第3話 空想

 アルバイトの初日、講師の控室と兼用だという教材室には、俺と「三神先生」のふたりだけだった。水色と灰色の中間色のようなフロアマットが敷き詰められた授業用のブースに比べて、教材室は年季が入ったタイルに黒い靴汚れが目立つ。そこに組み立て式の長いテーブルと、それだけ最近取り替えたばかりのような新品の椅子が数脚。腰掛けていた彼女がすっと立ち上がる。

「社員の三神です。よろしくね」

 丁寧な口調に整った笑みが浮かぶ。それだけで、大きく動いた気がした。

 今思えばとても事務的な、誰にだって見せるようなほほえみだったのに。

 名乗ることも忘れ、ただ頭を下げた。あとになってよろしくお願いします、と付け加える。声が震えていたかもしれない。教材室に入るまではさほど構えてもいなかったのに。彼女と視線を合わせると、ますます顔がこわばる。

 三神先生は俺を見て困ったように

「そんなに緊張しないで。取って食べたりしないから」

と、手前の椅子をすすめた。言われるがまま座るが、そう簡単には心臓が鳴り止まない。このままこの人の前にいたら、焼き切れてしまうかもしれないとすら思う。

 手際よく授業やシフトについて説明されるのを、落ち着かない心地で聞く。時々目が合うと、さらさらと溢れる黒髪の横の目が小さく笑う。

「潮見君にはおもに中高生の理系科目を見てもらうことになります。とはいえ化学や物理の受講生は少ないから、ほとんど数学の授業になるけどね」

 得意だったよね? と会話を挟む。説明ばかりにならないためか、三神先生からたびたび質問を投げかけられる。今、猛烈に自分がつまらない人間のような気がしてならなかった。うまく答えることができないのだ。

 三神先生が手元の資料をぱたりと閉じる。壁際に所狭しと教材類が並んだ部屋は音が響かないのに、なぜかその瞬間だけがスローモーションのように切り取られる。

「潮見君は、教師志望だったっけ」

「あ、いえ、まだ決めてなくて」

「そっか。私はね、目指してたんだ。昔だけどね」

 むかし、という言葉が小さい頃に読んだお伽噺の響きと重なる。そんな離れていないだろうに。離れていないと思いたい。

「高校生の頃にね、学級会が開かれて。小学校みたいでしょ。でも本当なの、大学受験組と就職組であまり仲が良くなくて。先生になんとかしろって強引に授業を潰されて、受験組にとってはなおさら火に油だよね。

実は私も、その頃志望校ぎりぎりでね。でも怒るほどの勇気もなくて、自習だと思ってうしろで勉強していればいいやって、ほとんど参加せずにいた。

話し合いは時々ヒートアップしながら、おおよそは冷静だったよ。高校生だもの、自分から舞台に立って気持ちを曝け出せるような年頃じゃなかったからね。適当なところで終着するんだろうなって思った終盤、ひとりの女の子が泣き出したの。

特別目立つ存在じゃなかった。どちらかといえば大人しくて、確か美術部だったかな、教室の隅で仲の良い子たちと漫画とかアニメの話をしているような感じ子だった。進路相談のときにたまたま同じ教育学部志望って聞いたけど、特別接点ができることもなかった。

そんな子が泣いてたの。なにを言ったのかは声がかすれてよくわからなかったけど、とにかく私たちに向かって訴えていることだけはわかった。握りしめた手を机に押し付けて、小さく肩を震わせて。

クラス中が彼女を見ていた。いい反応ばかりじゃなかったよ。大半は呆れていたり、冷めた顔をしていた。でも、真剣に聞いている人も少なからずいたの。私もそのひとり。それで、そのとき思ったんだ。彼女みたいな子が先生になるべきだって。

大抵のひとは白けるかもしれなくても、言うべきことをきちんと言えて、怒るべきときにはっきりと怒れる人。それで、たったひとりを救えるような、そういうことができる人。その証拠に私は先生にならなかった。彼女に生き方ごと変えられちゃったのかもしれないね」

 三神先生が伏せていた視線をそっと上に向ける。その瞳に見入ってしまう。

「潮見君は?」

 尋ねられて鼓動が跳ねた。

「俺、は、」

 喉が乾いて、かすれたままの声が室内に落ちる。気づくと右手で左手の手首を握りしめていた。

「高校生のとき、少し、病気をしたことがあって」

 うん。三神先生が丁寧にあいづちをうつ。

「進級もぎりぎりだったし、これからもっと諦めないといけないことが増えていくんだって、思ったんですけど、そのときの担任がすごく励ましてくれて、大学にも行けて」

「憧れたんだ?」

「そう、だと思います」

 うなずいた途端に顔が熱くなる。誰に話したこともなかったのに、会ったばかりの人に、こんな。そもそもは彼女が先にあんな話をしたから。言い訳だらけだ。頭が混乱していた。

 まるで全身が痺れるみたいな、このときの感覚は、今でもはっきりと思い出せる。記憶とは棚に本を詰めるように、表面だけしか見えない状態でしまわれるというけれど。彼女に出会ったときのことは、いつも開いたまま、日焼けすることもない。

 そう言ったら、どれだけの人が笑うだろう。一目惚れなんて空想だ。打算のない恋はかえって不健全だ。そう言って笑うだろうか。

 でも、彼女は笑わない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る