第5話 率直

 しんしゅつきぼつ、とひらがなの状態を思い浮かべたあと、頭の中で四字熟語が変換される。さすがに大げさじゃないですかと返すと、携帯をいじっていた一条さんが顔を上げた。

「そうでもないってすぐわかるさ。謀ったみたいにちょうどいいところにいるなって思うことが何度も続けば。集団授業のうしろのほうで暇そうにしてるやつのところとか、自習室で駄弁ってるところとか、さりげなく声かけたりしてさ」

 小さな画面から目を離すと、一条さんは乱暴に目元をこすった。その仕草は眠気を覚ましているようにも、目の疲れを誤魔化しているようにも見えた。

「でもしばらくするといつの間にかいなくなってて、気になって探すだろ。そうすると職員室で教材の準備してたり、喋りにきた生徒の相手してんだよ。ずっとここにいましたって顔でさ。まさに出没自在」

 俺の視線に気づいたのか、持って回った言い方を選んでいるようだった。

 教材室で唯一キャスターつきの椅子に座った一条さんが足を組み替える。ずり落ちそうな姿勢がさらに斜めに傾いた。全身からだるさが伝わってくる。

 アルバイト講師と言えど、三ヶ月も経てばそれなりに”先生”らしく振る舞えるようになる。他人に、それも初対面の子どもに勉強を教えたことのある人など多くはないし、自分も例に漏れずではあったけれど、”先生”と接してきた期間を持たない人はいない。どんな口調で、仕草で、教えられてきたのかを思い出す。

 しかし生徒の目の届かないところ、教材室に帰れば、俺たちは一介の大学生でしかない。蛍光灯の明かりがふっと途切れるように、砕けた姿や口調を使う人は少なくない。なかでもこの人、同じ大学に通う四回生である一条はその最たるものだ。

 学習塾を構える駅前のビルには通りに面した正面玄関がある。社員も講師も生徒も、基本的にはそこを通って出入りしているため、当然時間帯によっては多くの人と顔を合わせることになるのだが、彼は頑としてその瞬間を避けていた。

「授業はじめるところからしかバイト代は出ないだろ」

 そういってあくびをする一条は、決まってビルの裏口から出勤してきた。薄暗く物置同然になった裏路地を使いたがる者は少なく、裏口からでなくては出勤できない部屋着のような格好では、社員からあまりいい顔をされない。それでも泰然自若とスタイルを貫く一条は、なにより生徒からも保護者からも信頼の厚い優秀な講師だ。

 あらかじめロッカーに用意してあるワイシャツに替え、白衣を羽織れば思いの外それらしい”先生”ができあがる。こうした”スイッチ”がある人は多い。

 普段は講義をさぼったり居酒屋で大騒ぎする普通の大学生でも、生徒の前に出れば、板書用のホワイトボードを前に姿勢良く立ち、公式を書き連ねられる。帰り際には宿題をやってくるよう促すことだって造作もない。すべては記憶の中にあるのだ。自分は提出期限を過ぎたレポートを抱えながら、そんなことはおくびにも出さない。

 学生としての領分と、アルバイト講師としての領分を分けること。徹底している人に至っては、生徒と生活圏が被らないようにわざわざ隣町から来ていたりもする。たしかに最寄りのスーパーやコンビニに出かけると、不意に”先生”と呼ばれる場面は想像よりも多かった。

 一条は椅子の背もたれに体重をかけ、背後の出入り口の上にかけられた時計を振り向いた。次の授業がはじまるまでの三十分弱。そろそろ生徒たちがやってくる頃だ。

 専用のロッカーを前にのろのろと準備をしながら、

「だからあの人、どこまで”先生”でいるんだろうなって思うんだよ。俺達は授業の間だけ生徒と向き合っていればいいけど、社員は一日中そうなわけじゃん」

 扉側を背に素早くシャツに腕を通し、うえに白衣を羽織る。支給の白衣は一着のみだが、一条のロッカーには薄い水色のものがもう一着ハンガーにかかっていた。どちらも袖口からボタンの際にまでシワひとつない。領分を分けることに余念がないな、と思いながら白い背中を眺める。

 この人ほど極端なのも珍しいけれど、社員ですら授業の合間は職員専用の一室に篭っていたり、ビルを出て裏手の喫煙所で休憩を取る人も少なくない。それくらい他人の視線、それも生徒の視線というのは先生でも大人でもない生き物の呼吸を浅くするのかもしれない。

「一条さんは教員志望じゃないんでしたっけ」

「ないない。俺は院に行って博士まで進むつもりだし。そもそも、向いてない」

 振り向いて口角を上げた顔がすでにかしこまった講師のそれだった。向ていない、なんてこの男が言うのなら大抵の人間がそうだろうに。

「その点、お前は向いてるよ。あけすけになっても平然としていられるやつは強いから」

「あけすけって、そんなにですか」

「自覚があったらあんなに尻尾振らないだろ」

 先に行くぞー、と教材室を出ていった一条と入れ替わるように別の誰かが入ってくる。胸に抱えたノートパソコンを庇うように身体を斜めにしながら、すれ違った一条と短く言葉を交わす。そして教材室はふたりきりになった。

「今日も早いね、潮見君」

 三神先生ははっきりとわかるように視線を合わせて微笑んだ。彼女の口調には、向けられた相手に正しく「褒められている」と感じさせる力がある。柔らかいのに率直な言葉に、俺はわかりやすく落ち着きをなくしていく。

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