第6話 尻尾

「このあたりは日に焼けてる子が多いよね」

 顔を上げると、三神先生はタイピングする手を止めて俺を見ていた。教材室の資料を広げながら、次の中間テスト対策のプリント、と困ったように笑った。あの顔はよく、生徒から宿題が多いと駄々をこねられたときに見せる表情だ、と咄嗟に思う。

「あれ、潮見君って内陸の出身だって言ってなかったっけ」

「そうです、けど。考えたことなかったです」

「男の子はそういうのあんまり気にしないか」

 ピンとこない、というよりは三神先生がそんな些細な話を覚えてくれていたことのほうに気を取られてしまった。曖昧にうなずいてみたが、さほど気にしていないみたいだった。

 その日の彼女は珍しく眼鏡をかけていた。縁の細いしなやかな形のフレームと、その奥の目尻がわずかに下がる。それが大人っぽくも、かえってどこかあどけなくも見えて動揺する。

 そもそも、教材室で彼女と話をしていること自体に動揺しているのだ。いつもどこにでもいるようで、その実滅多なことではふたりきりになれない。授業や自習室にいなければ、職員室で書類整理や保護者対応を行っていることも多い。なにより隙を見つけたとしても、三神先生のとなりに座れるのは生徒だけだ。

 それが、月に何度と数えられるほどでもないけれど、不意に教材室に顔を出すことがある。基本的に教材室を控室として使用するのはアルバイトに限られるが、彼女は時折ふらりと立ち寄っては資料とノートPCを開いていたりする。大概は授業数の少ない四時から五時くらいにかけて。

 高揚と緊張。わざわざ受け持ちの授業時間よりもずっと早く出勤しているわけを問われたら、俺はそれに答えないわけにはいかないのだ。

 動揺しているのを悟られないように話を続ける。

「やっぱり海が近いからですか」

「そうかもね。スイミングとかサッカーなんかと同じくらいサーフィンしてる子も多いし。健康的に焼けてるっていうのかな、いいよね」

「三神先生の出身って、」

「うん、私もどちらかといえば内陸で育ったほうだから」

 そう言いながらこめかみの細いつるを控えめに指で押す。爪の先端がきれいな半円に整えられているのが目に入る。

「潮見君は今年海行った?」

「行ってないですね、そういえば」

「大学生なのに?」

「大学生ってそんなに海行くものですか」

「行くでしょう、それはもうことあるごとに」

 首をかしげると彼女がくすくすと小さく笑う。その顔をなんとなく横目に見る。みぞおちのあたりが落ち着かないのを、弱い力で抑えるとほんの少しだけ収まる気がする。

「私も行かなかったなあ、今年は。地元にいるときも車とか電車でなら行けない距離じゃなかったけど、子どもだけじゃ危ないでしょっていう両親だったから。海は恐ろしいところだなんて、あたってるけど、間違ってるよね」

 この辺の子たちに言ったら笑われそう、と言いいながら自分で笑う彼女の手の甲に目がいく。夏が終わり、晩秋の弱々しい日差しみたいな白さだった。

「だからはじめてまとも海行ったのって、高校生になる前くらいだったかも。夏じゃなかったから水にも入れないし、なにして遊ぶものなのかもわからなくて、ただ眺めに行ったようなものだったけどね」

 困ったように眉を下げて話す。それ、わかります。思わずこぼすと、彼女が優しく頷く。

 高校生の頃に行った海は、当時付き合っていた子との何度目かの遠出だった。夏ではなかったような気がしたけど、三神先生の話に引きずられているような気もする。別れたのは病気をする前の、二年生の初夏だった。

「誰と行ったんですか」

 自分のした質問にどきりとした。三神先生がいたずらっぽく目を伏せる。

「ふふ、内緒」

と人差し指を唇に当てる彼女の、眼鏡越しにくっきりと縁取られたまぶたがわずかにぼやけた。かげった肌色のうえでまつげが瞬く。

 親兄弟。友人。それなら内緒になんてしないだろう。関係性がなんであれ、彼女にはじめて海を見せたその人が、今でも三神先生のなかにはっきりと形を残していることに変わりはない。それがわかって、唐突になにもかも白状してしまいたい衝動に駆られる。

 答え教えて、先生。授業中に生徒から甘えるように投げかけられるその言葉が頭をよぎった。言えるわけがない。そして言っても言わなくても、見透かされていることに変わりはない。わけもなく思う。

 犬。そう、犬だ。尻尾があるわけでもないのに。

 そのあとすぐに何人かの講師が連れ立って教材室に入ってきて、話はそこで途切れた。何事もなかったように、三神先生は「お疲れさま」と部屋を出ていく。いつの間にか片付けられた資料とノートPCを胸に抱えていた。机に突伏する。積み上げたテキストからインクの匂いがする。

 まだ、誰にも話したこともない。一条さんみたいに、察している人はいるだろうけど。

 話せば楽になるぞ、と言ったのは、高二の頃の担任だった。そのときは確かに話すことで、鬱屈が、劣等感が、まったく別ものになった気がした。こんなことがあるのかと心の底から思った。はじめてペンを持つ手に力が入った。

 これもそうなのか。話したら、楽に。

 頬に伝わる冷たさがだんだんと曖昧になっていく。目だけを上向けると時計と目が合う。騒がしくなった部屋に、先程までたしかにいたのだ。それを知っているのは、自分だけ。まだ、俺だけにしたい。

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