌てて叫ぶのを堪えてライターを持った片手で口を塞ぐ。「アチッ!」と小さく呻いて吉田がライターを落とした。
吉田がライターを落としたタイミングで、鹿又がゆっくりと人影の肩を掴んだ。
一瞬、明かりがなくなって鹿又がドキリとする。暗がりで、自分が何を掴んでいるのかわからなくなった。……その時だ。
手の内で、モゾモゾと何かが蠢いているのを鹿又は感じた。それから、チクッとした痛み。思わず手を払って、鹿又は飛び退いた。今の痛みは何だ。
鹿又が疑問を感じて間もなく、部屋の中にブブブと不穏な虫の羽音が響く。鹿又はハッとして締め切られたカーテンを無理矢理開けた。
「は、蜂だ……!」
カーテンの光に照らし出されたそれは、人型を模した蜂の群れであった。大量の蜂が、人型になって蠢いている。百匹以上はいるだろう。鹿又は、蜂の大群の一部に触れてしまったのである。
蜂の集合体は、ゆっくり蠢いて椅子から立ち上がった。まるで人間のような滑らかな動きをして。
鹿又が絶句していると、吉田は堪らず絶叫した。その吉田の絶叫が皮切りになったように、蜂の軍勢が人型から分散し鹿又と吉田に襲い掛かる。二人は手で追い払おうとするが、蜂はお構いなしに二人を攻撃する。
「吉田先輩! 網!」
鹿又が叫ぶと、吉田が「そうだ」と思い出して網を振り回す。しかし、さほど効果はなく吉田の服や足元に蜂が引っ付いていく。
「鹿又ー! 床の、ライター取って!」
吉田の声に素早く反応して、床に落ちていたライターを手に取る。吉田の方にそれを投げると、吉田は近くにあった新聞紙を丸めて先端に火をつける。吉田は火のついた新聞紙を振り回して蜂を追い払おうとした。
「ちょ、吉田先輩! それ普通に危ないって!」
「うるせー! そんな事言ってられないだろぉーッ!」
鹿又の焦った声も、吉田にはあまり聞こえていない。考えている余裕もない。
吉田が燃え盛る新聞紙を振り回していると、蜂は吉田から今度は鹿又に標的を変える。蜂が群れを成し、人型となって鹿又を襲う。まるで人間にでも押し倒されているような力強さに鹿又はゾッとする。コイツは一体何なんだ!
吉田が「か、鹿又……!」と引き攣った声を出す。鹿又が「こんなバイト引き受けるんじゃなかった」と心底後悔し、蜂に飲み込まれる寸前。
「タダシ!」
突然、バンッと部屋のドアが開く音がした。あの依頼主の女性だ。バタバタと部屋に入って来ると、鹿又に襲い掛かっていた蜂の大群に縋りつく。
「やっと会えた! 今まで何処に行っていたの!」
先ほどとは打って変わって、感情的な女性の声が部屋に響いた。吉田が呆気に取られていると、不穏な羽音が鹿又から引いていく。見ると、蜂は女性の身体に纏わりついて蠢いていた。
「もうお母さんの事一人にしないでね。約束だからね」
不気味な羽音の中に、涙声が混じる。その不協和音に鹿又が顔を顰めていると、吉田が「やばッ!」と声を上げた。
吉田の方を見ると、先ほど吉田が火を点けた新聞紙からカーペットに引火し始めていた。
逃げなければ。鹿又は蜂の群れと女性を無視して部屋を出ようとする。
「鹿又ぁ! 待って! 俺、腰が抜けちゃって……!」
吉田の悲痛な叫び。鹿又は「ああもう!」とヤケクソになりながら吉田の肩を担いだ。吉田を引きずるようにして部屋のドアへ向かっていく中、ちらりと後ろを振り返る。
燃え盛る火の海で、蜂の群れが人型になって女性を包んでいるように見えた。まるで愛しい人を抱きしめているかのようにも見える。
その二人の姿は……何処か神聖さすら感じて。くらりと、一つ目眩がした。
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