第五章 刑事と科学者

我々のポッドは、宇宙港モジュールを経てハブモジュールを経由し、そこから「第五五スポーク」を降下するエレベータに乗り換え、北第二五「アゴラ」へと向かった。

 アゴラとは広場の意味だ。ルナシティの地上部分は、半径一〇〇メートル、周長約六〇〇メートルの円周を為す。幅は四〇メートルだ。円周に沿って幅二〇メートルのメインストリートがぐるりと通っており、その両側にはアゴラと呼ばれる広場がある。広場の周囲は地下にある居住区への入り口となる一階建ての建物がぐるりと取り囲んでおり、ルナシティの住所システムにとって重要だ。

 北第二五アゴラとは、メインストリートのうち、北側、つまりLOPG側にあるアゴラで、ルナシティ市庁舎のある基準点から回転方向に沿って二五〇メートル進んだところにあるもの、ということになる。

 宇宙港から地上に降りるには、車軸とタイヤをつなぐ「スポーク」に該当する構造をたどるエレベータを使う必要がある。アゴラに面する発着場で、我々、つまり私と梓紗、司畑氏と端羽氏、それに二つの人型ロボットは、ルナシティの刑事と面会していた。

 刑事――三〇代に見えるその女性は、ミルクをたっぷり入れた珈琲色の肌をしていて、目鼻立ちがはっきりした整った顔であった。肌の色よりもやや薄い色の金髪を後ろでまとめ、余った髪は額にかけている。

だがそれ以上に印象的なのはそのブルーの瞳から放たれる眼光で、我々――つまり、端羽氏だけでなく、私と梓紗、それに司畑氏までも、鋭く射貫くような眼光で見ているようにみえた。

 彼女が連れている二人の人型ロボットは、ルナシティの青いマークをつけた、見るからに司法機関の印象のものだったが、彼女自身はグレイのスーツにパンプス、青いシャツといった出で立ちであった。

「被疑者の引き渡し感謝いたします。但し、彼が被疑者かどうかは、記録と捜査のあと、我々が決定します。とりあえず報告書は読みましたので、最も容疑の可能性のあるミスター・タンバだけを拘禁することにしますが、他の方々についても適宜捜査にご協力いただきます。よろしいでしょうか?」

 質問調だが実質的には命令だ。

「無論です」

 司畑氏は短く言う。

「NAL社には『かぐや』のシステムの捜査についてもご協力いただきます、ミスター・シバタケ」

 それから我々に向き直った。

「あなたたち二人については、それぞれの予定もあるとのことなので自由に行動いただいてかまいません。しかし、『アゴラ』間を移動するときには我々に報告いただきます。いいかしら?」

「……断ったら?」

 梓紗が挑戦するように言う。刑事は一歩前に進み出た。重力のおかげで、梓紗の小ささが際立つ。彼女の視線は刑事の胸あたりと同じ高さだった。

「拘禁する人数が増えることになります、ミズ・ミナカミ」

「……仕方ないわね」

 それからじっと彼女は刑事を見上げた。攻め込まれていた戦いで、反撃に出るように。

「――ところで、お名前は、刑事さん? あなただけが私の名前を知っているのは不公平だわ」

「……こちらをどうぞ」

 警察手帳だ。

 黒い手帳の表紙には、花冠に囲まれた月の意匠――ルナシティの紋章に盾が組み合わされ、「LP」と書かれた金色のマークがある。

 ルナシティ・ポリスということだろう。

「ビアンカ・ククルカン。ククルカンとはアステカの女神の名前ね。ビアンカと呼んでいいかしら? 私はアズサでいい」

「……お好きに、アズサ」

 彼女は少し頬をほころばせたように見えた。

「捜査には喜んで協力するわ。いつまでも犯人扱いでは不愉快だし、……大生さんもかわいそうだしね」

 梓紗は相変わらず物怖じしない。

「感謝します。それでは」

 彼女はもう一度言い、端羽氏を連行する二人のロボットとともに、メインストリートに止めてあったパトカーに乗る。パトカーは急速に発進していった。

「NAL社はお二人のご不便を保証する予定です。何かありましたら、こちらまで」

 司畑氏は我々に名刺を渡し、去ろうとする。

「司畑さん」

 梓紗が声をかけた。

「何か」

「――私の推理を信じてくれてありがとう。あなたが物わかりのいい人で良かった」

 司畑氏は戸惑った様な顔をした。

「確かに信じましたが、根拠あってのことです。QKDIDは確かな証拠です」

 司畑氏はきびすを返す。

 梓紗は何か言いかけたが、口をつぐむ。

「あの人にももっと話を聞きたかったけどね……」

 彼女がそう言ってため息をついた瞬間。

 突然、彼女はどさりと何の前触れもなく倒れた。

「梓紗!」

 私は反射的に彼女を受け止め――損ない、そのままよろめいて膝をつく。なんとか梓紗を支え続けられたのは僥倖であった。重力が半分だからだろう。彼女の体重が一Gで四〇キロか五〇キロぐらいだとして、半分でも二〇キロか二五キロはある。簡単には支えられない。

「――大丈夫ですか!」

 私の声が大きかったのだろう。真っ先に駆けつけてきたのは司畑氏だった。私が支えるのに苦労していた梓紗の身体をひょいと持ち上げる。同じく、北第二五アゴラにいた老若男女、様々な人が、はじかれたように周囲に集まってきた。

「大丈夫ですか?」

「助けはいりますか?」

 口々に言う彼等をなだめつつ、司畑氏に視線を向ける。

「……ありがとう、助かります」

 司畑氏は冷静な表情だ。

「救急車を呼んでください。ルナシティ保険局の緊急番号――911です」

「ちがう……」

 司畑氏に抱きかかえられた梓紗から声が漏れる。

「私の端末で……かけて……短縮番号で一番」

 梓紗の視線はゴスロリ調の服の胸ポケットに向いている。私はそこから携帯端末を取り出した。

 短縮番号の一番をかける。

「――はい。ウリュウですが」

 耳慣れない女性の声。

「……御央見梓紗の知人です。彼女が倒れました。ここにかけるように言われたのですが」

「場所は」

 相手の声は急に鋭くなる。

「北第二五アゴラです」

「すぐに向かわせる。救急車は不要だ。私がいればいい」

 通話は切れる。私は司畑氏を見た。

「すぐに来るそうです。たぶん、この筋電スーツの関係者なのではないかと……」

「ならば良かった」

 司畑氏は微笑んだ。

 淡々としていた彼にしては珍しい感情が漏れた――そう思った。「無事ならよかった」「何かあったら相談して」――口々に言うルナシティ住民たちに礼を言いつつ、私と司畑氏は数分、その場に待つ。

やがてやってきた「JAABIA」というロゴが書かれた車でやってきた研究所の職員とおぼしき人々に梓紗を預け、そして、その場を後にした。

「大丈夫です。お任せください」

 職員はそう言っていた。



 梓紗のことは心配だったが、研究所の職員に任せるように言われたら、後はもう任せるしかない。私は、その場を離れ、ルナシティ警察に私と、それから梓紗の分も、アゴラ間の移動の報告をしてからホテルに戻り、その後はICAMのことに集中することにした。

ICAMが開かれるのは北第三六アゴラから第三八アゴラにかけてのコンベンションセンターだ。そのとなり、北第三七アゴラのホテルに宿を取った私だが、ICAMに行く前に訪れるところがあった。

梓紗から、あのあと携帯端末にメッセージが来たのだ。

「さっきはありがとう。北第一六アゴラでメンテナンスをしてるの。お礼が言いたいわ。是非来て。あなたもこのスーツに興味があるでしょう」 

 梓紗の着ている筋電スーツは私の分野では最先端のものだ。脳の信号を筋肉に伝えるだけなら多くの技術があるが、あのスーツを制御しているAI「オッカム」は、脳の信号を筋肉に伝えるのではなく、身体の信号を解釈して筋肉を動かすという、いわば脳の代理をしている。そして、その学習結果を脳に刻みつけ、日常生活とリハビリを並行して行えるようにしている。梓紗が一五歳の時に受けたという自動車事故の傷がそれほどひどかったということだが、それでも日常生活ができるようにしたのは見事だ。

 私が思うに、人間の不幸には二種類ある。

 一つは、自分の周囲の世界が自分の思い通りにならないこと。つまりは自己実現と社会的成功が達成できないことだ。これは引き続き難しい。まあ解消しようもない問題だが。

 だが、もう一つの不幸――自分の身体が自分の思い通りにならないこと、つまり疾病については、かなり状況はよくなってきている。

 人間の不幸の半分を解決しつつある、というのは全人類にとって朗報だが、そのためにはAIにかなりの信頼を置かねばならない。

 私が興味があるのはそのようなことだ。

 


「よく来たね。さっきはありがとう。梓紗は寝ているが、君には見せていいと許可を得ている」

 北第一六アゴラ。その地下に広がる居住区の上部五〇メートルは、まるまるある研究機関の所有となっていた。

国立研究開発法人 人工・生体知能研究開発機構。英名:Japan Agency for Artificial & Biological Intelligence Research。略称JAABIR(ジャビア)。筋電制御用AI「オッカム」の開発元だ。

アゴラは、地球上の都市の広場と同じように見える。ただ異なるのは奇妙なほどに清潔なことだ。金属にブラウンの塗装の地面、白い塗装の壁、そしてエレベータが通るスポーク以外は透明ポリマーを通して宇宙の見える空。一〇〇メートル上空の宇宙港が存在するハブから、反射鏡を通して降り注ぐ陽光。

広場に接続するメインストリートは、片側一〇メートルの広さがあり、EVが行き交い、人が忙しそうに歩いたりしている。

また、広場では、据え付けられたベンチで談笑をしている人、タブレットを持って読書をしている人もいる。

星々がきらめく宇宙、そして巨大な月の見える雄大な風景は感嘆に価する。

広場の周囲は、一階建ての建物がぐるりと取り囲んでいる。

 その一つ、「JAABIR」というロゴを掲げた建物の前で待っていたのが、私が待ち合わせていた人物だった。

瓜生世奈 理学博士 人工・生体知能研究開発機構 主任研究員 

私を出迎えたその女性は、そのような名刺を渡してくれた。

瓜生氏は私よりざっと5つほどは年かさだろう。

セミロングの髪を青緑色に染めていて、口には黒い電子タバコをくわえている。リキッドはイランイランの甘い香りがする。ビアンカ・ククルカン刑事ほどではないが、くっきりした目鼻立ちが印象的だ。そのひとみは一見柔和で、興味深げに私を眺めるその表情は、ティーンエイジャーのようにすら見えた。

「お世話になります」

 私は答えた。

「丁寧な人だね。梓紗に聞いたとおりだ。私は気楽な性格でね、あまり丁寧には応対できないし、気が利かない性格だが、梓紗の恩人だし、友人だとも聞いている。ならば親切にしないと、とは思っている。何でも聞いてくれ」

「いいのですか? 私はいわば競合だと思いますが」

「君は信頼できると聞いているからね。それにウチは国立だ。研究成果は公開しなければ。他の企業と一緒にやっているもの以外はね」

 気楽な性格なのは確かなようだ。とはいえ、一応機密にも気を遣っているようで、それなりに抜け目のない、社会適応した人物とも思えた。

(言動はティーンエイジャーのようだが……まあそれは個人の自由だ)

 私は苦笑い一つで彼女の性格を受け入れ、ついて行く。

 リムモジュール内は三層構造になっている。

 広場と同じ高さの一階、広場より一つ低い地下一階と、広場より一つ高い二階だ。私は二階の奥の方のラボに案内された。



薄水色の病院服を着た梓紗は眠っていた。病院服の丈はごく短く、ズボンとシャツ、というより、キュロットとタンクトップと表現した方が良さそうだ。梓紗のベッドの上は低く、奥まったところに寝かされている印象を与える。ベッドの上にもアルミラックが据え付けられ、サーバやセンサが詰め込まれているのだ。

手足、それに首と後頭部から無数のケーブルが伸び、それらがベッドの横に鎮座する冷蔵庫ほどもあるサーバラックにつながっている。

 そこにディスプレイとキーボードが取り付けられていた。

 ディスプレイはぼおっと、青緑色に光っている。

(そういえば、瓜生博士も髪の色を青緑色に染めているが、まさかAIの起動色というわけではないだろうな……?)

 私は隣の女性の髪の色をまじまじとみた。

(まさか……そこまで変なことをする人はいないだろう)

 いくらなんでも偶然の一致だろう――そう思った。

「オッカム。状況は」

 瓜生博士はディスプレイに向けて話しかけた。

「順調です。テスト率九五%」

「何のテストです?」

 私が問うと、瓜生博士は私を値踏みするように見て、短く答えた。

「最小記述長――MDLテストだよ。正確に言えばオフラインMDLテスト。オンラインMDLテストは起動中にやっているからね」

 値踏みの理由が分かった。簡潔な説明で伝わるかどうか、ということだ。

 甘く見ないでもらいたい。これでもこの世界で数年は過ごしてきたのだ。

「いわゆるオッカムの剃刀テストですね。学習したモデルの冗長性を検査し、冗長なものはより簡潔なモデルに置き換える」

 瓜生博士の瞳が微笑んだ。満足したようだ。

「梓紗が連れてきただけのことはある。不完全なテストだが、まあないよりはマシさ」

「不完全?」

「ああ、全く完全ではないね」

 瓜生博士は加えていた電子タバコを胸ポケットに入れ、キーボードに触れた。

「MDLテストは、それしかないからやっているだけで、完全なものではまったくない。――何が足りないんだと思う?」

 逆に聞いてくる。

「――なんでしょう。理論の正確性は冗長性の排除によっては保証されない、ということですか」

「それも正しいが、より端的には……」

 そこで、瓜生博士はベッドの上の梓紗を見た。彼女の視線に誘導されるように梓紗を見ると、彼女は右目を開き、起き上がっていた。

「――こんにちは。ごきげんよう、柚希。さっきはありがとうね。瓜生さんから聞いたわ」

「お邪魔してるわ、梓紗」

 ようやく梓紗と親しい口調で話せるようになった気がする。

「ところでもう事件のことは瓜生博士には話したの?」

 私は親しい雰囲気のままに聞く。

 瓜生博士が割り込んだ。

「梓紗から聞かずとも知ってるよ。隠せることではないからね。もうルナシティじゅうでニュースになってる。大生氏は宇宙開発関係者だったから、特にこの街の人たちの関心は高い」

 それから梓紗に目をやる。

「ただ、推理の詳細については聞いてないな」

「そうですか――あれは……」

 私は端的に説明した。複雑な状況を要点だけをかいつまんで端的に説明する訓練は、会社で散々やっている。もちろん大学院の時にも。

 聞いた瓜生博士は腕を組んだ。

「――なるほどね。そりゃ、端羽は犯人じゃないね」

 断言する。

「……なぜそう言えるんです?」

 私は身を乗り出す。

「じゃあ誰が犯人だと?」

 梓紗もベッドから身を乗り出した。

「どうどう」

 瓜生博士はまるで馬をいなすように手を上げるジェスチャーをし、電子タバコをくわえた。

「いいかい? QKDIDは絶対だ。端羽は間違いなくハッチを操作した」

 再び断言する。

「……それなら!」

 言いかけた梓紗をまた制する。

 タバコのヴェープ(蒸気)をうまそうに吸った。

「私が言いたいのはね、そこには先入観があるってことだ。ハッチを操作したことと、大生を殺したことはイコールではつながらない。ハッチは手動でも開けるんだ。端羽の手により、ハッチが外部から操作されて開いた後、誰かが手動で閉じて、同じ誰か、あるいは別の誰かがまたまたまた手動で開く。そういう可能性だってあるじゃないか。そのとき、犯人は端羽ではない」

「そんな変なこと……」

 私はつぶやく。

「だが起こりえる。冗長で変なことだが、起こりえるんだ。起こりえる可能性を先入観で排除してしまっては、まともな推理とは言えないな。QKDIDで必ず記録されてしまうことを考えれば、端羽は自分の操作で大生が死ぬとは想定してなかったんじゃないか? 彼がなぜハッチを操作したのかは知らないが」

 彼女はもう一度、電子タバコを吸った。今度は全く美味そうではなく、苦虫をかみつぶしたような顔になる。

「まいったな。オッカムの悪いところが出た」

 つぶやく。

「オッカムのカミソリというのはこういう先入観を寧ろ肯定、促進してしまう可能性があるんだよ。ああ、これは人工知能だけじゃなくて知能全般に言えることだから、人間もそうなんだけどね。だがオッカムは機械的に、強力にこれをやってしまうからね。それに抗するには何が必要か分かるかい?」

 瓜生氏は電子タバコを持ったまま、私に手を差し向ける。空間をたちのぼっていくヴェープの匂いが、私の鼻腔をくすぐる。

「……外部の観測。外部のデータの取得」

 私はやがて言った。

「タイミングのデータが足りていなかった。大生氏の死亡のタイミングと、QKDIDで記録されたハッチ開放のタイミングを比べてみなければ、断言はできなかった」

 梓紗が息をのむ音がした。

 青い顔をしている。そのまま、彼女は病院服にサンダルを突っかけ、病室を賭けだしていった。

「……参ったね。お姫様はショックだったようだ」

 話す内容は軽妙だが、口調はやや重い。

「――王子様、ちょっと慰めに行ってやってくれないか?」

「王子様ではありませんが、行った方が良さそうですね」

 私はつぶやいた。



 梓紗は病院服にサンダルの姿のまま、展望室にいた。宇宙に面した部屋で、強化ポリマー製の広い窓が設けられている。

 いるのは彼女だけだ。窓の手前の手すりに手をかけ、ぼんやりと巨大な月を見つめている。クレーターまで間近に見え、クレーターの端のもりあがりが山脈のように、その尾根、谷間までしっかりと見える。

「梓紗」

 私は呼びかけつつ、彼女の隣に立った。

「やってはいけないことをしたわ。オッカムの力を過信して、素人のくせに推理に首を突っ込んで、罪のない人に罪を着せた」

「まだ端羽氏が犯人の可能性もあるよ」

 私は慰めるように言う。

「瓜生さんの言うこと聞いたでしょ。ないわよ」

「いや、あるね。端羽氏が、自分の犯行がバレてもいいから殺さなければならなかった、という事情を持っていた場合には、彼が犯人である可能性は残る」

「でも断言はできない」

 私はため息をついた。

「その場合、梓紗がまた犯人になるよ? 大生氏の自殺でない限り」

 梓紗はため息をついた。

「私は、――私がやってないことは知っている。そしてもちろん、大生氏が自殺した可能性もある。でも、もう一つ可能性があるんじゃないかしら」

 モノクルが青緑に光っていた。

「あのとき、端羽氏はなんて言った? 『僕は仕事に夢中だった。そのことは城井さんが証言してくれる』。そう言ったわね。ということは、端羽氏は仕事に夢中であなたがどこにいたか見ていなかったということ。そして同じ時、私は洗面室にいて、ロッカー室の出入りは見ていない。城井柚希さん。あなた自身がロッカー室に入ったかどうかは、誰も確認していないのよ」

 喉の奥がからからになる。

 全身の細胞がざわつく。

 私は二、三歩後ずさりした。

「なぜ……気づいたの」



「……ストレートに聞くけど、大生さんを殺したのはあなた?」

 冷たい声だ。

「違う!」

 私は思わず叫んでいた。

「殺してない! 私はロッカー室に行っただけ。洗面室のあなたが心配だった。でも流す水の音がしたから、大丈夫なんだなと思って戻っただけ」

 梓紗はじっと私を見ていた。感謝しているのか、失望しているのか、その右目からは感情が読み取れない。だが、青緑の光だけは、私を見透かすように光り続けていた。

「……私は信じるわ。あなたに大井氏を殺す理由なんてないものね。でも、あなたは言った。それを確認するには、データが必要――と」

 梓紗はタンクトップのような短い病院服の胸を押さえた。

「推理とは嫌なものね。全てを疑い続けなければならない。でも、間違いは一度で充分よ。明日、ビアンカに会いに行こう。間違いは――挽回しなければ」

 梓紗は手を差し出した。

「来てくれるよね?」

 その右目の微笑みは、親しみがこもっているように見えた。

いや、私を道連れにしようとしているようにも見えたが。



 私は逃げるように宿舎に戻り、ベッドに転がった。

(……ばれてしまったーー)

 そこまでの罪にならないだろうが、梓の信頼は失った。ルナシティ警察の信頼も失うかもしれない。

 あるいは、NAMCAでの私の評価はどうなるだろうか?

 様々な不安が私を襲う。

 私はよろめきながらベッドから降り、乱暴に服を脱ぎ捨て、バスタブに座り込んだ。蛇口をひねると、熱い湯が私の体を打つ。

 バスタブの鏡が、見捨てられた子犬のような私の目を移していた。

 「城井柚希――お前は、何をしてるんだよ」

 そこに移る自分に向かって小さく、鋭く問いかける。

 鏡の向こうの私は答えない。

 梓ほどではないが、くりっとした双眸。前髪はやわらかく額にかかり、後ろはポニーテールにまとめている。ポニーテールを解いて髪留めをバスタブの外に放り投げると、髪はほどけ、胸元まで流れるように降っていった。

 その女の裸体はギリシャ彫刻ほどではないが、ほどよく均整がとれている。「研究は体力勝負だ。鍛えるのは重要だ」というのが私の研究室のボスの口癖で、それに素直に従った我々院生は大学のジムに毎日出入りしていた。NAMCAの社員寮でもジム通いの習慣は途絶えさていない。

 だが、均整がとれているのは見た目だけだ。

 その内部の精神はぐちゃぐちゃだ。

(同じだ……あのときと)

 私は七年前を思い出していた。まだ自分が二〇歳の学部生だったときのことだ。教育実習生として小学生の引率に携わっていた私は、とある冬の日の遠足で、見通しの悪い山の雪道で、小学生たちを横断させていた。

 そのとき。

 遙か向こうで、自動車が急角度でカーブし、崖にぶつかった。

 そして、そのまま崖に向けて落下し爆発炎上。

 救急車がやってきて、車から放り出されたのであろう少女を回収するのを、遠い出来事のように見つめていた。距離は遠く離れていたが、あのときの路面の凍結、斜面の具合を見ると、まっすぐやってきていたら、途中で止まれずあの車は突っ込んでいたに違いない。小学生たちに。

(……だけど、黙っていてはいけなかったんだ)

 私は深く後悔した。そして、数ヶ月後、自分が目撃したことについて、被害者とされていた自動運転会社に証言した。その後、会社の弁護士は自動運転車のAIを調査することに成功する。

 判断は遅かったが、正しいことができた。それを機に私は自分の進路を決めたように思う。それまでは漠然と工学系の勉強がしたい、今はやりは情報工学だろう、というような気分でやっていたが、それからAIを本格的にやりはじめた。

 その記憶が、私によみがえる。

(あなた、今度も正しい判断をしなさい。少し遅れたけど、ちゃんとしなさい)

 私は、じっと鏡の向こうの私に言い聞かせるように念じた。



「さっきは変な言い方してごめん。私のホテルに来て」

 梓紗から携帯端末にメッセージが届いたのは、私が風呂上がりに髪を乾かしているときだった。ホテルの住所が次のメッセージで指定されている。

 明らかに気まずい雰囲気だったが、私は唇をかみ、こう返信した。

「分かった。すぐに行くよ」

 なんでもいいだろう、と思いつつ、服装については数分悩み、結局、ジーンズにTシャツ、それにジャケットという無難な格好になった。どんな格好で梓紗に会いたいのか――言い換えれば、自分は梓紗にとってどんな存在でありた。いのか、それを迷っていたようなところがある。

(話の合う友人だと思っていたが……違うのだろうか? それだけではないのだろうか?)

 私は、初対面の時に梓紗に感じた予感を反芻しつつ、指定されたホテルの場所に来ていた。受付は当然のように人型ロボットで、訪問目的を告げたら、梓紗に言い含められていたのか、私のIDを確認するだけで通してくれる。

(……「指摘してくれてありがとう……これからも一緒に捜査に協力していこう」……かな。普通すぎるな……。なんて言おう)

エレベータの中、私は梓紗にかける言葉を何回かシミュレートする。

 ――いや、違う。私はなんて言いたいんだ?

 考えているうちに地下30階の梓紗の部屋に到着した。最下層――つまり、宇宙に接する部屋だ。重力がずんと脚にかかる。地球では慣れているはずの重さが、今の私にはややつらい。

 3012号室。

 梓紗の部屋をノックすると、奇妙な合成音声が返ってくる。

「ハイッテキテ」

 抑揚がない。声は梓紗のものをサンプリングしているようだが――。

 同時に鍵が開いたので、入っていいのだと思い、私は足を踏み入れる。

(まさか……何か……あるんじゃないだろうな……)

 胸の内に不快で湿った予測が広がる。

(――いや、まさか……)

 慎重に、ゆっくりと扉を開き、中の様子をうかがう。

 ベッドの上に、裸の少女がいる。

 そして、マニピュレータがその少女に向けて複数のロボットハンドを垂らしている。

「梓紗!」

 私が駆け込むと、くりっとした愛らしい右目が私を見て微笑んだ。

 静かに横たわっているだけで、特に拘束などはされていない。

 印象的なのはその細く華奢な身体、透き通るような、むしろ痛々しいほどの白い皮膚であった。胸と下腹部の部分にだけ、タオルがかぶせられている。

「……コンバンハ。ヨウコソ。スーツヲヌイデカラダヲフイテルトコロ」

 見ると、筋電スーツはベッドの端に折りたたまれていて、ロボットハンドは、ベッドの脇に置かれた黒字に銀の装飾のスーツケースから伸びている。

(ああ……そうか。あの大きなスーツケースの正体がこれか)

 自動で筋電スーツを脱がし、身体を拭き、また着せる。その一連の動作が可能な「何か」を携帯していない限り、この少女は一人では身体を拭くことができない。

「オッカム。セイタイトガンメンノシンゴウセンヲモトニモドシテ」

 どうやって発声しているのかと思ったら、梓紗は非常に速いスピードで右目のまぶたを開閉させ、かつ、眼球を上下左右に激しく動かしている。そして、モノクルのブリッジの部分に小さなカメラがあり、その眼球の動きを読み取っているようだ。

「了解です。回復させました」

 梓紗の声で、梓紗でない者の言葉が響く。

 そして、ようやく梓紗は微笑む。

 身体はマニピュレータにふかせたまま。

「ご、ごめん、でなおすよ」

「出なおす? なぜ? 私が呼んだのに?」

 横たわった身体を一ミリも動かさないまま、そして顔を天井に向けたまま、彼女は右目だけを私に向け、その目に親しみの色を浮かべつつ、言う。

「……は、裸を見てしまって申し訳ないし……」

「見たくなかった? 結構きれいだと、自分では思っているんだけど」

「……いや、きれいだけど……」

 それは間違いなかった。細いことは細いが、筋肉がないわけではない。少なめだがほどよく筋肉はあって、その上についている薄い脂肪の層が少女らしい丸みのある身体を形作っている。どうやら筋電スーツによる筋肉に刺激が役立っているということのようだ。

「それはよかった。見せられて迷惑と言われたらどうしようかと思ったわ」

 どうやら梓紗なりのジョークのようだ。

「……どういうこと。私をこのタイミングで呼ぶ必然性はないよね?」

 多少詰問調になる。梓紗の何らかの策略に引っかかったのかと思ったのだ。

「――まあ、いろいろと考えてね。あのときは私の悪い部分が出た。ごめん」

「あのとき?」

 オウム返しに問い直す私に、梓紗は優しげに微笑む。

「さっきの病院のとき。あなたがロッカー室に入ったことを黙っていると言ったとき」

 端的に言う。天井を見ながら。

「実はオッカムの推理でね、あなたの言動が怪しいのは早々に気づいていのよ」

 心臓を捕まれたような気がして、梓紗のベッドから離れ、一歩、二歩、後ずさりする。無意識にドアの方、梓紗の足下の方へ自然に移っていた。

「何をしないから安心して。寧ろ、何もできない」

「それに、気づいていたけど別にあなたに悪意はなかった。寧ろ、ロッカー室に入ったのは、私に何らかの介助が必要だろうと気を遣ってのことだったけれど、かといってトイレをノックして私に助けを申し出るのも失礼かもしれないと思ってためらってまた戻った、ということだろうと思ってね。だから指摘するのはかわいそうだと思って黙ってた。端羽社長はどうやら集中すると周りが見えなくなるタイプね」

「それが……なぜあのとき」

 相変わらず天井を見つめる梓紗は、一瞬私の様子を見るように下向きに視線を向ける。偽悪的に。

「……そうね。私自身がミスをしてしまったからね。手痛いミスを。でもあなたとは気が合うし、AIのことも分かってるし、少なくともこの事件が終わるまでは一緒に推理をやりたかった。それぐらい、あなたが一緒にいてくれて助かると思った。例えば、あなたはさっきだってオッカムの弱みにすぐに気づいたし。それで――」

 梓紗はじっと私に視線を向け、言う。

「あなたの弱みを握ればこれからも一緒にいてくれるだろうと思ったのよ」

「あ、梓紗! あなたは……!」

 何ら抵抗できない彼女に手を出したら私が一〇〇パーセント悪い。その状況を逆手にとって、寧ろ威圧するかのごとく私を見つめているようにも見える。

「ふふ。怒った? まあそうでしょうね。それでいいのよ。そこでうなだれるような人は、私、嫌い」

 随分と身勝手なことを言い、それから右目を閉じる。

「だけどそういうのは私の悪いクセでね。けがをする前からこういうことは多かった。振り返ってみるとね。相手にとっての弱み――まあ大抵は『私との関係』なんだけど、それがなくなるぞ、と脅すということを聞いてくれることが多い。やなやつでしょ?」

「確かに、そうね」

 私が意を決して指摘すると、梓紗は寧ろうれしそうに笑う。花が咲いたような笑みだ。

「――そう、でもそれは間違ったことだわ。だから謝る。私もこうして動けない弱いところを見せたわ。これでおあいこね」

 私はため息をついた。深く、大きく。

 許可も得ず、梓紗のホテルのベッドのわきの椅子に座る。

「……おあいこという感覚は分からないけど、了解したわ」

「そう。良かった」

「事故がなかったら、こういう殊勝なところもなかったでしょうね。自分を省みることもなく、傲慢なままだった。起って良かったでしょ?」

「良いわけない!」

 私が強い口調で叫ぶ。

「……そんなこと、冗談でも言わないでよ……」

「やっぱり、あなたは優しい人ね。私の選択は間違ってなかったわ」

 梓紗は再び目を閉じ、つぶやく。

「まあ、事故自体はね、あれで救えた命があるんだったら、いいのかなーと思ってたわ。冷凍睡眠の前に、瓜生先生だけは、『必ず直す。その技術を見つけ出す』と言ってくれたからね。両親は違ったけど……彼女が言ってくれるなら、そうだろうなと思って眠りに就いたわ」

 それから目を開く。

「目覚めてみて、瓜生先生が本当にその技術を実現してしまっているときには驚いたわ。でも……ご覧の通り『オッカム』も筋電スーツもその性能は道半ば。本当の意味で自由に動かせるようになるのはまだ先のこと。遠い未来ではないとはいえ、私は本質的に自分は無力なのだという感覚にさいなまれていた。でも、オッカムのおかげで、推理ができて、人を助けることもできる……それは純粋にうれしかった。大生さんが亡くなったのは悲しいけれど……」

 彼が亡くなった場面を思い出したのか、少し、鼻をすする。

「……でも、瓜生先生の指摘で、私はまだまだだと思った。また無力感が襲ってきた。でも、あなたが一緒にいてくれたら大丈夫だとも思った……」

 梓紗は横目で私を見る。

「私はね、これでも自信がある私が本当の私だと思っているの……そのためにはあなたが必要だと思った。引き続きね。それで、間違ったことをした……ごめんなさい」

「いいよ……もう。事情は分かった。それに、人の役に立ちたいという思いは人間に共通のものよ。やり方は変だったけれど、あなたの思いは普遍的だと思うわ」

「――そうだね!」

 うなずき返す声は、高ぶった感情のせいか、わずかに揺れていた。

「そうそう、ついでにもう一ついいことをしてあげる。オッカム! お願い」

 梓紗のモノクルが青緑色にひときわ強く光ると、梓紗のスーツケースから伸びていたマニピュレータの一つが、タオルを彼女の身体の上に置いて、べつのところへするすると伸びていく。ベッド脇のスイッチ。

 それを押すと――。

 鈍い機械音とともに、床に敷かれた絨毯がおりたたまれ、強化ポリマー製の床があらわになる。それは透明な素材でできていて、その向こうは真っ暗のようだ。まるで窓があり、その向こうに夜の闇が見えているかのようだ。

 いや、黒い蓋だ。

 私はすぐに気づく。なぜなら、その黒い蓋が折りたたまれ、本当の「窓の外」が見え始めたからだ。

 最初に見えたのは月だ。「ルナシティ」の自転速度に合わせ、間近に見える月面が徐々に迫り、そして視界からゆっくりと去って行く。その向こうに星々、そして、地球が見えてくる。

「わあ……」

 私は思わず感嘆の声を漏らす。

「柚希」

 気づくと、梓紗はベッドを起きだし、私の傍らに立っていた。透明な筋電スーツを身につけているが、それ以外はまだ着ていない。

「これからも一緒にやろう。最初に手を差し伸べてくれようとしたときから、私はあなたと一緒なら、うまくやれる気がしている。もう脅したりはしない。でも一緒にやりたい」

 梓紗に私は向き直る。

「でも、これからは、何でも言ってね。何を言っても私は受け入れる。あなたの側に立つ。だから……」

 その目には不安があった。いつも、――その身体の状態にもかかわらず、自信満々――すくなくともそうあろうとしている梓紗に。

 そうだ。私も強くならないと。

 この梓紗のように。

「――分かった。一緒にやろう」

 梓紗に手を差し出すと、彼女はそれを両手で握った。

「うん!」

 その言葉は再び、二二歳という戸籍上の年齢ではなく、一七歳という、彼女の本当の年齢の少女の声のように聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る