安倍晋三暗殺の真実 [陰謀論]妖怪の孫の暗殺。 ~誰が安倍元首相を殺したのか!?元首相暗殺の黒幕は?山上徹也を操った影の巨大な組織~

長尾景虎

第1話 ~誰が安倍元首相を殺したのか!?元首相暗殺の黒幕は?山上徹也を操った影の巨大な組織~


安倍晋三暗殺の真実

[陰謀論]妖怪の孫の暗殺。

被害者と容疑者が語る、完全なる犯罪と破滅への道。警察が見逃した、暗殺事件の真犯人とは?

~誰が安倍元首相を殺したのか!?元首相暗殺の黒幕は?山上徹也を操った影の巨大な組織~














                     ~the top  secret~

               ~安倍晋三の真実!

                 「安倍晋三暗殺」はいかにしてなったか。~

                 total-produced&PRESENTED&written by

                   NAGAO Kagetora

                   長尾 景虎

  ……この作品は事実をもとにしたフィクションです。現実とはいささか意なる点もあります。ご了承ください……

         this novel is a dramatic interoretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.


        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



          あらすじ


  2022年(令和4年)7月8日11時31分頃の正午、奈良県奈良市の近鉄大和西大寺駅駅北口付近で、参議院選挙の応援演説中、安倍晋三は銃撃されて暗殺死する。

 しかし、陰謀説がうずまく。そんな中、弁護士・姫光龍三が「暗殺」に向けて調査を開始する。被告は、日本国政府……参考人を招集し、事情聴取を始める。

 しかし、日本国政府は煮え切らない。重要証人がいたが、自殺してしまう。しかし、本当に自殺だったのか? そんな中、姫光龍三たちに情報が……

 やがて、アメリカ合衆国とCIAと安倍氏の関係が浮かび上がってくる。

 姫光龍三は決する。日本国政府+CIAを裁判にかけるのだ。

 しかし、米国とCIA、利益団体やディープスロートの圧力で敗訴……

 姫光龍三は再挑戦を誓うのだが、少数の力では何も出来なかった。     おわり

(この書は一部、古くなった内容が含まれていますが、出版有料化版のときに最新データ及び文章内容に加筆・推敲する予定です。興味を持たれた出版社の方やライターの方、どうかよろしくお願いします)





























   第一部 安倍晋三暗殺



























         1 手製のパイプ銃で暗殺?



わたしはこの作品によって、名誉棄損とかで訴えられるかも知れない。敗訴するかも知れない。社会的に〝抹殺〟されるかも知れない。権力者に刃向かうとはそういうことだ。

 だが、出来れば大目に見て、勘弁してほしい。為政者への批判は言論の自由、と。

 が、だけれどもわたしは作品中の主人公を嫌悪するのではない。むしろ、尊敬している。

 彼らが成し遂げたことは富士山よりも高く、立派だ。逆に、「面白いことを言う作家さんだ」と、仲良くして頂きたい。何故なら、わたしはこの作品の主人公の大ファンだから。


          あらすじ

 安倍(あべ)晋(しん)三(ぞう)氏、1954年9月21日東京生まれ。2022年7月8日、奈良市の駅前で午前11時半頃、応援演説中に銃撃され暗殺される(享年67歳)。身長175センチ、体重70キロ、血液型B型、家族、妻・昭恵さん(子供なし)、母・洋子さん、選挙区山口4区、座右の銘「至誠にして動かざるもの、これもってあらざるなり(吉田松陰)」

 趣味、映画鑑賞、読書、ゴルフ、水泳、愛読書「留魂録の世界」、好きな食べ物、焼肉、ラーメン、アイスクリーム、スイカ、出身校・成蹊大学法学部卒、略歴・神戸製鋼所社員、官房長官、自民党幹事長、内閣総理大臣(第90代、第一次・病気で一年で辞任)、参議院議員で雌伏の五年間を過ごし、2012年冬二回目の内閣総理大臣(第96代 第二次)2014年冬三回目の内閣総理大臣(第97代、第三次)2017年冬四回目の内閣総理大臣(第98代)

 2020年8月辞任表明。病気悪化で辞任。のちに後継者は官房長官の菅義偉氏総理大臣(第99代)その後、2021年に菅氏退陣。後任は岸田文雄氏(第100代首相)。

岸信介は母方の祖父。牛尾電器社長や岸家や佐藤家などと交流あり。CIAの分析では「安倍晋三は頭も体も心も弱い」「やはりアベは危険なタカ派」等。

岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。位階は正二位、勲等は大勲位。旧姓佐藤(さとう)。

満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣(66・67代)、皇學館大学総長(第2代)などを歴任した。

東條内閣の大東亜戦争開戦時の閣僚であったことから極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留、昭和戦後には「昭和の妖怪」と呼ばれた。

 その岸信介の孫の安倍晋三の暗殺の真実である。


『人物表』安倍晋三暗殺とその事件にまつわる関係者

安倍晋三…(主人公)内閣総理大臣。2022年7月奈良市で銃撃され暗殺される。

谷垣禎一…元・自民党総裁(事故で車椅子状態に)

石破茂…安倍晋三のライバル

二階俊博…自民党の大物「影の将軍」

日銀黒田東彦総裁…東大卒の超エリート日銀総裁

竹中平蔵…政府の経済担当「軍師」

小野寺五典…政府の政治家(安倍友)

若狭勝…東京都知事・小池の右腕・政治家

小池百合子…東京都知事

横田めぐみ……拉致被害者

横田滋…めぐみさんの父親(病死)横田早紀江…めぐみさんの母親

豊田真由子…政治家。問題を起こす

前原誠司…元・民主党の政治家

稲田朋美…自民党政治家

美智子さま…上皇后さま

明仁親王……上皇さま

辻元清美…政治家。安倍の天敵

橋下徹…元・維新の政治家。いまはタレント・弁護士 

小泉進次郎…小泉元首相の息子(人寄せパンダ)

麻生太郎…自民党の大物政治家

蓮舫…政治家。安倍の天敵

雅子さま…皇后さま 徳仁親王……新天皇陛下

田原総一朗…ジャーナリスト 岡田克也…元・民主党・政治家

山尾志桜里…元・民主党・政治家引退。安倍の天敵

岸田文雄…自民党の政治家・安倍・菅の後継者

野田聖子…自民党の政治家 枝野幸男…元・民主党・政治家

櫻井よしこ…ジャーナリスト

安倍昭恵…晋三の嫁 菅義偉官房長官…政治家 河野洋平…政治家

河野太郎…政治家 三島由紀夫(平岡公威)…天才作家 

安倍洋子……(晋三の母2024年(令和6年)2月4日死去・享年95歳)

皇太后良子… 谷内正太郎(後任・北村滋)… 安倍晋太郎…晋三父親

安倍晋三の母親… 岸信介… 小泉純一郎… 石原慎太郎…

 他

*(官邸官僚・〝経産官邸〟安倍チーム・安倍の友達官僚)安倍一強を支えた

今井尚(たか)哉(や)……安倍首相の分身という最強スーパー官僚(元・経産省)

     安倍晋三の首相秘書官(当時)。「虎の威を借りる狐」元・参議員

和泉洋人……菅官房長官(当時)が絶大な信頼を置いた首相補佐官(当時)

杉田和博……元警察官僚。官房副長官(当時)

佐川宣(のぶ)寿(ひさ)……元財務相理財局長。森友疑惑で退官。

福田淳一……元財務相事務次官。セクハラで辞任。

高橋洋一……経済学者。ふるさと納税の「授け親」

須永珠代……ふるさと納税の女王

デービッド・アトキンソン……青い目のブレーン

長谷川榮一……安倍晋三の最側近・内閣広報官(当時)

新原浩朗……今井チルドレン

佐伯耕三……官邸の秘蔵っ子

島田和久……安倍の腹心(当時)(防衛省事務次官)安倍の秘書官を六年務める。

岸田氏の〝安倍派パージ〟で辞任。後任・鈴木敦夫防衛省装備長官

岸信夫防衛大臣……安倍の実弟(岸家の養子)岸田氏の〝安倍派パージ(粛清)〟で辞任

北村滋……第二代NSC(国家安全保障局)長官。安全保障の頂点に立った警察官僚

田中一穂……財務省主計局長(当時)。消費税増税延期を今井に進言。辞任

柳瀬唯夫は、元・総務審議官(加計問題で失脚)→NTTの役員へ天下り(NTTの安倍すり寄り)

谷脇康彦は、元・総務審議官(違法接待で失脚)→NTTの役員に天下り(NTTの安倍すり寄り)

安倍・甘利・麻生と菅(3AS)にとっての原発推進・再稼働は澤田(NTT会長)+甘利+柳瀬の悲願

山田真貴子……元総務省官僚。

谷査恵子……ノンキャリ官僚。安倍晋三の婦人・昭恵の秘書(当時)英語が堪能。

山口敬之(のりゆき)……安倍や菅と親しいジャーナリスト。伊藤詩織レイプ疑惑

佐野太……文部省事務次官(当時)。バカ息子を「裏口入学」疑惑で辞任

籠池夫妻(籠池泰典(本名・康博)・諄子(本名・真美)夫婦)……森友学園疑惑

加計考太郎……安倍の刎頚の友。愛媛の獣医学部学校で便宜と疑惑

黒川弘務……元・検察庁官僚。安倍の意向で検察トップ就任の際は芸能人までSNSで反対。

         不正疑惑でその後、逮捕。

赤木俊夫さん(安倍晋三氏により不利益を被ったのでチーム安倍ではないが)…

         近畿財務局の元・官僚。安倍氏の意向に逆らい自殺。

         いわゆる『赤木ファイル』を残す。

                          

岸田官邸(新・官邸官僚)〝四人組〟

嶋田隆……内閣総理大臣秘書官(安倍の暗殺で力をつけた)

栗生俊一……内閣官房副長官(安倍の暗殺で力をつけた)

森昌文……内閣総理大臣補佐官(元・警察庁)(和泉洋人と管とのパイプ)(VS北村滋)

秋葉剛男……国家安全保障局長(元・外務省)(安倍の暗殺で力をつけた)(VS北村滋)

*安倍暗殺で、中村格(いたる)(警察庁長官)+鬼塚友章(奈良県警本部長)の責任を問われる。辞任した。それで、森・秋葉の敵が消えた。







 日本中に激震! 安倍晋三元首相(67)銃撃で暗殺される!



日本中に衝撃が駆け巡った。あの安倍元首相が演説中に胸を撃たれ、心肺停止となり、搬送先の奈良県の病院で帰らぬ人となったのだ。享年六十七歳……

安倍氏には凶弾に倒れた後に、大勲位菊花大綬章が授与された。秋には国葬が行われた。

安倍晋三元首相は渦中の参議院選挙の応援演説のために当日奈良県入り。2022年7月8日午前11時半ごろ、奈良市の奈良・近鉄大和西大寺駅前で演説中に銃撃を受けた。

得意の〝野党批判〟の最中、背後から忍び寄った犯人(奈良県在住・山上徹也容疑者(被告))が手製の改造ショットガンで二発発砲した。

 NHKによれば、安倍氏は胸を散弾銃で撃たれ、血を流して倒れた。心肺停止になった。警察は奈良県の41歳の犯人・山上徹也容疑者(被告)を殺人未遂の疑いで逮捕し、現場で銃も押収した。山上は元・海上自衛隊員で、使用した銃は3Dプリンターなどでつくった手製の銃であった。暗殺事件の当初は〝散弾銃〟か? といわれたが手製銃だった。

 山上に政治的な思想はなく、「安倍に恨みがあった」という。背後から二発発砲!

 安倍氏は銃撃後、奈良県の病院にドクターヘリで搬送されたが、心臓などに銃弾を受けており、意識が戻らぬまま夕方頃、死去した。死因は失血死だった。犯人は無職で、〝無敵の人〟だった。安倍氏が嫌いな特定の宗教団体と近い、と勘違いをしての犯行であったともいう。その宗教団体が悪名高い、旧・統一教会であった。

 自民党が公表している日程によると、安倍元首相は同11時すぎから奈良市の近鉄大和西大寺駅北口の街頭演説会に参加した後、京都市、さいたま市で遊説する予定だったという。

 岸田文雄首相は参院選の山形県での街頭演説を取りやめ、東京都内に戻った。松野官房長官は「いかなる理由であれ、今回のような蛮行は許されない」と話した。

 安倍氏は2006年9月に自民党総裁に選出され、第一次安倍内閣を発足。持病の悪化で07年9月に辞任したが、体調の回復を受けて活動を再開。12年12月の衆院選で自民党が勝利すると、第2次安倍内閣を発足した。

 19年11月に通算在職日数が2887日となり、戦前の桂太郎氏を抜いて歴代最長となった。さらに20年8月は第2次政権発足からの連続日数も2799日と佐藤栄作氏を抜いて最長となった。さまざまな疑惑に見舞われた元首相であったが、まさかの暗殺事件で、わずかに六十七歳という若さで暗殺された。これで森友学園・加計学園・桜を見る会などの疑惑は闇から闇に葬さられるのか? まさにこの日、日本中に衝撃を与えた暗殺事件……

 まずはご冥福をお祈り申し上げます。日本国は法治国家であり、このような暴力テロでの言論弾圧は許されない。このような蛮行には怒りしかない。

 とにかく、亡くなられた安倍元首相の冥福を祈るしかない。

 共同通信によると、過去に政治家が襲撃された事件では、1992年3月に自民党の金丸信副総裁(当時)が栃木県足利市で選挙応援演説中に銃撃された。94年5月には東京都新宿区のホテルで右翼団体の男が細川護熙前首相(当時)に向けて発砲。2002年10月には石井紘基・民主党衆院議員が世田谷区の自宅前で右翼団体代表の男に刺されて死亡した。

(2023年(令和5年)1月、山上徹也容疑者・被告が『殺人罪』『銃刀法違反』で起訴)



安倍晋三銃撃事件



事件現場(2022年7月8日午後6時頃撮影)

場所 日本の旗 日本 奈良県奈良市

近畿日本鉄道大和西大寺駅北(奈良市西大寺東町2丁目1-56地先)

座標

北緯34度41分38.62秒 東経135度47分01.98秒座標: 北緯34度41分38.62秒 東経135度47分01.98秒

標的 安倍晋三

日付 2022年(令和4年)7月8日

午前11時31分頃 (JST)

概要 選挙運動中に発生した在職期間中の国会議員への銃撃・殺害事件

原因 「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」と「標的」が強い関係性を持っていたと犯人が考えたため

攻撃手段 銃撃

攻撃側人数 1人

凶器 手製の拳銃

死亡者 1人(安倍晋三)

犯人 職業不詳の男

容疑 殺人

動機 「世界平和家庭連合」への恨み

対処 被疑者を現行犯逮捕

影響 記事内参照

管轄 奈良県警察(奈良西警察署)、奈良地方検察庁

安倍晋三(あべしんぞう)銃撃(じゅうげき)事件(じけん)は、2022年(令和4年)7月8日午前11時31分頃、奈良市内の近畿日本鉄道大和西大寺駅付近にて、元内閣総理大臣で衆議院議員の安倍晋三が銃撃され、死亡した事件。

 概要

街頭演説の背景

安倍は、2022年6月22日公示・7月10日投開票の第26回参議院議員通常選挙に長野県選挙区で立候補した自由民主党公認・松山三四六の応援演説を行うため、7月8日に長野県内へ向かうことを調整していた。

ところが6日に松山の女性問題や金銭問題を週刊誌2誌が電子版で記事にしたことから、7月7日午後、応援演説は取り止めとなった。

同日夕方、自民党は安倍の予定を調整し直し、8日の遊説先を奈良、京都、埼玉の3府県に決定した。

奈良県選挙区で立候補した佐藤啓への応援演説について、自由民主党奈良県支部連合会は「推薦団体に知らせたのみで一般への周知はしていない」と会見したが、自民党は特設ウェブサイトにおいて党役員の演説会スケジュールを随時更新しており、安倍の8日の予定は公表されていた。

7月8日10時5分、安倍は羽田発の航空便で大阪国際空港(伊丹空港)に到着。

同日11時10分頃、近畿日本鉄道(近鉄)大和西大寺駅北口で佐藤啓の街頭演説が始まった。安倍は11時19分頃に現場に到着した。

安倍がこの年の参院選の応援で奈良県入りするのは2度目。6月28日に大和西大寺駅南口と、生駒駅前の2か所で演説を行っていた。

事件発生

佐藤啓の街頭演説会は大和西大寺駅北口から東に50メートルほど離れた、車道(奈良県道104号谷田奈良線)中央のガードレールで囲まれた安全地帯で行われた。

実行犯の男はその右斜め後ろの歩道に立っていた。演説台から男までの距離は約15メートルであった。

自民党県連は聴衆の整理のため、スタッフ15人を配置していた。

演説台のそばでは、警視庁のSP1人を含む4人の警察官が警備にあたっており、そのうち1人が後方を警戒していた。4人はいずれもガードレールの内側にいた。

11時29分頃、安倍は高さ約40センチメートルの台の上で、駅のロータリーを背に応援演説を開始。男はその直前に歩道と車道の切れ目あたりに移動した。演説開始から1分40秒過ぎ、安倍の真後ろにいた選挙スタッフの男性が右のほうに移動し、脇から安倍をカメラで撮影した。

 11時31分頃、男は左右を確認することなく、車道を横断し、車道のセンターラインを超えたあたりで立ち止まった。

後方担当の警官は、安倍の真後ろを台車を押して横切る男性の姿に気を取られ、目で追っていたために、斜め後ろから男が近づいてきたことに気付かなかった。

安倍が「彼(佐藤)はできない理由を考えるのではなく…」と言ったときであった。

男はたすきがけの黒いカバンから、筒状の銃身を粘着テープで巻いた手製の拳銃を取り出し、約7メートル先の安倍の方向に照準をあわせた。

安倍と男とを遮る人影はなかった。1発目。爆破音のような大きな音とともに白煙が上がるが、誰にも当たらず、安倍は左後方へ振り返った。

約5メートルの位置まで近づいた男は2発目を発射し、首の右前部と左上腕部に着弾した。

安倍はその場に倒れ込み、意識を失い、心肺停止状態になった。

警察当局の調べでは、男が車道に歩き出してから1回目の発射までの間隔は「9.1秒」とされた。1発目と2発目の間隔は「2.6秒」とされた。

 銃撃した男は奈良県警察に取り押さえられ、11時32分に殺人未遂の現行犯で逮捕された。

 「#実行犯」も参照

死亡確認

同日11時43分、救急車が安倍を収容。救急車はドクターヘリの着陸先の平城宮跡歴史公園に向かった。

この時点で消防は右首の銃創、左胸の皮下出血を確認した。

12時13分、ドクターヘリが離陸。12時20分、安倍は奈良県立医科大学附属病院へ心肺停止の状態で搬送された。

集中治療室で100 単位以上にわたる輸血などの治療を受けた。

 16時55分、妻・昭恵が東京都渋谷区富ヶ谷の私邸から病院に駆けつけた。

医師が輸血を大量に行うなど蘇生措置を実施したことおよび容態を告げ、最終的に「蘇生は難しい」と昭恵が判断。

17時3分に出血による死亡が確認された。67歳没。

 内閣総理大臣経験者の襲撃による死亡は、第二次世界大戦後では初めてで、戦前も含めれば1936年2月26日の二・二六事件での高橋是清、斎藤実以来7人目。

日本国憲法下において他殺された現職国会議員は、浅沼稲次郎、丹羽兵助、11代目山村新治郎、石井紘基に続いて5人目である。

またG7首脳経験者では、イタリアの元首相アルド・モーロが1978年に殺害されて以来となった。

 政府の対応

本事件を受け、政府は8日11時45分、首相官邸の危機管理センターに官邸対策室を設置した。また、警察庁も警備局長をトップとする対策本部を設置した。

 12時50分頃、内閣官房長官の松野博一は首相官邸で記者団の取材に応じ、安倍の容体は不明とした上で、参院選に伴う各地での応援演説が予定されていた内閣総理大臣の岸田文雄が、緊急で官邸に戻ることを明らかにした。

また、「応援演説などで各地にいる閣僚については、直ちに東京に戻るよう指示を出した」と述べた。

 岸田は、正午頃に山形県寒河江市にある道の駅寒河江にて応援演説を行う予定であり、演説前に「ただいま安倍元総理が負傷されるという不確定ですが情報が入りました」とのアナウンスが入った後に岸田が約13分間の演説を行った。

演説後、自民党選挙対策委員長の遠藤利明が岸田へ「総裁、急用ができましたのですぐ解散いたします。ご了解いただきたいと思います。」と伝えた後、支援者と触れ合うことなく車に乗り込み、同県東根市の陸上自衛隊神町駐屯地へと向かった。

その後航空自衛隊松島基地、東京国際空港を経由し陸上自衛隊ヘリコプターで午後2時29分に首相官邸へと戻った。

首相官邸へ戻ると共に、G20会合のためインドネシアを訪問中だった外務大臣の林芳正を除く全閣僚に対して速やかに選挙応援を中止し帰京するよう改めて指示を出した。

14時46分、岸田は記者団の取材に応じ、犯行を「卑劣な蛮行」と非難した上で、「今(容体が)深刻な状況にあると聞いている。今現在、懸命の救急措置が行われている。まずは安倍元首相が何とか一命を取り留めていただくよう、心から祈りたい」と声を震わせながら語った。

 16時30分、緊急の関係閣僚会議が行われた。

国家公安委員長の二之湯智は会議後、記者団に対し「首相から閣僚らへの警護・警備を一層、強化し、選挙を公平に実施できるように要請があった」と述べた。

また、二之湯から、警察庁に警護および警備の強化を指示したことを明らかにした。

総務大臣の金子恭之は「このような蛮行があっても、しっかり選挙を行う体制を整える」と述べ、総務省の選挙担当部署に対策強化の指示を出す考えを示した。

 18時55分、岸田が記者会見し、「偉大な政治家をこうした形で失い、残念でならない」などと述べ、安倍の死去を伝えた。

 11日にはこれまでの功績を受ける形で、死去した8日付をもって、安倍を従一位に叙するとともに大勲位菊花大綬章及び大勲位菊花章頸飾を追贈することを持ち回り閣議に於いて決定した。戦後の首相経験者で最高位の勲章である大勲位菊花章頸飾が授与されるのは中曽根康弘(2019年11月死去)以来4人目。

 遺体搬送・弔問

8日午後には、奈良医大附属病院に前内閣総理大臣の菅義偉が入った。

のちに菅は参院選の応援演説のため沖縄県に向かう予定であったが、事件の一報を受けて演説の予定がなくなったため、同病院に急行したと明かしている。

その後、同病院に内閣官房長官の松野が入った。

 安倍の遺体は司法解剖に付された後、妻の昭恵とともに翌9日5時55分、奈良医大附属病院を出発。

遺体を乗せた車の前後に5台の関係車両がつき、そのうち1台には元防衛大臣の稲田朋美の姿もあった。

同日13時35分、東京都内の私邸に無言の帰宅を果たした。

到着時には自民党政務調査会長の高市早苗と自民党総務会長の福田達夫、親交が深かったフジサンケイグループ会長の日枝久らが出迎え、その後、選挙応援の合間を縫う形で岸田のほか、元内閣総理大臣の森喜朗、小泉純一郎、衆議院議長の細田博之、参議院議長の山東昭子、元自民党幹事長の二階俊博、側近で経済産業大臣の萩生田光一、国土交通大臣の斉藤鉄夫(公明党所属)、東京都知事の小池百合子らが弔問に訪れた。

 10日は、自民党幹事長の茂木敏充や、元衆議院議員の亀井静香、楽天グループ会長兼社長の三木谷浩史らが安倍の私邸を弔問した。

また、駐日アメリカ大使のラーム・エマニュエルは家族や大使館関係者を連れて、弔問に訪れた。

 事件現場では、連日献花に訪れる参列者で長蛇の列を成した。また、11日から15日にかけて、自民党本部でも追悼の献花と記帳を受け付けることとなった。


通夜・葬儀

 11日、通夜が東京都港区の増上寺において関係者のみで執り行われた。喪主は妻の昭恵。

天皇・皇后が香典にあたる祭粢料、御供物の品と花1対を賜い、名代として侍従が焼香した。

また、岸田や前首相の菅、自民党副総裁の麻生太郎、駐日アメリカ大使のエマニュエル、アメリカ財務長官のジャネット・イエレン、日本銀行総裁の黒田東彦、立憲民主党代表の泉健太、国民民主党代表の玉木雄一郎、フジサンケイグループ代表の日枝、楽天グループ会長兼社長の三木谷、トヨタ自動車社長の豊田章男、セガサミーホールディングス会長の里見治ら、国会議員や各国大使、ゆかりのある経済人や文化人約2,500人が焼香に訪れた。

12日に葬儀・告別式が行われ、この日までに259の国、機関から約1,700件の弔意のメッセージが届けられた。葬儀では自民党副総裁で、安倍内閣では副総理兼財務大臣や外務大臣などを務めた元内閣総理大臣の麻生が「友人代表」として弔辞を述べた。

葬儀後に安倍の棺を載せた霊柩車が自民党本部、議員会館、首相官邸、国会議事堂を回り、岸田や自民党幹部をはじめとする国会議員、職員など関係者のほか、沿道で多数の一般市民が見送り、桐ヶ谷斎場に到着し荼毘に付された。

 後日、東京都内と出身地の山口県内でお別れの会が実施される予定であり、山口県知事の村岡嗣政が県や県議会、市長会などが主催する形で「県民葬」を実施する意向であることを明らかにしている。

 

国葬の決定

安倍が死去して以降、各国から弔問を希望する連絡が外務省へ相次いでおり、さらに自民党内や保守層を中心とした世論から国葬を求める声が高まったことから、政府は14日、2022年秋に安倍の国葬を行う方針を固め、当日の岸田の記者会見にて発表した。

岸田は記者会見に於いて安倍について「卓越したリーダーシップと実行力で首相の重責を担った」と説明した。

また、国葬を以て安倍を遇する理由として、東日本大震災からの復興、経済再生、日米関係を基軸とした外交の3点を挙げ、「大きな実績を様々な分野で残した」と述べた。

安倍は各国首脳ら国際社会から「極めて高い評価を受けている」とし、国葬を執り行うことにより「日本は暴力に屈せず民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」とした。

なお、一部の野党からは国葬に関して疑問や反発の声が上がっている。

内閣総理大臣経験者の国葬が行われるのは、1967年に死去した吉田茂以来となり、戦後2人目となる。


捜査・検証

実行犯

生い立ち

実行犯の男は1980年9月、奈良市に生まれた。事件当時は41歳で、同市の集合住宅に住んでいた。男には兄と妹がいた。

 未成年だったとき、父親が他界した。

男の伯父によると、男の父親は1984年に自殺したとされ、男が4歳の時であった。

同時期に男の兄が小児がんを患った。

男の伯父によると、こうしたことが起因し、その後、母親が世界基督教統一神霊協会(現・世界平和統一家庭連合。旧統一教会。略称「家庭連合」)に入信した。

伯父によれば母親は弟を交通事故で亡くしており、1982年頃に母親の実母が亡くなったことにもショックを受けていたという。

入信時期は、男の伯父が男の母親から聞いた話として、1991年だとしている。

一方、世界平和統一家庭連合側の発表によれば、1998年頃に正会員となったとされる。

食い違いの理由として、家庭連合はスポーツニッポンの取材に対し、「入会の記録は、入会願書が受理されたタイミング。基本的には、ご紹介者を契機とした関係の構築や企画への参加というプロセスがあるため、入会以前に関わりがあった可能性はある」としている。

また、男の父親が自殺した1984年から2020年頃までは、伯父が男の家族の支援をしていた。

1998年10月に母親は奈良市内2か所にある宅地を母方の祖父から相続するが、それらの土地と男ら3人の子供と一緒に住んでいた住宅を1999年6月までに売却。統一教会に対し土地などの売却で得た資金や、夫(男の父親)の生命保険金5,000万円など合わせて約1億円を献金した。

男の伯父によると、男の母親は1991年の統一教会入会直後に2,000万円、その数日後に3,000万円の献金を行い、1994年ごろに1,000万円、1998年以降に4,000万円を献金したとされるが、家庭連合は母親の献金の金額や時期について「確認できていない」としている。

1999年3月、男は奈良県の県立高校を卒業。

2002年8月、1億円の献金が原因で母親は自己破産した。

その後、親族らの抗議を受け旧統一教会側は2005年から2014年にかけて5,000万円を返金したとしているが、親族によればその5,000万円も母親が再び献金したと説明した。

2002年8月、男は任期制自衛官として海上自衛隊の佐世保教育隊に入隊。4か月後、呉基地に移り、護衛艦「まつゆき」で艦載兵器を取り扱う砲雷科に配属される。

江田島市の第1術科学校の総務課に移り、2005年に任期満了で退職した。

男の伯父によると、男は海上自衛隊に所属していた2005年に自殺未遂を起こしていた。

旧統一教会への献金によって生活が困窮した兄と妹に、自身の死亡保険金を渡すことが目的だったとしている。

その後は測量会社でアルバイトをしながら測量士補の資格を取得し、宅地建物取引士やファイナンシャルプランナーの資格も取った。

2009年には母親が1998年に親族から経営を引き継いだ建設会社が解散した。

男は事件までの10年ほどは職場を移りつつ、派遣社員としてフォークリフトを使った仕事に従事していた。

男の兄は事件の約7年前(2015年頃)に自殺した。

2020年10月には大阪府内の人材派遣会社に登録し、同月から京都府内の工場に派遣社員として勤務した。

 旧統一教会への恨み

男は事件後の取り調べで「母親が旧統一教会に入会し、多額のお金を振り込んだ影響で破産したことがそもそもの元凶」「家庭生活がめちゃくちゃになり、(同団体を)絶対成敗しないといけないと思った」と供述した。

母親は2009年頃に教会と距離を置き始め、活動を離脱していたが、2019年に教会員と再び連絡を取り始め、2022年初めごろからは月1回ほど教会のイベントに参加していた。

男は「最近も母親と電話で連絡を取っていた」と供述しており、母親の宗教活動再開を把握していたとみられる。

 2019年10月6日に統一教会創設者の文鮮明の妻で、総裁の韓鶴子(韓国在住)が常滑市の愛知県国際展示場で開催された集会にメインスピーカーとして参加するため、来日。

このとき男は火炎瓶をもって会場に向かうが、「教会のメンバーしか会場内に入れなかったので、行くだけで何もできなかった」という。

その後、新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、韓が来日する機会は閉ざされ、男も韓国への渡航を諦めた。

男は「元凶は韓総裁かと思ったが、韓総裁を日本に連れてきた岸信介元首相の孫ということで、安倍元首相も一緒と思った」と供述。

また、「安倍氏が統一教会を日本で広めたと思っていた」と説明している。

 2021年9月12日、家庭連合系の天宙平和連合(UPF)が韓国の会場とオンラインで開いた集会「希望前進大会」に、安倍は「今日に至るまでUPFとともに世界各地の紛争の解決、とりわけ朝鮮半島の平和的統一に向けて努力されてきた韓鶴子総裁をはじめ、皆さまに敬意を表します」「UPFの平和ビジョンにおいても、家庭の価値を強調する点を高く評価いたします」とのビデオメッセージを送った。

集会の様子はインターネット上で視聴可能な状態におかれた。

男は「動画を見て、安倍氏と団体につながりがあると思い、絶対に殺さなければいけないと確信した」と供述している。

毎日新聞と朝日新聞は、男が動画を見た時期を「2022年3月~4月」「2022年春」と報じた。

 2021年11月から2022年2月頃にかけて、男は奈良県内でシャッター付きのガレージを借りた。乗用車が1台止められるほどの広さで、契約額は月額1万5千円だった。

男は「火薬を乾かすために借りた」と供述している。

2021年春から作り始めた銃が2022年春頃に完成する。

 2022年4月半ば頃、男は「体調が悪い」と言って職場(前述の派遣先の京都府内の工場)に来なくなり、5月15日に依願退職した。

6月22日に参院選が公示。6月28日、安倍は奈良県入りし、大和西大寺駅南口と、生駒駅前の2か所で演説を行った。

男は自民党のウェブサイトによって安倍の遊説スケジュールを把握していたが、「このときはやるつもりはなかった」という趣旨の供述をしている。

 殺害を決意

7月3日から自身のスマートフォンで、安倍の遊説日程を複数回閲覧。

安倍が、7月7日夜に岡山市で開かれる小野田紀美の個人演説会に弁士として参加することを知る。

このとき男は初めて安倍の殺害を実行に移すことを決意し、7月6日、JR奈良駅の券売機で岡山行き新幹線の片道切符を購入した。

前職の退職により、「金がなくなり、7月中には死ぬことになると思った」「その前に安倍氏を襲うと決めた」と供述している。

 事件前日にあたる7月7日未明、男は奈良市三条大路の家庭連合の建物に対して自作の銃の試し撃ちを行った。

のちに近所の住人が、午前3時半から4時頃までの間に大きな破裂音を聞いたと証言している。

同日、男は3発発射できる銃を持参して新幹線に乗った。JR岡山駅から会場の岡山市民会館に向かう途中、コンビニ店に入り、店内の郵便ポストにジャーナリストの米本和広(後述)宛ての手紙を投函した。

夜7時、小野田の個人演説会が開幕。

安倍は冒頭の10分間、応援演説を行った。

男は「手荷物検査などがあって近づけなかった」と供述している。

自民党はこの日の午後、8日の安倍の遊説先を長野から奈良に急遽変更した。

男は諦めかけていたが、自宅へ帰る途中、翌日に安倍が奈良に来るとの情報を自民党のウェブサイトで知った。

 

事件当日

7月8日10時前、男は自宅最寄りの近鉄新大宮駅で改札を通り、数分後に大和西大寺駅に到着。現場付近を下見した。11時31分頃、男はマスクに眼鏡、グレーの半袖シャツに長ズボン姿で犯行におよんだ。その後、11時32分に殺人未遂の現行犯で逮捕。奈良西警察署に移送され、取り調べが行われた。

 押収された銃は岡山に持参した銃とは別のものであった。長さ約40センチメートル、高さ約20センチメートルで、金属製の筒を2本束ね、木製の板やテープで固定されていた。それぞれの筒に、6個の弾丸が込められたカプセルが入っており、バッテリーを使って火薬に着火させ、一度の発射で1本の筒から6個の弾丸が飛び出る散弾のような仕組みになっていた。

本事件では計12個の弾丸が発射され、そのうち少なくとも2個が安倍に命中したとみられる。

 同日17時15分頃、男の自宅での家宅捜索が開始された。

自宅から複数の手製の銃や爆発物が発見され、近隣住民に避難が呼びかけられた。

また、押収されたパソコンには武器製造に関するウェブサイトの閲覧履歴が残っていた。

男は「硝酸アンモニウムや硫黄、木炭などを混ぜて黒色火薬を作ったほか、花火から火薬を取り出した」「火薬をつくる方法はネットで調べた」と供述している。

事件当時、男の銀行口座の残額は20万円ほどで、カードローンなどの借入金が数十万円あった。

 事件以後の動き

7月9日、家庭連合の米国事務所は声明を発表。暴力を非難するとともに「銃は我々の宗教的信念や慣行と相容れないものである」と述べた。翌10日、同団体の東京事務所の代表は、男の母親が信者であることを確認した。

 7月10日午前、容疑を殺人に切り替え、男は奈良地方検察庁へと送検された。

 7月11日14時、家庭連合会長の田中富広は会見し、男は在籍していないものの、男の母親は家庭連合の正会員であり、母親は月に1度程度は家庭連合の行事に参加していたことを明らかにした。

なお、安倍について、家庭連合は、「友好団体が主催する行事にメッセージが送られてきたことがあり、『世界平和運動』に関しては賛意を示してくれた」としつつ、「会員や顧問になったことはない」「選挙協力も安倍元首相についてはない」としている。

 家庭連合側は会見で「過去に献金トラブルもあったが、2009年からコンプライアンスを徹底した。

今は献金の強要はしていない」とも説明していたが、翌12日には家庭連合の被害救済などに取り組んでいる「全国霊感商法対策弁護士連絡会」も記者会見を開き、元信者への返金を命じる民事裁判の判決が近年も相次いでいるとして「(同連合による)献金の強要はないという説明はうそ」と述べた。

また、同連絡会はあわせて政治家に対して、同連合への支持を表明するような行為を慎むよう求める声明を公表した。

 7月17日、男が銃撃を示唆する手紙を松江市在住の米本和広に岡山市内から送っていたことが明らかとなった。

男はかつて、米本のブログに統一教会を批判する書き込みをしていたとされる。

男は手紙の中で、文鮮明を「世界中の金と女は本来全て自分のものだと疑わず、その現実化に手段も結果も問わない自称現人神」と評し、「私はそのような人間、それを現実に神と崇める集団、それが存在する社会、それらを『人類の恥』だと書きましたが、今もそれは変わりません」と記載した。

安倍については「苦々しくは思っていましたが、本来の敵ではないのです」「安倍の死がもたらす政治的意味、結果、最早それを考える余裕は私にはありません」という言葉が綴られていた。

 奈良県警が押収した手紙には、男のTwitterのアカウント名が記されていた。7月17日、朝日新聞と読売新聞は、男のTwitterのアカウントを特定したと報道し、投稿された文章を記事に掲載した。

Twitterの初投稿は、常滑市の愛知県国際展示場で開かれた「孝情文化祝福フェスティバル」(男が襲撃に失敗した集会とされる)から7日後の2019年10月13日。投稿されたツイートは計1,363件。旧統一教会への恨みが繰り返し語られるが、安倍については、殺害を示唆するような書き込みはなかった。

むしろ安倍政権を批判するツイートに対し「安倍政権の功を認識できないのは致命的な歪み。永久泡沫野党宣言みたいなもの」とリプライするなど、安倍政権を一定評価するものが多かった。

変化が訪れたのは2020年9月2日。政治学者の三浦瑠麗が同日、歴代最長政権を築いた安倍政権に関する論文を、産経新聞社のオピニオンサイト「iRONNA」に寄稿。

三浦の記事には、政治団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が2015年11月10日に日本武道館で開いた集会「今こそ憲法改正を! 1万人大会」の写真が掲載され、「安倍晋三首相はビデオメッセージを通じ『国民的コンセンサスを得るに至るまで(議論を)深めたい』と訴えた」とのキャプションが付された。

男は、三浦が記事のリンクをはった投稿をリツイートし、「内容に関係ないが、写真が統一教会の大会そのもの。どこまで入り込んでいるのか」と書いた。

 7月17日朝の時点で0件だったTwitterのフォロワーは、18日午後8時時点で約4万5千件に急増した。

それぞれの投稿に対し、多数のリツイートや「いいね」がなされ、拡散したが、7月19日未明から男のTwitterのアカウントが閲覧できなくなった。

ツイッター社は報道機関の取材に応じ、「憎悪や差別、新たな攻撃を引き起こしかねない投稿を禁じる」とする同社の規約に違反したと認める一方、「凍結にいたる詳細等についてはお答えできない」とコメントした。

 

司法解剖

7月9日、奈良県警により公表された安倍の司法解剖の結果によると、死因は失血死であり、左上腕部が狙撃され、左右の鎖骨下動脈を損傷したことが致命傷となった。

 

警備上の問題

問題点

本事件発生当日は奈良県警警備部の参事官をトップとするチームが警護にあたった。

弁士の演説は道路中央のガードレールで囲まれたエリアで行われた。演説台のそばに配置された警察官は、警視庁のSP1人を含む4人。いずれもガードレールの内側にいた。

下記の点が警備上の問題として挙げられている。

 安倍の背後は、事実上「がら空き」の状態になっていた。警視庁特殊部隊の元隊員は「背後を警備していないのはあり得ない」と指摘。

男が車道に進み出て、安倍の約7メートル後ろで立ち止まり、最初の発砲をするまでに「9.1秒」の時間があった。

その9.1秒の間、警察官らが男の動きに気づかなかったことが問題視された。TBSは「悲劇を防げた『空白の5秒間』」と報じた。

元警視総監の米村敏朗は「ほかの人とは明らかに異なる動きをしながら歩いて向かってくる時点で不審者と見込まれるため、警察官がすぐに制止する必要があった」と指摘した。

演説台のそばに配置された4人の警察官のうち、1人が後方を警戒していた。

後方担当の警官は、道路を通り過ぎる自転車などを注視していた。

そして、安倍の真後ろを台車を押して横切る男性の姿に気を取られ、目で追っていたために、斜め後ろから男が近づいてきたことに気付くことができなかった。

最初の発砲から2発目までの「2.6秒」の間に、身をていして安倍の被弾を防ぐ警察官の姿が確認できない。

外国の日本大使館での警護を担当した元警視庁の警察官は「警護の対象人物に覆いかぶさるか、タックルで寝転がして、標的を小さくする対処方法は要人警護の基本であるが、この基本が守られていない」「安倍元首相を寝転がしていれば、被弾したとしても、致命傷にはならなかったと思う」とコメントした。

警視庁のSP関係者は「警視庁は年に数回、公開訓練を行うが、基本中の基本である『大きな音がしたときに警護対象者に近づき、対象者の楯になるようガードする』訓練の模様は、動画でも公開されている」「都道府県警で要人警護を担当する警察官は、警視庁警護課で1年研修することになっており、基本を学んでいないとは考えにくい。なぜ今回のような事態になったのか理解できない」とコメントした。

中東や南西アジアで外交官らの警護を担当したアメリカ人の警備コンサルタントは銃撃の映像を見て「(2発目までの)反応が少し遅いように見える」とコメントした。

選挙の応援と警備の両立に関し、国際政治学者の舛添要一は「日本の警備は刃物に対する防御が中心。有権者との接触を考える選挙の応援と警備の両立は難しい」とコメントした。     Wikipediaより




    安倍元首相に対する追悼演説(立憲民主党・野田元首相)





安倍元総理大臣に対する追悼演説が衆議院本会議で行われ、立憲民主党の野田元総理大臣が故人をしのびました。

以下、その全文です。



故安倍晋三先生に対する追悼演説



本院議員、安倍晋三 元内閣総理大臣は、去る七月八日、参院選候補者の応援に訪れた奈良県内で、演説中に背後から銃撃されました。

搬送先の病院で全力の救命措置が施され、日本中の回復を願う痛切な祈りもむなしく、あなたは不帰の客となられました。

享年六十七歳。

 あまりにも突然の悲劇でした。

政治家としてやり残した仕事。

次の世代へと伝えたかった想い。

そして、いつか引退後に昭恵夫人と共に過ごすはずであった穏やかな日々。

すべては、一瞬にして奪われました。

政治家の握るマイクは、単なる言葉を通す道具ではありません。

人々の暮らしや命がかかっています。

マイクを握り日本の未来について前を向いて訴えている時に、後ろから襲われた無念さはいかばかりであったか。

改めて、この暴挙に対して激しい憤りを禁じ得ません。

私は、生前のあなたと、政治的な立場を同じくするものではありませんでした。

しかしながら、私は、前任者として、あなたに内閣総理大臣のバトンを渡した当人であります。

我が国の憲政史には、百一代 六十四名の内閣総理大臣が名を連ねます。

先人たちが味わってきた「重圧」と「孤独」を我が身に体したことのある一人として、あなたの非業の死を悼み、哀悼の誠を捧げたい。

そうした一念のもとに、ここに、皆様のご賛同を得て、議員一同を代表し、謹んで追悼の言葉を申し述べます。

安倍晋三さん。

あなたは、昭和二十九年九月、後に外務大臣などを歴任された安倍晋太郎氏、洋子様ご夫妻の二男として、東京都に生まれました。

父方の祖父は衆議院議員、母方の祖父と大叔父は後の内閣総理大臣という政治家一族です。

「幼い頃から身近に政治がある」という環境の下、公のために身を尽くす覚悟と気概を学んでこられたに違いありません。

成蹊大学法学部政治学科を卒業され、いったんは神戸製鋼所に勤務したあと、外務大臣に就任していた父君の秘書官を務めながら、政治への志を確かなものとされていきました。

そして、父 晋太郎氏の急逝後、平成五年、当時の山口一区から衆議院選挙に出馬し、見事に初陣を飾られました。

三十八歳の青年政治家の誕生であります。

私も、同期当選です。

初登院の日、国会議事堂の正面玄関には、あなたの周りを取り囲む、ひときわ大きな人垣ができていたのを鮮明に覚えています。

そこには、フラッシュの閃光を浴びながら、インタビューに答えるあなたの姿がありました。

私には、その輝きがただ、まぶしく見えるばかりでした。

その後のあなたが政治家としての階段をまたたく間に駆け上がっていったのは、周知のごとくであります。

 内閣官房副長官として北朝鮮による拉致問題の解決に向けて力を尽くされ、自由民主党幹事長、内閣官房長官といった要職を若くして歴任したのち、あなたは、平成十八年九月、第九十代の内閣総理大臣に就任されました。

戦後生まれで初。

齢五十二、最年少でした。

大きな期待を受けて船出した第一次安倍政権でしたが、翌年九月、あなたは、激務が続く中で持病を悪化させ、一年あまりで退陣を余儀なくされました。

順風満帆の政治家人生を歩んでいたあなたにとっては、初めての大きな挫折でした。

「もう二度と政治的に立ち上がれないのではないか」と思い詰めた日々が続いたことでしょう。

しかし、あなたは、そこで心折れ、諦めてしまうことはありませんでした。

最愛の昭恵夫人に支えられて体調の回復に努め、思いを寄せる雨天の友たちや地元の皆様の温かいご支援にも助けられながら、反省点を日々ノートに書きとめ、捲土重来を期します。

挫折から学ぶ力とどん底から這い上がっていく執念で、あなたは、人間として、政治家として、より大きく成長を遂げていくのであります。

かつて「再チャレンジ」という言葉で、たとえ失敗しても何度でもやり直せる社会を提唱したあなたは、その言葉を自ら実践してみせました。

ここに、あなたの政治家としての真骨頂があったのではないでしょうか。

あなたは、「諦めない」「失敗を恐れない」ということを説得力もって語れる政治家でした。

若い人たちに伝えたいことがいっぱいあったはずです。

その機会が奪われたことは誠に残念でなりません。

五年の雌伏を経て平成二十四年、再び自民党総裁に選ばれたあなたは、当時 内閣総理大臣の職にあった私と、以降、国会で対峙することとなります。

最も鮮烈な印象を残すのは、平成二十四年十一月十四日の党首討論でした。

私は、議員定数と議員歳費の削減を条件に、衆議院の解散期日を明言しました。

あなたの少し驚いたような表情。

その後の丁々発止。

それら一瞬一瞬を決して忘れることができません。

それらは、与党と野党第一党の党首同士が、互いの持てるものすべてを賭けた、火花散らす真剣勝負であったからです。

安倍さん。

あなたは、いつの時も、手強い論敵でした。

いや、私にとっては、仇のような政敵でした。

攻守を代えて、第九十六代内閣総理大臣に返り咲いたあなたとの主戦場は、本会議場や予算委員会の第一委員室でした。

少しでも隙を見せれば、容赦なく切りつけられる。

張り詰めた緊張感。

激しくぶつかり合う言葉と言葉。

それは、一対一の「果たし合い」の場でした。

激論を交わした場面の数々が、ただ懐かしく思い起こされます。

残念ながら、再戦を挑むべき相手は、もうこの議場には現れません。

安倍さん。

あなたは議場では「闘う政治家」でしたが、国会を離れ、ひとたび兜を脱ぐと、心優しい気遣いの人でもありました。

それは、忘れもしない、平成二十四年十二月二十六日のことです。

解散総選挙に敗れ敗軍の将となった私は、皇居で、あなたの親任式に、前総理として立ち会いました。

同じ党内での引継であれば談笑が絶えないであろう控え室は、勝者と敗者の二人だけが同室となれば、シーンと静まりかえって、気まずい沈黙だけが支配します。

その重苦しい雰囲気を最初に変えようとしたのは、安倍さんの方でした。

あなたは私のすぐ隣に歩み寄り、「お疲れ様でした」と明るい声で話しかけてこられたのです。

「野田さんは安定感がありましたよ」「あの『ねじれ国会』でよく頑張り抜きましたね」「自分は五年で返り咲きました。あなたにも、いずれそういう日がやって来ますよ」温かい言葉を次々と口にしながら、総選挙の敗北に打ちのめされたままの私をひたすらに慰め、励まそうとしてくれるのです。

その場は、あたかも、傷ついた人を癒やすカウンセリングルームのようでした。

残念ながら、その時の私には、あなたの優しさを素直に受け止める心の余裕はありませんでした。

でも、今なら分かる気がします。

安倍さんのあの時の優しさが、どこから注ぎ込まれてきたのかを。

第一次政権の終わりに、失意の中であなたは、入院先の慶応病院から、傷ついた心と体にまさに鞭打って、福田康夫新総理の親任式に駆けつけました。

わずか一年で辞任を余儀なくされたことは、誇り高い政治家にとって耐え難い屈辱であったはずです。

あなたもまた、絶望に沈む心で、控え室での苦しい待ち時間を過ごした経験があったのですね。

あなたの再チャレンジの力強さとそれを包む優しさは、思うに任せぬ人生の悲哀を味わい、どん底の惨めさを知り尽くせばこそであったのだと思うのです。

安倍さん。

あなたには、謝らなければならないことがあります。

それは、平成二十四年暮れの選挙戦、私が大阪の寝屋川で遊説をしていた際の出来事です。

「総理大臣たるには胆力が必要だ。途中でお腹が痛くなってはダメだ」私は、あろうことか、高揚した気持ちの勢いに任せるがまま、聴衆の前で、そんな言葉を口走ってしまいました。

他人の身体的な特徴や病を抱えている苦しさを揶揄することは許されません。

語るも恥ずかしい、大失言です。

謝罪の機会を持てぬまま、時が過ぎていったのは、永遠の後悔です。

いま改めて、天上のあなたに、深く、深くお詫びを申し上げます。

私からバトンを引き継いだあなたは、七年八ヶ月あまり、内閣総理大臣の職責を果たし続けました。

あなたの仕事がどれだけの激務であったか。

私には、よく分かります。

分刻みのスケジュール。

海外出張の高速移動と時差で疲労は蓄積。

その毎日は、政治責任を伴う果てなき決断の連続です。

容赦ない批判の言葉の刃を投げつけられます。

在任中、真の意味で心休まる時などなかったはずです。

第一次政権から数え、通算在職日数三千百八十八日。

延べ百九十六の国や地域を訪れ、こなした首脳会談は千百八十七回。

最高責任者としての重圧と孤独に耐えながら、日本一のハードワークを誰よりも長く続けたあなたに、ただただ心からの敬意を表します。

首脳外交の主役として特筆すべきは、あなたが全くタイプの異なる二人の米国大統領と親密な関係を取り結んだことです。

理知的なバラク・オバマ大統領を巧みに説得して広島にいざない、被爆者との対話を実現に導く。

かたや、強烈な個性を放つドナルド・トランプ大統領の懐に飛び込んで、ファーストネームで呼び合う関係を築いてしまう。

あなたに日米同盟こそ日本外交の基軸であるという確信がなければ、こうした信頼関係は生まれなかったでしょう。

ただ、それだけではなかった。

あなたには、人と人との距離感を縮める天性の才があったことは間違いありません。

安倍さん。

あなたが後任の内閣総理大臣となってから、一度だけ、総理公邸の一室で、密かにお会いしたことがありましたね。

 平成二十九年一月二十日、通常国会が召集され政府四演説が行われた夜でした。

前年に、天皇陛下の象徴としてのお務めについて「おことば」が発せられ、あなたは野党との距離感を推し量ろうとされていたのでしょう。

二人きりで、陛下の生前退位に向けた環境整備について、一時間あまり、語らいました。

お互いの立場は大きく異なりましたが、腹を割ったざっくばらんな議論は次第に真剣な熱を帯びました。

そして、「政争の具にしてはならない。国論を二分することのないよう、立法府の総意を作るべきだ」という点で意見が一致したのです。

国論が大きく分かれる重要課題は、政府だけで決めきるのではなく、国会で各党が関与した形で協議を進める。

それは、皇室典範特例法へと大きく流れが変わる潮目でした。

私が目の前で対峙した安倍晋三という政治家は、確固たる主義主張を持ちながらも、合意して前に進めていくためであれば、大きな構えで物事を捉え、飲み込むべきことは飲み込む。

冷静沈着なリアリストとして、柔軟な一面を併せ持っておられました。

あなたとなら、国を背負った経験を持つ者同士、天下国家のありようを腹蔵なく論じあっていけるのではないか。

立場の違いを乗り越え、どこかに一致点を見出せるのではないか。

以来、私は、そうした期待をずっと胸に秘めてきました。

憲政の神様、尾崎咢堂は、当選同期で長年の盟友であった犬養木堂を五・一五事件の凶弾で喪いました。

失意の中で、自らを鼓舞するかのような天啓を受け、かの名言を残しました。

「人生の本舞台は常に将来に向けて在り」

安倍さん。

あなたの政治人生の本舞台は、まだまだ、これから先の将来に在ったはずではなかったのですか。

再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった。

勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん。

耐え難き寂寞の念だけが胸を締め付けます。

この寂しさは、決して私だけのものではないはずです。

どんなに政治的な立場や考えが違っていても、この時代を生きた日本人の心の中に、あなたの在りし日の存在感は、いま大きな空隙となって、とどまり続けています。

その上で、申し上げたい。

長く国家の舵取りに力を尽くしたあなたは、歴史の法廷に、永遠に立ち続けなければならない運命(さだめ)です。

安倍晋三とはいったい、何者であったのか。

あなたがこの国に遺したものは何だったのか。

そうした「問い」だけが、いまだ宙ぶらりんの状態のまま、日本中をこだましています。

その「答え」は、長い時間をかけて、遠い未来の歴史の審判に委ねるしかないのかもしれません。

そうであったとしても、私はあなたのことを、問い続けたい。

国の宰相としてあなたが遺した事績をたどり、あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も、この議場に集う同僚議員たちとともに、言葉の限りを尽くして、問い続けたい。

問い続けなければならないのです。

なぜなら、あなたの命を理不尽に奪った暴力の狂気に打ち勝つ力は、言葉にのみ宿るからです。

暴力やテロに、民主主義が屈することは、絶対にあってはなりません。

あなたの無念に思いを致せばこそ、私たちは、言論の力を頼りに、不完全かもしれない民主主義を、少しでも、よりよきものへと鍛え続けていくしかないのです。

最後に、議員各位に訴えます。

政治家の握るマイクには、人々の暮らしや命がかかっています。

暴力に怯まず、臆さず、街頭に立つ勇気を持ち続けようではありませんか。

民主主義の基である、自由な言論を守り抜いていこうではありませんか。

真摯な言葉で、建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱なものへと育てあげていこうではありませんか。

こうした誓いこそが、マイクを握りながら、不意の凶弾に斃れた故人へ、私たち国会議員が捧げられる、何よりの追悼の誠である。

私はそう信じます。

この国のために、「重圧」と「孤独」を長く背負い、人生の本舞台へ続く道の途上で天に召された、安倍晋三 元内閣総理大臣。

闘い続けた心優しき一人の政治家の御霊に、この決意を届け、私の追悼の言葉に代えさせていただきます。

安倍さん、どうか安らかにお眠りください。





安倍晋三政権への期待とがっかり感

(森友・加計疑惑・桜を観る会の疑惑・統計不正…)


安倍政権を支持する層の中には二つのパターンがあったともいいます。一つは安倍晋三内閣総理大臣を、何があろうとサポートし、支持しようとした勢力……つまり安倍信者。もしくはネトウヨ(ネット右翼)と呼ばれる人たちです。彼らは安倍晋三氏がヒトラーだとすれば、ナチス、もしくはヒトラーユーゲントのように、何があっても彼を支持するという気持ちでした。

それらの代表的な人物は櫻井よしこ氏やベストセラー作家の百田尚樹氏。ただ、強烈な安倍信者の一人でした。もう一つが、無知であるが故に、あの政権を支持していたという層です。明らかに無知であり、森友学園問題・加計学園問題、もしくは、桜を見る会の不正、統計不正問題や IR(カジノ)疑獄………それらのことを全く分かっていない無知な人間が、安倍政権を支持していた層の中にありました。

彼らは無知であるが故に、森友学園問題、加計学園問題のことも知らないし、桜を見る会の不正が……何が不正で何が問題であるかも分かっていなかった。では、無知であるならば勉強すればいいと思うんですか……それができない。森友・加計問題も何も知らない。

「じゃ勉強しろよ!」って言うと「勉強はつらい。勉強は嫌いだからやらない」みたいなことをいう。なら勉強して、知識を身につけて、それから批判的なことを言えばいいものですが、それができない。ただただ何も知らず、安倍晋三を盲信していた。

これを読む人には、そうはなってほしくない、という思いから、ここでは今さら聞けない森友・加計問題、桜を見る会の不正の問題、 IR疑獄などについて、問題について勉強していきましょう。


今さら聞けない『森友・加計疑惑』とは?

なぜ問題になったか? 森友学園払い下げ価格が安すぎる。

鑑定価格 9億5600万円。ごみ撤去費用を8億2200万円・適用。

払い下げ価格、それが1億3400万円

2016年六月、学校法人『森友学園』に大阪府豊中市の国有地が払い下げられました。不動産鑑定士が出した土地の評価額は9億5600万円でしたが、近畿財務局が出した払い下げ価格は「約8億円引き」の 1億3400万円でした。

森友学園・籠池理事長(当時)「小学校名は安倍晋三記念小学校にしたい。名誉校長を昭恵夫人に」

払い下げに首相(当時)夫妻の影響があったのではないか?

森友学園の籠池泰典理事長(当時)が、近畿財務局との交渉時に昭恵さんとの交流を強調していたことなども判明し、首相(当時)夫妻の影響で土地の価格が不当に安くなったのではないかとの見方が出ています。

2018年3月7日、近畿財務局局員・赤木俊夫氏(54)が自ら命を絶った。遺族が佐川元・理財局長と国を相手に1億1000万円の損害賠償を求めて提訴。(大阪地検・2020年3月18日)


なぜ問題になったか? 加計学園、許可に、官邸からの働きかけ?

五十二年間、どこの大学も認めていなかったが、「国家戦略特区事業」として、岡山理科大学獣医学部新設。加計孝太郎理事長は、安倍晋三首相(当時)の長年の友であるため、 100億円以上の補助金を交付されている。

特別な便宜を図ったのではないか?

学校法人『加計学園』は 17年1月、52年間もどの大学にも認められていなかった獣医学部を新設する国家戦略特区事業に選定されました。ただ、加計孝太郎理事長が、首相(当時)の長年の友であったため、特別な便宜をされたといわれています。首相(当時)や政府は関与否定していますが、愛媛県職員が作成した備忘録には、柳瀬唯夫首相(当時)秘書官・萩生田秘書官(当時)と面会し、「『事項は首相(当時)案件』と言われた」などときかれていたため、18年五月、柳瀬氏は、国会に参考人招致をされ、あいまいな答弁に終始した。国会へ提出した期間が 5年……15年二月にかけ、氏から構想を聞き、首相(当時)は「いいだろう」といったともいわれている。が、首相(当時)は直後に、この加計氏との面会を否定しました。

なぜ問題になったか? 官邸のそんたくによる決済書改ざんではないか?

財務省「首相(当時)や昭恵夫人が疑われそうだ」

売買に関する経緯を改ざん?

価格の事前交渉をうかがわせる期日や、本件の特殊性などの文章。

森友学園では、財務省財務局による決裁文書改ざん問題も発生しました。

財務省が、国有地払い下げの経緯を消した文章を国会に提出した際、首相(当時)や昭恵夫人の関与が疑われかねない記述を削除していたことを認めました。

公文書改ざんは、民主主義の根幹を揺るがしかねない事態であり、18年3月27日には、佐川宣寿元・理財局長が国会に証人喚問されました。財務省には18年5月23日、これまで残っていないと国会で答弁していた森友学園と近畿財務局の交渉記録を国会に提出しました。18年6月4日には改ざんの調査報告書も公表しました。

昭恵夫人と親密?  森友学園籠池理事長(当時)―――昭恵夫人

大幅な値引き   忖度一

近畿財務局   国会で追及――安倍首相(当時)「関係していたら首相(当時)も国会議員もやめる」忖度二   経緯改ざんーーー財務省・佐川財務局長(当時)

なぜ問題になったか?

*内閣支持率の低下

*自民と総裁選の行方が不透明に

*省庁再々編への議論が加速(01年省庁再編)

それでも安倍氏は首相(当時)に三選された。ポスト安倍や省庁再々編に影響もあった。

その後、籠池被告夫妻には、森友学園補助金詐取によって 前学園理事長の籠池泰典被告(67・2020年時点)に懲役5年、妻の被告(63・2020年時点)に同3年執行猶5年(いずれも求刑は懲役7年)を言い渡した。これによって森友学園の裁判沙汰はおわった。


では『桜を見る会の問題事件』について説明していこう。

安倍氏の後援会の人々が、ホテルニューオータニの会合食事で、ホテルの最低食事額は1万1000円………しかし、後援会の人々は五千円しか払っていない。安倍が出したら、公職選挙法違反。食費の差額をホテルニューオータニが出したら政党助成金違反(政党と政治団体にしか出してはいけないから)。

安倍「ホテルニューオータニが宿泊費などを、ホテル側がまけてくれたのだろう」

後援会「ホテルニューオータニに泊まっていない」

安倍「事務的手違い」と逃げる。

また、反社会勢力やマルチ商法の人間が参加者の中にいた。首相(当時)の選挙区の後援会員記と芸能人、ジャパンライフ幹部、アベトモも。

菅「反社会勢力の定義がない」

(2007年反社会勢力の定義* 暴力・威力と強制的思考を駆使して経済的に利益を追求する集団、または個人が反社会勢力とされている。定義があったのでこれは矛盾している)。 

参加者のうち、反社会勢力がどれだけいたかはわからないが、参加していること自体が問題であるといわれている。

『ジャパンライフ』という、マルチ商法の会長が招待されていた可能性があったので、野党は「招待した名簿」を出せと迫った。しかし、オーダーの1時間後にはすべてシュレッダーにかけられて〝証拠隠滅〟のようになってしまった。

シュレッダーの空きがここしかなかったと、嘘。

PCのデータも消していた。菅「バックアップデータは、プリントアウトじゃないので行政文章(公文書)には当たらない」と。

桜を見る会ってどんなものなの?

首相(当時)の主催で、東京にある桜の名所・「新宿御苑」で毎年開かれる行事です。1952年に始まり、費用は公金で賄っています。たる酒や軽食、菓子が振る舞われ、出席者は首相(当時)らと歓談し記念撮影などをしています。

どこが問題なの? 第二次安倍内閣発足後、会への支出額と出席者数が大幅に増えたことを批判され、注目を集めることになりました。出資額は 2019年は5518万円で、14年度と比べ、2倍近くに増え、出席者数は19年度は約18200人で、重要年度の約1.3倍になりました。野党は、首相(当時)や自民党議員の後援会関係者が増えたとみており、「税金を使った後援会活動だ」と批判していました。

後援会関係者を招いてはいけないの?

基準が不明確すぎると指摘されています。招待者について、首相(当時)らの推薦枠があることも判明しました。首相(当時)は約 1000人の枠があり、政府が公人ではなく私人としている妻・昭恵夫人からの推薦分も含まれています。野党は、首相(当時)による会の私物化が極まったと批判を強めました。政府は、2020年の開催を中止し、招待基準や参加者数を見直すことにしました。

首相(当時)は自分で後援会関係者を推薦するの?

首相(当時)は招待者の取りまとめには関与していない、と国会で答弁しました。

が、その後招待者の推薦については意見を言うこともあったと説明を修正しました。

悪質なマルチ商法で知られた『ジャパンライフ』の元会長や、反社会勢力の人物も招待された疑いがあると聞きました。が、元会長は自身の会社のチラシで、15年の会に招待されたことをアピールしています。反社会的勢力は、出席したのかはわからないままで政府の説明不足は明らかでした。首相の辞任後、会長らは逮捕されました。

何が問題かといえば、前夜祭の会の食費がホテルニューオータニの一人のあたりの予算である1万1千円よりはるかに少なかったこともあり、不足分補充ならば、公職選法違反にあたるってことです。2019年度の桜を見る会には、約800人が参加しました。が、会費はすべて五千円でありました。このホテルニューオータニでの会食が、一人につき1万1千円ではなく、五千円ということであれば、もし、安倍氏側が補てんしたならば、公職選挙法違反となり、また、ホテルニューオータニがその分を差し引いたのであれば政党助成金違反となります。すべての総額がわかる、ホテルの明細書や見積書があれば五千円であったのかがわかるので、すべて、証拠隠滅で、シュレッダーにかけてしまったためデータが残っていないとされています。これが問題なのです。招待者名簿がなぜ残っていないのか? 野党が資料を求めたその日に、廃棄した、シュレッダーにかけた。まるで証拠隠滅です。


IR疑獄。秋元司衆議院議員(当時)が、収賄の疑いで逮捕、または関係者の贈賄による逮捕もありました。中国企業にカジノ特区での計らいへの賄賂があった、といいます。企業は 500以上の会社、または現金は300万円が秋元司元衆議院議員にわたり、またそのカジノ関連の会社や IT関係の会社が賄賂を贈ったということで逮捕されました。その逮捕された議員の中には日本維新の会議員・下地氏、自民党の議員などがいました。また安倍政権の不祥事としては、広島選挙区において、河井克行議員と妻の河合案里議員が、秘書への公選法違反行為、贈賄の容疑で罪に問われる事がありました。

第四次安倍再改造内閣で問題が指摘された閣僚

菅原一秀、経済産業相(当時)  10月25日に辞任

河井克行 前法務省(当時)   10月31日に辞任

萩生田光一文部科学相(当時)  辞任 党三役へ。野党の追及続く

北村誠吾 地方創生担当大臣(当時) 辞任。野党の追及続く

長期政権のメリットは、長期的な視野で物事を考えること。そして、一つのテーマに時間を分けて取り組めることだ。その利点をもっとも生かせるのが外交で、戦後の長期政権は日本の平和のために大きな役割を果たした。吉田茂元首相(当時)は、サンフランシスコ講和条約を結び、佐藤栄作元首相(当時)は非核三原則を表明し、沖縄返還を実現した。

現状を冷静に分析し、一貫した姿勢で取り組んだことが政権の実績となってきた。

では、安倍首相(当時)はどうだったか。世界中を回っていたが、それが実っているとは言い難い。トランプ米国大統領(当時)とは仲良くしていたが、大統領の本音は「自国さえよければいい」だけだったからだ。迎合すればするほど日本は他国から反感をもたれる。そして未曾有の流行病・新型コロナウイルス対策………。

目立った実績がなく、政権に「飽き」が広がるのに、政権が安定するのは、強力なポスト安倍がいなかったからだ。今の政治家は、少したたかれただけで簡単に屈してしまう。

長期政権の弊害も目立っている。首相(当時)官邸が人事権を具現化して、恐怖心を植え付けた結果、政権の意向に反発する役人がいなくなってしまった。長いものには巻かれろ的な空気で動く人ばかりなってしまった。そんたくをする官僚だけになってしまった。

民主党が分裂して、弱体化したことに加え、安倍氏にとって二度目の政権であることも大きかった。第一次政権崩壊後に味わったみじめな体験が実に身にしみているため、権力への執着は深く強かった。政権投げ出しも多かった近年の首相(当時)の中で抜きんでに抜きんでている。

安倍独裁政権といえたが、暗い意味ではなく、「安倍さんしかいない」風のものだった。

 そう考えると、安倍晋三氏はほんとうに『悪運』が強かった。神っていた。

 まさか、暗殺されるとは……驚愕するしかない。




  2022年(令和4年)7月8日11時31分頃の正午、奈良県奈良市の近鉄大和西大寺駅駅北口付近で、参議院選挙の応援演説中、安倍晋三は銃撃されて暗殺死する。

 奈良市で選挙演説中に、背後から迫った山上徹也容疑者(被告)から手製の銃で銃撃され、、安倍晋三は二発目で撃たれ、安倍晋三は死んだ。享年六十七歳……

 それは突然の出来事だった。

 もちろんマスコミの徹底取材、警視庁からのSP(シークレットポリス)と奈良県警のSPが護衛してはいたのだが、とにかく事件は起った。

 しかし、疑惑は多い。

 銃撃者の山上徹也容疑者(被告)があまりに安倍氏に近づけたという点……

 はたして、警護のSPは二発も見過ごしたのだろうか?

 山上の二発目が安倍氏に当たったというが……弾道が違うような……

 とにかく、安倍晋三の暗殺事件は瞬時に世界中に駆け巡った。

 正午、東京杉並。

 この物語の主人公、姫光龍三は自宅のソファーに座っていた。

 そんなとき、妻の美代子はテレビのリモコンのスイッチを押した。

 そして、仰天した。

 ……安倍晋三元首相が銃撃された……?!

 美代子にとってそれは驚愕のニュースだった。彼女は金縛りにあったように一瞬、体を硬直させた。ダるかった。

「……なんて……なんてことなの…」

 動悸がした。

 あまりの衝撃に一瞬われを忘れた。

「あなた! 大変よ!」

 もう五十代の太り気味の妻・美代子は夫の姫光龍三の方をみた。

 姫光龍三は昨晩からの徹夜で、眠い目をこすりながら、

「例の事件で夜遅くに寝て、あんまり寝てないんだ」と悪態をついた。

 姫光龍三は五十代の割腹のいい男で、少し頭髪が薄い。しかし、がっちりとした筋肉をもち、口髭をはやしている。頭はよく、インテリである。

 姫光龍三は髭を反ろうと洗面台の方へむかった。

「あなた! 髭どころじゃないわ!」

 妻は狼狽していた。

「なんだ? 飼い犬でも死んだか?」

 姫光龍三は冗談をいった。「それとも皺がまた増えたか?」

「なにいってんの! テレビ・ニュース観てよ! 特集よ!」

「……あん?」

 姫光龍三はさっきから話し続けるニュースのキャスターに初めて、この日初めて耳をかたむけた。そして、仰天した。

「……安倍晋三…元首相が……撃たれた?」

 そう、

 2022年(令和4年)7月8日11時31分頃の正午、奈良県奈良市の近鉄大和西大寺駅駅北口付近で、参議院選挙の応援演説中、安倍晋三は銃撃されて暗殺死する。

元首相の安倍晋三が撃たれたのである。

「…な…なんてこった…」

 姫光龍三はまともな言葉もでなかった。

 犯人は一般人の日本人で、安倍氏の背後の至近距離から手製の散弾銃を撃った。

ちなみに彼は、別に安倍晋三のファンではない。政治とは縁もゆかりもないのである。

しかし、突然の銃撃事件に言葉がでなかった。

 ……有名人の事件とはこういうものなのだろうか?

 龍三はこのときは、安倍晋三が即死・心肺停止とは気付かなかった。只の事件……

 ニュース・キャスターや有名大学のインテリ教授も、「今、懸命に救命中」そうコメントしたではないか!

「ついに、安倍晋三がやられたか…」

 姫光龍三は深い溜め息をもらした。

〝ついに〟……とは、安倍晋三とネトウヨと左翼の痴話喧嘩や、政治家としてのあらゆる疑惑が頭にあったからだ。安倍晋三はいつもマスコミのかっこうの「鴨」だった。

 パパラッチたちは彼を常に尾行し、盗聴し、盗撮し、〝飯のタネ〟にしてきた。

 安倍晋三の疑惑は「森友学園」「加計学園」「桜を見る会」……マスコミは独裁政権に忖度し、報道を自粛。だが、週刊誌だけは「スクープ」などと称して話題をまいた。

 只、マスコミが安倍晋三の虚像をつくりあげ、実際の彼以上に「安倍晋三」という人物をつくりあげてしまったのだ。

 安倍晋三はけして『英雄』じゃない。




         2 手製の銃と暗殺者・山上徹也容疑者(被告)






「安倍晋三元首相の暗殺事件は法廷的に調べる必要がある」

 東京杉並に戻った姫光龍三は、そう確信した。例の国葬儀ではヤジ馬の頭ばかりで夫人も皇族も見えなかった。しかし、のちにTVの録画で見た。

 感想は、「ふう~ん」という感じだ。

 しかし、分析の必要はあると思った。

 なんせ日本でも屈指の名弁護士と呼ばれた姫光龍三である。

 分析力、捜査力では日本広しといえど、姫光龍三に適うものはいまい。

 いずれにしても、やがて捜査の依頼がくるだろう。

 こないならこちらで草の根で、やり遂げるしかない。

 元フリージャーナリスが「安倍晋三元首相の死はJFK暗殺とは違う。幼稚な暗殺者による事件だ」

 と断定しているが、それでも謎は多い。

 事件……手製の銃で……暗殺……?

 事件すぐに婦人に重体の報告がきた。政治家たちには警察機関から伝えられた。アベトモたちには独自ルートで、安倍晋三元首相の即死が伝えられた。アベトモはいった。

「安倍晋三元首相が死んだ。昨晩はむなさわぎがして、ずっと眠れなかったんだ」


 姫光龍三は東京杉並の自宅でのうつろな休日をテレビを観て過ごした。

 テレビはどこも安倍晋三の追悼特集だった。

 テレビマンたちは視聴率稼ぎに血眼になっていたのだ。この時期、アジアや米国でも安倍晋三特集番組が放送された。

安倍晋三は死んだのである。

 犯人は山上徹也容疑者(被告)。原因は、旧・統一教会からの搾取……安倍晋三元首相はターゲットとは違うが、旧・統一教会幹部が殺せないので……代わりに。

 山上と旧・統一教会の関係や、自民党も世間も旧・統一教会関連一色になる。

 本当に、手製の銃で、安倍氏を殺せたのか?

 だが、実際に、安倍晋三元首相は銃撃で……死んだ。

 その山上の発砲とは違う角度からの銃撃……??

 サイレンサーライフルでのビル屋上からの銃撃……??

それはまさに、陰謀論、であった。

 だが、コロナウイルスが存在しない、とか、ワクチンの注射に小型のICチップがあり、監視される、とか、の馬鹿馬鹿しい陰謀論ではない。

 人工地震……とか(笑)


 姫光龍三は大いに興味を抱いた。妻・美代子も長女の杏も長男の正弘も、まだ幼い次女の美子もテレビやインターネット動画に釘づけだった。

「これは大変だ。しかし、これは調査する必要がある!」

 姫光龍三は椅子から立ち上がった。

「安倍晋三の死は事件じゃない。国家による暗殺だ!」

 勘だった。

 そうすることで何かの決着をみようとしていた。

 姫光龍三の全身の血管の中を、感情が……なんともいえない感情が駆けめぐった。これからは日本政府や世界との戦いだ、姫光龍三は思った。

 世界が個人による銃撃といおうと、私は国家による暗殺だと思う。

 ……不審な点が多すぎる。

 そうしたところ、やっぱり民間のNGO団体から依頼があった。しかし、それは二〇二二年の秋ことで、事件か暗殺かから三か月後のことで、あった。

         3 怪しい影







  訴訟依頼は二〇二二年秋になってからだった。

「こんな汚いオフィスにわざわざすいません」

「かまいませんよ」

 姫光龍三はその人物と握手をかわした。

 安倍晋三暗殺事件の国家賠償裁判を依頼してきたのは、姫光龍三が考えた通り、〝安倍シンパ〟からであった。

 NGO団体〝ワールド・ピース アンド SDGsと安倍氏を守る会〟の代表で大富豪である。アラブ系のためか肌は茶褐色だが、オーダーメードの値段が高そうなスーツを着ていた。何カラットかわからないが、指輪やネックレスもしている。

「あなたが、姫光龍三さんで?」

「そうです。姫光龍三といいます」

 姫光龍三は恐縮してしまって、名刺を出す手が震えた。「名刺をどうぞ」

「モハメド・アルファイド徳永です……徳永建設インフラストラクチャーってご存じかな? あと色々と経営してます」

 彼は名刺を差し出した。丁寧な言い方だった。けして、天狗になってはいない。

「実は……親交のあった安倍晋三さんとの暗殺について調べてもらいたいのです」

「しかし、事件は警察が調べ上げたはずですよ。山上徹也容疑者(被告)が実行の犯人だ、と」

 姫光龍三の声がうわずった。

「わたしはあれは単独の手製銃による銃撃ではなく、暗殺事件だと思ってるんです」

「……暗殺事件?」

 これはまいった。私が当初考えたことと同じだ。

 しかし、姫光龍三は「単独犯だって警察もマスコミもいってましたよ。それに三か月も前のことです。インテリが間違った見解をしますか?」

「私は暗殺だと思います」

 姫光龍三は「あなたは大富豪なのでしょう? 私よりもっと優秀な探偵や弁護士や検事がいるでしょう? それなのにこんな汚いオフィスまでわざわざきてもらって……」

「あなたは日本一の名弁護士ときいたのでね」

「……私はそんなんじゃないですよ」

「ご謙遜を」

「確かに、事件は謎が多いと私も思います。山上徹也容疑者が手製銃で銃撃したこと、事件直後の写真や動画が公式には非公開なこと……でも暗殺まではどうでしょう?」

 モハメッド・アルファイド徳永は顔をしかめた。

「ギーミーア・ヴレイク(これはまいった)」

 そして続けた。

「とにかく裁判をお願いします。金なら払います。なんせたんまりあるんでね」

「………わかりました」

 姫光龍三は笑顔をみせた。

 こうして、かれとそのチームは「安倍晋三暗殺」裁判への第一歩を踏み出したのであった。天気は曇り……それは姫光龍三たちの未来を暗示しているかのようだった。



 姫光龍三は、部下に語り掛ける。

「安倍元首相暗殺の黒幕は? CIAの陰謀?

「安倍元首相暗殺の黒幕はCIAの陰謀か?予言した人は誰か?

題して調査してみた。

 現場の様子はあまりに物々しく、ここは日本なのか?と疑ってしまうレベルだった。

犯人は取り押さえられたが名前や顔画像やプロフィールが数時間もかからずわれた。

 おかしいとは思わないか?

いくら政治的に不満があったにせよ、射殺なんて絶対あってはならない。

 ロシアやCIAの陰謀を疑う声もあるが………

 あまりに突然の出来事に恐怖しか感じない………

 ――早速詳細を調べよう。――――――

 安倍元首相が山上徹也容疑者によって射殺されるという、痛ましい事件がおこった。

犯人による供述も進んでおり、真相も少しずつ解明されている。

 しかしながら、以前として囁かれているのが、黒幕説だ。

 現時点では、誰が黒幕なのか、そもそも黒幕がいるのかハッキリと分かっていない。

 ですが、単独犯にしてはおかしい、そして報道の内容からして不自然な点が多々あると言われている。

 にわかには信じがたいが、ネットで言われている情報を集めてみた。

 では、安倍元首相暗殺が疑われる理由は?

なぜ安倍元首相の暗殺疑惑が流れているのか。

 ネットで言われている暗殺疑惑について列挙していく。

安倍元首相暗殺疑惑①血だまりができていない。

一つ目に、安倍元首相の死因は失血死と言われているにも関わらず、血だまりができていない点だ。

 確かに映像を見ると、血だまりができているような雰囲気ではない。

 現場に居合わせた医師自身も、血だまりができていたのかもしれない、といった発言をされている。

 しかしながら、血だまりができてないのは当然だ。

 なぜなら、弾丸が体内から出ていないからだ。

 小さな弾丸で体と衣服に穴が開いている状態なので、血が出ていく出口もごくわずか。

 だからこそ、目に見えた大量出血はないものの、大動脈を損傷しているため体内でも出血はすさまじいものだったと言えるだろう。

 この疑惑については、弾丸が体内に残っていたから現場では大量出血していないのが当然といえる。

 安倍元首相暗殺疑惑②病院が発表した内容との乖離

二つ目の疑惑だが。病院が発表した内容との乖離だ。

 病院側は、頸部真ん中より少し右に2か所と発言している。

 しかしながら写真で見る限り、安倍元総理の首の右側に損傷はなく、逆に左側が傷ついているように見える。

 病院側との発表と違うので、なぜ?と思った人も多いだろう。

 しかしながら警察による司法解剖により、左上腕部の銃弾が致命傷になったと説明している。

 左上腕部に被弾した結果、左右の鎖骨下動脈を損傷したことによる失血死と発表した。

 ですが、首の傷は銃弾によるものかは分からないと発言している点が少々不可解だ。

 病院側と、警察側でも意見が分かれている点で、物議をかもしているのではないか。

 安倍元首相暗殺疑惑③チューブのようなものが見える

また、安倍元総理が射殺されたときの画像を見ると、右下腹部あたりにチューブのようなものが見えています。

 この点についても、「このチューブは何だ………?」と物議をかもしているようだ。

(これはAEDなのか?それとも別の何かなのか?)

 確かに写真を見ると、チューブのようなものが見えますが、これが一体何なのか今のところ分かっていない。

安倍元首相暗殺疑惑④散弾銃で狙い撃ちできるスペックの高さ

また手製の散弾銃で撃った割りには、安倍元総理にしか当たっていないなんて、物凄い凄腕のスナイパーだ。

 しいて言えば、選挙カーに当たったぐらいで、あれだけ人がいたにも関わらず、被害はそれだけ。

 あれだけ人がいるのだから、誰かしらに当たっても不思議ではない。

手製の銃にしては性能が良すぎる、なおかつ山上容疑者の狙撃スキルが高すぎる点を疑問視している人もいるようだ。

 だからこそ、山上容疑者はあくまでおとりで、他に狙撃した人物がいるのではと考えたのではないだろうか。

 安倍元首相暗殺疑惑⑤犯人の身バレの早さ

安倍元総理が打たれてから、犯人が即拘束されたものの、あまりの身バレの早さに違和感を感じた人もいるのではないか。

 犯人の素性が分かるのなんて、せいぜい、どんなに速くても翌日ぐらいだろう。

 しかしながら、ものの数時間後には、すぐ元海上自衛隊員と報道された。

 元海上自衛隊で勤めていたと、山上容疑者が発言したかは不明だが、いずれにせよ身バレが早すぎる気もする。

 もちろん、これだけの重大事件を起こしたからこそ、各局こぞって調べまくった可能性はある。

 ですが安倍元総理が演説していた時に、複数局が生中継していたとの証言もある。

 まるで事件を待ち構えていたかのように感じる方も………

 そうなると、一気に黒幕説が信ぴょう性を増してくる。

 安倍元首相暗殺は単独犯ではない?

安倍元総理暗殺事件の違和感。右首前部から心臓への傷は、一体誰が撃ったのか。

単独犯なのか、複数犯なのか、真犯人は他にいるのか、組織的な犯行なのか、国家ぐるみなのか。メディアは一つの物語を決め込んでいるようだが、本来真相に関して慎重に捜査すべき事件だろう。

また安倍元首相が打たれる直前に不自然に右の襟が大きく動いている。

 右上からの銃創もあったと、動画では言われているが、山上容疑者のいる位置から撃つことは不可能だ。

 ということは第三者が右上から発砲したと考える方が自然だ。

 仮に左脇下からの銃弾が右上に抜けたとしても、その場合でしたら右襟当たりに血が付いていないと不自然だ。

 しかし、事件の写真を見ても、そういった様子は見受けられない。

 また1発目と2発目の間で金属音のような音も確認できている。

 音声解析した方もいらっしゃり、1発目と2発目の間に何らかの異音がまじっていることが判明している。

 ピシュッといったような音が、山上容疑者の発砲とは別のタイミングで聞こえるので、見るからに不自然だ。

 以上の点から単独犯ではなく複数犯ではと考えられているが、その犯人については現時点で全く判明していない。旧・統一教会に人生をめちゃくちゃにされた、ぐらいだ。

 おそらくメディアは山上容疑者の単独犯に仕立て上げようとしているので、もし複数犯だとしてもメディアで放送される可能性は極めて低いだろう。

安倍元首相暗殺にSNSの声は?

安倍元総理に助かってほしかった。辛すぎる。こんなに辛いと思わなかった……

こんな銃撃事件なんて、ましてや日本の元総理を撃つなんて……信じられない。そりゃ言いたいことはあったかもしれない。でも、暴力で解決なんて間違ってる。

安倍元総理を殺害したところで何の解決にもならないと思う。信じられない。

奥さんが心配……まさか演説に言った夫が撃たれるなんて誰も思わない。怖すぎる。

とにかく安倍元総理を心配する声が非常に多く聞かれた。

 にしても本当に恐ろしい事件だ……。

 集中治療室に移送された時点で、いくらか希望があるのではと思っていた。

 しかし実態は、恐らく即死に近かったのだろう。

 少しでも奥様の昭恵さんと、対面できるよう最後の最後まで心臓マッサージや処置を行っていたのではないか。

 本当に奈良医大の方々には頭が上がらないし、どれほど心痛だったことだろう。

 安倍元総理のご冥福をお祈りする。」



「あなたは安倍晋三元・首相が国家に殺されるのを理解できなかったので?」

「………知らないよ。事件だよ、単独事件! くだらん! なにが陰謀だ!」

 エリート官僚は逆ギレした。

「山上による単独犯行だ! 俺は善人だよ、誰も殺してもいない」

「単独犯行ではない! はじめてだ……安倍晋三氏を殺しておいて善人とは…!」

 逆上した姫光龍三を部下がとめた。

「ボス! ……す…すいません、某さん。おかえりを…」

 官僚某はふんと鼻を鳴らすと、オフィスから去った。

 しばらくしてから、姫光龍三は部下に、

「……すまん。さすがの私もキレてしまった」と詫びた。

  それからすぐに、姫光龍三たちは銃撃の近くの元・医師の蔭川某男(66・仮名)と志水某子(38・仮名)という男女に詰問した。蔭川はつるっ禿げの男で、不自然なカツラをかぶった小太りの男だった。姫光龍三はさっそく詰問した。

「どうも、蔭川さん。お忙しいところをどうも」

「いやあ」

 蔭川はオドオドいった。「珈琲はでないのかね?」

「気付きませんで、どうも。おい、珈琲だ」

 かれは「どうも」といって渡された珈琲を飲んだ。

「もういいですかな?」姫光龍三はさいそくした。

「ええ。なんでもきいて下さい。私は正直者ですから…」

「そうですか。ではおききします。安倍晋三の事件のときは覚えてますか?」

「えぇ。世界的な悲劇ですから…」

「その前日、あなたはあるエリート官僚の御友人たちとともにゴルフにいったとか?」

 蔭川はそわそわしながら「え……えぇ。そうです」

「何ラウンド回ってたんですか?」

「……それは……十五くらいだったかな」

 姫光龍三は「エリート官僚は二十二ラウンドといってましたよ?」

「そ、そうだ二十二だ……なんせ昔のことだから」

「何ポイントくらいのハンディがあったのですか?」

「そうだな、三、四というところかな。あまり飛ばなくてね」

「車でいったのですか?」

「そうですよ。自転車で郊外までいけんでしょう?」蔭川は笑った。

 姫光龍三の目がぎらりと光った。

「調べによると、車にゴルフクラブをつんでいかなかったとか……」

 蔭川は動揺した。狼狽がひどい。

「クラブがなくてどうやってボールを打ったんです? パチンコですか?」

「…い……いや……そのぉ…」

「本当はCIAのエージェント(工作員)と会っていたんではないですか?」

 蔭川は冷や汗をかきながら、

「CIAなんて馬鹿らしい。スパイ小説の読み過ぎですよ。………そうだ! ゴルフ場の場所までいって、そこでクラブがないことに気付いたんだ。ドジでね」

「あなたの話には矛盾点が多い」

「…は? どこがおかしかったのかな?」

 蔭川は狼狽の顔のままきいた。

 蔭川某男と志水某子にきいたのは、安倍晋三元首相が銃撃された後の瞬間、〝即死〟ではなかったのか? ということ。近くの医院からかけつけて蘇生活動をしていたこと……

 何故、マスコミや医師関係者は〝即死〟を否定したのか?




  日本の大手マスコミたちは姫光龍三たちの調査を嗅ぎ付けた。

 すぐに姫光龍三たちは取材の対象となり、メディア・スクラムが組まれた。

「……誰が調査をバラしたんだ?! いたるところメディアばかりで調査が進められん」

 姫光龍三がオフィスで愚痴ると、部下の鈴能が、

「きっと彼でしょう」といってテレビ画面を指差した。

 テレビには某エリート官僚が写っていた。

 かれはインタビュアーに「姫光龍三が安倍暗殺事件を調べている」と認めた。そして、「安倍晋三の事件は陰謀ではない」こと「只の単独犯行である」と結論づけた。

「安倍晋三さんの事件とJFK暗殺を同類に扱うべきじゃない」

 これが彼の結論だった。

 しかし、疑問も残る。安倍氏の遺体を解剖させてもらえなかった点、事件のときの山上発砲とは違う上方からの二発の弾丸、謎に包まれた事件結果……

 姫光龍三たちは番組の内容にも驚いた。

  姫光龍三はさっそく同朋の検事、蔭(かげ)川(がわ)とあった。

 蔭川は、

「安倍晋三の事件にCIAが関与なんて……馬鹿らしい。スパイ小説の読み過ぎだよ。あれはたんなる個人による単独犯行だ。五十年に一回ある悲劇のひとつだよ」

 と正論をのべた。

「……なるほど。それはそうだが…疑問点も多い。単独犯行にしては謎が多い」

 姫光龍三はいうと、蔭川は「いちいち事件に疑問をもっていても仕方ない。どんな事件にも矛盾点はあるものさ」といった。

 いちいちごもっともである。


「どういうことなんだ?!」

 その夜、姫光龍三たちのオフィスに男の声で電話があった。

 怒鳴っていたが、声は恐怖にあふれていた。

「……どなたです?」姫光龍三は帰り際だったが、電話にでた。部下もまだいた。

「どなた?! 私だよ、……蔭川だ!」

 あきらかに男は焦って狼狽していた。

「どうしたんです? 蔭川さん?」

 蔭川は怒鳴った。

「〝どうしたんです?〟じゃない! 私のところへメディアたちが大勢きている。私は死んだ……死んだ!」

「落ち着いてください、蔭川さん」

「お、落ち着けだと?! 私は殺される! 連中は恐ろしいんだ…」

「とにかく、こちらにきてください。すぐに警察をよびますから……」

 蔭川はまた怒った。

「警察はやめろ! 私は殺されてしまう! くそったれ!」

「とにかく、こちらに今直ぐきてください!」

 姫光龍三はせかした。

 やがて、蔭川が東京杉並の姫光龍三のオフィスまでやってきた。

「どうも蔭川さん」

 蔭川は動揺して、目をキョロキョロさせて、内に入った。

「盗聴機なんて仕掛けてないだろうな?! 何してる?! メモなんかとるな?!」

「だいじょうぶだ。ここは安全だ」

 姫光龍三はゆっくりいった。

 蔭川はそわそわと歩きまわる。「安全? はん! 連中の力も知らないくせに…」

「……連中とは?」

「…連中とは連中のことさ。やつらは恐ろしいんだ。こんな私なんかすぐに消されてしまう。くそっ!」蔭川はカツラの頭を抱えた。「くそっ! くそっ! しゃべりすぎた! 私は殺される! 殺される!」

「…………だいじょうぶ。警察に守ってもらうよう手配を…」

「馬鹿野郎! その警察もグルなんだよ!」

 今度は姫光龍三が黙る番だった。

「私の夢はな……カトリックの牧師になることだったんだ……でも、ある…ほんのささいなことで資格を失った……そして、私は殺される…連中に…」

「……CIA?」

「ああ。それとマフィアとある国家と利権団体とやらだ」

 蔭川はさらに頭を抱えた。

「馬鹿野郎! 喋りすぎた……俺は殺される! 俺は殺される!」

 かれはうっすらと涙を浮かべた。

「だいじょうぶ。我々が守る」

 姫光龍三の慰めに、蔭川は「無理だ。きっとあんたらも殺される。事故や自殺にみせかけられて……連中の力は強大だ。象に立ち向かう蟻さ。勝ち目はない」



  何日かあと、蔭川某男は自宅で変わり果てた姿で発見された。

 目をひんむいて、口をあけて横たわっていた。遺書はワープロPCソフトで打たれたものだけだった。死後すぐに発見されたようで、遺体の腐敗はまだすすんではいなかったようだ。

 警察が捜査して、部屋を調べていた。

 警察は「自殺」として処理しようとしていた。

 姫光龍三たちは駆けつけた。

「……どうも弁護士の姫光龍三です。こちらは部下……ちょっと中いいですか?」

「どうぞ、ご自由に」警官はいった。

 姫光龍三たちは立入り禁止のテープをくぐって中にはいった。

 死体があった。ベッドに仰向けに横たわっている。

「自殺だって?」

「ええ。毒薬をのんだようです」警官はいった。

 姫光龍三の部下は遺書のワープロ印字文をみた。

 ……わたしはこの世に絶望した。天国にいってみたい。美しい世界をみたい。すべて満足して私はこの世を去る。みなさんありがとう。グット・バイ……

 姫光龍三たちはしばらくその文面をみていた。

 あれだけ死ぬのを怖がっていた男の文だろうか……?


















         第二部 暗殺の真実

























         4 山上徹也容疑者・単独犯の謎






  蔭川検事を連れ、姫光龍三は東京銀座のバーにやってきた。

 椅子にすわると「ア・ユー・レディ・オーダー?」とウエイターがきいてくる。

「ツー・ビア・プリーズ」

 姫光龍三はいった。

「なんの用なんだ? 姫光龍三」

 蔭川はフル・ネームでよんだ。

「……安倍晋三を殺したとする山上徹也容疑者はそんなに狙撃の凄腕だったのかい?」

 唐突に、姫光龍三はきいた。

「そうさ。一発目は誰にも当たらず……二発目が安倍氏にだけ当たった。一発で六発の弾丸がでる手製の銃なのにやるもんだ」

「暗殺のために、合図をして、本当の暗殺犯たちはサイレンサーライフルで安倍氏を銃殺したのではないか?」

「ギヴ・ミーア・ヴレイク(よしてくれよ)!」

「何がかね?」

 姫光龍三は訝しがった。

 蔭川は「なにがサイレンサーライフルなのだ? あれは事件だよ。個人による単独犯さ。五十年に一度くらい起こる暗殺事件のひとつだよ。どこに暗殺の疑いがある?」

「ど素人が手製銃で銃撃し首尾よく殺せたとか、二発の発砲の間の別の銃声、事件後の遺骸の写真の紛失や、解剖結果の未処理……」

「馬鹿らしい。安倍晋三が死んでからいろいろな話が出た。だが、どれも無知やいやみにもとずく論説だ。それと同じだよ。陰謀なんてのは眉唾だな」

「大嘘だ、と?」

「そうだ」

「もし…」姫光龍三は続けた。「もしCIAの使うサイレンサーライフルで、安倍晋三元首相があの状態になっていたとしたら……」

 急に蔭川の顔色がかわった。激昴した。

「いいかげんにしろ! 何が陰謀、暗殺だ! 何がCIAだ! あんたは頭がおかしいんだ!」姫光龍三は黙りこんだ。

「……安倍晋三でさえ消されたんだぞ! いいか?! 姫光龍三……これ以上あの事件に首をつっ込むな。あんたは消されてしまうぞ! 今までの会話はすべてオフ・レコだ。いいな?」

「……しかし蔭川…」

「ドン・バザー(かまうな)! グッナイト!」蔭川は会計書をもって椅子から立ち上がり、その場を去った。顔は蒼白、息も荒かった。

 ……とにかく、やばいことに首をつっこむべきじゃない!

 蔭川には姫光龍三が馬鹿げた調査をしていると思えた。

 ……馬鹿らしい。やばいことに首をつっこむと命の保証もない。相手は強大なのだ。


  次の夜、姫光龍三の部下たちは事務所の会議室で向かい合って話していた。

「山上徹也容疑者(被告)の件ですが…」

 女性部下の絵馬亮子が続けた。「確かに、旧・統一教会との関係が確認されたそうです。母親がね」

 部下の上杉は「母親が多額の寄付を教団にして、一家は貧困になったとか。兄だか弟だかが自殺したとか……詳しくはわかりません」

 絵馬は「山上徹也容疑者(被告)の詳細な人生は未公開です。子供の頃などはわかりますが……これじゃあムダ毛と同じね。なんの役にもたたないわ」

 一同は笑った。

「しかしエリート官僚の某氏は? 安倍晋三元首相が殺されたわけだから、影響力を失ったのは自業自得というもんだが、山上徹也容疑者は? ターゲットは旧・統一教会のはずなのに、何故、安倍さんだったんだ?」

 姫光龍三は疑問を投げかけた。「まあ、教団幹部を狙えずに、仕方なく教団との結びつきが強い安倍さんを狙った……何の得が? 反安倍たちは大喜びだろうが……」

「それなんですボス、私はマインド・コントロールじゃないかと思います」

「マインド・コントロール?」

「一種の催眠術です。安倍さんを憎むように洗脳したとか…」

「それより」絵馬はいった。「自爆テロなんじゃない? アルカイダとかと同じ…」

 一同は薄ら笑いを浮かべた。

「アラー・アクバル(アラーは偉大なり)?」

「……日本人なのに?」

今度は一同は笑った。

 姫光龍三は「まず事件後その場を立ち去った自動車の行方と、現場に設置されていたカメラの映像を調べなければならないな」といった。

「犯人は山上徹也容疑者ですか? それともサイレンサーライフルの某国の陰謀?」

 姫光龍三は部下たちに情ない顔をしてみせて「まだわからん」といった。

 安倍晋三の夫人、昭恵さんを聴取したが、なんらいい情報は得られなかった。

 安倍晋三暗殺事件の捜査はすすんでなかった。

 メディアたちも諦めたのか、姫光龍三たちの捜査に関心をよせなくなった。

 

                     

        5 CIAと反ロシア(『サハリン2』『日露安全保障条約』阻止)







「マフィアの関係はどうか?」

 姫光龍三は事務所でいった。

 部下は「からんでるかも知れませんね。CIAも一口噛んでるかも知れません。もっとも憶測で、何の証拠もないですがね」

 と、苦笑いした。

 部下の絵馬は「依頼人のモハメド・アルファイド徳永氏によればそういうことになります。米情報機関とマフィアとある国家が絡んで安倍晋三を……殺した」

「中国はどうだ? ロシアも……安倍晋三が消えてくれてのびのびと貿易や戦争ができるだろう?」

「まさか! 中国やロシアまで暗殺に関与したと?」

「憶測ですが、安倍晋三が死んで誰が一番得をしたかですわ」

 姫光龍三は「日本政府が安倍晋三を〝使い捨てライター〟のように捨てたと?」

「そうですわ!」

「カモォーン(おいおい)、ギ・ミー・ア・ヴレイク(よしてくれよ)……政府が指示した訳ないだろう。誇り高き日本国政府がだぞ」

 部下は頭を振り、

「じゃあJFKは? 彼は誰に殺されましたか? オズワルド? 今や誰も単独犯行とは認めてませんよ」

「日本国政府がアメリカ合衆国に指示し、CIAらと結託して安倍晋三を殺した?」

 姫光龍三の眉がつりあがった。

「そうです。米国は真の友好国……中国とは違って日米は本当のパトナーなんです。だから、日本国政府が困れば、助ける義理があります」

「アメリカ合衆国政府とCIA(米国中央情報局)が結託か。なら、大富豪の政治家を殺すのに手間はかからない。かれらが一番得意とすることだからね」

「その通りです」

 部下は頷いた。


  その夜、姫光龍三は自宅に向かうひとけのない道路を歩いているところ、背後から車のランプが光るのが見えた。顔を横にしてみてみた。

 黒いベンツが走って突っ込んでくる。まぶしくて運転手の顔も見えない。

 猛スピードでかれ自身に向かって突撃してくる。

「ひいぃ~つ!」

 姫光龍三は間一髪逃れた。車は急ブレーキを踏み、またUターンして突撃してくる。しかし、姫光龍三は逃げた。命からがら逃げ去った。

 はあはあはあ……私の命を狙っているの…か…?

 ……誰が? 調査に反対するものか…

 命からがら自宅に戻ると、電話が鳴った。

「どうしたの? あなた」妻は呑気だった。

「はい、姫光龍三です。ええ……うん…うん」電話は幼い娘・美子が出ていた。

「誰からだ? 美子」

 父はきいた。

「芸能界からのひと……女優にならないかって…すぐ事務所まできてって」

 姫光龍三は血相を変えた。

 受話器を奪った。

「おい……誰だ? 娘に何のようだ?!」姫光龍三が怒鳴ると、電話は無言で切れた。

 ……イタズラ電話か?

 ……しかし、私は命を狙われた。そいつらか?

 どちらにしてもあまり気乗りのする気分ではない。

 また、ディス・インフォメーションで『姫光龍三弁護士の脱税疑惑』などというデマまで流されたり………前途多難だ。



















         6 安倍晋三よ、永遠なれ!








  ふたりきりになって愛を交わしているときは、美代子はしばしば、そうだと感じることができた。夫の龍三は激しく、しかもやさしかった。彼女を抱きしめ、熱っぽく唇と腰をからめてくる。美代子は自分が幸せな女だと思った。

 日本でも名の通った弁護士……なによりも感情的ともいえるセックスは彼が妻のことを愛しているのを象徴していた。

 しかし、ズボンを穿くや、姫光龍三はまた「安倍晋三暗殺」の調査に向かってしまう。

「もう夜遅いわよ、あなた」

 妻はいった。「安倍晋三は死んだんだし、いつまでも待っててくれるわ」

 姫光龍三は「あるジャーナリストと会わなければならないんだ」

 と、おどけた表情を見せた。

 ジャーナリストの名は長尾信玄。

 彼は霧のかかる橋の上でまっていた。

「……長尾信玄さん? 姫光龍三です」

「やあ、姫光龍三さん。メディアたちがあなたを狙ってますよ。安倍晋三の暗殺の調査をしているって……」

「知ってます」姫光龍三はそのハンサムな男にいった。

「でもかまいません。依頼されて調査して裁判をするのが我々の仕事ですから」

「そうですか。姫光龍三さん。あなたは今、安倍晋三暗殺にとても近付いてますよ。すごくね。命の危険もあるのに、よく頑張ってらっしゃる」

「……前に車で殺されかけました」

 姫光龍三は苦笑した。

「私の知っているメディアの中に、事件後すぐの安倍晋三を撮影した男がいましてね」

「…ほう」

「紹介しましょうか? その男によると事件すぐには安倍晋三は即死だったそうです」

 姫光龍三は眉をひそめた。

「かわいそうに……殺されたのでしょうな」

「それはまだわかりません。単独犯行かも知れないし、陰謀の暗殺かも知れないし…」

「その写真は?」

 長尾は「知り合いがもっていたのを米国情報機関が没収しました。だが…コピーがあるそうです」と、にやりとした。

「なんという男です?」

「織田信頼というジャーナリストです」

「是非会いたいです。事件直後の写真は調査の参考になりそうです」

 姫光龍三は織田信頼と会うことを望んだ。

 しかし、それは永遠にかなえられなくなる。

 織田信頼が溺死したのだ。事件の詳細は不明で、警察は事故だといったが、事実は暗殺だった。当然、写真のコピーも発見されなかった。

 また、織田のクレデビリティ(信憑性)を低めるために、かれのセックス・スキャンダルが大衆紙にのった。だが、写真のバックアップがクラウド上に見つかった。

 それが近年、ウェブ上に拡散されている写真である。

 姫光龍三は決意する。

「安倍晋三暗殺の下手人を逮捕する! これは安倍晋三のためだ!」

 裁判は始まった。

 原告側は姫光龍三とモハメド・アルファイド徳永、被告は日本国政府+CIAだった。審議の内容は「日本国政府+CIAが安倍晋三の銃撃死(暗殺)に関わっているのかどうか」だった。

 裁判では冒頭に事件の様子が語られた。



「日本中に衝撃が駆け巡った。あの安倍元首相が演説中に胸を撃たれ、心肺停止となり、搬送先の奈良県の病院で帰らぬ人となったのだ。享年六十七歳……

安倍氏には凶弾に倒れた後に、大勲位菊花大綬章が授与された。秋には国葬が行われた。

安倍晋三元首相は渦中の参議院選挙の応援演説のために当日奈良県入り。2022年7月8日午前11時半ごろ、奈良市の奈良・近鉄大和西大寺駅前で演説中に銃撃を受けた。

得意の〝野党批判〟の最中、背後から忍び寄った犯人(奈良県在住・山上徹也容疑者(被告))が手製の改造ショットガンで二発発砲した。

 安倍氏は胸を散弾銃で撃たれ、血を流して倒れた。心肺停止になった。警察は奈良県の41歳の犯人・山上徹也容疑者(被告)を殺人未遂の疑いで逮捕し、現場で銃も押収した。山上は元・海上自衛隊員で、使用した銃は3Dプリンターなどでつくった手製の銃であった。暗殺事件の当初は〝散弾銃〟か? といわれたが手製銃だった。

 山上に政治的な思想はなく、「安倍に恨みがあった」という。」

 アルファイドは好きなだけいうと、椅子に座った。

 被告の弁護人は、

「それは憶測でしょう? 馬鹿らしい。暗殺だなんて……事件ですよ」と鼻を鳴らした。

 姫光龍三は「果たして本当にそうでしょうか? 単独犯行にみえますが陰謀の暗殺の点も拭えないと私は思います。まず、ひとつ目の疑惑は、事件当時に目撃された逃げ去る自動車の行方です。警察が探したのにいまだに見付からない。

 それから、安倍さんの演説を写していたという監視カメラの映像が非公開という点…

 さらに、安倍晋三の山上徹也容疑者の二発の中間に響いた別の銃声に上空からの銃弾の行方、これも行方不明です。

 そして、SPの無行動……なぜ誰もそれを否定するのか?

 警察の護衛の確認のずさんさもあります。

 さらに、メディアの身元確認もされてない。あれだけの事件がおこったのに……

 またビルの屋上にCIAのスナイパー(狙撃手)がいたという証言、これももみ消されましたが。運転手が所持していた大金……なぜ大金をもっていたのか?

 また、逃走した自動車の持ち主ではないか? と疑われた男は謎の死をとげてます。

 なぜ?

 安全保証機関の不法な行為もありました。ややいきすぎのメディア規制をし、安倍晋三の検死結果も非公開です。遺体の銃弾も山上徹也容疑者とは別の銃弾とか……

 また山上徹也容疑者は定期的に医師の診断を受けていた。

 本当に精神異常者に銃撃暗殺が可能でしょうか?

 十分に調べられたのでしょうか? また単独犯行だという根拠はあるのでしょうか?

 なぜ? いったいなぜ?」

 被告側の弁護士は笑った。

「単独犯行事件だよ、きみ。姫光龍三さん、あなたほどの弁護士が、陰謀による複数犯暗殺と単独犯行の区別もつかないなんて…ははは」

「では、日本国政府+CIAやアメリカ合衆国は無罪だと?」

「そうさ。話をきいても山上徹也容疑者が何の役目をしたのかわからないじゃないかね? かれは安倍さんをたったひとりで殺した。だから、逮捕されたんだ。意味がわからないことは言わないことですな」

姫光龍三は息巻いた。

「日本国政府+CIA・CIAの工作員の仕業です。山上徹也容疑者は囮で、今回のオズワルドであります」

「証拠はあるのか?」

 被告側がにやにや笑いだした。

 ……とんだ茶番劇だ、というところだろう。

「第一番目の謎だが、例えば中国の大使館に派遣されようとした全権大使だが、その朝だけは何故かSPが派遣されていなかった。

そして、迎えの車が何故か遅れて、その車を待っていた全権大使が痙攣しながら倒れて いた事件です。病院に搬送された大使は死亡が確認されましたが、マスコミは病院への取材 も目撃者の取材も一切やらないという完全情報統制が布かれたのです。

搬送された病院名も担当医師も闇の中という摩訶不思議な事件でした。

謎の第一は、今回の安倍元首相への、あまりに杜撰な警護体制です。安倍氏の警護には警視庁のSPが一名派遣されていたのですが、そのプロ中のプロが、何故か安倍氏から3メートルも離れた位置にいたこと。他のSPは奈良県警ですので第一弾の発砲音に身が硬直し 身動きが取れていません。これは一般人と同じ反応で致し方有りません。さすがに訓練が 行き届いた警視庁のSPだけは発砲音と同時に防弾板カバンを持って安倍氏に近づく反応 を見せています。しかし、3メートルも離れており守り切れなかったのです。

なぜプロ中のプロが安倍氏から3メートルも離れていたのか?

 (ベリー西村. 元首相暗殺の黒幕 ( Tokyo Books. Kindle 版)引用

 謎の二番目は、この事件を報じるニュース原稿が二日前に作成され、ネットの公開が二日後に設定された謎。コマンドの入力忘れか? 9・11でも同じようなことが……

謎の三番目は、容疑者が誰かの指示を受けているかのような様子が、ひんぱんに見られた点。「山上徹也容疑者(被告)は誰の指示を待っていた」??

第四番目の謎は、旧・統一教会の分派の「サンクチュアリ教会」の教祖が6月22日から来日していた点。

第五番目の謎は、イルミナティの実行部隊+フリーメーソン+CIAでないか?という点。

 第六番目の謎は、直前の演説場所の変更。(ケネディ暗殺と同じ手口・パレードのルート変更)(できるだけ目撃者を少なくするため?)

 第七番目の謎は、安倍晋三氏を撃った弾丸の弾道を調査すると、心臓に穴をあけた弾丸の弾道は上方から発せられた弾丸で、山上徹也容疑者の弾丸は手製銃を持ちながら、歩きながら、撃っており、けして安倍氏の上からの弾道にはならない。

 もし、山上徹也容疑者の銃弾が、安倍氏の鎖骨に当たって、逆の180度回転して心臓を突き刺した……とするなら安倍氏の鎖骨は超合金でもなければ説明がつかない。

 弾道から察するに、二発の弾丸の弾道は、ビル屋上からの上方からの弾道である。

 ビル屋上からのサイレンサーライフルでの銃撃だ。

 山上徹也容疑者の二発は囮であり、二発とも誰にも当たらなかったに違いない。

 手製の銃の轟音と煙は、スナイパー(狙撃手)への合図ではなかったのか??

 第八番目の謎は、搬送先の病院である。

 救急車を手配すれば、10分で奈良市の病院についただろう。警察車両が護衛して。

 だが、何故か、ヘリを呼んで、奈良県の大型の病院まで運んだ。CIAの手口で、すべて隠ぺいできる病院まで搬送したのではないか? 銃撃で即死なら解剖がかかるが、そうしないために意識不明を連呼した。

 解剖して、山上徹也容疑者のとは違う銃弾がみつかるのを恐れたのではないか?

 第九番目の謎は、CIAと山上徹也容疑者との接点。オズワルドはCIAと接触。山上は極普通の日本人なので、CIAとの接点はない。唯一、考えられるのは旧・統一教会の憎悪で、巧みに、日本人工作員やクラッカー(悪いハッカー)を使い、山上徹也容疑者の憎悪を増幅させたのではないか?ターゲットを安倍さんに巧みに動かした??

 フリーメーソンが暗躍した、とか、ディープスロートが……とか以前に。

 第十番目の謎が、安倍晋三元首相はアメリカと対立したか??

 アメリカ合衆国は、旧ソ連・ロシアを利する国を許さない。

『サハリン2のガス開発計画』『日露国交正常化交渉』『日露安全保障条約』……キングメーカーの安倍晋三元首相とトランプ氏……親・中ロ派の安倍晋三元首相が邪魔になった?

 日本の全財産1000兆円をとる計画?

 中国の共産党のエージェントが日本国内で暗躍……中国にすり寄ろうとする安倍が邪魔になった??

 アメリカの反中国・反ロシア・反韓国の次は、反日本だった??円安とかそれで??

 また、『日本人長寿化薬漬け計画と旧・統一教会』について、ハリー・S・トルーマン元大統領の発言とされる言葉を紹介する。

   猿(日本人)を「虚実の自由」という名の檻で、我々が飼うのだ。

  方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけでよい。そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放させる。これで、真実から目を背けさせることができる。猿(日本人)は我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々に貢献するのは当然のことである。そのためにも、我々の財産である家畜の肉体は、長寿にしなければならない。

  (科学物質とかで)病気にさせて、しかも、生かし続けるのだ。

  これによって我々は収穫を得続けられるだろう。これは、戦勝国の権限でもある。


また、山上徹也容疑者(被告)は、即死刑でもない限り生き続ける。オズワルドのように暗殺もできない。そこで、彼を精神鑑定し、精神異常の傾向がみられるとして入院させ、薬漬けの廃人としてやがて殺す(病死・自殺)だろう。

だが、政治家もマスコミもスケープゴート(生贄の羊)の〝旧・統一教―〟の騒動に連日明け暮れるだろう。そうして、誰もが国民たちが安倍氏暗殺の深層を忘れるのだ」

  ベリー西村. 元首相暗殺の黒幕 ( Tokyo Books. Kindle 版.)引用・参照



「だか、自分が死ぬかも知れないのに山上徹也容疑者(被告)は銃撃するとでも?」

「します。被告はつまり殉教者になるつもりだった。死んでもいいから安倍晋三を殺すことがかれの使命だったのです」

 姫光龍三は陪審員たちに向き直り、

「……私はピエロか?」といった。

 笑いがおこった。

「連中が安倍晋三を殺したかった理由はさきほどの十であります」

「馬鹿らしい。被告が自殺行為で銃撃したと?」

「そうです」

「死んでまで被告は安倍さんを殺したかったのかね?」

「そうです」姫光龍三は頷いた。「事件は起こった。誰が一番得をしたか………」

「馬鹿らしい。只の単独犯行の銃撃暗殺事件だよ。五十年に一回と起こる暗殺と同じだ。スパイ小説の読み過ぎだよ」被告や弁護士は笑った。

 姫光龍三は真剣な顔で、立って歩きながらしゃべり続けた。

「シェイクスピアは?」と尋ねた。

「え?」

「シェイクスピアは読んだ?」

「えぇ」

「じゃあ、ジュリアス・シーザーは? 誰に殺された?」

「あなたたちは楽なほうに逃げるのか? 今の日本国政府に満足しているのか?

 安倍晋三は体制にとって邪魔だった。だから殺された。しかし、安倍晋三は生前に敵をつくらなかった? 違うね。そんな生き方はしなかったはずだ。絶対に」

 傍聴人のひとりが口をはさんだ。

「安倍晋三は体制に消された? 二十一世紀のこの時代に?」

 姫光龍三はこう言った。

「時代は関係ない。〝王は殺される〟んだよ。利益のために…。〝謀略は最大のビジネス”なのだよ。

 そう。山上徹也容疑者の死を誰が悲しむ? ひっそり埋葬されてもね。そして、安倍晋三の大きな国葬ですべて隠され、当局の創作が拡大される。堂々たるウソと安倍晋三の葬儀で、人々は思考能力を失う。ヒットラーはいった。〝ウソが大きいほど国民は信じる〟と。山上は目立ちたがやの狂人で、孤独な男…そして、その同胞が同じように要人を殺していく? 無意味な一匹狼のしわざとして。我々はハムレットの気分だ。殺人者が王座にいる。安倍晋三の亡霊がこのことを許す? 理想との挑戦だ。安倍晋三は問う。憲法の意義は? 命の貴さとは? 元首相が殺される国で…真の民主主義は? しかも、陰謀の疑惑があるのに司法当局は動かない。政治的暗殺はこのあとも続くだろう。自殺や癌や交通事故、航空事故…さまざまな手段で、真実が消されていく。〝反逆は栄えず〟…と誰かがいった。その通り……反逆が栄えたら、それは反逆じゃない。

 なぜ? 国民にX線写真や検死写真を見せない。なぜ? 陰謀を示す資料が山のようにあるのに…なぜ司法は動かない。政府に重要書類を求めても連中はこういう〝国家機密だ〟と。政治家・元首相を殺されて何の機密だ? 国家機密の名目なら、基本的権利は奪われていいと? 日本国政府は影の政府を認めるのか? ファシズムのような政府を…。ここであえていう。2022年7月の事件はクーデターだ。

 悲劇的な結果だった。安倍晋三の死で、憲法改正もサハリン2やロシアとの北方領土交渉も、反古、だ。政治は最大のビジネスで、安倍晋三は国家の最高レベルの陰謀により暗殺された。

 実行したのは狂信的で冷酷な狙撃者たち……CIA、シークレット・サービス…マフィア…。暗殺は公開処刑であり、警察の人々だけでなくシークレット・サービス、CIA、マフィア……みんな共犯だ。暗殺のことを知るには、安倍晋三が死んで得した人間…に資料を請求すべきだ。でも、関係者からのリンチを恐れたのか、資料は封印だ。なぜ? これはわれわれのものなのに。…税金がつかわれた。

 われわれはいつか真実を発見する。我々は挑戦しなければならない。独立宣言でもいっている。〝社会が停滞したらもっと西へ行け〟と。ある作家はいった。

〝我々は政府から国を守らなければならない〟……われわれは子供のころ、正義は絶対であり、かならず悪に勝つ、信じてきた。正義は自然と生まれると…。しかし、それは真実じゃない。正義は人間が作るものであって、自然にはうまれない。真実は権力にとって脅威だ。権力と闘うのは命がけだ。過去さまざまな人間が抵抗し、殺されていった。

 なぜ、われわれは挑戦しなければならぬのか? それは、皆が望んでいるからだ。真実を知りたい、と。我々の国だから。誇りのもてる国にしたい。真実は最も貴重だ。もし、真実が無になり、この国の政府を信じられなくなれば、この国で生まれてもこの国で死にたくない。”去り行く王に権威なし…”そう、安倍晋三は死んで権威を失った。だが、この国は世界に問わなければならない。”人民の人民による国”が日本国であるということを。

 そして、われわれは”国のためになにかできるか?”を問うのだ。

 そのために、私は、きっとこの国を復活させてみせる」

 姫光龍三はいった。それは、彼の決意と志の言葉、であった。

「フランスには差別があった、南アフリカにはアパルトヘイトがあった、ペルーの山奥には未だ農奴制が存在する。インドの街頭では人々が飢えで死に、ロシアでは反体制派の人々が刑務所にぶち込まれた。インドネシアでは何千人という人々が虐殺されていた。そして世界の富は惜しげもなく軍備拡張にそそがれている。

 これらは一様に悪ではあるが、所詮人間が作り出した悪であり、人間の正義感の不完全さ、人間の慈悲心の欠落、他の人の不幸にたいするわれわれの感覚の欠如を反映しているに他ならない。故にわれわれは怒りと良心をもってこれらの悪を取り除くという決意を分かち合わねばならない。

 すべてが急変している今日、時代遅れの教議や使い古されたスローガンはもはや通用しない。すでに消えかけてる現在にしがみつき、どんな平和的な進歩にも必ずついてまわる危険性とエキサイトメントよりも安全という幻想を選ぶ人間は世界を動かし、変えることができない。

 かつてイタリアのある哲学者が語った。”新しいことを手掛け、新しいアイデアをこの世に紹介するほど難しく、その成功が不確かなものはない”と。しかし、これこそこの世代がやらなければならないことなのだ。そして前途には様々な危険と障害が横たわっている。

 まず第一の危険は何をしようとも無駄であるという考え。無知、不正、暴力、苦悩などこの世界が抱える問題に対して、ひとりの人間ができることはなにもないという無力感に溺れることは、戦う前に白旗をあげるに等しい。

 歴史を思い出してほしい。思想においても行動においても、世界をかえた偉大な動きの多くはたったひとりの人間によって成功されてきたではないか。ひとりの若い僧侶が宗教改革を成し、ひとりの若い将軍は国境をマケドニアから地の果てまでのばし、ひとりの女性がフランスの領土を奪還した。ひとりの若いイタリアの探検家は新大陸を発見し、三十二歳のトーマス・ジェファーソンは人間はすべて平等と宣言した。古代ギリシアの数学者アルキメデスは言った。”私の立てる場所をくれ、そうしたら世界を動かしてみせる”と。 これらの人々は皆世界を動かした。われわれにもできないはずがないのだ。歴史そのものを曲げる偉大性を持つ者は少ないかも知れない。しかし、われわれひとりひとりが、社会のほんの小さな一部分を変えていくことはできる。それらの行為がひとつにまとまった時、初めてこの世代の歴史が書き綴られることになるのである。

 勇気と信念に基づいた限りない行動によって人類の歴史は形成されていく。

 ひとりの人間が理想のために立ち上がり、不正を攻撃し、苦しんでいる人々のために行動を起こす度に、彼は希望のさざ波を送り出している。一〇〇万人が行動を起こせば、それらのさざ波は、いかなる迫害、いかなる抵抗をも突き破る津波となり、歴史をも変えてしまうエネルギーとなり得るのだ。

 古代ギリシャの政治家ペリクレスは言った。”もしアテネが偉大だと思うなら、その栄光は勇敢なる人々、義務を果たすことを知った人々によって勝ち得たのである”と。これこそあらゆる偉大性の源であり、われわれの時代の進歩の鍵となるのだ。

 われわれの未来はわれわれのヴィジョンを超越する。しかし、それは決してわれわれがコントロールできないものではない。なぜなら未来は、運命や自然の力やさからうことのできない歴史の波によって作られていくものではなく、われわれ自身の手によって作られるものだからだ。運命がわれわれを支配するのではなく、われわれが運命を作り出していくのだ。

 さぁ、判決を! 米国やCIAの命令をうけ工作し、安倍晋三を殺した日本国政府に有罪を!」

 姫光龍三はいい、席についた。

 法廷にはかれの妻や子供も同席していた。マスコミの連中もいっぱいいる。

「静粛に……判決をいいわたす」

 裁判長の老人は紙を渡された。ハンマーの音が響く……

 じっと、姫光龍三たちは耳をそばだてた。

 ……安倍晋三暗殺が審議される。

「被告、日本国政府+CIAは……………無罪!」

 どっと被告側から歓声があがった。

 国側の弁護士は仲間たちと握手し、笑った。

 その判決を受けて、姫光龍三は落胆し、妻が肩に手をかけて慰めた。

 マスコミもいっせいに報道する。

 姫光龍三はひどく疲れていた。かれには一晩の熟睡と熱い風呂が必要だった。

  裁判所をでると、マスコミたちが姫光龍三にきいた。

「陰謀による複数犯の暗殺は否定された訳ですね?」

「弁護士を辞めるようにうえから圧力がかかってるらしいですね?」

 姫光龍三はキッと目を光らせ、マスコミたちにいった。

「私は捜査をやめない。たとえクビになってもね。安倍晋三のためだ。安倍晋三が陰謀で暗殺されたと誰もがわかるように……私は戦う。たとえひとりになってもね」

 吐き捨てるようにいった。

 すると、日本国政府側の弁護士が出てきた。マスコミたちはそちらにスクラムを組んで殺到した。

「○○弁護士さん、今の気持ちは?」

「家に帰ったら何を?」

「手料理でもつくるかな…」といって笑った。

 マスコミはどっと笑った。

「姫光龍三氏を訴えますか?」

「さあね、かれは頭がおかしいからね。単独犯行の銃撃を複数犯陰謀暗殺などといいだして…」

 姫光龍三は歩いた。

 とにかく、歩き去った。

 しかし、

 ………これからが勝負だ…

 ともおもった。そう思うと、全身が緊張し、熱気が全身の血管内部を駆けめぐるのだった。

安倍晋三の暗殺調査をしたのはほんの半年だったのに、そんな短い期間でも、姫光龍三にじつに好ましい影響を与えたようだ。

 安倍晋三が本当に暗殺されたのかはわからない。しかし、JFK暗殺と同じように、われわれに深い意味を投げかけたことだけは確かだ。

                                  おわり


























第二部 小説


ソニー革命伝


                      ~井深大伝+

                       盛田昭夫伝~



                     ミスター・ソニーの真実!

                     今だからこそ、盛田井深のソニー革命!

                    total-produced& presented& written by

                        NAGAO Kagetora

                        長尾 景虎





  私は死力を尽くして運命と戦います。戦うというよりは運命を開こうと思います。私は静かに門のそとに立って戸の自ずとあくのを待ちたくも思いました。しかし今はその戸をできるだけたたきたいと思います。

                  「友情」武者小路実篤










  this novel is a dramatic interpretation

  of events and characters based on public

  sources and an in complete historical record.

  some scenes and events are presented as

  composites or have been hypothesized or condensed.


……この物語は、井深大+盛田昭夫氏の人生を元にした小説ですが、一部、フィクションや推測、憶測、架空が混じっています。ご了承ください。……





      小説 ソニー革命! あらすじ


 ”ミスター・ソニー”、盛田昭夫は晩年、六年にもおよぶ闘病生活を強いられた。

 そして、一九九九年十月三日、亡くなった。エレクトロニクスの巨人、巨星墜つ!

 盛田昭夫は一九五五年、東京通信工業からソニーと名を変えた会社の代表としてアメリカNYへ下り立つ。鞄の中にはソニー製品として初のトランジスタ・ラジオが。盛田は色々な店に営業にいく。しかし、「メイド・イン・ジャパン?!…どうせすぐぶっ壊れるんだろ?帰れ!」と門前払いばかり。当時、”日本製”は”安かろう悪かろう”の代名詞であったのだ。しかし、盛田は勝負にでる。そして、ソニー神話が始まる。盛田の最大のヒット作は「ウォークマン」。元・会長の井深大のアイデアで、「ウォークマン」を売り出そうとする。盛田はいう「今の若者は音楽がないとダメなんだ。いつも聴いていたいんだ。これは絶対売れるぞ! 絶対売れるぞ!」最初売れなかったが、当時のアイドル・西城秀樹をCMに起用して大ヒット、「ウォークマン」は空前の大ヒット商品になる。

 愛知県常滑市小鐘台。1921年1月26日、盛田昭夫は、江戸時代からの造り酒屋の嫡男として誕生する。父・久左衛門、母・収。父・久左衛門は昭夫に帝王学を学ばせる。しかし、昭夫は機械いじりに熱中し、蓄音機を分解しては楽しむ。そして、父の期待を裏切り大阪帝国大学物理学科へ。そんな折、太平洋戦争勃発。そして終戦。盛田は、学生時代から数々の発明をしていた井深大が会社を起こしたと知り、上京。東京通信工業(ソニーの前身)は国産初のテープレコーダーを開発。高価な為なかなか売れず。しかし、盛田は艱難辛苦の末、裁判所や学校への販売に成功。ソニーは様々な個性的な商品を発表。

 盛田昭夫は一九五五年、東京通信工業からソニーと名を変えた会社の代表としてアメリカNYへ下り立つ。鞄の中にはソニー製品として初のトランジスタ・ラジオが。やがて儲け出す。そして、ソニー飛躍へ。しかし、テレビのビデオ録画でユニバーサル社らから提訴される。しかし、なんとか最高裁で勝訴。が、ベータマックスは松下電器のVHSに負ける。が、ソニー神話復活にかけて、盛田昭夫はコロンビア映画を買収。ハードとソフトを両立させた。しかし、会長に退いて数年後の93年、テニス中に脳内出血で倒れる。

 盛田昭夫は晩年、六年にもおよぶ闘病生活を強いられた。

 そして、一九九九年十月三日、亡くなった。エレクトロニクスの巨人、巨星墜つ!

        おわり








  一九五五年。盛田昭夫は単身、喧騒のNYに下り立った。

 外は思ったほど寒くない。十一月とはいえ、午後の風は心地好い。皆忙しそうにスーツ姿のビジネス・マンたちが歩いている。盛田はぴしっとスーツを着込み、眼鏡をかけ、短髪で面長な、細い手足の、まだ三十代の青年だった。鞄の中には、ソニー初の小さなトランジスタ・ラジオがある。盛田は様々な電機店に営業にいく。「みてください。ラジオがこんなに小さいんです。これからは一家に一台のラジオではなく、ひとりに一台のラジオが可能なんです」

 店員の大柄な髭の男は訝しげだ。そして、盛田の差し出す掌サイズのトランジスタ・ラジオをみて「メイド・イン・ジャパン?!…ふん。どうせすぐぶっ壊れるんだろ!」

「いえ。我が社ソニーの製品は…」盛田が焦っていおうとすると、男はいった。

「ソニー?なんだそりゃ?!…とっととうせろ!」

  盛田昭夫は門前払いを食らわされた。しかし、艱難辛苦の末、ある米国の会社からよい返事がくる。白人の取締役は会社の会議室で盛田にいう。「わかりました。十万台頂きましょう」「え?」盛田は唖然とした。しかし、その白人は続けた。「しかし、このソニーという会社名では売れません。我が社の会社名で売ります」

 盛田は顔をきっと締まらせ、堂々といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。会見はおわったのだ。彼にくさびをうちこむ気でいたなら失敗した訳だ。しかし負けるか!「あなたの会社は何年やってるんですか?…五十年前はあなたの会社も無名だったでしょう。ソニーは大きな一歩を踏み出そうとしているんです。五十年後にはあなたの会社に負けないくらいソニーを有名にしてみせます!」盛田はいい放ち、契約しなかった。それは、堂目すべき盛田昭夫の”躍進”の第一歩、だった。

参考文献は盛田昭夫氏著作「MADE IN JAPAN」やソニーに関する雑誌やあまたの文献、映像資料「その時歴史が動いた」「歴史ヒストリア」「知ってるつもり」等。「文章が似ている」=「盗作」ではなくあくまで引用です。



第一部 ソニー・スピリット



 ソニー革命外伝 対談①丸山茂雄×黒川文雄「すべての失敗は凡人出井から…」

ソニーは、なぜおかしくなってしまったのか 丸山茂雄氏「ちょっとソニーの話をしよう」

東洋経済オンライン 黒川 文雄氏参考文献

2人で記念撮影(筆者撮影)© 東洋経済オンライン 2人で記念撮影(筆者撮影)

 1967年にCBS・ソニーレコード設立と同時に入社し、EPIC・ソニー、ソニー・コンピュータエンタテインメント(現:ソニー・インタラクティブエンタテインメント)、ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)などの創業立役者として活躍した丸山茂雄氏に現在の音楽産業、日本の産業のこと、そしてソニーのことなど、広範な話を聞いた。ロングインタビューを3話に分けてお届けする。現在のソニーの経営についてもズバリ直撃した。

ちょっとだけソニーの話をしよう

 黒川:ちょっとソニーの話をお聞きしてもいいですか。この期に及んで、というと失礼ですけど、ソニーはいわゆる「アイボ」といった、かつてのプロパティを今になってまたやろうとしたりしています。

 いわゆる20年のブランクみたいなもの。出井(伸之)さんから始まって中鉢(良治)さん、(ハワード)ストリンガーさん、平井(一夫)さんまでの期間というのは大きなブランクであり、損失であったと僕は思うんですが、それはソニーにとって致し方なかったというか、そうならざるをえない流れというものがあったのでしょうか。もちろん、大賀さんが出井さんを指名したっていうのがあるんでしょうけど。

 丸山:大賀さんはソニーに大変大きな貢献をしたけど、出井さんを指名した時に理由を聞かれて「消去法です」って、つい言っちゃったんだよね。それはなんでかっていったら、後継社長にと思ってた人がスキャンダルっぽいことに襲われて……あれも『週刊文春』の記事だったよね。それで、その人が候補から落ちちゃったんだけど、今度はその対抗馬が「あ、俺に回ってきた」ってんで振る舞いが極めて、横暴になってしまったんだよ……。

 それで、その有力候補もいなくなって、しようがないっていうんで出井さんになったわけだけど、その「消去法で選んだ」ってのが出井さんのプライドをいたく傷つけて。それが大きかったんだけど、でも俺から言わせれば……そもそもトップになる準備をしてなかった人が社長になっちゃったから、そのあと迷走したってことだよね。

 そこで「あ、やっぱり俺は大ソニーの社長の器ではないな」って考えてくれればよかったんだけどね。早めに次に渡さなきゃいけないなって。ところが、やっぱりソニーの社長の座っていうのは……。

 黒川:手離したくないと思ってしまうものなんでしょうか。

 丸山:そりゃ気持ちいいもん。その座にずっといたくなるよ。でも、そこが単なる凡人たるところだよね。自分がなんにもできてないことに対する反省っていうのがないんだから。それをずーっと続けて、ソニーはおかしくなっちゃったんだよね。

 結局、ストリンガーさんに代表取締役の座を持っていかざるをえなくなったのも出井さんのせいだし。ただ、平井さんの代表取締役就任は意外とよかったかもしれないと俺は思っているんだよね。多分、平井さんは、自分がめちゃくちゃ優れてるとは思っていないんだよ。だから、よかったんだと思う。

 黒川:自分のことをわかっているという。

 丸山:部下の意見を聞くっていう部分で言えばね。出井さんみたいにちょこちょこっと何かの本を読んで、それをあたかも自分のアイデアのように振り回すみたいな、下の言うこと聞かずに、その付け焼き刃のアイデアを実行するっていうことはしてないからね。

 基本的には出来のいい下のヤツの言うことをちゃんと聞く。こう言うと自分のことをすごくほめることになるんだけど俺もそうだよ。俺も自分がそんなに利口だと思ってないから、出来のいい若いヤツ集めてそいつらにやらせる。俺が決めるのは方向だけ。まあ、俺の取り柄はカンがいいってことだけだな(大笑)。そういう意味では平井さんもカンはいいのよ。

平井さんが社長になったのは軽率?

 黒川:そういえば、丸さんが別のインタビューで平井さんがソニーの社長受けたのはちょっと軽率だったんじゃないかっておっしゃっていた記憶があるんですけど。

 丸山:うん、言った。

 黒川:それはどのように解釈すればいいんでしょうか。

 丸山:ソニーっていう会社は世界で名前が売れるようになってから優秀な頭のいい連中が毎年どんどん入るようになるわけよ。でも、一方でソニー・ミュージックには、お利口サンとか頭のいいヤツはエンターテインメントビジネスにはまったく向かないっていう考え方があってね。アホだけど面白いヤツだなっていうのを採用してたのね。

 だから、ソニー・ミュージックっていうのは「頭は悪いけど面白いヤツの集団」っていうふうにソニーからは見られてるわけ。その二等グループの社員が頭のいいソニーの人たちの上に立つってことになるとね。コントロールが難しくなる。人っていうのは、基本的にアタマの悪い人に支配されたくないって気持ちがあるし、反対に、その人に人徳や経験があれば「あの人の言うことだから聞こう」っていうのがあるでしょ? 正しいことを言ってるかどうかじゃなくね。

 そうなると旗を振っても、フッと後ろを見たとき誰もついてきてないっていう苦労をすることになる。だから、ソニー・ミュージックの社員がソニーのトップになるのはいかがなものかっていうのが俺にはあった。ソニーの人たちは、ソニー・ミュージックのアホな連中がって、という感じに思っているだろうなっていうのがわかっていたからね。

 黒川:なるほど。

 丸山:俺はなるべくソニーの土俵には乗らない。違う論点で親会社と戦うわけよ。当然のことながら向こうは、やれPLだBSだ、資本効率がどうのこうのみたいなことを言ってくる。そんなことしかわかんないから。この新人のこの曲が当たるかどうかなんてことはわかるワケないからね。

 だから、そういう攻め方をしてくるんだけど、こっちはそんなモン関係ないんだよって。あのミュージシャンはどうしようもない不良で、もしかしたら事件を起こすかもしれない。でも、アイツは今ね、純利益を毎年50億円を出しているんだと。アイツにはクスリやってるってウワサがあるとか、コンプライアンスがどうのこうのとか言ってクビにしていたら、エンターテインメントビジネスは成立しないんですよっていう。

 黒川:アハハハハ、でも確かにそのとおりですね。

 丸山:でしょ? そうやって俺たちはこっちでとても幸せな関係を築けているわけよ。そういうのが好きなヤツはこっちに入るんだし、そうじゃないヤツ、頭のいいヤツは向こうに行けばいいわけだからさ。で、俺は平井さんもこっちだと思っていたのよ。だから、平井さんがソニー・ミュージックの社長をやるっていうんだったらもう全然オーケーよ。

 黒川:あ~、なるほど。そういうことだったんですね。

平井さんが苦労するのは見たくなかった

 丸山:それに、俺は平井さんをかわいがってたから、苦労するのは見たくないなっていうのもあったよね。ソニーはホントに人材不足になっちゃってて、その極め付きが出井さんの社長じゃない。だから、あいつがソニーに行くことになったとき、「ヘタするとお前でも(社長で)いいって言いかねねえぞ」って。そこまで言ったんだよ。「ややこしくなるから、そうならないようにしろ」ってサジェスチョンした。

 黒川:すごい言い方をしたんですね(笑)。にもかかわらず、そこに手を出してしまったと。

 丸山:だから、やっぱりソニーの社長っていう肩書はすごい魅力的なんだろうね。

 黒川:そりゃあ魅力的でしょう。

 丸山:でもまあ、アイツは鈍感だからよかったんだろうね。

 黒川:ええ? 平井さんは鈍感なんですか?

 丸山:そうそう、鈍感なの。社長になった直後の何年間か、平井さんはボコボコにやられたじゃない。ソニーのOBたちからガタガタ言われ、アナリストやら日経新聞やらも「バカだなんだ」と、みんながたたいた。俺だったらあんなの耐えられない。普通の人間には耐えられないって思うよ。でも、あいつは耐えられたんだよ。それは鈍感だってことじゃない?

 黒川:鈍感と言っていいのかわからないですけど(笑)。

 丸山:もちろん、いい意味でだよ。いい意味で鈍感なんだよ。だから、そういう周囲の雑音なんかヘッチャラだっていうんだったら、(ソニーの社長も)できないことはないかなと。

 日経のインタビューでも俺はそういうふうに言った。鈍感っていう言葉は使わなかったけどね。けっこう胆の太いところがあるから、やれるかもしれないと。

久夛良木さんが社長になれなかったワケ

 黒川:ちなみに、久夛良木(健)さんを次期ソニーの社長に、といううわさが上がった時期もあったと思うんですけど、なぜなくなったんでしょうか。

 丸山:だって、大ゲンカするんだもん。久夛良木さんはこういう人間で、こういう言い方をしたらダメっていうのがわかってない。だから、みんなカッとくるわけよ。ただ、大賀さんやCFOだった伊庭(保)さん、徳中(暉久)さんとか俺とかは簡単に言うと人間の器が大きいから(笑)。

 久夛良木さんがどんな生意気なことを言っても、平気で聞き流せるっていうかね。やっぱり、そういう繊細さと鈍感さと両方を持ってないといけないわけで、久夛良木さんの言うことにいちいち反応してたらダメだよな。

 黒川:そうですね。

 丸山:久夛良木さんはミュージシャンと同じようなクリエイターなんだよ。でも、やっぱり久夛良木さんは変わっていて面白いよなっていうのもある。結局、ステージが違うんだろうな。ステージというか立ち位置と言えばいいかな。売れっ子ミュージシャンがすごい生意気なことを言っても、俺とはいる場所が、仕事が違うんだからと思えば腹も立たない。

 ミュージシャンとかクリエイターってさ、自分が考えているイメージや理想を一般人やファンに言ったりするだろ。単なるサラリーマンが独りよがりで、自分はすごいとか言っているのとワケが違うんだよ。そういう意味で言えば、器が大きいとかじゃなくて、ステージとか役割が違うからっていうふうに思えるかどうかだね。久夛良木さんが、自分と同じステージにいる人間だと思ったら価値観が違うんだから、そりゃあ大ゲンカになるよね。

 黒川:久夛良木さんには実力もあるし知識や経験もあると思いますが、渇望感のようなものを感じるんですが……。

 丸山:まあね……久夛良木さんはソニーでは、そんなに恵まれたところにいなかったから。

 黒川:もともとは音源チップの開発責任者でしたよね。

 丸山:そうそう。情報研っていうところにいたんだけど、そこはソニーがウンと儲かっていたとき、変わりものを集めて遊ばせとこうっていうところだったんだよ。だからかどうかわかんないけど、いつも見るからに戦闘態勢に入っているっていう顔をしてるもんなあ。

 黒川:そうですね。何かこう……人を寄せつけない感がありますよね(笑)。

 丸山:ダハハハハハ(爆笑)。

 黒川:お話をお聞きしたいっていう提案をしても「いや、もう話すことないから」「もうゲームと関係ないから」とけんもほろろなんです。それはそうでしょうけど、後進の人たちに何か語っていただけることがあると思うんですよ。

 丸山:でも、それはアナタにだけじゃなく全員そうでしょ。久多良木さんはこれまでプレイステーションとかソニーに対する発言をほとんどしてないじゃない。

 黒川:していないです。それは事実そうですよね。

 丸山:いったんタガが外れたら、ものすごいたくさんのことがダーッと出てきちゃうから、あえてストップしているんじゃない? だとしたら、そりゃあ取り付く島ないよね。

 黒川:なるほど、そうかもしれませんね。

公式の立場は「久夛良木さんのマネジャー」だった

 丸山:その点、俺は基本的に当事者マイナス0.6ぐらいの立場じゃない。当事者が1だとすれば俺は多分0.4ぐらい。そうだよな?

 黒川:0.4ですか(笑)。

 丸山:だって俺は久夛良木さんのマネジャーっていうのがオフィシャルな立場だったじゃない、アッハハハハ。

 黒川:確かに、ずっとそう言われていますよね。

 丸山:久夛良木さんの作ったプレイステーションの本丸の家老っていう立場じゃなくてね。俺は自分ができることといったらマネジャー役くらいだし、そういうふうに決めちゃったほうがわかりいいし。だから、コトが終わった後も平気な顔して、こうやってインタビュー受けて気楽にしゃべれるわけだけどね。

 黒川:ありがとうございます(笑)。

 丸山:まあ、俺が自分でアレをやったんだとか言うと自由度が失われるからね。やってねえって言ってるから自由度があるわけでさ。

 黒川:でも、すごく大きな功績だと思いますけどね。

 丸山:ずう~っと引いて見ると、大きいって思ってくださる方が中にはいるけどね。じゃあ俺がどんなすごいことやったのかって考えてみたら「思いつかない、ねえよな」ってなるよな。

 黒川:いやいや、そんなことはないでしょう。

 丸山:いや、そうなのよ。それはソニー・ミュージックなんかのときも同じで、俺がやったのは仕組みを作るとか人員配置とかで特別なことは何もしてない。いちばんヤバいのはいろいろ取っ払うと、俺には専門的な何かがなんにもないんだよ。

 黒川:だからこそプロデューサーなんだと僕は常々感じているんです。

 丸山:プロデューサーだなんだっていうふうにアナタが定義してくれればそうかもしれない。でも、ホントに何もないからね。むいてもむいてもなんにもない、タマネギかなぁ、みたいな(笑)。

 黒川:そんなことはないでしょう。何にもない人のところに誰も話を聞きにこないですよ。そもそも日本はプロデューサーってものに対する周りの人の意識が足りなさすぎると僕は思ってるんですよ。ハリウッドだとキャスティングして、ファイナンスして、システムを作って、ライン管理をして、最後の製作なりプロダクトに対して責任を持つ人がいるわけじゃないですか。でも、日本はそれが個別になっちゃってるから、プロデューサーってあまり表立って評価されないんですよね。

 確かにプレイステーションは丸さんだけでは生まれなかったかもしれませんが、久夛良木さんだけでも生まれなかった。丸さんの仕立てやサポートがあったから生まれたと僕は感じています。音楽のシーンで言っても丸さんは新しいジャンルを作ったし、新しいコンテンツや人も作ったし、レコード会社も作ったわけじゃないですか。その意味では壮大なプロデューサーだと僕は思いますし、そこにすごくあこがれるんですよ。しかも、1982年ぐらいから変わっていない。僕がオリコンで読んでいた頃からスタンスが変わっていないから、余計にすごいなって思うんです。

 丸山:こんな出来の悪い管理職をそういうふうに評価してくださるのはありがたいことです。まあ、俺の力じゃないけど関係したもの、手掛けたものはけっこう実績があるってことだよね。

 黒川:いやいや、僕は丸さんのお力だと思いますよ。

 丸山:いやだって俺の力だなんて一瞬でも思った途端に、こういう俺の像は崩れるちゃうじゃない。だからつねに自戒してないとね、ハハハハハ。

 黒川:やったのは俺だって言った瞬間に「そうじゃないですよね?」って言われちゃうかもしれないと。

 丸山:「そうじゃないでしょ」って声が、わーって沸き起こるから。

 黒川:でも、そう言っちゃうところが丸さんの東京生まれらしさというか、いさぎよくてカッコイイところですよね。

「ちゃんと育てられた」

 丸山:まあ、東京生まれで……俺のウチはカネはなかったけど、ちゃんと育てられたっていう気はするよね(丸山氏の父は丸山ワクチンの開発者である故・丸山千里氏)。「ちゃんと育てられた」っていうのがどういうことかというと、あなたが言うように一応礼儀とかマナーなんかを踏まえているっていうこと。でも、今はちゃんと育てるってことが難しくなってるよね。

 たとえば、ちょっと前に話題になった女性の議員さんは、子どものときから受験勉強して、私立の名門受験校に入って、東大法学部に行ったわけじゃない。それが「あのハゲー!」だからね。でも、アレがなければ、ああいう育ちの人は基本的にはよしとされてるわけじゃない。

 黒川:そうですよね。あと、ふたつだけ伺ってもいいですか? eスポーツの理事をおやりになってますよね。

 丸山:それはもう辞めた。

 黒川:え、辞めたんですか?

 丸山:そう、eスポーツは協会がいくつかあって、そのひとつが、俺が(理事を)やってたJeSPA(一般社団法人 日本eスポーツ協会)ね。JeSPAはオリンピック種目を目指すっていうのが基本的な目的だった。それで、実際にオリンピック参加を前提にするならば協会を統一する必要があるという話になった。

 黒川:正式種目になるかならないかで話題になりましたよね。

 丸山:そうそう。で、日本国内にある協会を一本化しなきゃいけないって話になったんだけど、統合するという方向性のなかで、JeSPAがほかの協会と融合することによって、オリンピックを目指すという目的が薄らいでしまったことが、俺がJeSPAを辞めようと思った動機だね。

 JeSPAは本来はアスリートのための協会だろう……。たとえば、陸上でいうと陸連の会長がマラソンランナーとして活躍した瀬古利彦さんとかだったらわかるよ。だけど、アディダスの社長が会長っていうのはおかしいだろ。

 黒川:そうですね。それはちょっと構成としておかしいですね。

 丸山:まあでも、俺は命を懸けてやってるわけじゃないからね。協会の皆さんがそうしたいと言うんならいいけど……いいけど俺の気分はそうだから。ハッハッハ。

 黒川:じゃあ、辞めたのは本当に最近のことだったんですね。

 丸山:だから、東京ゲームショウ2017のちょっと前のタイミングで理事は辞めたんだ。

 黒川:なるほど……わかりました。最後にゲームについて聞いてもいいですか? 先ほどはもう語らないと言われてましたが(笑)。

 丸山:もう言うことはねえよ、ゲームは(笑)。

 黒川:そうおっしゃらずに。ゲーム業界はいろいろな人が出てきて、もちろん大きな成功もあれば、失敗している人もいるとおっしゃってましたが、家庭用ゲームについて今何か思われることはありますか?

 丸山:家庭用ゲーム機であったり、あるいはスマホであったりとかいう部分はあるけど、多分俺はどのプラットフォームが生き残るかっていうのは、ほとんど意味がなくなってくると思ってるんだよね。

 黒川:あ~、なるほど、なるほど。

半導体の進歩は止まらない、これだけは間違いない

 丸山:プラットフォームからビジネスを立ち上げるっていう……任天堂、セガ、ソニーはそうやってきたんだけど、それがどんなふうになっていくのか、何かに集約するのかは俺にはわからない。ただ、どう考えても半導体の進歩は止まらないよね。そうすると、何もプラットフォームを変えなくてもいいというか。どんなプラットフォームでもできちゃう、OSやなんかも軽々とクリアしちゃう時代が来る気がするんだよね。だからグーグルとか、ああいうのだけがプラットフォームになっていくんじゃないかな。

 黒川:そんな感じはしますよね。アップルとグーグルだけとか。もしくはアマゾンですかね。

 丸山:そう、アマゾンとかね。このあたりがプラットフォームっていう意味になっちゃって、それ以外は簡単に言ったらアプリになっちゃうんじゃないかな。

 黒川:貴重なお話ありがとうございました。2018年も引き続きよろしくお願いいたします。

         対談①おわり





         アメリカ




 晩年、その男は六年にも及ぶ闘病生活を強いられた。

 饒舌だった男が話せなくなり、走り続けた男が歩くこともできなくなった。”ミスター・ソニー”、盛田昭夫は、一九九九年十月三日、肺炎で亡くなった。享年七十八歳。エレクトロニクスの巨人、巨星墜つ!このニュースは激震となって世界を駆け巡った。

 ソニー創業者のひとりにして、わずか半世紀でソニーを世界的企業に育て上げた”天才”盛田昭夫の死は、各界に波紋を投げ掛けた。悲しみで涙するもの、落胆するもの、茫然とするもの、憔悴するもの……。盛田昭夫の死は世界的な訃報となった。

 出井伸之(享年84歳、2022年6月病死)は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。彼は頭がフライにされたように立ち尽くした。心臓がかちかちの石になり、血管の血が氷にかわっていくのを彼は感じた。おわったのだ。盛田さんが…死んだ。


 昭和二十一年、終戦直後の荒廃の中で設立した粗末なバラック建ての町工場を、創業パートナーの井深大との絶妙なコンビネーションで、またたくまに世界有数のグローバル企業へと育て上げた。いまや、ソニーの快進撃ぶりは神話と化して世界中のビジネスマンに語り継がれている。総帥、アキオ・モリタの名もまた、地球の隅々まで浸透し、すっかり偶像化されてしまってもいる。『MADE IN JAPAN』というタイトルで著した自伝的ビジネス書は、二七カ国語に翻訳され、世界的なベストセラーとなった。盛田の自伝書のほうが、あのアイアコッカの『アイアコッカ自伝』よりも米国では売れたという。 世界中から注目をあびながら、盛田昭夫は一年中、海外を飛び回った。膨大な国際人脈の間で、一企業経営者という枠を越えて大活躍をした。

 当時、現役バリバリのソニー会長職のほかに、経団連副会長、日米経済諮問委員、日米賢人会議代表、モルガン銀行国際諮問委員、欧米企業顧問など、数知れない肩書の要職に就いて、なにかと摩擦の多い日本と国際社会との掛橋役となって奔走した。

 一九八九年にアメリカの議会から火を噴いた『「NO」と言える日本』問題では、コロンビア映画買収もからんでアメリカからも思いがけない敵役とされてしまったが、それも一時のこと。そのあとすぐに世界的経営者十五人のひとりに盛田昭夫は選ばれている。

 盛田は世界を飛び回った。

 だいたい政治家とか企業経営者とかで成功している人種は、並みの人間から見ると「よく体が持つものだ」と思えるほどのハードスケジュールをこなしている。しかしそれでいながら、少しもストレスを抱えている訳でもない。どんなに激務であっても、自分で判断し、納得したうえで仕事に取組み、なおかつ自分で決断して成功したら嬉しいから少しもストレスなど感じないのだ。それは盛田も同じであった。

 盛田昭夫は一年の三分の二は、海外を飛び回ったという。その回りかたがまたすさまじいという。ソニーという世界企業の会長として、世界中の関連企業や工場を訪れるのはもちろんのこと、社業をはなれて日本のためにいろいろな国際会議にも頻繁に出席した。

 その合間に個人的なスケジュールをこなす。

「昨日ワシントンから帰ったばかりですが、また明日ワシントンへ飛びます」

 晩年、盛田昭夫はことなげに、知人にそう笑顔で言ったという。

 そのとき、白い歯がきらりと光った。それはしんとした輝きである。

「短い人生は時間の浪費によっていっそう短くなる」という、サミュエル・ジョンソンという十八世紀に生きたイギリス文学者の言葉がある。

 人間は必ず死ぬ。だから、短い人生をより有効に楽しく使うのが道である。少年老い易く学成りがたし。一寸の光陰軽んずべからず、というのはそういうことなのだ。

 盛田昭夫はそのことを誰よりも熟知し、そして走り抜けていった。

 ときには失敗もあったろうが、とにかく盛田は走り抜けていった。


 一九五五年。ゴールデン・フィフティーズ、と呼ばれたこの時代のアメリカは、物や金があふれ、すべてにおいて裕福で、幸せで、米国最大の経済発展の時代だった。そんな中、盛田昭夫は単身、喧騒のNYに下り立った。

 外は思ったほど寒くない。十一月とはいえ、午後の風は心地好い。皆忙しそうにスーツ姿のビジネス・マンたちが歩いている。盛田はぴしっとスーツを着込み、眼鏡をかけ、短髪で面長な、細い手足の、まだ三十代の青年だった。鞄の中には、ソニー初の小さなトランジスタ・ラジオがある。皆、忙しそうに行き交う。

 盛田は圧倒された。

「……アメリカっていうのは凄いところだな」

 盛田は思わず、唖然として、呟いてしまった。そして「よし。ソニーはまずここで勝負するんだ」と心に誓った。言葉にだしてみると、実感が心に染み入るようだった。

 とにかく、ソニーはここで勝負だ! みてろよ! それにしてもどうして彼が、厳しいしつけを受けた厳格な家庭で、大学まででた彼が、通りのどんずまりにある東通工なんかで働くことになったのだろう。人生ではもっと楽しいこともあるはずだ。なぜ、ラジオ片手にNYの町並みを彷徨っているのだろう。そうだ、思いだした。ソニー、それが理由だ。 ホテルにチェック・インすると、盛田は部屋で鞄から「宝物」を取りだして、じっと見た。ソニー初の小さなトランジスタ・ラジオである。それは真空管を使わない掌サイズのソニー独自のラジオで、当時、他社のラジオがダンボール箱くらいある中で、この小ささは驚異の技術であった。

「これならいける」盛田昭夫の頬はかぎりなく緩んだ。自信があったし、これでソニーは飛躍できるのだ。うれしくて当然だろう。

 しかし、盛田は思わぬ挫折を味わう。

 盛田は様々な電機店に営業にいく。「みてください。ラジオがこんなに小さいんです」 しかし、盛田の熱意とはうらはらに店員は冷ややかな態度ばかりとったという。

「みてください。この会社の大きいラジオと比べてみてください。小さいでしょう?」

 盛田は続けた。「真空管じゃないんですよ!トランジスタを使ってるんです!」

 それでも店員は訝しげな顔をしたままだ。

「これからは一家に一台のラジオではなく、ひとりに一台のラジオが可能なんです。この地区だけでラジオ番組は十五もあります。これからは一家そろってラジオをきくのではなく、部屋で、ひとりひとり自由に聴けるんです」

 が、店員の大柄な髭の男は訝しげだ。それは、盛田昭夫が頭痛を覚えるほど酷かった。

盛田の差し出す掌サイズのトランジスタ・ラジオをみて「メイド・イン・ジャパン?!…ふん。どうせすぐぶっ壊れるんだろ!」と店員は吐き捨てるように言った。

「いえ。我が社ソニーの製品は…」盛田が焦っていおうとすると、男はいった。

「ソニー? なんだそりゃ?! 日本の製品なんてのはすぐぶっ壊れる。安かろう悪かろうなんだよ!安いだけだ。くだらん。そんなものいるか!」わめいた。

 店員が早口の英語でまくしたてたので、盛田にはききとれなかった。

「……すいません。なんとおっしゃったのですか? もっとゆっくり…」

「ソ・ニ・ー? な・ん・だ・そりゃ?! ど・う・せ・すぐぶっ・壊れるんだろ?! …とっととうせろ! う・せ・ろ!」

 盛田昭夫は門前払いを食らわされた。

 その瞬間、まるで心臓に杭が打たれたように盛田昭夫は立ち尽くした。誰もソニーの商品の良さをわかってもらえない。そう思うと、寒くもないのに体が震えた。盛田はもどかしさで唇を噛んだ。誰もソニーの商品の良さをわかってくれない。

 盛田はあてもなく街道をさまよった。

 挫折で、あった。

 しかし、その失敗や挫折をバネに盛田昭夫のソニーは飛躍をとげる。ソニーの快進撃が始まる。

「盛田昭夫氏は日本と米国の間でコミューニケーションできる唯一のひとでした」

 ヘンリー・キッシンジャーはそういったという。

 一九八九年にアメリカの議会から火を噴いた『「NO」と言える日本』(石原慎太郎と盛田昭夫の共著)問題では、コロンビア映画買収もからんでアメリカからも思いがけない敵役とされてしまったが、それも一時のこと。そのあとすぐに『フォーチェン』誌の世界的経営者十五人のひとりに盛田昭夫は選ばれている。

  盛田は世界を飛び回った。

 盛田昭夫の最大のヒット作は「ウォークマン」。あの掌サイズの箱型のテープレコーダーである。これは常に音楽のある生活を可能にした製品で、あのカラヤンも愛し、その功績によりオーストリアのウィーンには「ウォークマン」の記念碑まであるという。

 そもそものアイデアは、会長職から退いていた創業者・井深大が海外出張用にテープレコーダーを作らせたことによる。盛田はこの製品に目をつけた。

「……これは売れる」

 盛田は試作機にカセット・テープを入れ、ヘッドフォンを耳にあてた。

 そして、再生スイッチをオンにした。すばらしい音楽が響く。そのとき盛田がならしたのはクラッシック音楽のテープだという。

 盛田は感動で目を閉じた。そして、一音一音ききもらさないように耳をそばだてた。我ながら不貝ないと思いながらも、涙が瞼を刺激した。しかし、耐え、そのあとは頬の筋肉がゆるんでしかたなくなった。盛田昭夫はいてもたってもいられなくなり、若い社員が集まる会議室に駆け込んだ。

「あ! 会長!」

 社員たちが椅子から立ち上がろうとすると、盛田は「いいからいいから」と呈し、そして、「ウォークマン」を売り出そうといった。盛田はいう「今の若者は音楽がないとダメなんだ。いつも聴いていたいんだ。これは絶対売れるぞ! 絶対売れるぞ!」

「…しかし、再生だけのレコーダーでは……」

 反対意見も多かった。しかし、盛田には自信があった。

 盛田の素朴な発想から生まれた革命的新製品の開発は初め、「そんなの売れるわけない」と猛反対を受けた。ちなみに「ウォークマン」という製品名は盛田が名付けた訳ではないそうだ。盛田が出張から帰ってきたとき、社員はもうそう名付けていた。

「ウォークマン(歩く男)?もっと文法的に正しい「ウォーキング・ステレオ」とかにしたほうがいいのでは?」

 盛田はいったが、すでに決定し広告もつくってあるというので渋々その名にしたという。 盛田昭夫は注文をつける。発売は夏休み前に。学生でも買いやすい三万八千円という値段。すべては盛田の賭であった。

 最初売れなかった。が、当時のアイドル・西城秀樹をCMに起用して大ヒット、「ウォークマン」は空前の大ヒット商品になる。販売から五ケ月で在庫なしに。それから十五バージョンアップ。世界で二億台のヒットとなる。

 蓋をあけてみると、世界的大ヒット商品となったのである。

「やった! やったぞ!」

 盛田は会長室で、ひとり、小躍りして喜んだに違いない。

 とにかく、盛田昭夫の勝利、であった。

         ソニー創業


            (東京通信工業)





                  

 盛田の父・久左衛門は紙に主色の字で、”昭夫”と書いた。

 それが長男の名前である。

 盛田昭夫は、一九二一年(大正十年)一月二十六日、愛知県常滑市小鐘谷に生まれた。父・盛田久左衛門は江戸時代から続く造り酒屋の当主であったという。母は収、けっこう年増な女である。とにかく、盛田は酒屋の跡取りとして生を受けた。

 本来なら盛田昭夫は、名古屋でトップの座にあった酒屋の第十五代当主として盛田久左衛門も名乗っていたはずだった。三〇〇年の伝統を誇り、酒類問屋としては、全国で五指に入るという屈指の地方資産家の跡取りとして、である。

 下に弟がふたり、妹がひとりいるが、盛田家では代々、当主となるものは幼名を捨てて、久左衛門も襲名するしきたりになっているという。

 盛田の旅行カバンには「アキオ・キューザエモン・モリタ」の頭文字であるA・K・Mがはいっていたというし、サインもそうすることがあった。アメリカに渡ってアメリカ人にクリスチャン・ネーム(キリスト教の洗礼を受けるときにもらう名前)があるものを知り、「自分もひとつ」と習ったのだという。しかし、こちらのほうは盛田家の家督相続人になったときにつけられる由緒ある名前なのだった。

「この子は、第十五代当主・盛田久左衛門だ!」

 昭夫の父・第十四代・久左衛門は赤子の昭夫を抱いて頬を緩ませた。当然ながら大正時代のことなので、久左衛門がポロシャツを着ているわけはない。和服である。昭夫の父は短髪に面長な顔で口髭をうっすら生やし、細い体に手足をした紳士風のいでたちである。 赤子の昭夫は、豪邸内で、父に抱かれるとにこにこ微笑んだ。

「この子は絶対跡取りだ。経営も営業も全部しこむぞ」

 久左衛門はそういった。そして「この子は将来きっと俺を追い抜く」

「まあ!」

 昭夫の母・収は笑った。華奢な体に印象的な黒髪の、和服の女である。

 収は続けた。「…あなたはこの子に帝王学を学ばせるおつもり?」

「そうとも!」

 久左衛門は昭夫をあやしながら続けた。「これから経営会議にも営業にも、酒の醸造にも……全部出席させて教え込む」

「まぁ、それはすごいわ!」

「俺にできるのはそういうことだけだからな!」

 久左衛門は昭夫をあやしながらいった。

 昭夫は何も知らず、無邪気に微笑むのであった。


  盛田昭夫は著書「MADE IN JAPAN」(32ページ)の中でこう語る。

「私は古い造り酒屋の長男として生まれた。なにごともなければそこの十五代跡継ぎになるはずであった。”酒”は、単に日本固有のアルコール飲料であるばかりでなく、国民の文化的シンボルでもある。多くの伝統的宗教儀式には欠かせぬものであり、神式の結婚式では新郎新婦が一つの盃を取りかわし、夫婦の誓いをする。盛田家は工業都市、名古屋か            らそう遠くない知多半島の小鈴谷村(こすがやむら・現常滑市)で、三百年前から「子(ね)の日松(ひまつ)」という銘柄の酒を造ってきた。この名は『万葉集』の中から取ったもので、毎年、年の初めの「子の日」に、小松をひいて庭に植え、長寿延命を祝う縁起の良い遊びに由来する。(中略) 父は非常に有能な実業家だった。が、この由緒ある家業を継いだのは、事業が経営難に陥っていた時期であった。祖父と曽祖父はすぐれた審美眼の持ち主で、日本や中国の美術工芸品の収集に没頭していた。(中略)本業をおろそかにし、経営をひとまかせにしていたため、事業は衰退の道をたどったのである」

 まさか息子が起業家になるとは思わなかったから、十四代・久左衛門は息子・昭夫にみっちりと帝王学を仕込んだ。

 十歳頃になると、もう会社の事務所や酒の醸造場へ息子をつれていき、事業というものの”いろは”を手ほどきしていった。重役会議、部下からの報告、打ち合わせや棚卸しなど、学業の合間をみて可能な限り社業につきあわせた。中学生になるともっぱら仕事で一日が過ぎてしまったそうである。

 盛田昭夫は酒を呑まなかった。

 酒造会社の跡取りだったのになぜか?それは、この頃に醸造過程にある酒の成熟度や精製の具合を調べるため「飲みきり」と呼ばれる点検法をやらされたからだという。まだ未成熟の酒を口にふくんで味をみて、ぱっと吐き出す作業である。そんなことを中学生の頃からやらされればアルコールの味に拒否反応を示しても不思議ではない。

 盛田家は裕福で、当時の日本では珍しく西洋的でモダンな家庭だった。家は、名古屋でも超高級住宅地として知られている白壁町というところにあったが、広壮な屋敷内にはテニスコートがついていた。向かいにはトヨタ自動車の豊田一族が住んでいたという。

 父親は、お抱えつきのアメリカ車、ビュイックで会社に出掛け、家の中にはすでに外国製の電気冷蔵庫や洗濯機が置かれてあった。

 母親は、クラシック音楽が好きで、よく子供達を音楽会に連れていき、レコードを聴かせた。家には、小さい時からビクトロンと呼ばれる古い手回し式の蓄音機があったが、アメリカから電気蓄音機が輸入されるようになるとすぐに買い入れた。名古屋では第一号であったという。

 昭夫の父・十四代・久左衛門はいつも「お前は十五代・盛田久左衛門になるんだ。期待してるぞ。父さんの期待を絶対に裏切るなよ」と長男にいった。

 十四代・久左衛門は子供たちに厳しかった。しかし、厳しい反面、子供達のためになると思えば何でも買い与えた。そういう寛大さもあった。家族思いだったのである。

 が、盛田昭夫は勉強などそっちのけで機械イジリばかりしていたという。

 蓄音機を分解しては組み立てていた、という。

 学校の勉強そっちのけでその日も機械イジリしていると、父・十四代・久左衛門が部屋にやってきて、「馬鹿もの!」と雷を落とした。

「そんな機械イジリなどしてるんじゃない!」

 抑圧のある声だった。

 盛田昭夫は黙りこみ、そして真剣な顔をして、「でも、父さん。ぼくはこういう機械イジリが好きなんです」と素直にいった。

 それが、また怒りを買い、「馬鹿もの!蓄音機など分解している暇があったら……酒の仕込みでも覚えろ!」

「そういうのは…ぼくは好きじゃないな」

 昭夫はいった。

「うぬぬぬ」父はあまりの正直な答えに、歯ぎしりした。

 そして「とにかく機械イジリなどしないで、酒イジリをしろ!」と怒鳴った。

 父が部屋から去ると、盛田昭夫は黙り込んだ。

(ぼくは酒より機械をつくりたい)

 昭夫は心の中で叫んだ。しかし、長男は酒造会社を継ぐのが習わしだ。

(くそっ!)

 盛田昭夫はもどかしさを隠し切れずに、唇を噛んだ。誰にもわかってもらえない。そう思うと、寒くもないのに身体の芯から震えが沸き上がってくる。しかし、そんな気持ちを救ってくれたのは母だった。

 母が、「お前の好きなようにやりなさい」といってくれたのだ。

「……母さん」

「お前の……好きなようにやりなさい。なんでもやりたいことをやりなさい」

 母・収は優しくいった。

 盛田昭夫は涙の出る思いだった。

  盛田昭夫は、学校では劣等生だった。自分の好きな遊びに夢中になって学校の勉強を怠けていたからだ。親が子供を叱る常套句に「そんなことばかりしている暇があったら、少しは勉強しなさい」というのがあるが、それを地でいった訳である。当然ながら、学校では落ちこぼれとなった。

 だが、だからといって人生の落ちこぼれとなった訳ではない。それどころか、親や教師や学校のいいなりにならないことで、自分で道を見つけることになった。

 盛田昭男はあいかわらず”機械イジリ”を続け、なぜか急に(大学でもっと詳しく機械のことを学びたい)と思いたった。そこで、高校三年のときに猛勉強し、父親の反対も押し切って大阪帝国大学物理学科にみごと合格した。一九四二年のことであった。

 しかし、昨年から火薬のきな臭い匂いと、戦争という現実が立ちはだかる。

 一九四一年十二月八日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が勃発していた。盛田昭男も徴兵され、海軍技術中尉として研究に没頭することになる。

 昭男の研究は、飛行機の熱を追って飛ぶミサイル、というものだった。

 こんなの……ぼくのやりたかったことじゃない。

 盛田は唇を噛みしめながら研究した。

 …飛行機の熱を追って飛ぶミサイル…?! 馬鹿か?!

 その頃、盛田昭男はもうひとりの天才の噂を耳にした。

その男の名は、井深大。

 当時、井深大は三十代で、学生時代からいろいろな発明をして名を轟かせていた。井深の発明で有名なものは動くネオン・サインである。今でこそ動くネオンは珍しくないが、当時は画期的な発明であった。井深は、丸い体躯に黒斑メガネの温厚な男である。

 二十代前半だった盛田は、そんな井深に共鳴するようになる。

 井深大ってひとはすごいな。

 盛田昭男はそう思った。そして(ぼくも負けてられない)とも思った。

 一度……井深氏に会ってみたい…。

  その頃、日本の敗色は濃厚となっていた。

 盛田昭夫は著書「MADE IN JAPAN」(73ページ)の中でこう語る。

「一九四五年の七月、八月、京浜地区はほとんど連日連夜の空襲を受けた。爆撃を終えたB29の大きな銀色の機体が頭上を通ると、近くの高射砲部隊が射撃を開始するのだった。撃たれたB29が海に落ちて行くのが窓から見えることがあった。(中略)一晩中地響きがしていた。が、いつの間にかそんなことも気にならず眠ってしまうことが多くなった。事実、海軍広しといえども、空襲警報下で寝ていたのはわれわれの所だけだと思う。本当はこんなことを白状すべきではないのかもしれないが、遠い昔のことだからもう時効と考えていいだろう。

 八月に入ってからは、もう日本は勝ち目がないと私は考えていた。だが、いったいどういう形で終わるかは、見当がつかなかった。私が非常に心配したのは、軍部はどんなに戦局が悪化しようと、この戦争を放棄しないだろうということだった。われわれのいた三浦半島は、決死の覚悟をした海軍の最後の戦場と化すのではないかと思っていた。九州から日本に上陸する「オリンピック作戦」という進攻計画がアメリカにあったことをあとで知ったが、もし上陸してきたら、軍部の重要な施設が集中しているこの三浦半島一帯を避けて通ることはあり得ないから、最悪の場合、東京へ向かう途中のここが大戦場となる可能性は大いにあったのだ。原爆が落とされて、この戦争が最後の段階にはいったことは一層明らかになった」

  帝国日本は広島と長崎に原爆を落とされ、一九四五年八月十五日、敗戦した。

 ”耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び…”昭和天皇の声がラジオで流され、日本人たちは涙を流し、その場にへたれこんだという。

 盛田昭夫も実家へ帰された。

(ぼくは生きのびた)

 昭夫はそう思った。

 ボロボロの軍服で実家に帰ると、第十四代・久左衛門は「酒屋の跡を継げ」といった。 が、昭夫は反発し、「いえ、ぼくはやりません」といった。

「なぜ?」

「ぼくは技術を役立てたいのです」

「もう戦争は終わった……もうお前の技術は役にたたないではないか!」

「いえ」昭夫はいった。「こんどは自分の技術を平和のために使いたいんです」

「なにっ?!」

 久左衛門は歯ぎしりをした。「じゃあ……誰が会社の跡をつぐのだ?」

「…弟にやらせて下さい」昭夫の端整な顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいとともに大人っぽくもある。説得力のある微笑だった。しかし、父の顔は暗く、目はベーリング海のように冷たかった。「ばかやろう!」と、どなりつけた。

 久左衛門は怒りで顔を真っ赤にし、昭夫の頬に平手打ちをくらわした。

「お前は身勝手だ! 平和のために?! …じゃあ何をする?」

 次の瞬間、久左衛門は唖然とした。

 昭夫が土下座したからである。盛田昭夫は額を床にこすりつけ、「父さん!ぼくを東京にいかせて下さい!」と嘆願した。

「………東京…だと?」

「はい!」盛田は涙を流し、「新聞によれば…東京の井深氏が会社を作るそうです。ぼくも参加したいのです! お願いします!」

「…しかし……」

「ぼくのことはもう戦争で死んだと思って……お願いします!」

 盛田昭夫は涙ながらに必死に嘆願した。

 やがて、久左衛門は折れ、優しく微笑んで「………わかった! お前の好きなようにやりなさい」といった。

「父さん」

「ただし」久左衛門は続けた。「ただし……もう実家には帰ってくるな。それが条件だ。いいな?」

「はい!お父さん!」

 昭夫は顔をあげ、微笑んだ。

  こうして、盛田昭夫は列車に乗り東京へとむかった。

 そして、盛田と井深は出会い、すぐに共鳴し、握手をかわした。

  一九四六年、ソニーで前身、「東京通信工業」は、焼け野原に残ったバラックの工場で創業した。まだ、戦争のきな臭い匂いの残る東京でのことである。

 井深大、三十八歳。盛田昭夫、二十五歳、社員わずか二十五名である。

  設立趣意書

”他社の追随を絶対に許さざる境地に独自なる製品化をおこなう。自由闊達にして愉快なる理想工場の設立”

  井深大、盛田昭夫は夢を実現させた。

「ともに、技術を今度は平和のために使おう!」井深はいった。盛田も「もちろん!」と答えた。それが、のちの世界企業・ソニーの出発で、ある。

 しかし、最初は売れない製品ばかりつくっていて赤字続きであったという。

 日桶に電熱線をはりつけただけの電気釜……。座布団にニクロム線を植えこんだだけの電気座布団(これは少し売れたらしいが、火傷や火事の危険性大ということで早めに撤退したという。ちなみに商品は「銀座ネッスル」という仮の会社名で販売した)

 商品は売れず、赤字続き。それでも、井深と盛田は諦めなかった。

 そして、「背水の陣」をひいたのである。

      テープレコーダーと


          トランジスタラジオ





  東京通信工業(ソニーの前身)の経営は悪化していた。

 商品が売れないのである。その為、社員への給料支給もままならなかった。創業者である盛田昭夫と井深大のふたりは机をハの字形にして向かい合っていろいろ話した。打開策を…。しかし、なかなかいいアイデアが浮かばない。ふたりは激しい頭痛のする思いだった。なんとかしなければならない。と、焦れば焦るほど、手足はもつれるばかりだ。

 このまま売れぬ商品開発と在庫をかかえてれば、東京通信工業(ソニーの前身)は間違いなく潰れる。

 盛田は、焦った。井深も焦っていた。

 井深は言った。「とにかく、他社ではできない東通工(東京通信工業)独自の製品を開発すべきで、それは他のどんなものにもかえられない。だろ? 盛田くん」

「その通りです。私たちも何度も会議をひらいて検討して、ラジオがいいのではないか…という意見を得ました」

「うむ」井深は唸ってから続けた。「面白そうだが…ぼくは反対だよ。盛田くん」


 ”わが社がどんな製品をつくるべきかについて検討していたとき、たひたび候補にあがったのはラジオ受信機だった。当時の日本はまだ、短波受信アダプターばかりでなく、ラジオそのものも不足していた。井深氏は断固この案に反対した。大会社は戦後の混乱から立ち直りつつあった。彼らは自社製の部品をまず自社の製品に使用し、余力ができたときはじめて他に売り出すだろうし、競争者をできるだけ長期にわたってリードするために、当然最新技術を公開しないだろうというのがその理由であった。井深氏と私が描いていた新しい会社の構想は、時代に先がけた独創的な新製品を生産することだった。単なるラジオの製造では、この理想とあまりにかけはなれている。

 われわれは戦後の日本人の生活をさまざまな角度から観察してみた。わが社はこれまでに、日本人が戦時中大切に保管してきた中波ラジオ用の短波受信アダプターを相当数販売したが、同様に旧式の蓄音機もたくさん残っていることに気づいた。戦時中は新型モーターや電磁型ピックアップの入手は不可能だったから、戦中戦後の古い蓄音機の修理改良にこれらの部品の需要が増すことは明らかだった。アメリカで流行していたスイングジャズのレコードが、日本でも売られるようになっていた。国民はそうしたものに飢えていた。日本人は占領下にあって、少しずつアメリカについて、アメリカの生活様式について知るようになった。放送局も駐留軍の監視下に置かれ、戦時中禁止されていた英語が学校の教科書に復活し、放送にも使われはじめた。民主主義、個人の自由、平等といった概念が、長年にわたる思想統制と軍部の独裁を経たあとの傷ついた土壌に植えつけられた”

            (『MADE IN JAPAN』盛田昭夫著 102ページ)

  実際の話、東京通信工業(ソニーの前身)の経営は悪化していた。

 戦後の混乱期にスタートしたソニーは、物資不足にみまわれた。誰もが闇市に足を運ばなければならなかったという。東通工は一九四六年五月七日に正式に発足したが、盛田たちはオンボロの小型ダットサンを三万六千円で手にいれた。が、運転免許をもっている者といえば会社の幹部の井深と盛田だけで、そのため盛田は”経営者”としての仕事のほかに、工場で使う材料や用具の買い出しから配送品の積み下ろし、配達の使い走りまでする羽目になった。その当時の東京は、猥雑で、焼け野原にバラックが広がり、国民はみな貧しかった。また、騒々しく、煙りと悪臭がただよっていた。ガソリンも欠乏し、手に入ったとしても値段が高かったという。盛田はきゃしゃな手首の時計に目をやって、時間ばかりが無駄になる、と思った。いつもの彼に似合わず神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでいる。実家を出ていらい、東京通信工業に入っていらい、盛田昭夫は自分のことは自分で処理してきた。そうヘタな人生ではなかった。しかし、今回のビジネスはあまり乗る気がしなかった。打開策は、新商品、ヒット商品の開発しかなかった。  すべてがカオス(混沌)状態であった。

 その頃、井深が目につけているものがあった。”ワイヤレスレコーダー”、である。井深の真の目標はしかし、決して古い製品の改良ではなかった。井深の心は、常に新しい製品、いままでまったく日本になかった製品に向けられていた。

「いままでにない、独創的な製品を造る。それが、東通工の目標である」井深はそういって憚らなかった。限りないオリジナリティの追及、それがのちのソニーの永遠のテーマともなる。そして、盛田と井深はある製品に着想することになる。いうまでもない。”ワイヤレスレコーダー”、である。

 しかし、ワイヤレスレコーダー”は完成できなかった。銅線を用いて録音するという技術は画期的なものであり、他社もやっていなかった。しかし、銅線は大阪の住友金属がつくっていたが、井深がわざわざ大阪にいって交渉しても、発注に応じてくれなかった。無理もない。たった一社の注文、しかも名もない新会社からの注文のみでは、応じずともいたしかたなしであろう。しかし、盛田はいう。

”ワイヤレスレコーダーが出来なかったのは幸だった。その他の、もっといい製品の開発に着手できたのだから……”


「盛田くん、進駐軍のNHKから仕事だ!それも、ミキシング装置だよ」

 井深はいささか興奮気味にいった。声がうわずった。

 当時、NHKは進駐軍(GHQ)の管理下にあった。ミキシング装置その他、放送用の新しい備品を必要としていた。これらはまさに井深の得意としている分野であった。

 井深が「放送用の大きなミキシング装置をわが社でつくらせてほしい」と申し出た。すると、責任者のアメリカ人将校がわざわざ「その無名な会社の経営状況はどうか」と、御殿場のあばら屋までやってきた。東通工の工場に、である。たまたま戦争で被害をうけたNHKの再建を担当していたのが、井深の友人の島茂雄氏だったため、彼が東通工を推薦してくれたのだという。そのアメリカ人将校は島茂雄氏を連れて工場にやってきた。

 しかし、当時の東通工の工場は、前近代的な機械ばかり…。

「オー・ノー!」将校は首を横にふった。(こんな工場で、最新式のミキシング装置その他、放送用の新しい備品などつくれるのか?)というのである。

 こんなちっぽけで原始的な工場で、本当に最新式の装置や備品がつくれるのか?アメリカ人将校は島茂雄に何度も確認した。島はとにかく、自分の判断を信じてほしいとその将校を説得し、将校も承知したが、みすぼらしい建物がよほど気になったらしく、防火用の砂と水のバケツをあちこちに用意しておくようにと忠告したという。

 社員一同がそのテープレコーダーのまわりに集まって見学した。

 そして、その結果、「これこそわが社にふさわしい製品だ」ということでみなの意見が一致した。まさに、テープレコーダーこそが東通工(のちのソニー)の出発点となる。

 しかし、意見の分裂もあった。だが、そこはふたりの天才、盛田昭夫と井深大がおさめ、反対者もしだいに矛をおさめていく。反対者の長谷川純一という男を接待して、このプロジェクト(つまりテープレコーダー製造販売計画)を考えさせるようにしたのだ。

 盛田は井深はテープレコーダーの着想に自信があったから、長谷川にごちそうしながら、テープレコーダーの長所を並べ立て、この業界に大革命が起こるであろうこと、それはいかにしてひとより早く着工しなければならないこと、今直ぐ始めれば大会社にも競争で勝てるだろうこと、即断行動が大事なことなどを説いたという。しかるに長谷川は承諾した。 しかし、思わぬことでふたりの天才、盛田昭夫と井深大はつまずく。なんということだろう。ふたりにしても、会社の社員にしても録音テープの製法についてまったく知識がなかったのである。なんとも、おそまつな結果だった。

 しかし、そこで諦めぬのが盛田昭夫、井深大である。テープは心臓部であったが、未知の領域。だが、機械部品や電気系統には絶対の自信がある。日本には磁気テープに通じたひとはいなかったから、独自でつくるしか道はない。もともと盛田は、磁気テープのハードだけでなく、ソフトも販売しようと考えていた。のちにコロンビア映画(現・ソニーピクチャーズ)を買収して、ハードとソフトを両立させたのと同じ考えである。

 長い紙をハサミで切った。そして、糊でつなげた。磁石粉をフライパンで炒め、接着剤で紙に張りつけた。気の遠くなりそうな作業が、何日も何時間も続いた。そして、やっと試作機が完成した。信じられないことに、テープはすべて手でつくったのである!

”テープレコーダー”といっても、昔のことであるから現代のiPod、CD・MDウォークマンや十数年前のウォークマン(テープ)よりも試作機はでかい。段ボールくらいある。テープリールも、フライパンくらい大きい。しかし、当時は最先端の機械で、大きさも既存品の高価なものよりずっと小さかったという。

 とにかく国産初の、”テープレコーダー”試作機は完成した。

 東通工(のちのソニー)、また一歩前進である。

 しかし、難もあった。いや、致命的な弱点があった。それは、値段である。一台なんと十六万円(今でいう600万円くらい)! 高価すぎて、庶民には手の届かない機械となってしまった。これでは売れない。当然、買いたいという客はいなかった。品質も性能も申し分ない。しかし、高くて買えない……これがリサーチの結果だった。

”品質のよいものをつくれば、絶対に客が買ってくれる”井深や盛田は、そんな『殿様商売』を捨てざる得なかった。品質がよくても、値段が高くては売れない。それは、金持ち育ちの盛田には理解していなかったことだった。

 しかし、だからといって指をくわえて、ただ茫然としている訳にもいかない。そんな暇はない! そんなことをしていたら東通工は潰れてしまうのだ!

「……なんとかしなければ…」盛田は座して、唸った。

 こうして、盛田昭夫と井深大のプロジェクトは頓挫したかに思えた。

 実際、テープレコーダーは売れなかったし、会社の経営も火の車であった。

 井深や盛田は、ただ”商売で儲けたい”という近視眼的考えだけの人物ではなかった。盛田たちの夢は「日本再建」でもあったという。日本は戦争で負けた。惨めな敗戦を経験した。これからは俺たちが日本を再建する。経済を活性化させ外貨を稼ぎ、日本を豊な国にする。軍事では負けたが、経済では負けないような国にする。そのためにふたりの天才は知恵をしぼった。とにかく、まずは国内でいい製品をつくり、外国にもっていき認められ、日本本国に逆輸入させる。盛田昭夫の謀はそういうことだった。

”日本を再建する。経済を活性化させ外貨を稼ぎ、日本を豊な国にする!” しかし、理想とはうらはらに東通工のテープレコーダーは売れなかった。値段がネックだった。

 そんな中、盛田昭夫は悪夢を見る。

 東通工の光景は見慣れたものであったが、その状態が尋常ではない。社員たちが飢餓でガリガリに痩せ、倒れ込んでいる。男が椅子に座っている。いや、首がひんまがった死体が横たわっているのだ。盛田は息を呑んだ。血色をなくした泥のような顔であるが、盛田昭夫には見覚えがあった。間違いない。社長・井深大の死体である。

 盛田は頭頂から爪先まで滝のように冷気が走りぬけた。手足が震え、思うように力が入らず、筋肉が堅くなって足がもつれ、手はおののきながら宙を泳いだ。

「なんてことだ……井深さん!」盛田はやっと喘ぎながらいった。

 間違いない。井深や社員は飢え死にしたのだ。商品が売れないばっかりに…。盛田は地面にへたりこんだ。そうしていると工場に火がつき、やがて紅蓮の炎が辺りを包んだ。まるで”本能寺の変”である。「是非に及ばず!人間五十年 下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり 一度生を得て滅せぬもののあるべきか」織田信長の声で「敦盛」がきこえてくるかのようだった。やがて、盛田も炎の中に包まれ、悲鳴をあげた。

そして、がばっと蒲団から起き上がった。

 夢……だったのか…盛田は額の汗を手でぬぐった。縁起でもない。(東通工が燃える夢なんて…)盛田昭夫は悪夢で、自信喪失した。なんとも嫌な夢だ。

 しかし、このまま経営が悪化すれば、倒産は目の前である。夢まがいのように死にはしないだろうし炎上もしないだろうが、倒産してしまえば「もう終り」である。

 盛田はその日から、熱心に営業していった。暑い中、汗だくになりながらセールスを続けた。背広も、眼鏡も似合う細身の盛田ではあったが、営業の不調とうだるような暑さにはホトホト参っていた。「売れない…」盛田は口にした。口にしてみると、本当に惨めだった。製品はいいのに。品質も性能も、申し分ない。自画自賛ながらそうだ。だが、

「…売れない……」盛田は弱気になっていた。

 盛田はその日も、街路地を汗だくになりながらひとり背広姿で歩いていた。セールスは今日も不調だった。いろいろなところに足を運んだが、門前払いを食らわされるばかりであったという。そんなとき、盛田昭夫は足をとめる。

 骨董品店がある。着物姿の旦那と、客らしい初老の男が笑顔で交渉している。商品は、壺、であった。盛田にとって、壺、など何の役にもたたないものである。せいぜい花を生ける程度だ。しかし、その客は「いや~あ、これはいい壺ですなぁ~」などとえらく上機嫌である。店の旦那も「そうでしょう」と笑顔満天だ。

 盛田は、その話しを遠くで茫然と立ち止まりきいていた。

 そして、次の瞬間、眉間に強烈なフラッシュを浴びたかのようになった。なんと、その客は五万円もの札束をふところから出して、「この壺もらうよ」などと笑ったのである。 自分には何の価値もない壺に、客は大金をおしげもなく出して買っていく。盛田は信じられない思いであった。しかし、こうも思った。

 壺とテープレコーダーは同じようなものだ。価値のわかるひとに買ってもらわなければダメだ。価値を認めてくれるところに売ろう。それがベストだ!

 こうして、盛田は一歩前進する。

 テープレコーダーが売れたのである。まず、裁判所に二十台の注文があった。これは、速記者だけでなく、裁判を録音して記録しなければならないという需要があったからだ。これは、価値のわかるひとに売る、という盛田の着想に合致していた。

  盛田は、ある木造小学校の教室にいた。テープレコーダーのデモンストレーションである。機械を教壇の上においた。けっこう大きい物である。傍らに先生がいて、当時の小学生たちがまわりに群がっていた。みな、テープレコーダーなど見たこともない子供ばかりである。背広の盛田はにこにこと上機嫌で、得意でもあった。

「いいかい?」盛田はマイクをにぎっていった。女の子の前にマイクをむけた。声を録音しようというのである。女の子は恥ずかしがった。「いいかい?このマイクに声をだして、録音するんだよ」盛田は微笑んだ。

「はい、どうぞ」盛田がスイッチを押す。

「A,B,C,D,E,F,G…」オカッパ頭の女の子は可愛くいった。「はい。じょうずだねぇ」盛田はまた微笑んだ。そして、「いいかい」といってテープを巻き戻し、再生した。”A,B,C,D,E,F,G…”女の子の録音した声が再生されると、子供たちは「すげぇ~っ」と溜め息まじりの喚声があがった。

 盛田はいった。「どうだい?何度でもきけるんだよ。これに録音して、発音の悪いところを直せるんだ」これには大歓声である。

 こうして、盛田はテープレコーダーを全国の小中学校に売りこむのにも成功した。盛田は操作マニュアルまで自分でつくったという。東通工の経営状態もこうして序序にもち直して黒字転換していく。だが、またに町工場のひとつにすぎず、学卒者は東通工など見向きもしなかった。のちに日本の大学生の憧れの就職先となるソニーも、まだたんなる町工場の時代であった。そして、テープレコーダーの成功とともにあるニュースが東通工の元に伝わる。

”電子工学の革命「トランジスタ」”発明のことである。

 当時、電圧器はバカでかい真空菅が主であった。しかし、トランジスタはその何倍も小さく、掌に乗るほど小さい。だが、当時、この小さな電圧器の使い道は誰も知らなかった。 大賀典雄はいう。「ラジオはどうですか? トランジスタを使えば、掌サイズのラジオがつくれます」

 盛田は唸った。こうして、ソニー製「トランジスタ・ラジオ」は着想された。完成したら、まずは海外で勝負する。そして、舶来思考の強い日本人の心にアピールし、逆輸入する。盛田昭夫の壮大な構想が、いままさに始まろうと、していた。


         井深大 1






  1969年アポロ月面着陸……

 しかし、技術大国はソニーからであった。トランジスター・ラジオ、トリニトロンカラーテレビ、帝王カラヤンも絶賛したCD、ウォークマン、MD、PlayStation、4K8KTV、有機ELTV、スマートフォン、VAIO、電気自動運転車…

 また、元ソニー社員の江崎氏もノーヴェル賞に輝いている。

テレビを一家に一台にしたのはソニーの創業者、井深大である。

 井深は平成四年には文化勲章を授与されている。ビジネスマンでは初のことだった。

 戦後日本が生んだ世界のソニーの天才だった。

 井深はいう。

「二十一世紀は心の技術」

 エレクトロニクスの巨人である。

  大正十四年、井深は十七歳でラジオアンテナ開発し、屋根につけた。井深は学生時代、二〇〇もの発明を手掛けた。

 走るネオンサイン……

 これはパリ万博金賞をとる。

 日本のマスコミは彼を、

 ……天才!

 ともちあげた。

 おもちゃで遊び、アイデアを練る。江崎氏が発光ダイオードを発明すると、井深はいった。

「君はこんなちっぽけな会社にいる人間じゃない。もっと世界に出て活躍してもらいたい。アメリカのIBMに話をつけてやったからそこで活躍しなさい」

 なんと太っ腹な男だろうか?

 そののち江崎氏はノーヴェル賞をとる。

 前述したテープレコーダーも井深の発明だ。売れなかったが裁判所や学校が買ってくれた。それは盛田氏の努力によるところが大きい。

 毒舌評論家の大宅壮一が「ソニーはモルモットだ」

 といっても井深は懐の深いところをみせる。

「モルモットけっこう。他社のマネをしていたら時代遅れになる」

 井深氏はそういって笑ったという。

 昭和三十六年にはソニーは創業十五年パーティーを開いた。

 井深は開口一番いう。

「私が社長の井深です」

 これは会場の受け付けの社員に「入場券はありますか?」ときかれたからだ。自分の顔を知らないほど、会社は大きくなったか………

 井深はうきうきしたという。

 昭和三十六年には東京オリンピックがあった。

「これはカラーテレビが売れるぞ!」

 井深は嬉しくなった。

 他社はカラーテレビをアメリカ標準で作っていたが、ソニーは独自でやった。

 しかし、独自のクロマトロンカラーテレビが売れない。

 ………失敗!

 井深も盛田も頭を抱えた。

 工場にいって叱咤激励する。そして、一年後、トリニトロンカラーテレビができる。やっと売れ出す………

 会場で井深はスピーチしようとして言葉がでなかった。

 涙があふれた。

 うれしかったのだ。感情が、なんともいえない熱い感情が、井深大の全身の血管を駆けめぐった。熱い涙を流す。

「…み…みなさん…ありがとう…」

 拍手が起こる。

 一年後、トリニトロンカラーテレビでエミー賞をとる。

 1970年、ソニー株式上場、八年後、井深は代表取締役名誉会長となり、六十八歳で第一線から身をひいた。

 しかし、井深大の気力はまったく衰えない。

 天才はどこでもそういうものだ。                         

        ソニー誕生





  まず大事なのはトランジスタからの発展だった。

 そして、トランジスタ開発は「トランジスタによる掌サイズの小型ラジオ」という結論を得た。アイデアの主は若き大賀典雄(大学生時代にバリトン歌手としてプロデビューした人物で、盛田と井深がその才を見抜き、ソニーに連れてきた。元・ソニー会長)である。大賀は割腹のいい体格で、顔は歌舞伎役者のような二枚目である。眼鏡をかけ、丸い体躯が印象的な男だ。

 さて、”トランジスタ・ラジオ”の着想は決まった。あとは、トランジタの特許契約をして製造するだけである。そのため、盛田昭夫は単身、初渡米した。1953年頃である。 当時、盛田は英語に自信がなかった。そのため、先に渡米していた稲垣茂とともにアメリカの街頭を歩いた。アメリカは盛田が想像していたより巨大だった。

 ニューヨークは喧騒の中であった。この当時、アメリカは経済成長をとげ、豊かで自由だった。今でこそアメリカの治安はフィリピン並だが、当時は治安もよくみないいひとばかりで骨の髄までハッピーな時代であった。

 盛田昭夫はそんなアメリカに魅力を感じるとともに圧倒されてしまった。

 英語に自信のなかった盛田は、レストランもダメで、オートマットという自動販売機でファースト・フードを食べるありさまであったという。

 トランジスタの特許をもつウェスタン・エレクトロニック社は巨大であった。盛田は大きいWE(ウェスタン・エレクトロニック)社の建物をみて、「アメリカのショーウィンドゥに東通工の商品が並ぶだろうか……」と不安にかられた。

  その朝、盛田昭夫はNYの友人・谷川譲とともに公園を散歩した。ふたりだけの散歩である。盛田は歩きながら弱音を吐いた。彼のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、驚異的な形をとりはじめた。彼の本能すべてに警告の赤ランプがついていた。帰ろうか…。「ウェスタン・エレクトロニック社は大きな会社だし、東通工は吹けば飛ぶような会社だから……どうしようかと思って考えてるんだ。帰ろうかと思って」

「ははは」谷川譲は笑った。「なにいってんだ? 盛田さん。アメリカ人はそんなのとは違う。会社の大きさなんて関係ない。こいつはスゴイやつだって認めればついてくるよ。それが日本人とは違うところだよ」

 谷川の言葉に励まされ、盛田は元気を取り戻した。

 そして、とうとうウェスタン・エレクトロニック社の特許契約を勝ち取る。盛田昭夫は頭頂から爪先まで興奮の熱が走り抜けるのを感じた。興奮の喜びでドス赤くかわる自分の顔が目に見えるようでもあった。とにかくハッピーだった。盛田はさっそく友人の谷川にあう。「谷川さん。やったよ!」盛田は満面の笑顔であったという。

 だが、トランジスタ開発には金と技術がいる。WE社のフランク・リッチという人物は、盛田にある本を渡す。”トランジスタ・テクノロジー”で、ある。

 日本にもどった盛田たちは本だけを頼りにトランジスタ開発に取り組む。そうして、艱難辛苦の二年が過ぎた。盛田たちは暑い日も、寒い日も、努力の開発を続けた。そして、とうとうトランジスタが、そしてトランジスタ・ラジオが完成する。

 だが、問題が発生する。それは社名である。東京通信工業では外国人には発音しにくく、理解してもらえない。井深の名など外国人には「アイブューカ」と呼ばれていたほどである。初めはTTKにしようかとも迷ったそうだ。

”私は帰国するなり、井深氏に、これから外国と商売するには、このような発音しにくい社名ではどうしようもない。もう少し外国人にも覚えやすい名前を作ろうではないかと提案した。

 はじめはTTKという東通工の頭文字を使うことを考えた。しかし、アメリカにはABC、NBC、RCA、AT&Tといった三文字の会社名がたくさんあって、今からTTKを定着させるにはあまりに時間がかかるし、混乱もする。それに社名はできるだけ独創的なもので、人目につくものがいい。また、短く、同時にローマ字で書ける名前でなければ困る。そしてもうひとつ、どこの国でも同じような発音になるものでなければならない。 こうした条件を下に、井深氏と二人であれこれ頭をひねってみた。いろいろな辞書も引いてみた。ラテン語に「SONUS」(音)という言葉がある。「SOUND」のもとなのだと思う。われわれは音の商売だから、これは使えるなと思った。

 一方、当時「SONNY」とか「SONNY BOY」という言葉がはやってた。「可愛い坊や」という意味である。われわれが考えている楽天的で明るい響きをもっている。なによりもわれわれ自身が「サニー・ボーイ」ではないか。「SONUS」と「SONNY」の二つを眺めているうちに、「SONNY」という言葉が浮かんできた。しかし、これは日本人がローマ字的に読むと「ソンニー」となる可能性がある。「ソン」は「損」に通じて、商売には禁物である。それならば「N」をひとつとって「SONY」にしたらどうか。そうだ。これだ! 「SONUS」を扱う「サニー・ボーイ」の集まりという理屈もつき、ぴったりではないか。”

 (「MADE IN JAPAN」盛田昭夫著 131ページ)

  さっそく、SONYの社名をトランジスタ・ラジオにつけた。その当時は、”日本製”は粗悪品の代名詞であった。安かろう悪かろうが日本製品だというのである。事実、日本の車はすぐ故障し、ラジオや洗濯機もすぐ壊れた。日本製セーター1$。カメラもドイツの猿真似と酷評されていた。話は違うが、盛田は若いときより白髪に悩まされていたが、「ロマンスグレー」などとのちに自分の白髪をいい、流行語にまでしてしまったという。

  一九五五年。盛田昭夫は単身、喧騒のNYに下り立った。ゴールデン・フィフティーズ、と呼ばれたこの時代のアメリカは、物や金があふれ、すべてにおいて裕福で、幸せで、米国最大の経済発展の時代だった。

 外は思ったほど寒くない。十一月とはいえ、午後の風は心地好い。皆忙しそうにスーツ姿のビジネス・マンたちが歩いている。盛田はピシッとスーツを着込み、眼鏡をかけ、短髪で面長な、細い手足の、まだ三十代の青年だった。鞄の中には、ソニー初の小さなトランジスタ・ラジオがある。盛田は様々な電機店に営業にいく。「みてください。ラジオがこんなに小さいんです」

 しかし、盛田の熱意とはうらはらに店員は冷ややかな態度ばかりとったという。

「みてください。この会社の大きいラジオと比べてみてください。小さいでしょう?」

 盛田は続けた。「真空管じゃないんですよ! トランジスタを使ってるんです!」

 それでも店員は訝しげな顔をしたままだ。

「これからは一家に一台のラジオではなく、ひとりに一台のラジオが可能なんです。この地区だけでラジオ番組は十五もあります。これからは一家そろってラジオをきくのではなく、部屋で、ひとりひとり自由に聴けるんです」

 が、店員の大柄な髭の男は訝しげだ。それは、盛田昭夫が頭痛を覚えるほど酷かった。 そして、盛田の差し出す掌サイズのトランジスタ・ラジオをみて「メイド・イン・ジャパン?!…ふん。どうせすぐぶっ壊れるんだろ!」と店員は吐き捨てるように言った。

「いえ。我が社ソニーの製品は…」盛田が焦っていおうとすると、男はいった。

「ソニー? なんだそりゃ?! 日本の製品なんてのはすぐぶっ壊れる。安かろう悪かろうなんだよ! 安いだけだ。くだらん。そんなものいるか!」わめいた。

 店員が早口の英語でまくしたてたので、盛田にはききとれなかった。

「……すいません。なんとおっしゃったのですか?もっとゆっくり…」

「ソ・ニ・ー? な・ん・だ・そりゃ?!ど・う・せ・すぐぶっ・壊れるんだろ?! …とっととうせろ! う・せ・ろ!」

  盛田昭夫は門前払いを食らわされた。その瞬間、まるで心臓に杭が打たれたように盛田昭夫は立ち尽くした。誰もソニーの商品の良さをわかってもらえない。そう思うと、寒くもないのに体が震えた。盛田はもどかしさで唇を噛んだ。誰もソニーの商品の良さをわかってくれない。

 盛田はあてもなく街道をさまよった。電話口で、この何か月間で会社がどれだけひどいことになっているのを知らされた。盛田の声をきいて、部下は感謝でべそをかかんばかりだった。ひとりで砦の守りにあたり、野武士はすぐそこまでせまってきている。ひとりで撃退しろ、とは苛酷すぎる。火あぶりになるのは、今度は、盛田の番で、同情は感じなかった。「とにかく売るしかないんだろ!」盛田は頭を冷やすため金属パネルに額をあてた。鬱屈した思いをこぶしにこめて、無言でパネルをたたいた。くそっ!

 挫折で、あった。

 しかし、その失敗や挫折をバネに盛田昭夫のソニーは飛躍をとげる。ソニーの快進撃が始まる。艱難辛苦の末、米国大手時計会社「グローバー」からよい返事がくる。白人の取締役(アーサー・グルード)は会社の会議室で盛田にいう。「わかりました。十万台頂きましょう」「え?」盛田は唖然とした。しかし、その白人は続けた。「しかし、このソニーという会社名では売れません。我が社の会社名で売ります」

 盛田は顔をきっと締まらせ、堂々といった。

「あなたの会社は何年やってるんですか?…五十年前はあなたの会社も無名だったでしょう。ソニーは大きな一歩を踏み出そうとしているんです。五十年後にはあなたの会社に負けないくらいソニーを有名にしてみせます!」盛田はいい放ち、契約しなかった。それは、堂目すべき盛田昭夫の”躍進”の第一歩、だった。

 しかし、盛田は思わぬ挫折を味わう。

  ソニーは当時、二十人しか社員がいなかった。そこで創立メンバーでもある樋口晃は募集広告をうつ。”英語の出来る学卒者募集”なんとも贅沢な募集だった。今でも地方の弱小企業とか本屋のアルバイトが”学卒者募集”などと贅沢なことをいうことが多いが、ソニーはそれを地でいった訳だ。当時のソニーはちっぽけな町工場である。そんなところに学卒者つまり大学卒業の人間が見向きしないのは当然のことだ。(ソニーは今でこそ学歴無用論などといっているが、現状でも、学卒者ばっかり採用している)

 とにかく、なんとか英語や語学のすぐれた人材を集め、ソニーの外国部はスタートした。  大河内祐がアメリカNYへ。小松万富がヨーロッパ、スイス・チューリッヒへ。それぞれソニー製品トランジスタ・ラジオをもって営業に飛行機でむかった。当時は、外国にいくことさえ珍しいことで、日本には外貨が不足していた。

 小松に同乗してドイツ・ブレーメンにいったソニー社員(当時)郡山史郎はそのショーウィンドゥをみて立ちすくみ、体中を小刻みに震わせ茫然としてしまった。ドイツの高価なラジオ製品が並んでいたからだ。

(ドイツでソニー製ラジオを売るのは北極で氷を売るようなものだ)郡山史郎は思った。 NYには当時、松下や東芝、ミノルタ、日産など日本の企業の営業マンたちがいた。しかし、誰もアメリカでは相手にされなかった。日本製品の”安かろう悪かろう”というイメージを払拭できずにもがいていた。

 小松万富はヨーロッパ各国を飛び回る。彼はある実験をしていた。カフェでウェイターに「ソニー下さい」というのである。ソニーが認められればウェイターは「ソニーはラジオでしょ?」というはずである。しかし、当時、ウェイターはソニーのことを知らなかった。ウェイターは「ソニーはラジオでしょ?」とはいってくれず、不思議そうな顔をするばかりであったという。

 アメリカのソニー社員は20人になっていた。だが、ソニーの掌ラジオは原因不明の故障が相次ぎ、修理品が倉庫にいっぱいになるほどだった。

 盛田はこの報を日本できき、「これはいかん」と円谷輝美らプロフェッショナルな修理工を渡米させた。故障箇所はコンデンサー。それがショートしたことが原因とわかる。

 しかし、なぜショートするのか原因がわからなかった。

 そうしているうちにアメリカでトランジスタラジオの悪評がたちはじめる。やはり日本製品は”安かろう悪かろう”だ! 粗悪品! ソニーは散々な目にあう。

 盛田は激を飛ばす。「一日でも一秒でもはやく原因をつきとめ、ソニーの掌ラジオのイメージアップを計れ!」

 当時、大河内は他の日本人営業マンから「うちの製品のコンデンサーもショートして、原因不明で困ってるんだ」という言葉を耳にした、ハッと閃いた。当時、ソニーの商品はコンテナに入れられ、船でパナマ運河を通ってアメリカに運ばれてくる。パナマ辺りではコンテナ内はものすごい高温と多湿になるはずだ。”熱”……だ。原因は高温だ!

 事実、コンデンサーのショートは”高温”であった。溶接につかっていた銀が高温でとけてショートしていたのだ。円谷輝美らプロフェッショナルな修理工はそれを修理し、以後、コンデンサーのショートはなくなった。

 盛田昭夫はそんなとき、ふたたび渡米した。

(この超大国アメリカにどうしたらソニーのラジオを売れるのか)盛田は営業をはじめる。 しかし、あまり売れなかった。故障品、粗悪品、のイメージを払拭できずにいた。安ホテルに住む毎日。そんなとき友人の香川ドック義信は忠告してくれる。

「アメリカ社会で企業イメージを高めるのは安ホテルの高い部屋より、高級ホテルの安い部屋だよ」

 盛田はその忠告をききいれ、高級ホテルの安い部屋を注文。ホテルマンはいう。「この部屋はどうですか?すばらしい風景が窓からみえますが」盛田は微笑む。「私はビジネスマンです。のんびり風景などみている暇はありません」

 こうして1957年、全米で1、2の代理店と契約がとれる。盛田はいう。「ソニーはぜったいに値引きしません」

 二ケ月後、ソニーの商品は爆発的に売れ出す。クリスマス商戦で勝ち続ける。ヨーロッパの小松も”サクラ作戦”でラジオを売り、新聞広告のチャンネルにソニーのトランジスタラジオの宣伝をのせる。”これさえあれば家のラジオにしばられているあなたの生活がかわります”こちらも爆発的に売れ出す。カフェでウェイターに「ソニー下さい」と小松がいう。ウェイターは「ソニーはラジオでしょ?」と笑った。嬉しくて、手足が小刻みに震え、涙が瞼を刺激した。しかし、小松は上を向き、必死に堪えたという。

 1960年、ソニーアメリカ設立。そして、1961年にはソニーはアメリカで株式公開を果たす。それは日本企業では初めての快挙だった。

 1963年にはニューヨークの五番街にソニーのショールームが完成。大勢の外国人や日本人が見学にきた。盛田はそこに笑顔でたっていた。盛田はいう。「日の丸をたてよう」こうして、星条旗とともに日章旗も五番街にはためく。

 盛田の目には涙が、そして、他の会社の営業マンたちも”日の丸”をみて、涙を流した。それは、日本製品が”安かろう悪かろう”から脱皮した瞬間、であった。       


         ビデオ戦争





  日本はアメリカの庇護のもと、繁栄しようとしていた。

 もちろんアメリカが日本を庇護し援助したのは何も日本のためを思ってではない。

 この世界に自国の利益にもならない援助をする国などない。今の日本は別だが、日本の場合は”やっかい払い”のためのODA(政府開発援助)をバラまいているだけだ。

 アメリカが日本を庇護し援助した理由は只一つ、ソ連(当時)の軍事力を封じ込めるための防波堤に日本が選ばれたからだ。ソ連、中国をハワイやカリフォルニアで食い止めるよりも日本で食い止めるというわけであった。”封じ込め”から”食い止める”という言葉にかわったのはソ連の力が増大したからだという。(封じ込め政策をトルーマンが実施したとき、ソ連はまだ原爆も水爆ももっていなかった。アメリカが唯一の核保有国で文字どおりのスーパー・パワーであった)

 しかし、ここにきてアメリカの目算が狂い始める。車、ラジオ、カメラ、繊維などメイド・イン・ジャパン製品がアメリカ市場に津波のような勢いでなだれ込みはじめたからだ。 日本製品は、五〇年代から六〇年代にかけてもアメリカ市場に入っていた。しかし、それらは安っぽいものばかりで、アメリカ製品に太刀打ちできるような代物ではなかった。 当時、”メイド・イン・ジャパン”は安かろう悪かろうの代名詞だった。以来、日本企業はクオリティ・コントロール(品質管理)に全力を注いだ。

 その結果としてアメリカ市場で売られた六〇年代から七〇年代にかけての日本製品は時計にしろカラーテレビにしても、車にしてもアメリカ製や他の外国製を品質ではるかに上まわっていた。そればかりでなく、値段の面でも日本製品は十分以上の競争力があった。 安くしかも優秀となれば需要は当然高まる。日本製品はこうして確実にアメリカ市場のシェアを広げ始めたが、それに反比例してアメリカ製品の需要は後退していった。これもアメリカが常に実践してきた競争と淘汰という資本主義の原理を忠実に見習っただけだが、アメリカはそうはみなかった。

 アメリカは日本をアメリカナイズすることに成功した。だが、結果は日本企業の製品のはけ口としてのアメリカ市場となり、立場が逆転してしまう。アメリカは怒った。(現在、日本家電企業の輸出によってアメリカの家電企業は全滅してしまっている。今は世界第二位の経済大国となった中国が凄い勢いだ)アメリカにとって日本は自国の国益とはほど遠い国になってしまった。

 現在の中国もかつての日本のようになりつつある。しかし、貧富の差はすごく失業者や闇っ子、政治民営化の後退……など火種が尽きない。

 盛田昭夫のソニーは、そんなアメリカ資本主義の”成功者”となりつつあった。

 1963年、盛田昭夫は家族とともに海外アメリカへ移住する。まだ、海外へいく日本人が珍しい中でのことで、盛田一家がタラップに並び、小型飛行機に乗り込もうと手をふると、見送りの社員から喚声があがったほどだったという。目的は、ソニー・アメリカの発展とアメリカ人のメンタリティ(精神性)の感受と人脈を広げること。盛田は意気揚々と飛行機に乗り込んだ。(長男英夫、次男昌夫、妻良子、長女直子と五人旅であった)

 飛行機が羽田空港を飛び立つと、長男英夫は父親に笑顔をみせた。

「お父さん」英夫は続けた。「アメリカってどんなところ?」

 盛田昭夫は微笑んだ。「とってもいいところさ」

「どんな風に?」

「そうだな」盛田はいった。「いけばわかる。もうすぐお前たちはアメリカで住むんだ。住めば都っていってね…とにかくアメリカはいいところだよ。アメリカ人はね。そのひとを学歴や会社名で判断しない。そのひとが出来るやつだって思えばついてくる。日本と違って学歴なんて関係ないんだ」

「へえ~っ」子供達は感心した。「すごい国だね」

「あぁ! そうとも!」盛田昭夫はいい、一家は笑った。

”(前略)私はアメリカ人の生活リズムを吸収しようと努めたが、次第にある考えが頭をもたげはじめた。アメリカ人の生活がどんなものかほんとうに理解し、この巨大なアメリカ市場で成功しようと思うなら、アメリカに会社を設立するだけでは不十分である。家族共々アメリカに引っ越して、実際にアメリカの生活を経験しなければだめだと考えるようになった。単身でニューヨークにいたあいだに、たくさんの招待を受けいろんな人と知り合ったが、家族といっしょならこの経験をもっと豊かなものにできる。テニスやゴルフのクラブ、週末のパーティー、夕食会など、どこにいってもアメリカでは家族同伴だった。私がもらった招待状にも「ミスター・アンド・ミセス・モリタ」と書かれていることが多い。男一人の客は、ホステスにとって往々にして厄介者であることがわかってきた。家族で住めば、旅行者にはとうてい望めないほどアメリカ国民を理解することができるだろう。 私はこのことを長い間だれずに言わずにいたが、時がたつにつれて、ぜひとも実行に移すべきだと思うようになった。アメリカは開放的かつ進歩的で、ニューヨークは世界の国際十字路だ。一九六二年十月にショールームを開設したとき、私は妻の良子をはじめてニューヨークへ連れていった。開店祝いの興奮が頂点に達したとき、私は今がチャンスだと思い、彼女にやぶから棒に言った。

「みんなでニューヨークに引っ越そうと思うんだ」

 彼女は私という人間をよく知っていたから、それほど驚いた様子も見せなかった。彼女は東京生まれの都会人だから、たとえ英語があまり話せなくても、ニューヨークに住んで生活様式が一変することには十分対応できると信じていた。実際のところ、彼女は私のこの計画を最大限に活用しようと決心し、のちに他人が感心するようなことをいろいろとやってのけた。”(「MADE IN JAPAN」盛田昭夫著(175ページ))


  実際、盛田昭夫の妻・良子は大変なアメリカ生活をよくこなしたという。

 夫・盛田昭夫は「アメリカでは何もかも勝手がちがい苦労も多かろうが、彼女の明るい性格と強い意志はその苦労をふきとばしてしまうにちがいない」と思っていた。

 妻は今まで、外国と縁があったわけでなく、海外旅行の経験もなかったという。しかし、良子は頑張った。夫・盛田も「彼女なら何とかなる」と思っていた。

 また、ふたりの息子(英夫と昌夫)と娘・直子についても盛田昭夫は楽観的な視点で考えていた。子供達にとってもアメリカでの生活は大変だろうとはわかっていた。ただ、子供には順応性というものがある。当時、英夫は十歳、昌夫は八歳、末っ子の直子はまだ六歳だった。「最初は辛くとも、彼らにとってきっといい経験になるに違いない」盛田はそう思った。

 最初、井深は盛田がアメリカに移住するのを怪訝そうに思ったという。

「盛田くん。君は副社長なのだよ」井深は怪訝そうにいった。

 盛田は頷き「わかってますよ、井深さん。でも、アメリカにいかなければならないんです。わかるでしょ? 井深さん」と答えた。

「……わからない。副社長が遠いアメリカびたりじゃ…会社はどうなる? 困るよ」

「井深さん」盛田はふたたび頷いた。「井深さんのいうこともごもっとも。しかし、私は電話魔です。いつも日本からアメリカの私のところまで電話がつながるようにします」

「でもなぁ~」井深はうなった。すると盛田は「二ケ月に一度は帰国します。どうかアメリカにいかせて下さい」

「……わかった」井深は折れた。盛田の熱意におされ、渋々同意した。

 こうして、前述した”渡米”となったのである。

”(前略)ニューヨークでは前もってソニー・アメリカの社員に頼んで、家族で住むためのアパートを探してもらっていたが、申し分ないところがすぐに見つかった。バイオリンの巨匠、ナタン・ミルスタイン氏が住んでいた五番街一〇一〇番地のアパートの三階で、メトロポリタン美術館の真向かいにあった。家賃は一二〇〇ドル。当時の日本人の経済状態からすれば高かったが、条件はすべて整っていた。地の利に恵まれているし、日本から大量の家具を運ぶ必要もなければ、室内装飾に頭を悩ます必要もない。”

     (「MADE IN JAPAN」盛田昭夫著(178ページ))

  初め、盛田の子供たちの学校を決めるのにも戸惑ったという。しかし、盛田はなんとか学校を決める。英語がひとことも話せぬ子供でもいい、という学校を探した。そこで見つけた次第であった。息子も娘もミッション・スクールに通わせたという。

 そして、盛田昭夫は家族パーティーを連日のように開き、人脈を広げていった。ソニーの快進撃がはじまる。

(トランジスタ・マイクロテレビ。トリニトロンTV。UマチックVTR…)

  盛田昭夫のソニーは、次々とヒット商品を開発し販売していく。

”革命的ビジネスマン”として盛田の顔がTIME誌の表紙をかざったのは、1971年の頃である。それ以来、盛田昭夫の顔や伝説は世界中を駆け回り、なかば神話のようになっていく。”ソニー神話”のスタートである。

 しかし、盛田は思わぬ挫折を味わう。

 いわずと知れた、ベータマックスvsVHS戦争である。ソニーの最新期待機「ベータマックス」(ビデオ・レコーダー)は1975年4月に発売された。盛田も積極的に意見をいい、ベータは完成したのだという。当時、「ベータマックス」はビデオ・レコーダーの技術の結晶みたいなもので性能はVHSよりも優れていた。しかし、結果は…。

 とにかく、盛田は自信があった。「「ベータマックス」はビデオ・レコーダーの技術の結晶みたいなもので性能が優れている。これが売れない訳がない」

 盛田は常々、当時、社員たちにいったという。

 盛田昭夫は「ベータマックス」に絶対の自信があった。当然だろう。自分の会社の製品であるし、ソニーの自慢の機器だ。他社も、このソニーの「ベータマックス」のような高品質なものは造れない。まさに、自信作である。

(このソニー「ベータマックス」にかなうやつは手を挙げろ!)

 盛田は興奮して、手足が小刻みに震えた。これで勝利できる。いや、大勝利だ!

 しかし、天才・盛田昭夫に思わぬ”落とし穴”が待ち受けていた。

『家庭用ビデオテープがあれば刑事コロンボをみても、後で刑事コジャックをみれます』 盛田の意を受けて、ソニー・アメリカ社長(当時)ハーベイ・シャインはそう広告をうつ。当時、ふたつの刑事ものはライバルTV局のあいだで同時間に放映されていた。「刑事コロンボ」も「刑事コジャック」も大変な人気番組であったという。

 だが、放映権をもつユニバーサル映画社長(当時)シドニー・シャインバーグは盛田に電話をかける。

 シドニー・シャインバーグはいう。「家庭で録画すると著作権が犯される」

 つまり、家庭で録画するだけならなんともない。個人でみる限りでは。ただし、そのテープを複製して「海賊版」として売ったり、金をとって放映したりされては困る…。ということだった。これは、ユニバーサル映画社として当然のことだった。

 すっかり白髪頭になっていた盛田は唸る。そして、そののち八年も争うことになる「ビデオ戦争」に突入することになるとは、当の盛田でさえ予想し得ないかったことであろう。 1976年11月11日、ユニバーサル映画社はディズニーと提携し、ソニーを訴えた。

 日本で電話をうけた盛田は何もいわず、歌舞伎役者のように、う~ん、と唸ったという。「とにかく、ソニーは断固戦う!」

 盛田昭夫はそれからのち、決断する。「裁判に負ければ家庭用ビデオデッキの将来がない。アメリカ市場からも締め出される。なんとしても勝たなければならない!」

 ユニバーサル映画社は「海賊版」を恐れた。

 盛田はいう。「タイム・シフト!」つまり、時間をずらしてただ録画テープをみるだけである、というのである。ちなみに「タイム・シフト」とは盛田昭夫の造語である。

 とにかく、盛田はアメリカにあししげく通うようになる。ソニー・アメリカでは盛田は「これからが本当の戦いだ。イッツ・ショー・タイム」といって歩き、部下たちに笑顔をみせたという。しかし、裁判では八年も争うことになる。

 盛田は深夜、社内社長室窓からニューヨークの夜景を見ながらいう。「とにかく勝つこと。それしかない!」とにかく、勝つだけだ。負ければ敗者復活戦はない。おわりだ。

 1979年7月、連邦地方裁でソニーは勝利する。しかし、第2審敗訴。1982年3月、ソニーは米国最高裁へ上告した。米国最高裁へ上告するのは日本企業として初であり、最高裁で判決がくつがえるのは千にひとつだといわれていた。しかし、盛田は勝負する。(裁判に負ければ家庭用ビデオデッキの将来がない。アメリカ市場からも締め出される。なんとしても勝たなければならない!)

 盛田昭夫は笑顔でいう。「イッツ・ショー・タイム」

 ソニー・アメリカの社長(当時)、田宮謙次(前アイワ社長(アイワは業績不振でソニーに吸収された))も「わたしは反対です。勝ち目がありません!」と反対したという。その夜、盛田は自分の顔を鏡でしげしげみた。この数十年、昭夫は自分の力で人生を切りひらき、猛々しい性格で自分を守ってきた。そのおかげで生き延びたが、多くのものを失った。幸福な家庭サービスと父、母、幸せ……一夜にして大人になるしかなかった。ひどく落ち込んだ気分になっていた。VTR戦争か、彼は大きく溜め息をついた。

  ユニバーサル映画社はソニーに和解をもとめてきた。交渉相手は米国最大のロビイスト、ロバウト・ストラウス。彼はアメリカ人交渉の特徴でもある”ブラッフ(脅し)”で田宮と渡りあう。しかし、田宮も負けてはいなかった。

 盛田は思う。「これは絶対に勝たなくては……」

 そして、次の日、盛田昭夫はソニー・アメリカ社長室の窓にたってセントラル・パークを眺めていた。長い時間が経った。彼は茫然と公園を眺めていた。背広もネクタイもピシッと決まっていたが、決意はそうではなかった。彼は頭痛のする思いだった。いろいろなことがいっぺんに頭にやってきて、気が変になりそうだ。盛田は唸った。そして、盛田昭夫はやがて決断する。

「私は……アメリカの法を変えたい。アメリカ対ソニーではなく、アメリカ対日本でもなく、ハリウッド対アメリカ市民として争うべきだ」

 盛田は策をめぐらした。

”アメリカ対ソニー””アメリカ対日本”では、アメリカ人裁判官も市民もアメリカにつくに決まっている。でも、”ハリウッド対アメリカ市民”ではどうか? 勝負ありだ。なんとか勝てるに違いない。盛田はもう一度、笑顔でいう。「イッツ・ショー・タイム」

 盛田はソニー・アメリカの副社長、和田貞実を日本人初のロビイストにする。そして、議会にロビィーイングを開始する。”議員立法を”

 盛田昭夫、快進の一撃の、はじまりであった。



         井深大 2






  話を少し前に戻す。

 昭和二十二年、井深大三十九歳、東通工の仕事に没頭していた。

 そんな中、警察から電話がはいる。

 かれの次女多恵子(長女、恵)が道にまよい彷徨っていたところを確保されたという。 このところ字もうまくかけず、言葉もよく話さない……

 井深は父親として心配して、次女・多恵子を医者につれていった。

 医者は辛辣にいった。

「お嬢さんは知能の発達に障害があります」

 井深大は愕然とした。

 言葉を失った。

 ……なんてことだ……

 井深は父親として絶望した。

「なんてことなの……あなた…」

 妻はかれの肩を抱いた。

 井深大は闇の中にいきなり放り込まれたような気分だった。

  やがて、父は娘・多恵子を目白旭出学校に通学させる。障害者のための学校である。 ……娘・多恵子は知能障害

 当時は障害者に偏見があった。

 井深大は多恵子の介護と仕事の激務で、とうとう妻にあいそをつかされた。

 かれらは離婚した。

「私は仕事にかまけて、子供たちや家族を顧みなかった。私は夫と父親の失格者かも知れない」

 昭和三十一年、井深は四十七歳になった。いまなおソニーの知恵袋であった。



  井深大は明治四十一年、栃木県日光市清滝に生まれた。母はさわ、父はたすく。父親は技術者だったが急死してしまう。井深たちは母の故郷、祖父母の愛知県安城市に引っ越した。祖父は基(もとい)は大をわが子のように可愛がった。

 井深大が小学校三年生のときに母は再婚、大は条件をつけられ母と別れ、祖父たちと暮らすことになる。

 毎日届く母からの手紙が、大の心の支えとなる。

 井深大少年は機械イジリが大好きで、よく蓄音機やラジオを分解しては楽しんでいたという。そこでアイデアをみがき、やがてソニーの前身、東京通信工業を創設する。



  井深大五〇歳、多恵子十八歳……

 児童福祉法で、旭出学園には十八歳以上の入園はダメになる。井深は同じような保護者と話し合った。「こまったことだ……」

 そんな中、旭出学園の川村幸蔵教師から一冊の本を渡される。

 パール・バック『母よ嘆くなかれ』

 ノーヴェル賞作家の彼女の伝記だった。

 井深大はいう。

「私がいなくなったら誰が面倒をみるだろうか? 彼女は生きている。そのことだけでも人類にとっていい意味でなければならないのです」

 やがて会合が開かれた。

「あの子たちはひとりでは生きていけません。ならば私たちがこの手で、この子たちに安定の場を与えてやらなければならないのです」

 やがて井深大を中心に金をだしあって、旭出学園つくし家を開校させた。

 井深は安堵の溜め息をついた。

 ひどく疲れてはいたが、なんとかもっていた。なにより、うれしい。娘の安住の地が得られたのだ!

 その後、移転して、栃木県鹿沼市に「希望の家」を創設して、井深は安堵する。

 ソニー希望工場………

(ソニーのスピーカーや部品を障害者がつくっている)

 井深は多忙な日々を送っていたが、たびたび多恵子にあいにいったという。

 井深はいう。

「多恵子はおさんどんが好きらしい。数もかぞえられないのに他のひとの箸を並べたりしている。多恵子の割烹着姿は目にしみるように可愛い」

「知的障害者をもち、悩んできたことで、私は他の普通のひとでは味わい得ない、多くの同じ悩みをもつ人と人間的ふれあいをもてたことを幸せに思う。多恵子は私の生涯の十字架であると同時に私の生涯の光であった」


  平成四年、井深大は八十四歳で文化勲章をもらった。

「もうひとつふたつ勲章をもらえるように頑張りたい」井深はいった。

 もう車イス生活であった。

 盛田昭夫(七十一歳)に車イスを押してもらい、社員から拍手喝采をうけた。

 大分県日出町にソニー太陽「太陽の家」設立。井深が出費して、障害者ホームをつくった。「障害者が社会に受け入れられるように…。多恵子だけでなく」

 井深は昭和四十年以来、日本の教育崩壊を目の当たりにして、教育に関する本を出版しだす。

 ”子育て母育て””あと半分の教育””この世に学ぶ””赤ちゃんばんざい””0歳” またユネスコで文字も読めない子供がいると知らされ、トーキングカードを発明開発した。またソニーの会社員の子供たちに無料でランドセルを贈呈していった。

 井深は子供たちと話す。

「皆さんは学校にいきます。なんのためか……立派な社会人になるためです」

 父母にはこういう。

「学校にまかせっきりではダメです。親が子を育てるのです」

 最後の著書『胎児から』

 ……赤ちゃんの成長の過程で何をおいても最優先すべきなのは赤ちゃんの「心」を育てることであり、「心づくり」さえできていれば知的能力など後からおのずとついてくるものです」

 井深大はさらに一九九二年(社内講義、井深最後のスピーチ)にいう。

「モノと「心」人間と「心」は表裏一体である。「心」を満足させることで科学の存在価値がある。そういうことがないと二十一世紀にはついていけないことを覚えてほしいものであります」

 そして、平成九年(一九九七)、井深大は死んだ。享年八十歳………

「すべて心からはじまる……」

         井深大                             

                  

         ソニーよ、永遠に




  ソニーのロビイングで米国議会はついに動いた。

(個人録画を許すべき)

 議員の中にはフォーリー下院議員の姿も。ついに議員たちもソニー(というより個人録画するアメリカ人)のために動きだした。さらに、盛田は策略をめぐらす。全米23紙に広告をうつ。(ソニーはアメリカ人のために闘っている!)

 盛田の策略は、もののみごとに成功し、アメリカ人の中にも「個人録画くらいなんだ!」「録画は自由だ!」という世論が出来上がっていく。天才・盛田昭夫の策の成功である。その際、ユニバーサル側は、日米の貿易摩擦と論点をすりかえようと動く。しかし、その策は頓挫してしまう。

 東京に戻っていた盛田はいう。「チェック・メイト!」

  1984年1月17日午前10時、裁判は8年でピリオドが打たれた。ソニーの勝利であった。なんと米国最高裁で勝訴したのだ。これは現在でも、たったひとつの勝訴であるという。その裁判では盛田の造語、「タイム・シフト」が使われたという。

 東京にいた盛田に、勝訴、の報を伝えたのは田宮だった。盛田は電話でこういったという。「よかったね! そうかそうか…皆によろしくいってくれ!」

 その声には喜びと、歓喜のまじったものが含まれていた。盛田はうれしくて、下戸にもかかわらず缶ビールを二本空けたという。よほどうれしかったのだろう。

  時はさかのぼって、舞台は日本である。

 日本では、かの有名なビデオ戦争、「ベータマックス対VHS」が勃発していた。家庭用VTRの規格競争のことで、もう手垢まみれの話しだ、というひとも多いと思う。しかし、盛田ソニーはほんとうに負けたのだろうか?確かに、VHSが標準規格となったことはすでに読者諸君の知るところだ。しかし、そこにはさまざまなドラマがあった。

 最初に販売されたのは「ベータマックス」だった。日本ビクターではその頃、世界基準を目標に「VHS」が開発されていた。

「ベータマックス対VHS」……どちらかが競争で滅亡する。キャスティング・ボートを握るのは松下幸之助だった。かの松下電器グループの創業者で、”経営の神様”とよばれて尊敬されていた人物だった。盛田も年をとっていたが、松下は盛田以上に年寄りで、しかも老獪、狡猾、である。食えぬといえばこれほど食えぬ人物もいない。

 しかし、ベータの技術に絶対の自信をもっていた盛田は、松下と時下に話したいと思った。とにかく、「米国裁判でも勝った自分である。日本ビクターを買収し、傘下においていた松下幸之助をなんとか自分ならくどけるのではないか」

 盛田は盲目にそう信じていたという。

 そして、とうとう盛田は敵陣へ斬り込む。1976年5月6日、盛田は大阪にある松下電器本社に乗り込む。共は、木原信敏(ベータマックス開発者)ただひとり…。

 会議室にいくと、薄い白髪頭の眼鏡の老人がにこにこと待っていた。机にはベータマックスの器械とVHSの器械が並べて置いてある。

 松下はにこにこ笑っていう。

「いやぁ~っ、盛田さん。ソニーのベータマックスは素晴らしい。点でいうたら百点ですがな。でも……VHSは百二十点ですなぁ」

 盛田は何もいわなかった。ただ、黙って座り、きいていた。

 松下は続ける。「みてください。ベータより、VHSのほうが部品が少ない。これは、お客さんに響きまっせ。部品が少ないいうことは、それだけ安うつくれるってことでんな? お客さんにとっては、百円でも二百円でも安いほうがええにきまっとりますがな」

 盛田は何もいわなかった。

 敵陣で強行突破を計ったが、失敗のようにも思われてきた。上杉謙信きどりで武田信玄こと松下幸之助に斬り込んだが……失敗だった。

 松下はニコニコと優しい笑みを顔に浮かべているが、心は老獪だった。

「できれば、ソニーさんのほうでうちのVHSをつこうてくれへんやろか?」松下幸之助は笑顔のままいった。でも、目は鋭かった。

 盛田昭夫は黙り込んだままだった。盛田は、眉間に強烈なフラッシュを浴びたように体を緊張させた。強烈な冷気が、頭頂から爪先まで走り抜け、心臓を氷の槍で突かれた気がした。それは、無防備なところに入り込んでくる、冷酷な一撃であった。

「ほな、そういうことで」

 松下幸之助はにやりといった。

 もう交渉は決裂していた。いや、はじめからダメだったのだ。松下は日本ビクターを傘下にしたのだし、自分のところのVHSをやめてソニーのベータに鞍替えする訳がない。盛田は、はじめからわかりきっていた勝負にでただけだ。

 階段を降りるときも、盛田は蒼白な顔のまま、無言であった。木原信敏(ベータマックス開発者)が、ふと、階段の上に目をやった。と、松下幸之助は今は亡き淀川さんのような笑顔で、「さよなら、さよなら」と手をふっていたという。

 こうして、合戦の勝敗はついた。

 VHSの勝利である。

 松下幸之助の圧勝であった。勝負をきめたのはソフト戦略。ベータよりVHSのほうが借りられるビデオ・テープが多かった。それだけだ。ソフトとハードの両立……。盛田はひとつの教訓を学んだ。ソフトとハードは車の両輪のようなもので、どちらが欠けてもだめなのだ。それを、盛田昭夫は学んだ。


(さて、話しは変わるが、ソニーをモルモットと評したのは大宅荘一という人物であるという。松下電器(現・パナソニック社)を”まねした電器”ともいい、ビートたけしばりの毒舌で痛烈に批判した。”しょせん、ソニーなどモルモットにすぎない。うまみがあるとわかればソニー開発の製品を東芝や松下のような大手メーカーが後発でやって、クリーム・スキミング(おいしいところ取り)してしまう。ソニーは実験用のモルモットだ”

 盛田はいう。「モルモットけっこう! ソニーは技術に絶対の自信がある。その自信がある限り、ソニーはつぶれない」

 ソニー社員は井深社長にモルモットの置物を贈ったという。そう、ソニーの技術は世界一だ。松下幸之助(故人)もソニーのことを「日本には東京にソニー研究所がある。だから大丈夫や」といっていたともいう)


  とにかく、ソニーはビデオ戦争でやぶれた。

 全戦全勝の”ソニー神話”が崩れたのだ。盛田は暗澹たる思いであったろう。

「……この件に関しましては私にすべての責任があります。しかし、けしてベータマックスが負けた訳ではありません」

 盛田は重役会議で、そういい深々と頭をさげたという。

  その夜、盛田昭夫は落ち込んだ。妻は片手を差しのべ、自分がそばについていることを思いださせようと、やさしく彼の肩にふれた。「あなた…無理しないで」妻はいった。夫は「きみには関係ない」といった。妻は傷つき、彼の髪から手をおろして引きさがった。またも昭夫がよそよそしい他人となって、彼女を遠ざけたのだ。いや、そうではなかった。髪をなでる彼女の手の感触こそ、彼の崩壊を防ぐ唯一のものだった。昭夫は傷つきやすい孤独な心で、妻のほうに手を延ばした。「ぼくはときどき誰と話しているのか忘れてしまうんだ」かすかな、かなしげな微笑とともに、彼はささやいた。

 妻は彼の頭を胸に抱きよせ、彼の髪に頬をかさねた。明るい熱が心臓を、血管を駆けめぐった。妻は思った。夫はわたしを必要としている。

  ソニーは終わらなかった。新しい”ソニー神話”が復活していく。それはまたも盛田の策略だった。1989年、盛田はアメリカへいった。

 元気をとりもどした盛田昭夫はいう、「イッツ・ショー・タイム!」

 34億ドル(5千億円)で、コロンビア映画(現・ソニー・ピクチャーズ)を買収したのだ。コロンビアは当時、赤字続きで経営難だったから、コロンビア映画としては”渡りに船”であったという。「アメリカの魂を買った!」当時、米国マスコミは悪評した。せんだっての「『NO!』といえる日本」(石原慎太郎、盛田昭夫 共著)のこともあって、盛田は思わぬ悪役にされた。が、そんなことも一瞬で、盛田はTIME誌で世界のトップ・リーダー百人のなかに選ばれる。

 すっかり年をとった盛田は記者会見でいう。「たまたま手に入りそうだったから買った訳でなく、ハードとソフトは車の両輪であり、それを実現しようと買収した次第であります。それ以上でもそれ以下でもありません」

 松下も、米国MCA映画を(例によってマネして)買収したが4年で撤退している。ソニーならソフト戦略もうまくやれる。しかし、松下ではムリがあった。

 のちのソニーの新カリスマ、出井伸之はいう。「(盛田の才能は)直感力かな」

 盛田の才能は誰もが”天才”という。しかし、盛田とて努力しなかった訳ではない。遊びもいっぱいやったが、勉強もいっぱいやった。

「天才とは勉強のことである」とは、かのフランス皇帝・ナポレオン一世の言葉である。詩人、小説家、演劇家、科学者、政治家といくつもの顔を持ち、どの分野でも才能をほしいままにしたドイツの文豪・ゲーテは「天才は努力である」という言葉を遺している。

 黄熱病の研究などさまざまな細菌病の研究で知られる野口英世博士にいたっては「努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも三倍、四倍、五倍勉強する者、それが天才だ」と、いかにも艱難辛苦な大学者らしい。

 しかし、盛田の勉強は違った。”遊びながら勉強”したのである。TVをみたり、雑誌や新聞をナナメ読みしたり、いいところをスキミングしていった。それは”努力”ではなかった。”遊び”であった。

 盛田の評判は世界中に広がった。

 ソニーの企業イメージやクリディビィリティ(信憑性)をあげたのはなんといっても盛田の魅力あふれるタレント性だった。信頼度といえば、当時の日本人のなかで盛田の右に出る者はいなかった。

 プロ・ゴルフ界の帝王、ジャック・ニクラウスが「ドウ・ユー・ノウ・ミー?」といったCMがある。これはアメリカのクレジット・カード”アメリカン・エキスプレス”のTVCMである。わが社のカードをもてば世界中で買い物できますよ、という訳だ。

 日本人で初めて、このCMでアメリカ人に語りかけたのが白髪の日本人紳士・盛田昭夫だったのである。

 盛田はこの頃、「学歴無用論」という著書も出版している。つまり、学歴でなく能力で採用し人材活用していこうという「学歴主義排除論」であった。ソニーでは、一度ソニーに入社してしまえば学歴の書いてある履歴書は保管されて鍵がかけられる。その時点で、一流大学卒だろうが駅伝大学卒だろうがわからなくし、能力を発揮してもらうためだという。なるほど、うまいやり方である。

 しかし、いかに盛田が、「学歴無用論」を唱えようと日本の学歴主義は変わらない。ソニーにしても、採用するのは学卒者ばかりである。学歴がなければ入社できないのだから、「入社したら学歴は焼きます」などといわれても、そんなものは子供ダマしでしかない。 能力があると思ったら、高卒でも中卒でもいいから雇うべきである。だが、日本の学歴主義は微動だにしない。なんでも学歴、金だけを思う日本人にとっては学歴主義の排除など所詮無理なのかも知れない。地方の弱小企業や本屋でも「大学卒業の者、採用す」などという始末だ。まったく贅沢ばっかりいっている。

 そういう気質が日本人にあるから、ソニーはアメリカの会社の社長に何億もタカられた。 また、ソニーでは社内人事移動制度があって、一定期間その部署にいたら他の部署に移動することができるという。秘匿に人事部に移動をインターネットで伝え、審査。移動がきまれば自宅に書類を郵送する。部署にはバレない。移動が決まれば今までいた部署の上司もとめることはできない。移動がダメだとしても、今までの部署にはバレない。

 なるほど、うまいやり方である。しかし、社外にいる人材はこれでは発掘できない。また、外部からの採用が”学歴”で決まるのであれば、なんの意味もない。(現に、ノーベル賞の田中耕一さんはソニーから落されている。学歴で選んで大失敗した例が出井氏)

 ソニーの盛田は精力的に活躍していく。六〇歳でスキーを、六一歳でスキューバ・ダイビングを始める。しかし、盛田昭夫に病魔が忍び寄る。盛田は1993年、テニス中に脳内出血で倒れた。饒舌だった男が話せなくなり、世界中を走り続けた男が歩けなくなった。六年後、1999年10月3日、盛田昭夫は七十八歳で死去した。死因は肺炎。都内病院で午前十時二十五分のことだった。遺産は393億円であったという。

 アメリカでは妻の良子が追悼式でスピーチした。

「昭夫は世界一、幸せな夫でした。みなさま、ありがとうございました」

 こうして、ソニー盛田昭夫二十世紀の”神話”になった。

 盛田昭夫の死で、世界がひっくりかえった。妻・良子の目に涙があふれ、彼女はまばたきしてそれを堪えた。「あなたはすごいことをしたわ」空が明るくなり、暗くなり、世界がひっくりかえった。良子が何十年と抱きつづけた思いが胸から流れおち、指から床にこぼれて消えていった。予想もしなかった哀悼の波が血管を駆けめぐり、一瞬凍りついた。 彼女ははじめて、盛田昭夫……自分の夫を誇りにおもった。涙があふれ、流れた。


”人類には輝かしい未来があると私は信じている。その未来には、素晴らしい技術の進歩が約束されており、それが地球上のすべての人の生活を豊かにするものと信じている。私は楽観主義者である。我々がそのためにベストを尽くして努力してさえすれば、平和で偉大な未来は必ず我々のものとなるだろう”

                           盛田昭夫



                   小説「ソニー革命伝」   おわり









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  ソニー名誉会長・盛田昭夫の社葬は1999年10月8日、東京都港区の新高輪プリンスホテルで行われた。小淵首相(当時)や奥田経団連会長などの政財界トップ、森繁久弥など芸能人を含む2000人以上が参列し、ほほ笑む盛田の大きな3枚の遺影に白いカーネーションをささげ、日本を代表した国際派財界人に別れを告げた。

 葬儀は、盛田がクラッシック音楽が好きだったことから、東京フィルハーモニー交響楽団の奏でるバッハの「G線上のアリア」が流れる中、全員で黙祷をささげた。大型プロジェクターに盛田の足跡が写しだされ、「技術に国境はない」「経営者はネアカでなければならない」などの肉声が会場に響き渡った。

「われわれのヒーローでしたから…」出井伸之(ソニー会長(当時))は暗くいった。音楽家でもある大賀(大賀典夫ソニー元・社長兼会長、2011年4月23日81歳で死去)は、自らの指揮でモーツァルトの「レクイエム」を献奏した。

 こうして、盛田昭男は”神話””伝説”と、なった。

樋口晃氏死去=ソニー創業のメンバー

時事通信 2015/10/6 17:00

 樋口 晃氏(ひぐち・あきら=元ソニー副社長)9月30日午前9時53分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で死去、102歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は作曲家の長男康雄(やすお)氏。

 ソニー創業メンバーの一人で、創業者の故井深大、故盛田昭夫両氏を支え、同社を町工場から世界的な企業へと育てた。

 

ソニーは一時期、「大企業病」になった。シャープの液晶カメラを真似するなど…。

(無策で薄形テレビで他社より出遅れ。プラズマから撤退し、液晶やリアプロテレビに移行)戦略は、ソニーを中心として「エレクトロニクス」「ゲーム」「ネットワーク・プラットホーム」「エンターテインメント」「ファイナンス」をネットワークでむすぶビジネスを発展させること。またパクってサムソンとも提携した。

”ソニーBMG”としてドイツの会社(メディア企業ヘルテルスマン(業界第5位・BMG))とソニー・ミュージック・エンターテインメント(業界2位)が統合して、ユニバーサルに並ぶ音楽メディア会社をつくった。米国の映画会社MGMを五千五百億円で買収し、コンテンツ(風とともに去りぬやロッキー)を得る。

   またLED(青色発光ダイオード)の利用、金井隆による究極の音……

 ストリンガーは2万人リストラし、電子マネーモバイルで主導権を掴む戦略をすぐ打ち出す。それには使える店が増えることが必要で、コンビニや一部のファミレスだけでなくあらゆる店で電子マネーが使えることが肝要である。

 ソニーの出井伸之は世界から実際には97年から蔑まれて嘲笑の的だった。極まったとき、04年ビジネス・ウィークは出井伸之をトップ経営者からワースト経営者に選び変えた。それは03年4月に四半期ベースで1000億円の赤字を出し、株式市場に「ソニー・ショック」を与えたのが理由だという。……出井は辞めさせられ、かわりはゴーンのようなストリンガーだった。ソニーは盛田や大賀らまでうまくいってた。なんにしても出井から解放されたのだから少しはマシだ。

「ソニーは「クオリア(Qualia)」をキーワードだ。それはソニーが目指す方向性を示している。本来は感動とか、数値で表せない質の違いを判断する脳の働きを表現する脳科学上の言葉だ。これまでのような、規格が同じで、3カ月に1度モデルチェンジするハード(機器)ではなく、ソニーを象徴するようなものをメーカーとして作りたい」

 いつまでも妄想のような理念や理想ばかり語り、現実もみないでいうばかりだ。

(元名誉会長の大賀さんは退職金16億円をぽんと軽井沢に寄付した)

(DVD規格をめぐって、ブルーレイ(ソニー松下)とHDDVD(NEC、東芝など)により競争が激化していた。コンテンツが解決してくれ、東芝陣営との話し合いがおこなわれ、DVD規格は統一された)

 ハッキリいって、東芝HDDVDが敗北・撤退したのだ。

 08年の米国発の金融恐慌でソニーは大打撃を受けた。世界で16000人削減した。つまり、解雇した。だが、それでも景気は悪化し、さらに経営危機が襲う。

 ソニーなどに円高の猛威が襲いかかる。(1円円高する度に350億円の損失)

 経常赤字は09年前半だけで3000億円……更に赤字が膨らむ。ソニー革命のおわり? ソニーの快進撃がふたたび復活するかは場合次第となる。技術者の流出と技術畑人材の損失により、ソニーはもはや『井深・盛田のソニー革命』の終焉を迎えた。2011年4月26日ソニーのPS3のネットワークシステムにハッキングがあり、1億件の個人情報(住所、電話番号、クレジットカードの番号、暗証番号、名前、パスワード)が流出したといいます。物凄い防御のシステムをどうやって壊して情報を入手ハッキングしたのか?物凄いハッカーがいたものですね。米国アップル社の「ipad」の追い上げの為に日本企業の商品のラインナップが整いました。ソニー「タブレット」、東芝「レグザタブレット」、シャープ「ガラパゴス」、NEC「スマーティア」、富士通「スタイリスティックQ350」です。がんばれ、日本勢! だが、市場から駆逐された。

 ソニーの未来は果たして明るいのか? それとも滅びゆく運命なのか……?

 ここで小学館SAPIO誌2014年5月号の特集「SAPIOビジネスレポート第18回」「「ワクワクするソニー」は帰って来るのか」ジャーナリスト永井隆氏とSAPIO編集部の記事を引用し、参考にしたい。

「自分を開発し、発展していくためには、他人と同じ考え、同じ行動をしてはいけない」ソニー創業者・盛田昭夫氏の言葉だ。2014年3月期、円安によって電機各社が増益を確保する中でソニーは「一人負け」だった。結局、VAIOという看板商品まで売却せざる得なくなった。それは、創業者の言葉に反して「他社と同じ行動」を取っていたからではなかったのか。「ソニーらしさが失われた」と言われて久しいが、いま少しずつ社内の空気が変わり、新たな尖った商品が世に出つつある。かつてのウォークマンや、犬型ロボットAIBO、液晶テレビ「ブラビア」やトランジスタラジオを生んだソニー魂は復活するのか。

<スマートフォン>15年度に「現在の2倍」という野望「カメラにこだわって”尖った”商品にXperia「トップ3」への挑戦」「苦渋の決断だった」ソニーから看板商品が一つ失われた。2014年2月の第三四半期決算説明会で、平井一夫社長兼CEOは厳しい表情でそう語り、「VAIO」ブランドで知られるパソコン事業を投資ファンドの日本産業パートナーズに売却することを発表した。同時に、14年3月期で10期連続赤字が見込まれるテレビ事業はこの2014年7月を目途に分社化。さらに国内外で5000人規模の人員を削減するという。VAIOは、ソニーが育てた大型ブランドだった。96年に発売され、「軽量・薄型」の代名詞になり一世を風靡。高いデザイン性を武器に10年度には870万台を売った。ところが最近は中国・レノボ等に押され、年間530万台(13年度見込み)に低迷。撤退が決まった。

 ソニーは主力のエレクトロニクス部門は赤字続きで苦境にある。前述したように10期連続の赤字となっているテレビ事業は、累算で7000億円の赤字を出すなど厳しい状況だ。ここまでエレキが苦しくなったのは一言でいえば「ソニーらしさ」の喪失だろう。デザインや音、商品に触れた時の質感など、消費者の琴線に触れる商品。いわばそれは五感を刺激するアナログな部分である。80年代に大ヒットしたウォークマンはその代表であり、ソニーは携帯音楽プレーヤーという市場を開き、人々のライフスタイルそのものを変えた。振り返れば、トランジスタラジオ、家庭用VTR、高画質なトリニトロンカラーテレビ、ハンディカムなど消費者がワクワクするような商品を世に出し続けてきたのがソニーだった。

 VAIOは、後追いのデジタル商品であった。それでも売れたのはデザイン力により高いブランド価値を持っていたからだ。剛性感のある手触りや見た目など、ある意味でアナログな要素が、人と違うパソコンを求める層に受け入れられた。「ところがソニーは主に新興国向けに、低価格な普及品を展開しました。質より量を求めた結果、VAIOブランド価値は落ちてしまいました」(ITジャーナリストの本田雅一氏)”ソニーらしさ””ブランド価値”といっても情緒的・抽象的なものではない。多くのデジタル製品が、誰でも部品を組み立てられるコモディティ商品になった時代には、アップルのようにファブレス(工場を持たない・製造は台湾の鴻海社・フォンファイ)になって設計力で戦うか、サムスンのように(技術は日本の盗作だが(笑))数で勝負して競争力・価格決定権を持つか…といった他を圧倒するビジネスモデルが必要だ。

 ソニーの場合は「これは欲しい」「持っているだけでかっこいい」というブランド価値こそ競争力の源泉だったのであり、ソニーらしさの喪失はダイレクトに業績に反映してきた。

  平井社長がエレキ部門の立て直し策おして掲げたのが、「3コア事業」を集中的に強化する方針だ。3コアとは①スマートフォンなどのモバイル事業②平井氏自身の出身母体であるゲーム事業③画像センサーやデジカメのイメージング関連事業ーである。

 まずは「Xperia」ブランドでスマートフォンを展開するモバイルだ。かつてはスウェーデンとの合弁会社ソニー・エリクソンとして運営してきたが、12年にエリクソン社保有の株式を買い取り、100%子会社のソニーモバイルコミュニケーションズとなっている。2013年の世界のスマホ市場ははじめて10億台を超えた。シュアは1位サムスン31・3%、2位はアップル15・3%。3位以降は大きく離され、中国の華為技術(ファーウェイ)4・9%、韓国LG4・8%、中国のレノボ4・5%と続く。ソニーは約4%で、7位に位置していると見られる。ソニーのスマホは4K対応の高画質カメラを動画再生速度と防水性・耐久性・さらに洗練されたデザイン力が武器だ。

<ゲーム>ライバル任天堂は350億円の営業赤字。浮き沈みが激しいPS(プレイステーション)事業で、会員制オンラインが「安定」をもたらすか。『PS4』は昨年(2013年)11月に欧米などで発売され、目標は500万台だったが、日本発売で2014年3月2日時点で600万台に達した。その好調ぶりから「ソニーの救世主」との声が上がっている。ちなみに店頭実態価格は4万2000円前後と決して安くはない商品だ。PSシリーズの売りであるリアルなグラフィック描写能力を進化させたことに加えて、PS4最大の特徴はネットワーク機能を高めた点にある。「ネットを通じて別の場所にいる友人と一緒にプレイ(オンラインマルチプレイ)したり、ストリーミングサービスを使って自分のプレイしている画面を世界中に中継したりすることが簡単にできるのがポイントです」SCE戦略・商品企画次長の菊池修蔵氏(39)はそう説明する。

<カメラ>基幹部品をすべて内蔵する強み。「お家芸の「小型化」と「面白いね、コレ」で2強(ニコン、キャノン(全体のシュア8割))に挑む」収益性が高い一眼レフカメラは、キャノン、ニコンのシュアが全体の8割、そこにどこまでせまれるか。エレキ多難時代をささえたのは映画・金融・保険・土地・建物・株券だった。だが、もうそろそろ限界が見えている。背水の陣で「ソニーらしさ」の復活がどこまでできるかが今後の勝負の分かれ目となるだろう。古巣の米沢NECのNECパーソナルコンピュータのコンシューマ商品企画部・中井祐介氏(30)は世界一軽く薄いノートパソコン『LavieZ』をプロデュースして大ヒットさせた。多分マックブックエアの猿真似(笑)大事なのはソニーみたいに新興国向け安価版等とやらぬ事。ブランド力が落ちるからだ。

 ソフトバンクの孫正義氏は優れた経営者だが、「オーナー型経営者」である。それにくらべると出井信行やハワード・ストリンガーや平井某は「サラリーマン型経営者」でしかない。スマホ「Xperia」が売れると「スマホ事業に重点投資する」、本社を売却して不動産税で儲かると「ソニーは不動産に重点投資する」という。

 所詮はサラリーマンである。ソニーこそ「0から1を産み出す」「創造的な会社」であるべきなのに、社員の採用に高学歴ばかり求め社員が「只の阿呆の”学歴エリート”ばかり」になり、創造どころか戦略もまともにたてられない。情けないエリート君とエリートちゃんばかり…。こんなのソニーじゃない。憐れな末路である。

 だが、平井社長のおかげでソニーは持ち直した。



 ソニーよ、永遠に! この言葉で筆を納めたい。      P.S. おわり    




参考文献

なお、この作品の参考文献は、「ダイアナ妃謀殺」トーマスサンクトン著作スコットマクラウド著作(草思社)、「元首相暗殺の黒幕」ベリー西村著作(Amazon)、落合信彦著作、藤子不二雄(A)著作、さいとう・たかを著作、司馬遼太郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、、映像資料「安倍晋三」「JFK」、あまたの安倍晋三著作本、「そのとき歴史が動いた」「歴史ヒストリア」、小学館SAPIO誌などです。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作、無断転載ではなく「引用」です。


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