第4話 実感
「ここでは講師同士のことは”先生”をつけて呼んでるの」
「アルバイトもですか?」
「そうですよ、潮見先生」
三神先生はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
はじめて呼ばれる。この呼称に慣れる日が来るのだろうか。
「直近のシフトと、授業の進行に関しては資料にまとめてあるから。テキストと一緒に目を通しておいてね」
「はい、えっと、三神先生」
「うん、これからよろしくお願いしますね」
今日はこれで終わりだよ、と締めくくり、代わりにいくつかのテキストを手渡される。理数科目を数冊と、受講生が多いという国語と英語。パラパラめくってみる。懐かしさと、まだ記憶に新しいものとが混在している。
立ち上がった彼女に合わせて席を立つ。もう少し。手元の資料をとん、とテーブルのうえで合わせる動作に焦りを覚える。こんなときに限ってなにも出てこないのだ。
「三神先生は、」
「私?」
私服のうえに羽織った白衣の前が自然と重なる。面接のとき応対に出た社員らしき人も同じような格好だった。アルバイトは襟付きの私服に、希望すれば白衣を貸し出してもらえると説明を受けたが、今はそんなこと考えている場合ではない。
不意に手元のテキストが目に入った。
「三神先生は、得意教科ってなんですか」
なんだ、その質問。友達にだってしないような。
引っ込みがつかなくて黙ると、部屋はしんと静まる。
ふ、と息を吐く音。
「ふふ、面接みたい」
笑われて、気づく。ついこの間された質問のオウム返し。
「そうだな、どの教科でも教えられるように準備はしてるけど、強いて言うなら国語かな」
左手の指の側面を軽く唇に当てる仕草は、考えるときのくせなのだろうか。目の奥から覗いた柔らかい視線が刺さる。なにか言わなくては、とまた言葉を探した。
「俺も、好きです、国語」
そう返事をすると、半歩遅れて三神先生の「そっか」と笑った。たった三文字に、自分でも知らない部分を理解されたみたいな気がして動揺する。
理解されるもなにも、面接当初に国語は苦手だと伝えたことも、小説の類をほとんど読まないと話したことも、きっと三神先生は知っていたはずなのに。
そのあとすぐに別のバイト生が教材室に入ってきて、話はそれ以上続かなかった。続いたところでまともに返せていたかもわからないけれど。小さな子どもがつく嘘みたいに、口にした好意に息が詰まる。
裏口から外に出ると、湿った夏の匂いがした。狭いビルの間に薄暗い夕暮れが差し込んでいる。大通りに出ると、見知らぬセーラー服とすれ違う。故郷ではないことを実感するのは案外こういうときだ。生まれ育った、ということは、これからそこで育つ人の生活を想像できるということなのかもしれない。俺はまだなにも知らない。
最初のシフトは明後日からだ。
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