星の海
今まで屋上から空やグラウンド、他の校舎なんかを眺めていたのは、ただそれがそこにあったからというだけのことで。別に景色を楽しんでいるだとか、風情を味わっているというわけではなかった。
けれども星崎さんが屋上を訪れるようになってから、私は意識してあるものを観察するようになった。彼女の横顔だ。あの日に見た、細められた気だるげな眼差し。あれがどうにも心に焼き付いて、もう一度と言わず見られないかと思って、飽きもせず七不思議調査……といいつつほとんど私と駄弁っているだけの星崎さんを横から眺める放課後。教室での賑やかな彼女にはあまり興味が沸かない。
と、そういうことが一週間ほど続いたある日のこと。
教室の窓から見上げる空はほどよく晴れていて、しかしほんの十分前まではバケツを引っくり返したような土砂降りだった。昼休みのあとくらいから降りだして午後の授業のあいだ続いた豪雨は、帰り支度を始めた辺りで、まるでタイミングを計ったみたいにさっと止んだ。
今までならこういう日は、どうせ水浸しな屋上へはいかず素直に帰っていたところだけれども。クラスメイトたちに紛れて教室から出る瞬間、星崎さんの横を通ったときに、柊木くんと話す彼女から一瞬だけ視線を向けられた気がした。彼女の声で“七不思議その三”が脳内再生される。それに唆されるようにして、気付けば私の足は第三校舎へと向かっていた。
◆ ◆ ◆
あった。“星の海”が。
「……マジか」
放課後になったばかりの時間で、空はまだ青い。嘘みたいに雨雲のなくなった晴れ空の下、屋上は一面水浸し。そしてその大きな水溜りには、どういうわけだか夜空が映り込んでいた。
「……マジか……」
ほとんど黒のような群青に無数の星々が瞬いている、紛れもない夜の空。それが足元に広がっている。手すりと柵に囲われた、第三校舎屋上という範囲の中だけで。
押し開けたドアの一歩先、僅かな段差になっているそこに立ったままもう一度空を見上げる。よく晴れた青空だ。見下ろす。よく晴れた星空だ。昼が上に、夜が下にある。それは紛れもなく“雨が降ったあと屋上に星の海が現れる”というやつで、もう疑いようもなく、七不思議が目の前にあった。
「…………」
不思議だという気持ちはあるけれども、同時に、なぜだかあまり驚きはない。ここは第三校舎屋上で、つまり私のお気に入りの場所で、そこに宇宙のような水溜りが現れたというのなら。
「……入るか」
そんな気持ちにすらなってしまった。入れるという確信、泳げるという確信があった。その他のことが全て押し流されてしまったように、私はなんの躊躇いもなく一歩踏み出して、ローファーのつま先を“星の海”へと浸けた。水面に波紋が走る。その奥の景色、群青の海と星たちは消えずにそこにある。二歩目はそのまま、体を投げ出すようにして。
「っ」
どぷん、と、なるほど確かに水に潜る瞬間にも似た感触。けれども水とは違って、体に重くまとわりついてくるものはなにもない。ただそこには、外から見下ろしていたときと変わりなく、夜空と星の光だけがあった。宇宙を漂うとはこんな感じなのだろうか。あるいは深海? 今の私の格好は、学校指定のブレザーだけれども。
「おぉ……」
思わず息が漏れてしまって、それで声が出せることも、呼吸ができることも理解する。なにより、今までの人生で感じたことがないくらいに体が軽い。ふわふわと浮いているようでありながら、思ったとおりに体が動く。腕をかけば進みたいぶんだけ前に進み、腰を捻れば全身がくるりと仰向けに。水面の下から眺める外はよく晴れていて、少し揺らめいていて、どこか遠い世界のようにも見えた。
「よっ……と」
陽の光にはもうさほどの興味も湧かず、私はもう一度体を捻って“星の海”を見渡す。どう考えても屋上の水溜りには収まりきらないほどに、前後左右そして下へ下へと夜空が広がっている。くらくらするほどに広く、間違いなく暗黒であるはずなのに、たくさんの星の光のおかげか寂しい印象は浮かばない。むしろ逆に、本当に、いつも屋上に感じていた居心地の良さと同じものがある。
星にはなにも詳しくないけれど、どうしてか直感的に、この“星の海”は私たちの遥か頭上にあるそれらとはまったく繋がりがないものなのだと理解できた。なんとか座だとかなになに星雲だとか、実在する星系の鏡写しではない、まだ人間がなんの意味も見出していない星々。新しい宇宙。ただ、それらの星たちは一つとして、私のそばにはない。もっとずっとずっと深いところにあって、とても手なんて届かないことが分かる。底も知れない夜空の奥からただ瞬いているだけ。
まるでこちらを誘っているようにも見えて、その光を追いかけたくなってしまう。息もできるのだし、怖いことはなにもない。一度そう思ってしまえばもう、迷わず体をくねらせて、もっともっと深くへと──
「どぅおわぁっなにこれぇっ!?」
──随分と大きな声が水面の向こう、外の世界から聞こえてきて、私の意識はそちらへ向いた。星たちよりもずっと強い引力が体を引っ張って、私を水面へ引き上げる。こちらとあちらの境目をまたぐその瞬間は、やはり少し不思議な感触があった。
「こ、これって“星のう──」
「星崎さん」
「──みょおぉおうえぇえっ音峰さん!?!? なにどゆこと!? 落ちた!? 泳いだ!? なにしてんの!?!?」
まあなんというか、いかにも賑やか系といったリアクション。私が先ほどまで立っていた階段口前の段差の上で、星崎さんがドアを開けたポーズのまま固まっていた。まん丸な目はこれでもかというほど見開かれていて、私の好きなあの眼差しとは程遠い。落ち着いて欲しかったので、なんでもないよと伝えるつもりで手を差し伸べてみる。胸から下は“星の海”に浸かったまま。我ながら、少しらしくない距離感だとは思いながらも。
「星崎さんも泳ぐ?」
「いやおよっ──! ……いや、うん、泳がないよっ、怖いし」
一周回って冷静になった、というやつだろうか。星崎さんは声のトーンを一気に下げて、眼差しも少し落ち着いた。ポケットからスマホを取りだ……そうとしてやめて、それから、膝をついてしゃがみ込む。
「……ほんとに“星の海”だ」
「吃驚だよね」
「音峰さん、全然驚いてるように見えないんだけど」
泳いで彼女のそばまで行けば、少しじっとりとした目で言われた。そうそう、そちらのほうが似合っている。とは口には出さずに、“海”と星崎さんの足元との縁に腕を乗せて、体を預ける。視線を下ろせば、“星の海”に浸かったままの胸から下がわずかに揺らめいて見えていた。星崎さんもそんな私の体を静かに、こわごわと観察している。
「よく入ろうと思ったね……」
「まあ、言っても屋上だし」
「いやよく分かんないけど……な、中はどうなってるの? 深さとか、いやそもそも触って大丈夫なの? 何空間?」
「んー……なんだろう、宇宙って感じ」
「宇宙」
「でも息はできるし自由に泳げる。星はずっと遠くにあって触れなかった」
「うーん、なんにも分からない」
「いや言葉の通りだけど」
「って言われましても……」
そう難しいことは言っていないと思うのだけれども、なぜだか伝わらない。
「やっぱり星崎さんも泳いでみたら分かるんじゃない?」
「いーやいやいやいや……」
どうやら彼女は“星の海”をひどく怖がっているようで、どうもその感覚に共感できない私がいた。七不思議を探していたのは星崎さんのほうで、それが目の前に現れたのだから、もっと喜んでもいいと思うんだけれども。
「普通はね? 実際に不思議なことに遭遇したら怖がるものなんだよ、音峰さん」
そう言った星崎さんは、しばらくのあいだ“星の海”を眺めていて。二十分か三十分か、決心するのにそれくらいの時間が必要だったようで、彼女が指先で恐る恐る水面を突いたのは、日も赤くなり始めた頃合いだった。
「……水……? なに……?」
星崎さんの口から漏れた感想はそんなもの。私のほうはといえばずっとぷかぷかと浮かんでいて、彼女が指を付けた瞬間、手を取って引っ張り込んでみたらどうなるかなんて考えたりもしたけれども。まあ、さすがに実行はしなかった。
「いやぁ、うん……いやぁ……」
触れて確かめて、ようやく恐怖心が和らいだらしい星崎さん。それでもまあ、この“星の海”がなんなのかは分からない様子。それはそうだろう。私も分からない。
「柊木くんは何か、図書館で見つけたりはしてないの?」
「今のところはなにも、って感じみたいだけど……」
他の“ヒロイン”の面々も同じような感じ。となると七不思議調査は星崎さんが一歩も二歩も進んだ形になって、まあその、下世話な話
「うーむ……何とも不思議じゃ……」
だけども星崎さんは、驚いたり怖がったり不思議がったりはしつつも、この“星の海”を柊木くんに知らせようとする様子がなかった。スマホを取り出しかけたのは最初の一瞬だけで、あとは写真を取ることすらしない。そもそも、ここ数日は特に私と屋上でだべっていただけなのだから、調査というにも意欲が感じられない、気がする。
「……柊木くんに伝えなくていいの?」
で、気付けばまたそんなことを口走ってしまっていた。いやでもこれくらいならべつに不躾というわけでもないはずだし、でも屋上の独占が終わってしまうのは嫌だなという私自身の気持ちとは矛盾していて、どうにも自分の口が分からない。
「……そう、だね」
「っ」
星崎さんの表情が陰った。目付きがするりと細くなる。あのときと同じ表情に、私は目を奪われてしまった。
「まあ、実際すごい不思議な……超常現象? みたいなことが起きてるわけだし。七不思議の通りに」
ああでも、なんだろう。一度目はただ心に焼き付いた表情を、こうしてもう一度見てみれば、どうにも物足りなく感じている自分がいる。いつものぱっちりとした賑々しい丸目とは正反対の、アンニュイな視線。メイクを変えたかと思うほどに、影と光の比率が変わる。教室にいる時とはまるでベクトルの違う美しさ。これを求めていた。だというのにどうしてだろうか。なにかが足りない気がする。
……いや違う、なにかが余分だ。
「我ら七不思議調査隊としては、情報共有すべきというのは、そりゃあもうその通り」
おどけるさますらどこか痛々しくて、だからこそすぐに分かってしまった。憂いだ。憂いが余計なんだ。
細まった、どこか気だるげな眼差しは好きだけれども。その上に乗っている憂鬱げな感情がいらない。そうじゃなくて。もっと、もっと力の抜けた星崎さんが見たい。なぜそんな欲求が湧いてきたのかは分からない。だけれども一度自覚してしまえばもう、私が求めているのはそれなんだと思えてならなかった。ついさっき吸い込まれるように“海”の底を目指そうとした、あの感覚に似ている。体や心が、勝手に向かっていってしまう。
「……言いたくないんなら、別に言わなくていいんじゃない?」
だから、気付けばそんなことを告げていて。
「……いや、聞いてきたの音峰さんじゃん」
返ってきたのは、満面の笑みとは程遠い、力のない微笑。どきりと、私の胸の辺りで、水面が揺れた気がした。
「確かに」
「確かにじゃないって」
憂いが消えて、その代わりに呆れが差し込まれたようなじっとりとした眼差し。私がそれに見惚れているうちに、星崎さんは結論を出す。
「……まあうん、そうだね……えっと、もうちょっとよく調べてから、秀太には報告しようかな」
「そ」
「うん、そう」
例によって愛想のない返事になってしまったけれども、星崎さんは気を悪くすることもなく、どころか嬉しそうな……というより、気安げな? そんな雰囲気で、もう一度“星の海”の水面に触れていた。小さな小さな波紋が生まれて、私の胸に当たって溶ける。
「……まあ私としては、屋上の独占期間が伸びて助かる」
「この状況でもそれ言えるのすごいね……てか、どっちにしろわたしはいるんだから独占じゃなくない?」
「……確かに」
言いたくないならという私の言葉を、星崎さんは否定しなかった。なぜ、“星の海”を柊木くんに伝えたがらないのか。下世話な言い方をすれば、これは彼の興味を引くチャンスなはずなのに。
前に見た、“ヒロイン”間のバチバチした関係に疲れている様子が思い出された。はたから“主人公くん”だの“ヒロイン”だのと呼ばれるだけあって、一人の男を中心に女たちが集っているように見える、そんな関係性の中で。もしかしたら星崎さんは、
「……? どうかした、音峰さん?」
「……や、別に」
“星の海”に浸かったまま、彼女の顔を見上げていると、どうにもそんな気がしてならなかった。
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