「オトコマエ小説家」

梅村沙菜子

第1話 物語の前半戦

「オトコマエ小説家」

 遠藤雅美(えんどう まさみ)は、中学三年生の時に考えた。どんな人生を送ろうか?そして彼女には老後の余生を過ごす姿に、一つのビジョンがあった。アームチェア・ディテクティブ(=安楽椅子の名探偵)の様に成りたい!これは、その頃読んでいた英国の推理小説家でミステリーの女王と呼ばれたアガサ・クリスティの作品に感化されたからであった。安楽椅子の名探偵ミス・マープルの様な上品で知性のある老女にと想った。


子供の頃大人から聞いたセリフに「女の浅知恵」があった。明治の文豪幸田露伴などは、「女はゴミっぽい生き物だ」くらいの事を言っている。戦前生まれの両親は良妻賢母を理想とする修身の教えを支持する人達であった。「一を聞いて十を知る」という言葉がある。男尊女卑の古来の流れに反発すべく、人から一つ話を聞いたら、よく見聞きして解り、深い背景までも理解出来るような女性となって、古い時代の大人どもの価値観を見返してやりたいと遠藤雅美は考えた。そこでミス・マープルなのである。成人してのち、家の中で編み物でもしながら、日がな一日安楽椅子に座って過ごし、来訪者(推理小説では依頼人)の話を聞いて、椅子に腰掛けたままその背景を読み解いて推理し問題を解決するお婆さんなのである。ミス・マープルであると、生涯独身者のようにもなってしまうが、当時の彼女はその事までは思い至らなかった。


また或る時は、英語のラジオ講座を聴いて、講師の外国人女性が言っていた、「マン・ウォッチング」という言葉にも感銘を受けた。「マン・ウォッチング=人間観察」高校生となって電車通学を始めた彼女は、電車の向かい合う席に座る見ず知らずの人を盗み見て、あれこれ推理想像をすることを楽しんだ。性別、その髪型、身なり衣服、持ち物、車内で何をしているかなどを素知らぬ風に観て、どんな人なのかを想像する。令和の今の時代とは違って、スマホなどない昭和の世の中ではあったが。


その昔読んだ漫画に、手塚治虫の「リボンの騎士」があった。漫画の冒頭は天国の描写から始まる。これから生まれる赤ん坊を下界へ送り出すにつき、天使達がそれぞれの赤ちゃんに男の子のハートと女の子のハートを飲ませて心を注入する場面なのだ。ある王国のその国の跡継ぎ王子として生まれる予定の赤ん坊もハートを貰うべく順番を待っていた。そこへいたずら者の天使のチンクがやって来て、その子に女の子のハートをいれてしまう。

王家に生まれたのは、女の赤ちゃんだった。手塚治虫が宝塚歌劇団から想を得たとも言われる、ここに女性でありながら男性として生きる「男装の麗人」話が誕生するに至る。王国には権力争いがあって、王子の性別が実は女性であることを隠して、物語は進む。王国へ親和的な隣国のイケメン王子の存在、悪徳大臣との権謀術数などが展開になる。精神の両性具有。心的特徴として男性らしさと女性らしさの両方を兼ね備えた様な人間が神話の世界や、現実世界にもある。遠藤雅美はちょっとそんな風な女子であった。


「ペンは剣よりも強し」先日、伝統芸能の役者がマスコミにそのセクハラ・スキャンダルを記事にされメディアに公にされる事を苦に、一家心中を試みて両親を殺めてしまった事件があった。遠藤雅美は、その昔物書きになることを志して、スクールに通ったことがあった。そこでも、同様の話を聞いた。放送作家をしていたというスクールの講師は、その友人に芸能雑誌の記者がいた。彼が雑誌記事にしたネタ(有名演歌歌手の不倫話)でその歌手のお相手の女性が記事を苦に自殺した事を雑誌記者は終生悔いていたというのだ。

ペンで(人間の言葉で)簡単に人が死ぬ。子供のいじめであるとか、インターネットSNSの誹謗中傷であるとか…。小説家太宰治の作品に心酔していたお弟子さんの一人は、太宰の死後そのあとを追って、一年後の文化の日、太宰のお墓の前で自死した。太宰の生家が斜陽館という旅館を営んでいた頃には、宿泊客の青年が翌朝起きて来ず、太宰の著書を胸に亡くなっていたなんて事があったという。

とりわけ、活字となって著され保存されるペンは重い。「ペン」が歴史までも変えた話もある。アメリカ南北戦争が起きる事の一因をつくった、ストウ夫人が著した小説「アンクル・トムの小屋」の話。彼女の作品は、黒人奴隷解放運動の世の中の流れをつくりだし、やがて戦争に発展、黒人奴隷解放を支持する北軍の勝利を導き出す。夫人に会った、時の大統領リンカーンは「あなたのような小さなご婦人が、この大きな戦争を起こしたのですね」と言ったという。


剣豪・宮本武蔵を描いた吉川英治の小説がある。ペンの道は、剣の道にも通じるという事で、遠藤雅美もその小説を熟読した事があった。「ビルドゥングスロマン」自己形成小説、成長小説、主人公武蔵の人格形成の有り様を描く物語の中には、青年の荒ぶる無頼を改めるために沢庵和尚によって、武蔵が高い木に縛り上げられるエピソードから始まって、姫路城への幽閉、教育熱心な親を持つ少年の剣を難なく打ち負かす話、吉岡一門との死闘、琵琶の楽器をあえて壊して知る人生の意味、柳生の里の芍薬の花の切り口の見事さ、本阿弥光悦の趣き、「男滝、女滝(おだきめだき)」の章ではお通さんとの男女の一線を越えられなかったエピソード、佐々木小次郎の免許皆伝書を手に入れて、本人になりすまして良い目をみようと試みる又八、お杉婆の怨念、厳しい山の峠越えの逸話。二刀流、農民と共に生きる道、五輪書、遅れて巌流島の決闘に臨むその時…。創作小説ではあるが、作者吉川英治が戦前、戦中、戦後に渡って新聞に連載をし、日本人の苦境の時代を共にした筆には多くの意味がある。


十七歳の或る日、遠藤雅美はふと学校へ行きたくないなと想った。生きる意味を考えたら、鬱屈して、死にたいような気がした。ただ、親に自分の葬式を出させては悪い気がしたし、ただ、このままモソモソ、ダラダラしばらく行こうと想った。世の中には太宰治の書を読んで死ぬ人もあったが、彼女は太宰がとりあえず結婚をして子をもうけ、三十九歳まで生きたのであるなら、とりあえず自分もそのくらいの年齢までは頑張ってみようという考えに至ったのだ。(笑)


二十四歳の時に、物書き修行のフィールド・ワークと称して通った放送作家スクールで、出会った作家に早坂暁氏がいた。NHKの連続ドラマ「夢千代日記」女優吉永小百合主演の戦争の被爆体験を持つ女性の話でブレイクした脚本家だ。だが結構愉快な性格の作家さんらしく、脚本が書けず、遅筆で約束事を反故にすることから、NHKの職員から「遅坂うそつき」とのあだ名を貰った事もあるそう。その先生がスクールの講義の席で次の様な事を言った。女性の物書きなんぞは、結婚の一つもしてそれから離婚を経験して、世の中の事を知ってからでないとモノになる作家なぞには成れないよ!別に教室に座っている遠藤雅美の顔を見て言った訳ではないだろうが、考えてみれば案外そんなものかも知れないとそこで彼女は少し得心した。

スクール事務員の大籠さんは、このような職場に働く人なので話の面白い人であった。脚本家山田太一さんは、とてもスクール事務員の人達に対しても腰の低い丁寧な人だと教えてくれた。遠藤雅美のグループ学習の担当講師は横光先生だった。或る時、懇親会の席に若い外部の女性を先生が連れてきた。グラビア・アイドルの卵か何からしかった。スコラというお色気系エロっぽい男性誌に今掲載になっているとの話しだった。

そういう世界なんだなと二十四歳のお嬢さんの遠藤雅美は今更ながら思った。本科の六ヶ月の講習期間の終了が近くなっていた。彼女は受講料のお金と時間の問題もあったが上級科への進学は見送ることにした。


ミューズの女神に愛されるとは、一体どういう事だろうと、遠藤雅美はよく考えた。ミューズの女神はギリシア神話にある音楽や芸術や人間の知的活動を司る女神達のことだ。ミュージックの語源にもなっている。美的センス。作家の美学。芸術の神に愛されたクリエーターがしばしば、肉親・家族の縁に幸が薄かったり、悲劇的な死を遂げたりすることがある。あたかも天賦の才と引き換えにした、代償のように。

特に女流の書き手の中には、嫁に行きそびれて、生涯独身であったり、男性主流の業界の中で、消耗をして、婦人科の病気に罹患したり、精神を病んだり、薄幸・短命な人は近代化した日本の明治の頃から数多くある。そして美しい芸術を残して一生を終える。


「文は人なり」と云う言葉がある。昭和の昔に遠藤雅美は、「ハーレ・クイン・ロマンス」の手法という小説創作の話を聞いたことがあった。「ハーレ・クイン・ロマンス」シリーズという一連の女性が好む恋愛小説集があって、意図的に設定されたセオリーがあって女性が好む登場人物、物語の背景、シチュエーション、物語の展開を予め用意して、始めから計算をされて機械的に書かれた作品のことだ。どうもなんだか21世紀の今の世の中ではそうした書き物やテレビドラマ、ネット動画などがやたら多いかなと思う今日この頃だ。だが昔の文人はそうではなかった。作家の筆遣いに、その書き手の呼吸や息、魂の言の葉のようなモノが宿っていて、取り上げる作品の題材からして、独特の言い回し、フレーズ、文体、スタイルが読み取れて、その一文は誰の作か、どの作家の手によるものか、推察することが可能だった。

今の世の中はコンピュータの生成AIが文章を書く世の中だものと、近頃、遠藤雅美は嘆息している。或いはゴースト・ライターの様な代筆者による作品も存在する。複数人の創作者集団が手掛ける作品は昔のテレビドラマの脚本などにも例がある。

芸術のミューズの女神は、今は昔なのだろうか…。それとも、例えばピグマリオンの様に無機物の物語に生命力を与えるような、新しい結晶作用がこれから生まれるのだろうか。創作物語の世界はすでにすべてが語り尽くされて飽和状態であるのかもしれないとも、ふと想う。それでもなお、「文体」はスタイルである。それは変わらない。遠藤雅美は強く信じた。


「人類の叡智(えいち)」という言葉がある。叡智はソフィアと呼ばれることもある。卓越をした知識・知恵と深い考察、哲学・英知の事でもある。21世紀の世界はグローバル化して、コンピュータ・ネットワークで瞬時に情報が伝わる世の中になった。ふっと想うのは、旧約聖書のバベルの塔の話。人間が天に向かって巨大な塔を造り上げようとする。その傲り(おごり)を神が見て取り、人間が話す言葉を幾重にも枝分かれさせてしまい、一つの言語では人類は互いに言葉が伝わらなくしておしまいになった。天に向かって唾をすれば、己の顔に落ちてくる。人間が際限のない青天井の欲望を持ったら、塔は崩壊して人は言葉を失ってしまったのだ。人間社会の言葉による断絶が生まれた。その断絶を乗り越えて人類はその生の営みを歩み続けるより他はない。そのための叡智を導きだそうと心ある人は求めるが、その道は厳しいものだ。      

コンピュータの四角い箱の中を見続ける今時のニッポン人、遠藤雅美もそんな人間の一人にいつしかなっていた。そして今、多くの人がその箱の中に際限のない青天井の欲望を見ている。コンピュータはもしかしたら、パンドラの匣なのではないかしらとも想う。神から絶対に開けてはいけないという箱を授かった女性パンドラは欲望に勝てずにその蓋を開いてしまう。すると箱の中からこの世の中のすべての憎しみや悲しみ、厄災が飛び出して来てしまうのだ。慌ててパンドラが箱を閉じると、箱の底には一つだけ「希望」が残っていたというものだ。地球環境の変化や核爆弾の使用すらうかがわせる世界の争い事に、人類はギリシア神話でただ一つ残った希望だけを今も頼りに生きている。小さな無力な遠藤雅美に果たして何が出来るのだろうと彼女は想う。


美意識は人を生かしもすれば、殺しもする。人を救い支えにもなるが、デーモニッシュな奈落の淵へまた人を追い詰めもする。とはいっても、はなから美などに興味を持たぬ者がいるのも事実だ。自分に利か害かがのみ価値の判断基準、損得勘定だけが己のものさしでしかない人もいる。そして、思春期の多くの青年が自分の美意識を大いに気にする。鏡に自分の姿を映してみせる。自分の中の己と対話を始め、己の中に自分を見つめているもう一人の自分が現れる。

芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫…、己の美意識に悩んで彼らは自ら命を絶った様に思える。プラトニックラブのプラトンのイデアの様に、完全な魂(美)に対する、限りない憧れと情熱はエロスのことでもあり、完全美を追究する行為はエロティックだ。それは究極の自己愛なのかもしれない。思春期の自己のアイデンティティの確立において、美意識は大いにその人に影響をする。

ただ、日光東照宮の美しい陽明門の柱に、魔除けの逆さ柱というのがあるように、12本ある白塗りの柱には唐草模様のような美しい彫刻が施されているのだが、そのうちの一本だけが、彫刻の模様を逆にして建てられているのだ。建物の完全美が却って、魔が差すことを呼ぶとして、完全は壊れるものでもあるから、わざとそのようにしつらえてあるのだそうだ。完全なる美意識はその人の身を滅ぼすことがあるといえる話だ。遠藤雅美は、日光東照宮は江戸時代のマザー・グースの世界だと考えている。これは人間の叡智なのかもしれない。


遠藤雅美には「読めない本」というのがある。バベルの塔の話であるように、知らない外国の言葉で書かれた書物は読めない。難解な文章で彼女の知識では読めない本もある。読めないのなら、それで良いと彼女は思っている。恥ずかしく想うこともない。際限のない青天井の知識欲はただ持ち合わせないというだけのことだ。分からないことは、解らないままでいい。知らずに生きることが幸せな事も時として人生にはあるのだ。

人間の知、智と云うものに畏怖を持つ。タブー(禁忌)はあるべくして、あるべきで、人としての有限を想えば大切に扱いたいものだ。



インターネットのwebの住人になって久しくなると遠藤雅美は想った。パソコン通信の時代にとある「掌編小説」のオンライン・コンテストに参加をした事があった。


☆☆☆ 突然ですが、ここでこの小説をお読み頂いている皆さまに、筆者から申し述べたいことが御座います。☆☆☆


これまで語って参りました「遠藤雅美」とは、実は「ネットおかま」と呼ばれる人物になるのです。「ネットおかま」とはインターネットのSNSなどのwebサイトのオンラインにログ(文章の発言・発信、書き込み)に於いて、実は男性の書き手が女性のフリをして、女性名前で女性のアカウント・アイコンを使って発言することをいうのです。どうです?「雅美」はオトコ名前にもオンナ名前にも読めるでしょう(笑)

平安貴族の男性である紀貫之が「男もするなる日記というものを女もするなんとして…」試みると宣言をして書き上げた「土佐日記」が歴史上にあるように、或いは世の中に覆面作家やadoの様に素顔を明かさないクリエーターがいる様に…。これまで語って来た「遠藤雅美」の性別は実は不確かであると、ここに申し述べます。(笑)

劇中劇、フィクション内フィクション、入れ小細工のマトリョーシカ、メタフィクション…。世の中には面白いトリックも昔からあります。

「えっ!筆者の性別は?」これも内緒です。ただ、オトコマエな書き手として存在すると申し述べておきましょう。(笑)


遠藤雅美の物語に戻る。

「自己顕示欲」とインターネットでググってみた。実は遠藤雅美がブログやX(Twitter)などのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を利用していて、面白い特異な発信者と出会ったことが、「自己顕示欲」のことを調べる動機の一つとなった。

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