第8話 表紙
いつだったか、先輩に言われた。
誘われていったサークルの飲み会でのことだ。会も終盤に差し掛かったころ、トイレから戻って腰を下ろしたのがその人の隣だった。酔いが回っていたせいで正確な名前も学年もわからなかったけれど、その人は他の参加者たちからO先輩と呼ばれていた。
「大学の近くじゃなくて、できれば電車とかバスとかで行くような場所があるといいよ」
「なんでですか」
O先輩が注文するのにつられて頼んだラガービールは、口に含むと一段と苦かった。なんだこれ、と言いかけて口をつぐむと、先輩はそれをわかっていたみたいに湿った声でほほえんだ。
「長く同じ場所にいると、人間は大抵煮詰まるから。たまにはいつもと違うところに行って、同じ学生証じゃない人と喋ること。そうすると焦げかけた鍋のなかに別のものが加わるから。そこで心地よくいられたら、なおいいね」
そういうもんですか。おそるおそるもう一度ジョッキに口をつけると、やはり苦みが強くて、大皿に残った焼き鳥をつまんだ。冷めたあぶらが重く舌に残る。
あとから聞いたその人は、二年前に大学院を卒業したOBだそうだった。東京に本社を置く名のしれた企業で技術職をしており、その飲み会には彼の話を聞きたくてきたという学生も多かった。背は高いけれど童顔で、せいぜいひとつふたつうえくらいだと思っていた。
その出来事を忘れたころ、俺はマロウドに通うようになった。
『マロウド』に行くには、大学からバスで海岸方面に出る。港には多くの観光客の目的である長い堤防あり、バスはそこに向かうひとで半分くらい埋まっていた。ほどよく年季の入った車体に揺られ、六つ目の停留所で降りる。なにもない場所にぽつんと屋根とベンチがあるだけの場所で、俺以外にそこで降車ボタンを押すひとはほとんどいない。
一回生のときから面倒を見てくれている教授の指示で、はじめてその場所に立った。近くにある海洋系の専門学校の職員と古くから付き合いがあるらしく、あれやこれやと渡された資料を抱えてバスに乗り込んだのが最初だった。
「そうだ、とにかく六つ目だ。間違えるなよ」と言って渡された千円札が一枚。ろくに土地勘もなく、帰りは歩いて帰れ、ということかと思ったけれど、バス代は往復で六百四十円。コーヒーを一杯飲むくらいのお釣りが残る。
住宅街を抜けて大きな松の木が立ち並ぶ大通り沿いを抜け、狭い二車線の道に入ると、かすかに潮の匂いがした。専門学校の建物を見つけるのはそれほど難しくはなかった。入口に建つ守衛所に声をかければ、持ってきた資料を受け渡すのにも苦労はしなかった。ただ次のバスまで時間が空きすぎる。手荷物が減ったこともあって、そのあたりを見て回ろうという気になった。
マロウドは、お世辞にも小洒落たきれいな店ではなかった。路面の外壁にかかる看板は塩害のせいで赤黒く汚れていた。建物自体も相当年季が入っているらしく、ところどころひび割れたのを塗料で隠しているのがわかる。もとは観光客向けの飲食店だったのを、何年も前に地元向けのカフェに改装したというから築年数もそれなりのものなのだろう。
しかし道路に面した大きな出窓だけは、いつも完璧に磨かれていた。ほこりはおろか、ガラスには指紋ひとつ見当たらない。白い枠板さえなければそのまま飛び込めそうなほど透明で、内側の窓台に立てかけられた一冊を肉眼のように写した。
なかに入ると、マスターはこちらに一瞥もくれずにカップを磨いていた。もともと無口なひとらしく、彼の声を聞くのは注文をとるときの「どうぞ」と、ソーサーを置くときの「どうぞ」の二言だけだ。
当然席に案内されることもなかったので、迷いながらも一番奥の窓際の席に座った。混み合っていたらカウンター席にするつもりだったけれど、店内はまばらにひとり客で埋まっているのみだ。お冷と注文をとりにきたマスターにコーヒーを頼み、まだ落ち着かない心地で窓に目を向ける。磨かれた空を背景に、木製のブックスタンドにもたれかかった薄い水色の背表紙。
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