ここから海は見えない

片岸いずる

第1話 点滅

 アルバイトからの帰り、隣を歩いていた羽田さんが突然、喉を締めたような声で言った。

「私、実はちょっと好きだったんだよね、潮見君のこと」

 駅前の通り沿いの横断歩道で信号待ちをしているところだった。三車線が交差する十字路は歩車分離式で、いつまでたっても青にならない。立ち並ぶビルの間を埋めるように敷かれた白線が、自動車が横切るたびに古い反射板のように鈍く光った。

 とりとめのない会話の合間にそれを眺めていたら、羽田さんが意を決したように口を開いたのだった。

 午後十時過ぎの繁華街は、賑やかな人の声や店の明かりの割りに寂しげな雰囲気を漂わせていた。潮が引いて波が遠ざかるみたいに、喧騒の中にあっても他人の存在がどことなく希薄に感じる。暮らし始めて二年、もはら知らない街でもないのに。拒まれているのか、それとも自ら拒みたがっているのかはわからなかった。黙ったままの羽田さんの気配だけがじわじわと濃くなっていく。

 黒い空には欠けたつきが低く浮かんでいた。正面から向かってくる自動車の白いヘッドライトに貫かれて、ようやくぎこちなく彼女のほうを見る。

「ちょっと、そんな顔しないでよ」

 聞き慣れた笑い声とともに、羽田さんが慌てたように両手を振った。想像していたよりもずっと明るい表情で、それを目にしただけで呼吸まで楽になるようだった。

「ごめん、全然知らなくて」

「それこそ知ってるよ、だから脈ないなーと思って諦めたんだから。'ちょっと’って言ったじゃん」

 身体ごと向き直って頭を下げると、励ますように叩かれた背中に残る小さな手の感触。跳ねた口調にまた安心を得る。冬の空に短く息を吐き出したときみたいに、すっと溶けるように消えていくのが心地よかった。

「いつから好きなの? 先生のこと」

 まだ微妙にぎこちない空気を残しながらも、すでに友達の顔に戻った羽田さんの質問の答えを考える。一瞬喉をつかえたけれど、最初に浮かんだ答え以外の言葉が見つからなかった。

「たぶん、バイト入った頃から」

「それって一目惚れってこと?」

 素直に驚いた、という調子で大きな目を一層大きくして丸める。百五十は超えてるから、と自慢気に言った彼女の雰囲気はやはり小動物のそれに近く、周囲にいつも人がいるのにも頷ける。

「そ、ういうことになるのかな」

 返事をすると、自分の言葉がより断定的になる。薄ぼんやり考えていただけのときとは違うのだ、口に出すということは、人に聞かせるということは。無意味にマフラーの中に顎先を埋めた。

「そうでしょ。綺麗だし、優しいもんね。大人の余裕、みたいなのがあるよね」

 何度も頷いて見せる彼女の耳には、小さな赤いピアスがついていた。アルバイト中はアクセサリー類のすべてが禁止されているけれど、行き帰りでつけ外している人も少なくない。冬場にマフラーを巻く以外に身につけるものを持たない自分が時々簡素に思える。

 信号がようやく青に変わり、停止してもなお轟音で唸る大型トラックの前を通り過ぎる。半歩先に踏み出した羽田さんの背中で、白いマフラーからこぼれ落ちた茶髪が揺れていた。

「でも三神先生って結構年上だよね。七歳くらい、だっけ」

 振り向いた顔がどこか伺うようにこちらを見る。

「年の差、になるよね、大学生と社会人だと。相手から見たら学生って子どもっぽく見えるだろうし。三神先生なんて特に、普段高校生の子を教えてるんだし、私たちなんてほとんど生徒と変わらなかったりして」

 乾いた笑いが白く霧散していく。いつの間にかすぐ隣を歩いていた羽田さんの目がアーモンド形にしなる。

「恋愛対象として見てもらえるのかな」

 目についた赤がチカチカと光る。自動車に追い越されるたびに羽田さんのピアスが点滅して、思わず足を止めたくなる。止めたところで寒さに押し潰されるだけだ。視界に自分の息が滲む。何度か呼吸を繰り返しているうちに、冷たさが肺を満たして二度咳き込む。

 羽田さんは、もう一度俺の目を見つめてから喋り出した。

「それに、莉子と牧野君を辞めさせたのは三神先生なんだよ。みんなも言ってる、出世のための点数稼ぎだって。莉子なんて学校にもバレて保育士免許取れなくなるかもしれないのに。いざとなったらバイトなんて切り捨てればいいって思ってるってことじゃん。それなら私たちってなんなんだろうね」

 張り詰めた声がかすかに震えていた。警告。頭をよぎる。わかっていたことだ。でも理解とは違う。

 無意識のうちに薄手のコートの中に身を縮めていた。ひび割れた肺を守るように背中を丸めると、思い出すのは三神先生の指先の感触。

 横に並んでも変わらなかった目線に、あばかれる、と感じたのは一度や二度ではない。女性にしては高い身長のその人は、なにも知らないという顔で微笑む。どうしたらそんな顔、できるんですか。不意に近づいた距離に動揺しながら、背中を撫でる手の輪郭だけは不思議とはっきりしていた。三神先生という人そのものが俺のなかではっきりとした形をしていたのだ。

 でも、もう今は。

 容赦ない寒風の切れ端にかすかな潮の匂いがした。青く美しく思い浮かべたはずの海が黒く砕けて、深く暗い溝になっていく。

「潮見君は、それでもあの人が好き?」

 頬の赤みが下瞼を侵食し、目の縁まで達しようとしていた。停止した羽田さんの姿が点滅する赤信号のように、全身を揺さぶってくる。

 どう思うかなんて、どう思えばいいかなんて、俺が一番知りたかった。眼の前に置かれた事実は、どう咀嚼しても飲み込めそうになかった。途方に暮れている。ずっと、前から。

 路肩を徐行する黒のセダンに、タクシーが派手なクラクションを鳴らしている。一度、二度、瞬発力のある音が徐々に間延びし、完全に停止したかと思うとセダンからスーツの男が興奮した様子で降りてくる。警告を出したところで大抵はもう遅いし、そもそも俺と三神先生の年の差は八つだった。

 指先が薄っすらとしびれていた。背中を丸めても、慰めてくれる手のひらはない。押し黙った夜が白線の間を転がっている。

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