第2話 急募
大学に入学する前、下宿先を探しに訪れた不動産屋の男が言った。
「ここから海は見えないですよ、さすがに」
皮肉めいた口調に、反射的に黙った。まだ若い顔をした男は気にも留めていないという声で「じゃあここと、あとそっちの部屋見に行きましょうか」と強引に話をまとめながら、カウンターに並べてあった数枚の物件情報をファイルにしまった。言われるがまま社名の入ったコンパクトカーに乗せられ、まだ見知らぬ街を眺める。内覧に行った部屋はどれも悪くなかったけれど、結局そのどれも契約はしなかった。
薄いマットレスのうえで目を覚ますと、窓のふちに夕暮れがかかっていた。ほんの数センチの間に、混ざりきらない赤と紫と青が層になり、それから深い黒が広がっていた。星が点々と浮き上がっているのを見て、慌ててスマホを探す。アルバイトのシフトまでにはまだ余裕があった。
滑り込むように決めたワンルームは、お世辞にも広くも綺麗でもなかった。はじめに内覧した駅から徒歩数分の物件を惜しく思うこともあったが、築二十年という気兼ねのなさが思いの外しっくりきて契約したのが今の部屋だった。必要最低限のものしか置いていない部屋は散らかることも少なく、多少汚したところで大して気にもならない。東北の実家と変わらない気楽さで一人暮らしをはじめられたことは、どこか自分の身の丈にあっているという満足感があった。
適当な紺のスラックスにワイシャツを羽織り、アルバイトに行く準備をする。出勤時に義務付けられている襟付きのシャツも、面倒に感じたのは最初だけだった。むしろ洒落た柄のポロシャツを探してきて、制服代わりの白衣の中に着込むよりはよっぽど楽をしていると思えた。
高校卒業後すぐに学ランを捨てた。周囲からは「もう少し執着しろよ」と苦笑いされたが、もう着ないものを取っておいても仕方がないと思ったのだ。それからたった三ヶ月ほどでスーツを着ることになり、予想よりもずっとワイシャツが身体に馴染んだままなことに、今度は自分が苦笑いした。記憶も予想も、感覚として覚えていることに比べたらまったく当てにならない。
家を出る頃にはすっかり夜になっていた。夏場は夕方だったのに、早送りしすぎた一日が日暮れを待ってから帳尻を合わせているみたいだった。
ぽつぽつと街のあかりがつき始めているものの、根本的にここ一体の夜は暗い。日が沈めば人の営みも終わり、日が昇った頃に再開するのが当たり前になっているという様子だった。
「ほら、すぐそばに灯台があるだろ」
「関係あるんですか」
「あるよ。周りがいつまでもびかびか明るかったら、灯台の光がぼやけるだろ。だから港町は朝も夜も早い」
ところによりけりだけどな、と言い添えたのは確か他学部の先輩だった。一回生の頃、友人に付き合って一時だけ所属していたサークルの人だったはずだけど、さだかではない。
ここから海は見えないのに、海があることを前提にした暮らしが広がっている。東北の山岳地帯の麓で生まれ育った自分には不思議な感覚だ。
故郷は雪深い街で、冬場は除雪車と雪かきなしでは暮らすことさえ難しい。空は常に灰色で、代わりにどの家も窓硝子から漏れるあかりが降り積もった雪を照らし出していた。温かさの象徴みたいに。
住む場所が変われば生活も変わる。十八年間馴染んだ景色は、それからたった二年であっという間に塗り替わっていく。
大学生活は想像していたよりもずっと忙しなく、あっという間に日々は過ぎた。一回生にぼんやりしてる暇はないぞ、と先輩から聞いたことをそのまま口にするクラスメイトの言った通りになった。
講義は毎時間休みなく、空き時間があれば教授や上級生の手伝いに駆り出されることも少なくなかった。中高生の頃にはなかった「付き合い」という口実のもとで呼ばれることも増えた。大学生というのはやたらとつながりを重要視する人が一定数いることを、そのとき知った。
塾講師のアルバイトに入れることになったのも友人の紹介だった。大学生は暇だという刷り込みは嘘だったが、金がないのは本当のことで、周囲が次々と大学付近の店で働き始めていた時期だった。
駅前の大きなビルの一階から三階までを貸し切ったその塾は、このあたりでは一番の生徒数を誇る大手らしかった。故郷の地方では聞かなかったが一応全国展開でもあるようで、基本は中学生が多いものの高校生を対象とした授業もあり、奥の教材室にはしっかりと最新の赤本が並んでいた。
理数科目を教えられる大学生を急募していたこともあり、面接もそこそこに筆記試験を受けた。教職課程を履修していたことも手伝ってか、翌日にはすんなりと合格の電話が入った。すぐにでも来てもらいたという要望に間髪入れずにうなずいた。なにせ俺も、例に漏れず金のない大学生だったのだ。
面接から三日後、指定された時間に再び訪れると、待っていたのが「三神先生」だった。
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