第7話 呼称
素肌の肩に、彼女が薄っぺらい毛布をかけた。そのまま首にまで巻きつけ、両手だけを出して冷蔵庫から出してきたアイスクリームのふたを開けた。ホテルに入る前にわざわざコンビニで買ってきたレディーボーデンのバニラは、表面がうっすらと光っていた。
咲希は剥した内蓋の裏を片手だけで器用に上向けてテーブルに置く。カップアイスを食べるのにはやや大振りなスプーンに持ち変えながら、
「一口食べる?」
彼女が首をかしげると、茶色い髪の毛先が乳白色の表面に落ちそうになる。だいじょうぶ、とベッドのへりに腰掛けたまま返事をすると、咲希は目尻を和らげて一口目をすくった。それじゃ遠慮なく。普段の食事のときよりも大きめに口を開け、銀色の丸みを舌に乗せた。
俺はベッドの横に落ちていた長袖のTシャツを拾い上げて被り、ついでにエアコンの温度を上げた。ありがと、と聞こえた声に短く返事をして、すみにあったひとりがけのソファに座り直す。
「この間、久しぶりに初対面の人に出身地聞かれたんだ。日光ってこたえると、やっぱり変な顔する人って結構いるんだよね」
咲希がアイスを掬いながら愚痴るのを、ソファのうえに折り曲げた足をさすりながら聞く。少し肌寒いが、これ以上温度や風量をあげても無意味な気がした。どんなに照明を暗くしても、内装をリゾート風に整えても、年季が入った壁のシミやそこはかとなく感じる隙間風をごまかすことはできない。エアコンの年式もそれなりに古そうだった。
「観光地として有名なのはわかるけど、普通に家もマンションもあるし、そこで生活してるひとはいるのにね」
ん、と短くあいづちをうった。咲希は、俺がどんな返事をしようと関係ないという口ぶりで話すわりに、少しでもうわの空でいると目ざとく見抜かれてしまう。濁った間接照明から目を離して咲希を見る。やっぱりほしい? と聞かれてもう一度首を振った。
食欲は、あまりなかった。冷たいものは真夏のあいだにしか食べないと言ったら、咲希はやけに大きな声を出して笑った。そんなにおかしいか。おかしいよ、アイスもかき氷も、冬のほうが本当のポテンシャルを発揮できるでしょ。
頭がぼんやりして、昨夜の課題レポートを仕上げるためにした夜ふかしがあくびになって出た。眠気が充満してくると、すかさず寒さが邪魔をする。ここの冷たさは、どこか東北の実家を思い出す。気温も湿度もまったく違うけれど、唸りをあげるエアコンの風に乾かされた室内は温かさとの中間地点を感じる。ただ違うのは、この部屋には十分にぬくい場所はない。
「ね、今日泊まっていくでしょ」
知らぬ間に咲希が大きめのシャツを被ってベッドを出てきていた。
こんな服を着ていただろうかと思っていると、俺がTシャツのうえに羽織っていたものだった。袖から爪先も出ない腕で首に巻き付いてくる。膝に感じる重量は相変わらず軽い。
「なにも言わずに出てきちゃったから、帰るのダルくて。今の彼氏、束縛きついんだよね」
ふわ、とあくびした彼女の頭の重みが肩に乗り、華奢な骨のとがりが食い込む気がした。首筋には相反するように柔らかい髪の感触。金縛りにあったように頬が張り詰めた。
「ね、いいでしょ」
鎖骨にかかった指先は細く、甘いバニラの香りがした。思考が、もうそれ以上なにも感じてはいけないと訴えかけてくるのに、なぜか深く呼吸をする。息があがっているせいだ。
咲希が言った「彼氏」は、この場所を同じくらい安っぽい響きだった。大した意味のない呼称を聞いていると、説教めいたことを言いたくなってしまうけれど、そんな資格は俺にはなかった。
そのまま体重をかけてソファにだらしなく座る。二人分の重みに座面がたわむ。もう二時だよ、と咲希が言う。今日はじめて笑った顔を見た。巻き付いていた腕はいつの間にかだらりと落ちていた。
「やっぱり一番は潮見だな」
もう何度も聞いた言葉が、想像通りのトーンで吐き出された。咲希の呼吸が徐々に切羽詰まってくる。
「潮見が嫌なら今の彼氏とも別れるし、それに、」
強く息を吐き出して、身体を力任せに揺さぶった。そのあとを聞きたくなかった。咲希の呼吸が不規則に上下する。
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