ヒロイン


 翌日には屋上の水溜りも“星の海”も綺麗さっぱり消えていた。「もしや……夢?」だなんて星崎さんは言っていたけれども、潜った先の景色も昨日の彼女の表情も、はっきりと私の脳内にある。星崎さんだって、指を浸けたときの感触は憶えているようだし。


 だものでその日以降は、二人で“星の海”の出現条件を考えたりなんかした。とは言っても、七不思議の文言や状況からして、“雨が降って、その後に晴れる”くらいしか思いつかないけれども。

 一応、屋上になにかすごい仕掛けが施されていて、“星の海”が物理的に? 現実的に? 作り出されているという線も一瞬だけ考えたけれども……まあうん、それこそさすがにあり得ない話というか、七不思議が実在していたと考えるほうがまだしっくりくる。


 そういうわけで“星の海”出現から三日後、やはり手すりと柵と貯水タンクと換気扇しかない屋上で、私は今日も今日とて星崎さんの横顔を見つめていた。天気は曇り、残念ながら雨は降りそうにない。そして星崎さんの表情は、天気に負けないくらいにどんよりとしていた。


「……星崎さん、なんかあった?」


 問いかけつつ、察しはついている。

 昼休み、屋上で昼食を摂ってから教室に戻ったら、もう時間もギリギリだというのに“ヒロイン”の皆々様がまだ居座っていた。声は潜められていて会話の内容までは聞き取れなかったけれども、なにかこう、いつも以上にヒリついた雰囲気だったのは間違いない。それが星崎さんの心労に直結しているというのは、もうよくよく分かっている。


「あー……」


 私が察していることを、星崎さんも察しているのだろう。丸い目はすでに細まり、背中を丸めて手すりに顔をうずめるようにしながら、星崎さんは声を漏らした。


「あきなちゃん……ぇあー、後輩の子がね、第二校舎で不思議な扉を見つけたらしくて」


「へぇ」


 第二校舎。七不思議だと……その二か。“第二校舎にはどこにでも行ける扉がある”というやつ。どうやらそちらも実在していたらしい。


「入ってみたら、第二校舎内の別の階の廊下に出たり……もう一回行ったら今度は別の教室に入ったり……とにかく不思議な現象だったのは間違いないみたい」


「“星の海”もそうだけど、本当に七不思議ってあるものなんだね」


 扉にしろ海にしろ、意味はよく分からないけれども。ともかくそれが、星崎さんの心労を増やす一因になっているのだと、語り口からうかがえた。


「まあそれで、なんというか……あきなちゃんが……そのー、マウンティング? みたいな? ことをね……」


「あぁ……」


「そのせいでこまりちゃんもかなり機嫌を損ねちゃってて……こう……」


「ギスってると」


「……そんな感じ」


 後輩さんと妹さんと、一年生組は元々よく牽制し合っていたそうなのだけれど、七不思議調査でそれがさらに加速しているらしい。成果の有無だとか、柊木くんからの褒められ具合だとか、そういうので。


「さらさ先輩は“これもまた面白い”って見てるんだけど……とか言いつつあの人たぶん、隙を狙ってる感じだし。秀太もあんまり強くは咎めないというか、鈍いからね……」


 そうなると当然、星崎さんがその仲裁をするハメになる、と。それは今日に限った話ではなくて、彼女がその役割に辟易しているのだということは、表情から嫌というほど読み取れた。半分は好きだけど半分は好きではない、くたびれたような横顔から。


「……幼馴染っていうのも、大変なんだね」


 話を聞くに柊木くんは、星崎さんのムードメーカーとしての一面に頼りすぎな気もする。“主人公くん”の幼馴染とはそんな苦労も背負わなくてはいけないのかと、同情心すら芽生えるほどに。


「……ほんとにね。いつでも明るく振る舞ったり、“ケンカしないで〜っ”とか、そういうの結構疲れるんだけどなぁ……」


 さらりと、けれども明確に、彼女の口からこぼれ出た。細まった眼差しは、どこか遠くの景色に向けられている。どうせ表情はすでに憂い塗れだ。だから今回は不躾だとか気にせずに、私は自分自身の意思で口を開いた。


「──キャラ作ってたんだ?」


「そりゃあねぇ。だってわたし、ムードメーカーで“ヒロイン”なんでしょ?」


 どうやらそのあだ名も知ってたらしい。まあ、耳に入っていてもおかしくはないか。柊木くんのグループは、うちのクラスではもはやちょっとしたエンタメだ。一年生組がギスギスしているのだって、みんな遠目に見て楽しんでいる。“主人公くん”にも“ヒロイン”たちにも周りから求められているキャラクターみたいなものがあって、星崎さんはその中で“明るくて気配り上手なムードメーカー”で、だからこそ、周囲からの期待に気付いてしまったんだろう。

 かくいう私だって。エンタメ扱いこそしてはいないつもりだけど、でもやはり、彼女を“そういうキャラの人”だと思っていた節はある。


「昔は素でこういう性格だった気がするんだけどなー。周りに求められてるって分かってからは……だんだん、演じるようになってきちゃった」

 

 嫌ならやめればいいのに、なんて言えるはずもない。それは人間関係を一変させてしまいかねない行動だ。クラスとか学校とかっていう枠組みの中で、“ヒロイン”としての役柄を期待されている彼女がそれを降りてしまえばどうなるか、私にだって察しがつく。だからこそ、彼女は疲れているのだろう。

 

「……それは、屋上ここにいるほうが気が楽にもなるか」


「まあ、正直ね」


 “主人公くん”とも“ヒロイン”たちとも離れられる、雰囲気なんて気にする必要もない場所。星崎さんにとって七不思議調査はていの良い逃避先だったわけだ。“星の海”出現を伝えなかったのも、その逃避先を失わないため。もしくは、“ヒロイン”たちの睨み合いが余計に拗れないように?

 なんにせよ、彼女も私と同じようにこの屋上を居心地良く感じているのは間違いない。それがなんだか嬉しくて、ついついまた、らしくない距離感で言ってしまった。


「……私は、賑やかじゃない星崎さんも良いと思うけど」


 ゆっくりと、星崎さんの顔がこちらを向く。日が弱いからかいつもより陰影がぼやけていて、けれども憂いの色が消えたのははっきりと分かった。そうすれば残るのは、そう、あの細まった眼差しと力の抜けた笑み。気だるげで美しい横顔。


「……ありがと」


 最初の頃と比べれば、声のトーンもうんと下がっている。賑々しい長台詞なんかじゃない、たったの四文字。それが表情との合せ技で私の心を惹き付けてくるものだから、ますます目が離せなくなってしまった。


「……………………いや、見すぎ」


「……ごめん」


 何十秒後か、言われてようやく視線をそらす。見上げてみれば空はまだ曇りで、だけども雨の匂いはまったくしない。今日は夜もずっと曇り空、らしい。

 明日の天気予報はたしか、晴れ時々曇りの降水確率10%程度だっただろうか。なにかの手違いで雨が降ってくれれば、またあの“星の海”が現れるかもしれない。やはり星崎さんも潜ってみたらどうだろうか。現実とは分け隔たれたあの群青の中では、彼女も“ヒロイン”から降りられるような気がするのだけれども。




 ◆ ◆ ◆




 ……という私の願望が、まるで叶ったかのように。

 翌日の午後、ほんの三十分足らずのゲリラ豪雨が、放課後の直前に訪れては去っていった。


 手早く荷物をまとめて屋上へと向かう。私が教室を出るときにはまだ、星崎さんはいつも通り柊木くんと話していたけれど……すれ違いざまに合った視線から、彼女も屋上へ行きたがっていることは読み取れた。

 

 お先に、という気持ちで足早に、二年生私たちの教室がある第二校舎から第三校舎へ。渡り廊下を通って、階段を登って。屋上の扉へ続く最後の踊り場を通ったときにはもう、ほとんど駆け足になっていた。


「──っ!」


 そうして辿り着いた青空の下にあったのは、数日前と同じ、ほとんど屋上一面に広がった大きな水溜り。その水面の向こうにある、澄みきった夜空と無数の星々。“星の海”。もうなにも考えずに、私は身を投げ出していた。鞄は扉の横へ、体は“星の海”へ、ほとんど同時に放る。

 

 水も跳ねずにどぷんと沈む。水面をくぐると同時に、視界が昼から夜に変わる。潜って、泳ぐ。泳ぐという表現が正しいのかすら分かっていないけれども、とにかく、群青の世界に身を預ける。“星の海”は潜ってもやはり、前に見たときと変わっていなかった。


「……ふぅ」


 本当に体が軽い。指の先まで一部の狂いもなく思うままに動かせる。すごい空間だ。ひどく居心地が良い。むしろ上の世界のほうが不便というか、体に適さない場所だったんじゃないかとすら考えてしまうほどに。

 星たちだってあの日と変わらず瞬いていて、手の届かない遠くにあって。その引力に、引き寄せられてしまう。体と心が、底へ底へと向かいたくなってしまう。

 

「──おぉ、やっぱり泳いでる……」


「っ」


 そしてまた、星崎さんの声に引き戻された。今回は静かな声だったけれども、それでも水面を貫いて、私の耳まで確かに届く。星よりも強い引力で、私を水面へ浮上させる。“星の海”は居心地が良いけれども、星崎さんには敵わないようだ。

 私は水面に顔を出して──“星の海”の外の、空気がまとわりついてくる感覚を煩わしく思いながら──、星崎さんへと声をかけた。

 

「遅かったね。星崎さんも泳ぐ?」


「泳ぎません。……ちょっと、みんなで集まって話したりしててね」


 別にそんなに遅くはなかったけれども。彼女の声音と表情が今日もくたびれ気味だったものだから、それとなく水を向けてみた。案の定ギスギスバチバチしていたようだ。


「ふーん。まあとりあえず座ったら?」


「自宅みたいな空気出すじゃん」


「足とか浸けてみなよ」


「めちゃめちゃ誘ってくる」


 扉前の一段上がったスペースは、ひさしのお陰でほとんど濡れていない。そこに腰かければ、こう、足湯みたいなノリで“星の海”に膝から下を浸したりできそう。


「だって星崎さん、泳ぐのは嫌だって言うから」


「なんでそっちが妥協したみたいになってるの?」


 じっとりとこちらを見下ろす星崎さんの表情からは、少しだけ力が抜けていた。“星の海”の体が軽くなる感覚を味わえばもっとリラックスできるかと思って、さっきから勧めているんだけれども。


「指がいけたんだから足もいけるって」


「そういう、いや、うんまあ……うん」


 まだ少し戸惑いはありつつ、でもなんだかんだ腰を下ろす星崎さん。お尻はつけずにしゃがんだ状態で一旦止まり、前回のように指で水面を掻いている。また引っ張りたい衝動に駆られたけれど、今回も我慢して、代わりに言葉で誘い続ける。


「大丈夫大丈夫、全然怖くないよ」


「それ怖いやつだよ……でも、うーん………………じゃあ、少しだけ」

 

 説得成功。そもそも、今日も屋上に来ている時点で“星の海”に興味があるのは間違いないのだから、変に尻込みする必要はないと思う。

 そう伝えると星崎さんは「なんか嬉しそうだね……」と苦笑しながら、腰を下ろして座り直した。ローファーもソックスもはいたまま、こわごわと足を伸ばす。靴の裏が水面に触れて一瞬止まり、けれども私が視線で促せばまた動き出して。静かに静かに、両足が水面に入っていく。波紋が生まれて、私の体に当たっては拡散して、星の光がゆらゆらと揺れる。そうやって私が飛び込んだよりもうんと長い時間をかけて、星崎さんは膝の下辺りまでを“星の海”に沈めた。


「どう?」


「いやよく分からない……っていうか、これで濡れてないのすごい不思議な感覚だなぁ……」


 ゆっくりと両足を泳がせつつ、首を傾げる星崎さん、“星の海”は揺れるけれども、水が跳ねたりはまったくしない。そういう意味ではもはや、これは水溜りですらないのかもしれない。でも上から見ている限りでは水面というほかないし、けれども映っている星空は、見上げればそこにある放課後の青空とはまるで違う。ともかく分かるのは、ひどく居心地が良いということだけ。


「……で? 今日もギスギスのバチバチだった?」


 さて、腰も落ち着けたところで、改めて聞いてみる。話したくないのならさっきのような言い方はしないだろうって、なんとなくそう思ったから。案の定、星崎さんの口からは愚痴がぽろりと。


「やー、第二校舎を二人で調べたいあきなちゃんvsそれを阻止したいこまりちゃんvsそれとなく秀太の気を引こうとするさらさ先輩、みたいな?」


「昨日と変わらず、か」


「昨日より悪化してるかも」


 くすりと漏れた微笑は、力の抜けたようなそれ。話して少しは楽になってくれた、ということだろうか。そうだと嬉しいけれども。


「あの二人も前はもうちょっとこう、じゃれあいって感じだった気がするんだけどねぇ。いつの間にかガチな空気になっちゃってもう」

 

 ……それはもしかしたら。星崎さんとは逆に、求められるキャラを演じているうちに引き時が分からなくなってしまったんじゃないかとか、そういう可能性が脳裏に浮かんだ。浮かんだけれども言いはしない。だからって星崎さんに心労をかけて良いわけではないし、星崎さんだって、そのくらい思い至っているかもしれないし。


「そっか」


「そう」


「……じゃあ、泳ごうか?」


「……なんで?」


 だから私にできるのは、今この場所で力を抜いて過ごしてもらうことくらいだ。“星の海”の全身が軽くなる感覚を味わえば、星崎さんの心も一緒に軽くなってくれるかもと、そう思えてならなくて誘うのが止められない。

 

 ……なんていうのは建前で、本当はただ星崎さんと一緒に泳ぎたいだけなのかもしれない。この七不思議を、私の好きな屋上に現れた世界を、二人で満喫したいだけなのかも。愚痴の感じからしてどうも、星崎さんは柊木くんに対して“を抱いてはいないようで、そのことを嬉しく思っている私がいる。認めざるを得ない。きっと私は、彼女に惹かれている。海の深くの星たちの、光と引力よりも強く。

 屋上はもうとっくに二人の場所になっている。そうしたら次は“星の海”も共有したいって、好きな人と好きなものを共有したいというのは、そうおかしな気持ちではないはずだ。


「ほら、星崎さん」


「わぁ」

 

 勢いに任せて、星崎さんの右手を取る。こちらを見下ろす眼差しは、すでにゆるりと細まっている。驚く声も小さく平坦なもので、それが耳に心地良い。


「怖くないから」


「だからそれ怖いやつ、って」


 さらにさらに、星崎さんの左手も取る。両手を繋いで向かい合う形。今すぐ引きずり込みたい衝動を抑えて、あくまで優しく、誘うように両手を引く。一度、二度と、リズムを付けて。


「…………」


「…………」


「…………」


「…………分かった分かった、ちょっとだけね」


 説得成功。言葉のわりにさっきから星崎さんは微笑みっぱなしで、ああそれで、私はこんなにも調子に乗ってしまっているのかもなぁと、どこか他人事のように思う。で、そんな思考すらもすぐにどこかへ放って、もう一度星崎さんの手を引く。今度はもっと強く、けれども同時に、星崎さんの意思に任せるように。


「……すぅー、はぁー……よし。えー、よいしょっ……とぉ──」


 星崎さんの心さえ決まれば、あとはもうあっさりと。引っ張っているのか押されているのか分からない力加減で、二人して星の海にダイブした。飛沫も立たない。泡も立たない。だってここは水の中じゃないから。水よりも空気よりも心地良い、暗闇と星で満たされた世界。


「ほら、良いところでしょ?」


「──っ」


 赤茶けた髪が、“星の海”の中でふんわりと漂っている。夜空とのコントラストが美しい。そんな星崎さんの瞳に、なにかに見惚れるような色が浮かんで、さらに気分が良くなってしまう。彼女も“星の海”を気に入ってくれたんだと思って。


「そんなに強張らないで。体は自由に動かせるんだから」


 手を繋いだまま言葉と身振りで伝えて、そのまま二人で泳いで回ろうと、そう思った矢先に。


「っ、……!?」


 突然、星崎さんが表情を一変させて水面に上がっていった。ひどく慌てた様子。両手がほどけてしまって、無性に寂しくなる。追いかけるようにして私も外の世界へ。


「──はぁっ、 ちょ、この中……っ、息っ、息できないんだけど!?」


「えぇ……?」


 まるで本当に水からあがったような反応を見せる星崎さん。息が少し荒くなっている。言っている意味が分からなくて、私は首を傾げてしまった。


「いや普通にできるって」


「いやいや」


「いやいやいや」


「いやいやいやいや」


「いやいやいやいやいや」


「…………すぅー、んっ……!………………いややっぱりできないって!!」


「えぇー……?」


 もう一度潜って、そしてすぐに戻ってきたその顔は、とても嘘を言っているようには見えなかった。

 予想だにしない事態。どうやら本当に、星崎さんは“星の海”の中で息ができないらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る