第二章 真空殺人

我々が目指すのは、月――より正確に言うと、月軌道ゲートウェイ・プラットフォーム併設の軌道施設、「ルナシティ」である。月面開発や深宇宙探査の中継点であり、月面開発企業・宇宙開発企業の従業員の住居の他、ホテル、遊覧船発着場、国際会議場、展示会場等の複合施設から成る人口一万人の宇宙基地で、地球の静止衛星軌道上の複合施設、「スペースポリス」の三万人には劣るが、宇宙において人口規模で二位を誇る施設である。

 今年のICAMはルナシティで開催されるが、端羽氏らの要件は営業らしい。それ以上のことは彼等は言葉を濁していたが、近々、「アストラン計画」と呼ばれる大規模拡張計画が策定されるという報道もあるので、おそらくそれに絡んだ工事の受注を得ようとしているのだろう。

 軌道上まで到達したあと、月に向けた加速を行い、最終的に時速一〇〇〇キロメートルを超える速度を得て、「かぐや」は等速直線運動に入り、無重力状態となる。

 髪がふわりと浮く。宙に浮く感覚が全身を包み込む。私は初めて経験する無重力の状態に心躍る思いを抱く。空中に浮かぶ自分の姿を見ながら、浮遊感に驚きと興奮が入り混じる。だが、同時に内臓からこみ上げるような気持ち悪さもある。

 どうしたものかと思っていると、梓紗が肩をつついてきた。

「柚希さん。これどうぞ。宇宙酔い止めドロップよ」

 藍色のドロップを手渡してくる。

「これは……どうも」

 私は普段、知らない人間からもらったものは口に入れない慎重な性格だ。ただ、梓紗はもう「知らない人間」ではない気がした。私はドロップを口に入れる。

 徐々に気分が落ち着いてきた。

 さらに数分。

 人型のロボットがパックに入った飲み物を運んできたあたりで、大生氏が席を立った。慣れた手つきでシートベルトを外し、危なげなく無重力遊泳を行って、Dコンパートメント併設の展望室に向かう。

座席のタッチパネルで調べたところでは、「かぐや」のコンパートメントには、展望室と洗面室が併設されており、客室からそこに向かうには、ロッカー室を経なければならない。ロッカー室というのは不思議な響きだが、宇宙服が格納してあり、脱出時にはエアロックとして機能する。

(洗面室かな……それとも展望室か)

 私は特に何も考えず、映画でも見ようかと座席の前に付いているタッチパネルを操作し始めた。

 そのとき、隣の梓紗が急に咳き込む。

「どうしたんです?」

 私はささやき声で聞いた。

「――何でもないわ。ちょっとね……」

 そうは言うが、よく見ると肩のあたりが小刻みにけいれんしている。筋電スーツの調子が、明らかにおかしい。

「スーツの調子が悪いなら、何か手伝いましょう」

「――あたし好きよ、そういう親切。――でも、自分で治すから」

 梓紗は席を立つ。

「いつまでも人に頼っていてはだめなのよ。今回だって介助をつけようとしてくれたのを断って、一人で来てるんだから」

 私の耳元に、そう小声でささやき、それからロッカー室に向かう。「かぐや」のコンパートメントの構造上、ロッカー室に向かっただけでは展望室と洗面室、どちらに向かったか分からないが、おそらく洗面室だろう。

 ただ、他に出口はないので、どちらにいっても、同じドアから戻ってくることになる。私はじっとロッカー室への扉を見つめていた。隣では端羽氏が忙しそうにキーボードをたたいていて、こちらに注意を向ける様子もない。

ロッカー室に姿を消した梓紗が、顔を青ざめさせて、戻ってきたのは、出ていってから――しばらく――おそらく一〇分ほど経過した後だっただろう。

「あの方が……」

 それ以降、言葉が続かないようだ。

「大井さんが、どうした?」

 端羽氏がPCを閉じ、シートベルトを外す。

「あ、あっちよ……」

それ以上何も言えず、梓紗は指さすだけ。その声は震えている。

端羽氏は急いでロッカー室に向かう。

「展望室のほうよ……」

 梓紗の声が、彼の背中を追う。端羽氏は一瞬、展望室の手前の真空計を見、それからハッチを開ける。

 私、そして梓紗が、続いて展望室に入る。

 一瞬、そこに何があるのか分からなかった。

 凍てついた、人形のようなモノが浮いている。そう思った。霜の降りた人型の塊は、同じく凍てついた携帯端末を握りしめている。服も靴も髪の毛の先もこちこちに凍り付いており、明らかに生きていない。

(し、死んでる……!)

 それに気づき、叫びに似た声が漏れた。

 端羽氏は青ざめた顔で、大生氏の胸を押し、壁に押しつけて人工呼吸を始めようとする。

「……いえ、もう無理よ……現代医学では……」

 梓紗が、そっと、指摘した。

「なんだと」

 端羽氏はかまわず人工呼吸を続けようとするが、凍てついた大生氏の身体は完全に固まっており、そもそも胸を押そうとしても押せない。

「ちくしょう! 君! 保安要員を!」

 私にするどく指示する。

 私は客室に戻りタッチパネルの中で保安要員を呼ぶボタンを押した。自分たちのコンパートメントに保安要員を呼ぶためのボタンだ。

大気中を飛ぶ旅客機ではキャビンアテンダントがドリンクや機内食を持ってきてくれたり、緊急時には保安要員になったりするが、「かぐや」のような宇宙旅客船ではその役割がはっきりと分かれている。給仕は人型ロボット、保安要員は人間で、別にいる。

(……事故……? 事件……? まさか……こんなところで……!)

 私の頭は動揺し続けていた。



「グリニッジ標準時二月一〇日、日曜日、午前三時一八分。大生翔太氏の死亡確認をしました。死因は急激な気圧低下に暴露されたことによる呼吸困難と思われます。それ以上のことは、現時点では分かりかねます。この展望室のデータを見ましたが、気圧、温度がともに急激に減少しています。これは急激な気圧低下に特有の現象です。未だ、事件・事故両方の可能性があります。事件だった可能性があるため、皆さんには集まっていただきました」

 事件現場となった展望室。

宇宙旅客船「かぐや」の保安要員が、我々を前に淡々と説明していた。大生氏の遺体は、展望室の隅に設置されているクリームホワイトの冷凍カプセルの中に安置されている。

冷凍カプセル、というのは、遺体の一般的な保存方法だ。血管に生体親和性のある不凍液を注入し、急速に冷凍状態に置くことで、瀕死の患者や現代医学では対処不能な、いわゆる「遺体」を保存しておき、将来的な医学の進歩に賭ける措置である。

尤も、大生氏の場合は最初から凍てついており、不凍液の注入すらできなかったので、将来的に医学が進歩しても復活できるかどうかはかなり分が悪い。

「宇宙旅客条約により、この『かぐや』内は日本国の領土と見做され、国内法である宇宙旅客法が適用されます。私は保安要員として、代理司法職員の権限が与えられており、その権限により、容疑者と思われるあなた方三名に、『ルナシティ』到着までの間、このコンパートメントにとどまっていただくよう要請いたします」

 丁寧だが揺るぎのない口調で、保安要員――ネームプレートを見ると、その名前は司畑というらしい――は我々に伝えた。いや、「命じた」といったほうが正確だろう。

「だが、容疑者は三名というのは変だな」

 端羽氏が指摘する。

「どういう意味です」

 司畑氏に対し、新進気鋭のベンチャーCEOはよどみなく言う。

「目撃者が二人いる。大生氏が殺害されたあと、このロッカー室に入ったのはこの少女だけではないか?」

 梓紗を指さした。

「そのことは僕と、この城井さんも目撃している。いや、少なくとも僕は入っていない。仕事に夢中だったからな。そのことはこの城井さんが証言してくれるはずだ」

「ええ……彼はずっと仕事を」

 私は気圧されるようにして、口にする。我が意を得たり、という顔で、端羽氏は言葉を続ける。

「そして、これがもし事故ではなく殺人なら、大生氏を手にかけることができたのはこの少女しかいない。証拠はこれだ」

 端羽氏が指さしたのは展望室にある緊急脱出ハッチの開閉レバーだった。「DANGER DO NOT OPEN」と書かれた封止テープが破られている。レバー自体は、「CLOSE」の位置にあるが、一度、「OPEN」の位置にあったことは、容易に想像できた。

「このレバーは展望室と外部、つまり真空につながるハッチだ。緊急脱出の時は、ロッカー室の宇宙服を着てから、展望室に入り、このハッチを開く。緊急自体用だから、あらゆるシステムがダウンしていても手動で開くようになっている。その少女は大生氏が展望室の中にいるのを確認し、手動でこのレバーを開いた後、自分だけロッカー室にもどって大生氏を閉じ込め、真空に暴露して殺したんだ」

 司畑氏は興味深げに端羽氏の意見を聞いた後、梓紗に向き直った。問うように。

「……馬鹿馬鹿しい指摘ね。私には成人男性を押しのけて自分だけロッカー室に逃げるような体力も筋力もないわ」

「それはどうだかわからないな。君はその服で隠しているが、かなり特殊なスーツを着ている。そのスーツがあればできるかもしれない」

 梓紗の顔は蒼白になっていた。それは怒りのためか、それ以外の理由か。わなわなと震える拳を握りしめながら、端羽氏をにらむ。

「事実だろう。そのスーツは筋力の増強にも使えるはずだ。論文で読んだことがある」

 私に視線を送る。

「城井さん。あなたもご専門のはずだ」

 梓紗が私をじっとみた。その右目は涙に潤んでいる。

「――彼女が筋電スーツを着ていることは確かですが、ご指摘の蓋然性は低いですね。そこまで筋力を増強できるような仕様にする合理的な理由がない。日常生活を維持する用途に使用されるもののはずです。人を押しのけるような用途に使うものではないでしょう」

 淡々と、だが私は角度をつけてそう発言した。確かに合理的な理由はないが、不可能とは言っていない。

(それに、梓紗は筋電スーツの調子が悪いと言っていた)

 私はちらりとそう思ったが、黙っておいた。さらに口を開く。

「それに、動機はなんです? 初対面の彼女が、大生氏を手にかける理由がない」

「それは分からないな。だが、君たちが入室したとき、我々は口論していた。それを不愉快に思ったのかもしれない」

「馬鹿にしないで」

 今にも梓紗が飛びかかろうとしていたので、私は話題を変えることにした。

「司畑さん。展望室に監視カメラは?」

「ありますが、プライバシーの観点で、普段はOFFにしています。これは、客室、洗面室、ロッカー室も同様です」

「……ハッチに指紋は」

「必要があれば捜査することになるでしょう」

 司畑氏の口調はどこか他人事のようだ。全てはこの船がルナシティに到着してから、現地の警察に任せるつもりなのだろう。

「あの!」

 梓紗が身を乗り出して言う。

「捜査に同行させてくれないかしら」

 急に何を言い出すんだ、と言う顔で、司畑氏、端羽氏が梓紗を見る。梓紗は端羽氏に強い一瞥を加えてから、司畑氏に向き直る。

「どうやら私を犯人にしたい人がいるようなので、潔癖を証明するためよ」

 司畑氏は肩をすくめた。

「既に本件は船長からNAL本社に通報済みです。私にできるのは現場保存だけですよ。捜査をやるのはルナシティに到着してからです」

「――では、被疑者はどこに滞在させる予定かしら?」

「……コンパートメントDに滞在いただく予定ですが」

「容疑者が絞れていない、ということは、容疑者とそうでない人を同じ場所に滞在させると?危険ではないですか?」

 私が口を挟む。

「私も滞在します」

 司畑氏はいらついてきたようだ。丁寧な口調は相変わらずだが、声にこわばった雰囲気が加わる。

 梓紗がさらに言いつのる。

「到着は二四時間後です。それまで交代で見張ってくれるとしても、何かの拍子に証拠隠滅を図られる可能性があるわ。犯人の目星をつけた方がいいのではないかしら。私は、『口論がうるさかった』という変な理由で第一容疑者にされる謂れはないし、その状態でこのまま二四時間すごしたくはない。宇宙船舶法には、『被疑者の権利に配慮せよ』という項目があるのではなくて」

 梓紗の強引な主張に、司畑氏は首をかしげた。梓紗の言うことは強引だが、誰が被疑者かどうかも未だはっきりしていない。その状態で、問答無用で皆をまとめて軟禁状態においては、後でクレームが付く可能性がある、とでも打算したのかもしれない。

 少なくとも、このコンパートメントDの乗客には納得した上で滞在してもらう必要があると。

「船長に問い合わせます」

 彼は通信端末を持って、展望室の端に移動した。

 二言三言、会話した後、彼は戻ってくる。

「捜査……というか、一通りの現場の調査は実施する許可が出ました。また、被疑者とされた方はこれに同行してかまいません。ご自身がご納得いただくためにも、その方が良いとの判断です」

「ありがとう」

 梓紗は右目でにっこり笑い、それから私の方を向いた。

「城井さん。あなたも、一緒に来てほしいわ」

 私は逡巡した。

 梓紗が犯人である可能性はわずかながら存在すると思ったのだ。犯人なら、協力するわけにはいかない。

ただ、それでも、彼女と同行することで、「彼女が犯人でない」ことが立証できるかもしれない、と思った。

「ええ――かまいません」

 私は言っていた。

「ありがとう!」

 梓紗は弾んだ声で言う。主観的には、司畑氏に対して言ったのよりも、倍ほどもトーンが高かったように思う。

 悪い気はしなかった。

 自分でも不思議だ。これほどまで、他人に入れ込むことは最近なかった。

「僕はけっこう。NALを信頼していますよ」

 端羽氏は憮然として言った。まさか梓紗の提案が受け入れられるとは思っていなかったらしい。私が協力すると言い出したことも予想外だったのかもしれない。

(梓紗と私の無罪が証明されれば、あとは端羽氏が容疑者になる。自分の無実を信じているのか……?)

 私は怪訝な様子で彼の様子を伺おうとしたが、彼は長い脚ですたすたとコンパートメントDに戻ってしまった。

 監視のためなのか、給仕用の人型ロボットが、彼の後ろについて行く。そのカメラは、青緑色に発光していた。全世界共通で、「監視・記録・人工知能稼働中」のサインだ。おそらく、端羽氏の行動を記録し、認識・分析を行っているという意味なのだろう。このサインがついていないかぎり、監視カメラは稼働していないし、自動運転車もAIによる運転ではない。

 逆に言えば、この状態のカメラが殺害現場にはなかった。だから犯人も分からず話がこじれているのだ。

 端羽氏が姿を消したのを確認して、梓紗は微笑んだ。

「さてと、司畑さん。もうひとつ許可をいただきたいのだけれど。これはあなたにとっても悪い話ではないわ」

「……何の許可です」

「これを稼働する許可よ」

 梓紗は自分の左目のモノクルを指さした。

「あらかじめ申請してあるので、あなたはご存じよね、私の身体のことを」

 司畑氏はちらりと私を見た。

 この人には言っていいのか、という無言の問いだ。

「ああ、彼女には知らせてあるわ。それに、端羽さんがそもそもばらしちゃったから、もう秘密にしていてもしょうがないし」

「筋電スーツと左目の義眼のことでしたら、把握しています」

 司畑氏はしぶしぶ認めた。

「……それを制御するAIのことも?」

「そこまで詳細には」

「要するに、この左目は監視カメラにもなるし、その画像や音声を分析するAIがここには搭載されているってこと。これをONにする許可をくださらないかしら。捜査には間違いなく有効だと思うわ」

 司畑氏は再び船長に連絡を取った。二言、三言、小声で話した後、こちらに戻ってくる。そこで「かぐや」船長からどういう話を聞いたのかは分からない。もしかすると、梓紗が主張しているAIの性能に関し、NAL本社または「かぐや」船長にはより詳細な情報があり、それが司畑氏を介した梓紗の提案に説得力を持たせたのかもしれない。

 とにかく、戻ってきた司畑氏は、こういった。

「――許可が下りました。ではご協力いただきます、御央見さん」

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