人魚
なんで星崎さんは、“星の海”の中で呼吸できないのだろうか。
そう口に出したら、当の星崎さんから「わたしがじゃなくて、呼吸できる音峰さんのほうがおかしいの」と突っ込まれた。そうなのだろうか。……まあ、もしかしたら一般的に考えてみればその可能性もギリギリゼロではないのかもしれない。
完全下校前まで粘って何度か一緒に潜ってみたけれども、結局星崎さんは息ができないままだった。体の軽さも今一つ実感できなかったらしい。私と星崎さんでいったいなにが違うのだろうか。
というわけで一旦持ち帰って翌日。放課後の屋上、晴れ。“星の海”は無し。
「──ひと晩考えてみたんだけど」
「うん」
「もしかしたら星崎さん、屋上適性がまだ足りてないのかもしれない」
「なにそれ……てかあの中も屋上判定で良いの……?」
私はもう一年の頃からここに入り浸っていて、こう、屋上の空気感のようなものに適合しているから息ができて、星崎さんはまだ屋上歴が浅いからできなかったんじゃないか。というような自論を述べてみたら、過去一と言っていいほどのジト目を向けられてしまった。
「これじゃないならもう分からない」
「えぇ……いやまあ、わたしも分かんないけど」
それはそうだ。結局のところ最初から一貫して、私たちが“星の海”について理解できていることなんてほとんどない。だものでなにも起きない日は、ただグラウンドを見下ろしながらああでもないこうでもないと駄弁っているだけ。“星の海”を泳げないのは残念だけれども……まあ、素の星崎さんと一緒にいられるというだけで気分は良い。私にとって、きっと星崎さんにとっても悪くない日が少しのあいだ続いた。つまりしばらくは、晴れ続きの日々だった。
それで……一週間くらいだろうか。週末をまたいで、また数日何事もなく過ごして。そうするうちに、あることに気がついた。
教室での、星崎さんの雰囲気が変わっている。
本当に僅かな変化で、屋上での星崎さんを見ていたからこそ気付けたこと。今までの明るいムードメーカー、“ヒロイン”としての彼女と比べて、ごくごく僅かに声のトーンが下がっている。テンポの良い長台詞の頻度が減っている。短くもなっている。目付きがほんの少しだけ、ぱっちりがぱちりに、くらいの違いで細まっている。
最初は気のせいかとも思ったけれども、観察してみればやはり、日ごとにそれが感じられて。まず思ったのが、教室での彼女に興味が沸かないだとか言っていた私はどこへ行ったのかということ。それから、安堵と心配が半分ずつ。
“ヒロイン”を演じることのストレスが減るのなら、それに越したことはないけれども。キャラを降りる弊害が彼女に降り注いでしまわないか、それが気がかりだ。どうだろう、今のところは本当に僅かな変化で、私以外には誰も気付いている様子がない。上手い力の抜き方を覚えたということだろうか。それなら喜ばしい話だ。
とはいってもまあ私の勘違いというか、それこそ好みの星崎さん像を勝手に重ねてしまっている可能性も否定はできなくて、中々話題にはあげられなかった。どちらにせよ屋上ではもう完全に気を抜いて過ごしてくれているので、それで十分だとも言えた。
◆ ◆ ◆
とまあ、星崎さんの様子を見守ること、さらに数日。
もう一度土日を挟んだ週明けに、三度目の“星の海”が現れた。
「…………」
午前中いっぱいの雨に、昼を過ぎた辺りから顔を出した柔らかな太陽。条件としては問題なさげで、実際に放課後屋上に行ってみれば綺麗な夜空が水面に広がっていた。今回こそどうにか星崎さんも呼吸できるようにならないかと、私は張り切っていたのだけれども。
「……来ないな」
肝心の星崎さんが来ない。
確かにいつもだって、柊木くんたちと少し話してから屋上に来ることは多いけれども。それにしたって今日は遅い。私が屋上に来てからもう一時間近くが経っている。例によって教室を出るときに絡めた一瞬の視線で、あちらも来る気満々なのが読み取れたし、いまさら見に来ないほど怖がっているとも思えないけれども。
「……来ない」
とりあえず一人でぷかぷか漂ってみたり、潜ってみたりはしたけれども、どうにも物足りない。相変わらず星たちは無数に、そして遠くにあって、私を引き寄せる不思議な引力を持っている。けれども今はもう、私の心はそれ以上に星崎さんに惹かれているから。彼女がいないと憂いなく底を目指せない。むしろ彼女と一緒ならば、心置きなく潜っていけるような気さえする。
やっぱり星崎さんにはどうにか息ができるようになってもらわないとなぁって、そこまで考えた辺りでようやく、扉の開く音がした。向こうの世界から、ほんの二歩分の彼女の足音が聞こえた。引っ張られるように、勢いをつけて水面を突き破る。星空から青空へガラリと変わった視界の中心に、えらく真剣な顔をした星崎さんがいた。
「……音峰さん、いた」
「……? そりゃいるけど……星崎さん、どうかした?」
賑やかな顔、疲れた顔、脱力顔、呆れ顔、色々見てきたつもりだけどこういう真顔は初めてで、なにか良くないことでもあったのかと勘ぐってしまう。両足を“星の海”に浸しながら座った星崎さんが、私を見下ろしたまま言う。
「秀太が地下書庫でまた新しいファイルを見つけてね?」
なにかと思えば七不思議新情報だった。柊木くんも成果を出してきたと。さすがは“主人公くん”といったところか。
「なんかいつの間にか図書館の司書さんとも仲良くなってたみたいで、あきなちゃんとこまりちゃんがキレてたけど……まあそれはおいといて」
……さすがは“主人公くん”といったところか。
「それで、“星の海”に関しても新しい情報があってさ」
一拍置く星崎さんに、私もつい注目してしまう。息ができる条件だとかヒントだとか、そういうのがあれば嬉しいところ。
「……“星の海には人魚が棲んでいて、気に入った生徒を海の底へ連れて行ってしまう”んだって」
「…………」
「…………」
「…………え、人魚?」
「うん、人魚」
急に追加キャラクターが出てきてしまった。
「ほかの七不思議に関しても、そういう……関わっちゃった人の末路? みたいなのがあるみたい」
「へ、へぇ……」
予想の斜め上の情報だ。急に人魚だとか言われても、うん。
「……まあ“星の海”ってかなり広そうだし。人魚の一人や二人くらいいてもおかしくはない……か……?」
言いながら想像してみる。貝殻ビキニの美女が魚の下半身をひらめかせて、夜空を泳ぎ回る姿を。サマになっているような、いないような……というか。
「さっきの“いた”ってもしかして、私が人魚に連れて行かれるとか思ってた?」
ふいっと顔をそらされた。視線はじっとりと細まっている。否定も肯定もしないまま、星崎さんは口を開いた。
「……音峰さん、海の底に引っ張られるー、とか言ってたから」
「それは比喩表現というか、星の光がそれくらい魅力的というか……待てよ、そうなんじゃないの?」
「……?」
「あの星たちに魅入られて海の底を目指してしまうのを、“人魚に連れて行かれる”って表現してるとか?」
「…………あー……」
あの引力は確かに、中々抗いがたいものがある。私のように対抗できる何かを心に抱いていなければ、“星の海”の底にまで沈んでいってしまうとか。もしかしたら、そういう話なのではないだろうか。
「そういうこと、なのかな……? 人魚って表現は、随分ロマンチックだけど」
「それを言ったら“星の海”なんて名前からして相当でしょ」
「確かに」
二人してふっと笑う。これで解決というわけではないけれども、我ながら面白い説が浮かんだと思う。星崎さんも一息吐きながら表情を緩めていた。よし、いつもの……私にとってはいつもの彼女に戻った。ではようやく本題に入ろう。私は“星の海”に浸かったまま、彼女のすぐそばまで近寄って右手を握る。入ろうよって言外に込めて。
「……はいはい、分かった分かった。どうせ息できないと思うけどね」
「頑張ればできるかもしれないって」
「いやいやいや……」
「星崎さんは見たくないの?
左手も取って、前と同じように彼女を水面に引き入れる。一緒に胸の辺りまで浸かれば、お互いから生まれた波紋がぶつかって、混ざって溶け合うのが見えた。その水面をか、それともその下の星たちをか、どちらを見ているのかは分からないけれど。とにかく星崎さんは一度“星の海”を見下ろして、かと思えばまた、ゆっくりと私の顔へ視線を向けて。
「……まあ。正直ちょっと見てみたいかも」
音峰さんのせいだよと、力の抜けた笑みをくれた。
◆ ◆ ◆
まあ、人魚がどうだとかに関係なく、今回も星崎さんは息ができないままだった。二人してぷかぷか漂っているのもそれはそれで楽しいけれども、でもやはり、彼女にも不自由なく“星の海”を泳ぐ感覚を味わってもらいたい。
翌日にはやはり“星の海”は消えていて、また何日かのうちは晴れが続いた。
その間にも教室での星崎さんの様子はますます変わっていく。まだクラスの皆は分からないようだけれども、どうやら私以外にも一人だけ、それに気付いた人がいて。そんな中で訪れた四度目の“星の海”出現は、三度目から数日後の、休みの前日のことだった。
ちょうど私が屋上で昼食を食べ終わった辺りから降り始めた雨は、午後の授業のあいだには止んだ。今は少し弱いけれども日が出ていて、もう半ば直感的に、今日も“出た”というのが分かった……のだけれども、気がかりなことが一つ、今まさに目の前で起きている。
「いいからお兄ちゃんも来てっ!!」
「はぁー!? 先輩、今日は私と第二校舎でしたよね!?」
帰り支度も終わらないうちに教室に駆け込んできた妹さんと後輩さんが、柊木くんを囲んでそれはもう派手に言い合っている。どうやら妹さんが、体育の授業中にグラウンドで小さな巣穴のようなものを発見したらしく、やれ“七不思議その六”だイヤただの動物の巣だと大揉め。柊木くんは後輩さんか妹どちらに同行するのか、とかなんとか。話の内容が教室中に聞こえるほどの大声で、クラスメイトたちもみんな帰らずに様子をうかがっていた。
……で、なぜそれほどヒートアップしているのかというと、それは星崎さんがまったく仲裁に入ろうとしていないから。いつもはこうなる前に、彼女の「まあまあ」「喧嘩はやめなよ〜」といった声がかかる。だけども今日の星崎さんは仲裁どころか二人を見てすらいなかった。柊木くんのそばに寄ることもなく、自分の机で帰り支度をしながら、窓の外を眺めている。
私の見立てでは、あれは(この晴れ具合でも“星の海”出てくるのかな……?)の顔だ。星崎さんの中ではもう、“ヒロイン”としての役どころよりも“星の海”のほうが大事になりつつあるらしい。私としては嬉しいところ。だけどもここまでくればもう、ついに生じてしまった。役を降りてしまうことの弊害が。
「──なあ、かなでからも言ってやってくれよ」
柊木くんから、星崎さんへと声がかけられる。
「……え? あ、ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
二人の席はそう離れてはいなくて、星崎さんのほうが教室後ろの出口に近い位置、柊木くんは真ん中やや後ろより。星崎さんは自分の席から動くことなく、静かな声で返すだけ。そうしたら、柊木くんが言ってしまった。
「かなで、お前最近なんか変だぞ」
「っ」
「いつものかなでらしくないっていうか、元気ないっていうか」
星崎さんの肩が小さく跳ねる。柊木くんへ向けられた彼女の目はひどく疲れているように見えるけれども、彼には分からないのだろうか。しかも、目の前の二人そっちのけで星崎さんに声をかけたせいで、妹さんも後輩さんもますます機嫌が悪くなっている。完全に柊木くんの選択ミス。
……だというのに、あろうことか彼は。
「とにかくほら、いつもみたくこいつら止めてくれよ。俺じゃ手に負えん」
やれやれとでも言いたげに、星崎さんに丸投げした。
彼にとっては、“主人公くん”グループにとっては、それが当然のことなのかもしれない。明るく朗らかに二人を諌める、それが星崎かなでというキャラクターなのかもしれない。だけど私にとっては、どうにも面白くなかった。星崎さんの目に力が入って、丸く見開かれていくのが。
「……ぇ、と。うん、ごめんごめんっ! ほんと、ぼーっとしちゃってた──」
「星崎さん」
だから気付けば、私は彼女に声をかけていた。久しぶりに、口が勝手に動いた感覚。だけども今回は、よくやったと褒めてやりたいくらい。
「え? ね、音峰さん?」
「行こ」
早足で横を通りながら、彼女の右手を取って引っ張る。“星の海”へ引き込んだときよりもずっと強く。星崎さんは抵抗しなかった。一緒に足を踏み出して、一緒に教室を抜け出す。柊木くんがなにか言っていた気がするし、後輩さんと妹さんは私たちそっちのけでまだギスギスやっていた気もするけれども、それでも星崎さんはもう、振り返る素振りも見せなかった。
◆ ◆ ◆
「びっくりしたよーもう」
屋上に辿り着いて、“星の海”がそこにあるのを確かめた辺りで、星崎さんはようやくそう漏らした。
今日の水溜りはいつもより小さくて、屋上の真ん中でだいたい円形に、面積にして床の半分ほどを覆うに留まっている。それでも水面の向こうには、星の光がまったく陰りなく存在していた。
「……ごめん、つい」
こう冷静に考えてみれば、あまり賢い行動ではなかったかもしれない。私と星崎さんは教室ではまったく接点がなくて、はたからはかなり突飛に見えたことだろう。でも、それでも我慢がならなかったのだ。私の好きな星崎さんが、無理やり“ヒロイン”に戻されそうになったのが。
「……でも、こう言っちゃなんだけど」
「うん」
「正直嬉しかったかも」
「……そう」
「そうそう」
ふぅっと息を吐いて笑う、その目付きは脱力して細まったもの。100%素の彼女。それが見られて安心するのと同時、さすがにもう、聞かずにはいられなかった。
「……星崎さんさ」
「うん」
「最近、教室でもちょっと力抜きがち? 柊木くんじゃないけど、前とは雰囲気変わってきてる気がする。イメチェン?」
「あー……まあそりゃ、音峰さんも気付くか」
「一応言っておくと、柊木くんよりも先に気付いてたよ」
「張り合わなくていいから」
星崎さんは少し嬉しそうにしながら、座り込んで両足を“星の海”に沈めた。私はゆっくりと、水溜りに身を投げる。胸から上を水面に出して、座る彼女を見上げる、もうお馴染みとすら思える構図。弱い日差しの下で、もう一度目を合わせた。
「
星崎さんが足を揺らせば、生まれた波紋が広がって、私の心臓を鳴らす。
それは、“ヒロイン”にとってはあまり良い影響だとは言えないかもしれないけれども。星崎さんにとっては良いことなんだって、取りこぼしようもなく伝わってきた。いつもの通り、こういうとき私は気の利いた言葉は返せなくて、そっか、みたいな音が口から出そうになる。
「──かなでっ!!」
で、それを邪魔された。
「こんなとこ──んな、なんだこれ……!」
屋上の扉を押し開いて現れた、柊木くんによって。勢いよくバンっと、登場の仕方も“主人公くん”らしい。探し回ったのか後をつけてきたのかは、分からないけれども。
「……秀太」
星崎さんは足を“星の海”に沈めたまま、上半身だけ捻って彼のほうを振り返った。表情はこちらからは見えなくなってしまったけれど、声音は……私の勘違いでなければ“面倒なことになった”という雰囲気。その星崎さんの体のずっと向こうでは、扉の前で立ち尽くす柊木くんの視線がせわしなく動いている。星崎さん、“星の海”、貯水タンク、換気扇、また“星の海”と移ろって、そして最後、私を捉えた瞬間に、彼の眉間に皺が寄った。
「お前、人魚だな……!」
「……は?」
突然の人魚判定。振り返ってみたけれど誰もいない。やはり私に向かって言っているようだ。かなでになにした! だとか叫んでくるけれども、なにもしては…………あー、いや確かに、けっこう執拗に“星の海”に誘ってはいる、いるなぁ。精一杯“主人公くん”の目線に立って考えてみれば、“星の海”に胸まで浸かっている私の姿は、そうか、人魚に見えなくはないか。
「いつからこんなことになってたんだ……? くそ、ごめん俺、全然気付けなかった……!」
「秀太、それは」
「人魚に誑かされてるんだ、だからおかしくなっちまったんだよお前っ」
人魚ってそういう話だったっけか。確か“気に入った相手を星の海の底へ連れて行ってしまう”とかではなかっただろうか。それともなにか、私の知らない七不思議新情報でも持っているのだろうか。
……などと、突然の出来事に私の思考は変なところへ流れていきそうになっていて。代わりに、と言っても良いのだろうか、星崎さんが怒気を露わにしていた。初めて見るような、本気の冷たい怒りを。
「……ごめん秀太、音峰さんのこと悪く言わないで」
静かに、そして明確に咎めるような物言い。普段、教室で“ヒロイン”たちの仲裁をしているときには絶対に出てこない声音。ああけれども、素の星崎さんが怒るとこういう感じなのかと、すんなりと納得できた。私は、だけれども。柊木くんは、酷くショックを受けたような顔をしている。
「わたしが好きで音峰さんと一緒にいるの。秀太には関係ない」
「いっ、いやなんだよ、その言い方…………なあ、やっぱりお前変だって。自分で気付いてないのか? いつもの明るくて元気なかなでに戻ってくれよっ……!」
いつものかなで、か。台詞はどこまでも“主人公くん”らしくて、でもそのいつもの星崎さんとやらが本当の彼女ではないことを、彼はずっと知らないのだろう。だからそんな、残酷なことが言えるのだ。もしかしたら彼もまた自分の役柄に、キャラクターに囚われているのだろうか。だからといって、その言葉を許すつもりはないけれども。
なぁ、と手を伸ばしながら、柊木くんが一歩踏み出してきた。距離はある。けれども私は思わず、“やるもんか”と思ってしまった。
「星崎さん」
「わぁ」
彼女の両手を取って、引いて、“星の海”へ潜る。彼女は抵抗もせず、むしろこちらに体を預けるようにして、一緒に来てくれた。胸をいっぱいに膨らませて、吸えるだけの息を吸って。
「かなでっ!!」
柊木くんの叫び声が遠くから聞こえてくる。星崎さんの表情がまた曇った。放っておいてほしいと、顔にそう書いてあった。だから私は彼女を腕に抱きかかえながら、入ってくるなと水面を睨みつける。
「──!」
まさにその瞬間だ、外の世界で雨が降り出したのは。いきなり蛇口を全開にしたような土砂降り。星の数にも劣らない無数の雨粒が上から水面を叩いて、壊していく。外の世界の景色が揺らいで消えていくのが、“星の海”の中から見て取れた。
「なんだよこれっ、かなで、かなでっ……!!」
柊木くんの声もどんどん歪んで、聞き取れなくなっていく。水面が崩れる。外の世界の光がなくなっていく。
七不思議その三、雨が降ったあと屋上に星の海が現れる。
必要なのは水溜りと晴れ空で、雨が降っているその最中には“星の海”は屋上に現れない。
「──っ、──っ!!」
水面が割れて千々に散り、それらの破片の一つ一つすらも、雨で砕けてなくなって。水溜りに飛び込んでからほんの数十秒と経たないうちに、こちらとあちらを繋ぐ水面は完全に消えた。出来上がったのは完全な“星の海”。外の世界の日の光も入らない、いっそう星々の輝く心地の良い暗闇。
「星崎さ……あ」
またしても勢いでやってしまったけれども、さてなんと声をかけたものか。そう思って見た星崎さんの顔は随分と苦しげだった。心因性のものではなく、物理的に。息ができないのだからそれは当然。
「やば……どうしよ、えーっと」
私の言葉に、マジかこいつみたいな表情をする星崎さん。右手で腰を抱いて、左手は彼女の右手を握ったまま、どうにか星崎さんに息をさせようと考える。
「呼吸を、そう、息を……っ!」
自分だけ自由に喋れて息もできて、いっそ私の息を分けられたらとか思ってしまって。そうしたらもう次の瞬間には、口が勝手に動いてた。本日二度目のファインプレー。
「んっ……!」
「んむっ……!?」
星崎さんの唇に自分のそれを押し付ける。隙間もなく密着させて、上と下に開かせて、私の息を彼女へ吹き込む。今までにない至近距離で目があって、なんというか、お互いにびっくりしていた。たぶん、時間にすればわずか数秒ほど。でもなぜか、水面が壊れていくあの数十秒よりも長く感じた。ぎゅっと手が握られる感触。それに応えるようにして、めいっぱいめいっぱい息を送り込んで、それで。
「んむぅ、ふぅーっ……はぁっ」
「っぷはっ、ちょ、音峰さん今日は随分と積極的…………って」
“星の海”に、星崎さんの声が生まれた。
「……息、できてる?」
「できてるねぇ……」
やっておいてなんだけれども、私が一番ビックリしている。この数秒の口づけで、星崎さんの体は“星の海”に適合していた。どういうことだ。
「喋れるし、呼吸もできる……え、てか体かるっ」
片手だけ繋いだまま体を離して、星崎さんが暗闇に漂うのを眺める。見ているだけで、彼女が私と同じになったのだと分かった。感覚を確かめるように、思うまま体を捻ったり、反転したり。繋いだ手ごしに、私もそれに追従する。
「……音峰さんがハマる気持ち、分かっちゃったなぁ」
「それは良かった。うん、良かったん、だけど……」
原理はまったく分からないけれども、ひとまず窒息の危険は去った。つまり少し冷静になった。そうなるとまあ、改めて自分の振る舞いを省みてしまうわけで。
「……これ、謝ったほうが良い?」
「どの件について?」
「ぜ、全部?」
連れ去った。で、閉じ込めた。あの雨は私が呼んだものなんじゃないかと、そう思えてならなかった。水面のなくなった“星の海”は上にも下にも横にも無限に広がっているように見えて、あちらの世界で雨が止めばまた出入り口が生まれるのか、それすらも正直分からない。
……それから、まあその、唇まで奪ってしまった。これではまさしく、気に入った相手を引きずり込む人魚そのものだ。
いろいろな不安と申し訳なさから、お伺いを立てるように彼女を見てしまう。
返ってくるのはじっとりとした眼差し。だけども口元には微笑み。
「……謝らなくていいよ」
「どの件について?」
「全部」
「……あ、ありがと」
「いえいえ」
憑き物の落ちたような顔、というやつだろうか。星崎さんは吹っ切れたような、脱力しきった表情をしていた。よく見れば、頬は少し赤くなっているけれども。流石にそれを指摘する勇気はなくて、なぜなら私も同じように顔が火照っているからで、惹かれている相手とキスをしてしまったという事実が、じわじわと効いてくる。それを誤魔化すつもりで、少しだけ話題をずらした。
「……ところで、私って人魚なの?」
「いやわたしに聞かれても……」
まあでも、と一度区切って、星崎さんは言う。
「そうなんじゃないかって、実は思ってた。べつにそれでもいいかなぁとも」
「……そっか」
「そうそう」
星崎さんが言うのなら良いかって、私もそんな気になる。だってこんなにも体が軽い。ここにはなにも、星崎さんを煩わせるものはない。あるのはただ広がる群青と、手の届かない遠くの星たちだけ。そのうちのどれかに目を向けてみればまた、あの引力が私を誘う。
「……ねえ。せっかく星崎さんも屋上適性を得たわけだしさ」
「まだ屋上判定なんだここ……」
だけども私たちには今、二人分の質量がある。私は星崎さんに惹き寄せられていて、そして星崎さんもきっと、私に惹き寄せられている。繋ぎっぱなしの片手がその証拠だ。だから光に魅入られて、我を失って引っ張られてしまうのではなく。ゆっくりと、二人で一緒に。
「見に行ってみない? 星の海の底を」
「底、ほんとにあるのかなぁ」
「なければないで、無限に泳いでいられるじゃん」
「それ怖いやつだから」
「怖くない怖くない。行こうよ、ね?」
「ほんと、連れて行きたがりの人魚さんだ」
「だって星崎さんも、最初に潜ったときに見惚れてたでしょ?」
あの瞬間を私は見逃していないし、忘れてもいない。確かに彼女は“星の海”の、暗闇と光に目を奪われていたはずだから。なのに、私の目は誤魔化せないぞと視線で伝えてみれば、星崎さんはおかしそうに笑った。静かで力の抜けた、私の好きな表情で。
「違うよ」
「えぇ?」
「音峰さんに見惚れてたの。自由に漂って、髪が暗闇に溶けこんでるみたいで、すごく綺麗だったから。あのときにわたし、一瞬思っちゃったんだよねぇ。人魚みたいだって」
……なんということだろう。人魚云々の情報が出る前から、彼女は私を人魚だと思っていたらしい。
「…………そ、それはまた、随分とロマンチックだね」
「海の底を見に行こう、なんて言う人も相当だよ」
「……確かに」
そろそろお互いの頬が赤いのも無視できなくなってきて、こっ恥ずかしくて、私もつられて少し笑って。そもそもそれを言うのなら、星崎さんの赤茶けた髪だってこの夜空の中では、ふわふわと浮かぶ星のように綺麗だ。それをどのタイミングで伝えれば良いのかと、今回は勝手に動いてくれなかった口を恨めしくも思いつつ。
「……じゃあ。その人魚が、星崎さんを連れて行こうと思います」
「うん、良いよ。音峰さんになら」
私はもう一度、星崎さんの手を引いた。二人でゆっくりゆっくり、“星の海”の底を目指すために。
◆ ◆ ◆
幼馴染が連れて行かれた。
屋上にあった奈落へ続く穴のようなものは、もう二度と現れることもなかった。かなでは行方不明という扱いに。あいつを連れて行った人魚は──音峰は、最初から存在しなかったかのように誰の記憶にも残っていない。いや、そもそも本当に存在しなかったんじゃないか? あいつの席はどこだった? あいつはこの教室のどこに座っていた? 俺の幼馴染は……誰に、どこに連れて行かれたんだ?
〈END No.03 星の海、連れて行かれた幼馴染〉
七不思議その三、屋上に星の海 にゃー @nyannnyannnyann
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