第一章 モノクルの少女
西暦二〇四X年。
それまで地下を走っていた京浜急行の電車の視界が一気に開けた。京浜急行羽田線――一〇年前までは終点であった第一・第二空港ターミナル駅のその先には、現在は「第三宇宙港ターミナル」が存在する。行政区分上は、中央防波堤上の境界線を延長したため、大田区と江東区にまたがる。ほぼ東京湾の中央部に位置していた。
「へえ、きれいなものね」
隣に座っていた少女が思わず漏らしたような声で言い、それから口をつぐんだ。私がじっと彼女を見ている視線に気づいたか、彼女は肩をすくめてみせた。
「どうしたの。お姉さん。あたしの顔に何か付いてる?」
「いえ、失礼」
私は慌てて顔をそらした。
「ああ、ごめんなさいね。別に文句を言いたかったわけじゃないの。ただ、久しぶりに病院と学校以外に出たのでね、何か変なところがあったら、教えてほしかっただけ。そう、できれば親切そうな人に」
私と彼女は隣同士の二人席にいた。小声だったから別に周囲の人間は聞いていなかっただろうが、見知らぬ人間に急に話しかけるのは少し奇異に感じられた。
彼女の顔に「何か付いてる」かどうかと言われれば、特徴的なものが一つあるにはあった。
モノクルである。
左目を覆うようについている、光沢をたたえた暗色のモノクルは、光を透過するようにも思えず、また、よく見ると眼窩にかなりしっかりと埋め込まれているようで、義眼のようにも見えた。
「もしかして、このデバイスかしら?目立つ?」
やはり「デバイス」なのだ。義眼か、その高度なものなのだろう。
「いえ、別にそういうわけでは」
目立つなどといっては失礼だ、そう思った。
「あっははは。目立つに決まってるじゃない。あなた、やっぱりいい人ね? お名前は。どうせ月に行くんでしょう? また向こうでも会うかも知れないわよ」
「――そうですね……」
私は逡巡したあと、鞄の内ポケットから名刺入れを取り出した。まじまじと少女を見てしまった負い目のようなものもあったが、それ以上に少女の押しの強さに負けた感がある。
そこにはこう書かれていた。
株式会社NAMCA 研究開発ユニット 次世代AI応用研究所 城井柚希。
「こういうものです。どうも」
私こと城井柚希は、去年大学院の博士課程を卒業して、NAMCAという会社に採用されたばかりの新人だ。NAMCAはAIを応用して医療やバイオの研究開発を行う会社で、規模としてはこの業界では中堅どころである。就活では大手や政府系研究機関を含めいろいろと回ったが、結局この会社に落ち着いた。悔いがないと言えば嘘になるが、希望通り研究職になれたので、自分としては及第点――と思っている。
それよりも今は、これから行く学会での発表が無事に終わるかどうかの方が心配だ。会社に入って初めて任された研究テーマが意外とうまく進み、学会発表に採択されたのは僥倖と言えた。
(だから、今は余計なことは考えたくないんだけど……)
発表が終わるまでは、ひたすらカンペの暗記をするつもりだったのだ。
「へえ、NAMCAさんね。じゃあ、もしかしてICAMに?」
少女は――外見的には高校生ぐらいにしか見えなかったのだが、妙に業界を知った風な口調で言う。ICAMというのが、私がこれから参加する学会だ。
正式には、国際人工知能応用医療学会(International Conference on Artificial Intelligence Applied Medicine)、という。
(もしかして私の見立てが誤っているのか? 少女に見えるが、実はもう大人なのかも)
「ええ。実はそうなんです」
「どんなご発表?」
「――そうですね……」
私は簡単に説明する。現在、AIの力によりあらゆる病気を解決することに王手がかかっているが、問題を提起して解決をAIに命じるのはいつも人間だ。AIに自律的に研究課題を設定させることが課題だ。AIの自律性を高めるために、擬似的なエピソード記憶の積み重ねを構築させることを試みている――と。
「ああ、読んだことがある! あなたがあのY・SHIROIさんか!」
「まあそうです――あなたもICAMですか。どのようなご発表を?」
私は若干、口調を親しげなものに切り替えた。業界人同士の会話なら、今までにも――それこそ入社する前からワークショップや研究会でいくつか経験がある。私がうかつにも高校生ぐらいの少女と見立てたこの女性もICAMに行く研究者だというなら、そういうモードで話しかければいい。
それに、私の研究を知ってる――という事実は、私の心理的ハードルを著しく下げさせた。
「発表? ――ああ、いえ……」
少女は右目の視線を若干膝元に落とした。さきほど話しかけられてから、数分間会話している中で、初めて見せたネガティブな表情だった。
「あたしが発表するわけではないの。出るのは併設される展示会の方。それで、私は、まあ、いわば展示物でね」
「展示物……」
私はオウム返しにそう言ったが、それも失礼だったかもしれない。
少女は首元のリボンに手をかけた。彼女が着ているのは、いわゆる黒いゴスロリ調の服装で、そのおかげでモノクルも特に違和感はなかったのだが、どんな気候でも体中を覆っていても違和感がない、という点も考慮に入れた服装なのかもしれなかった。
――というのは、そのリボンを解いてちらりと見えた首元は、薄く透明なスーツで覆われていたからだ。
(……筋電スーツというやつか)
私は少女の身体を何が覆っているのか、見て取った。
最近そういう研究を見たことがあったのだ。首から下が全く動かない人でも、脳からの光信号を刺激に変えて筋肉を動かし、逆に触覚や筋肉からのフィードバックも信号にして脳に送るものだ。神経細胞に光刺激を検知するタンパク質を導入することで実現する。
こうした原理から、正確には、筋電ではなく、筋「光」スーツとでも言った方が良いのだが、慣習的に「筋電」とよんでいる。
このスーツは、人体の運動に必要な複雑な動作パターンの制御はAIによって支援されており、――まさにICAMで展示するにふさわしい研究成果であった。
「まあ……そういうことよ」
少女は一段と声を落として言った。首元のリボンを結び直しつつ。
「このモノクルも義眼でね。こっちは手術で埋め込まれている。私で無事なのは右目だけよ」
私は少女の顔をまじまじと見る。
猫のような、目のくりくりした愛らしい顔だ。しかしその透き通るような肌を見ても、その下に信号線とやらが埋まっているかどうかは判然としない。
「……なぜ初対面の私に?」
「話の流れ上ね。別に秘密にすることでもない。同じ研究分野の人みたいだし、何より人が良さそうだもの」
軽く右目でウィンクした。いたずらっぽく。
「――お人好し、というのはよく言われます」
私はむすっとして前を向いた。
人に言わせれば、私は他人に対して過剰に気を遣うところがあるらしい。(彼氏ができたら都合のいい女扱いされるよ)などと失礼なことも言われたが、まだできたことがないのでなんとも言えない。
「うわお」
少女が声を張り上げた。まるで英語の間投詞のような言い様だが、ゴスロリ調の服装にモノクルの少女には似合っている。
「あれよ! あれ。宇宙旅客船『かぐや』!」
私も反射的に窓外を見る。その光景は、私のむすっとした感情と、底流のように流れている発表への不安感を吹き飛ばすに足るものであった。
巨大な塔がそこにあった。
いやロケットである。
高さは三〇〇メートルを超えるだろう。日本一高いビルは最近五〇〇メートルを超えたが、相当に高い高層ビルのごとき高さであるのは間違いない。横浜ランドマークタワー、あべのハルカス、丸の内TOKYO TORCHと同じぐらい、スカイツリーの第一展望室より少し低いぐらい――。
直径一五メートル程度の円筒形の形状で、先端部が円錐形になっている。そして見下ろすと、下部には三角形の方向舵。下から二〇〇メートル程度は紺色の塗装、それよりも上は白地に鶴と太陽のマークがあしらわれている。日本宇宙旅客株式会社(NAL)、月軌道往還宇宙旅客船「かぐや」だ。
紺色に塗装された部分は再利用可能な固体燃料ロケットで、本体は白地に鶴と太陽のマークの付いた上の一〇〇メートルだ。その部分だけでも大規模な船体で、約六〇名が搭乗可能と聞いている。
それが、東京湾状の海上プラットフォームである「羽田沖宇宙港」の第三打ち上げ場にたたずんでいた。その向こう、第二、第一打ち上げ場にも、それぞれ別のロケットがある。まるでここに新宿や豊洲のような新たな新都心が誕生したかのようだが、このビルが全て宇宙まで行き、そして戻ってくる能力を備えているという事実は、宇宙産業に無関係な私の胸をも沸き立たせる力がある。
「――私は宇宙に行くのは初めて。あなたは、柚希さん?」
「私も初めてです。海外旅行はこれまでに何回かやったことがあるけれど、宇宙というのは……」
海外旅行は、台湾が一回、グアムが一回。それぞれ学部と大学院の卒業旅行だった。
内心では、学会発表がうまくこなせるか、ということが不安ではあったが、それとは別に人生初の宇宙旅行はやはり高揚する。宇宙旅行は今や一般的になったと言われているが、片道のチケットでも、新入社員の私の初任給全額をはたいてようやく買えるぐらい高額で、やはり気軽にいけるものではない。地球の裏側、二万キロメートル先まで行くのと同じぐらいの金額で、三八万キロメートルの彼方にいけるのだから、お得だし便利になったのだと言われれば、まあそのとおりではあるのだが。
やがて、「羽田沖宇宙港第三ターミナル」駅で、私たちの乗る京浜急行は停止した。私は立ち上がり、スーツケースを網棚から下ろす。そして、問うように少女に目をやる。
「ああ、大丈夫よ。私も一人でできる」
彼女はすっくと立ち上がり、網棚から黒字に銀の装飾の入ったかなり大きなスーツケースを取り出した。私たちは自然に、連なって電車を降りる。
「ありがとうね」
隣を歩く少女が言う。
「いや、何もしてませんが……」
「私に介助が必要かと思って声をかけようとしてくれて、それも失礼になるかなと思って思いとどまってくれたでしょ」
「ああ、いや、まあそうですが……」
思わず口元がほころびる。
私の気遣いタンバしば迂遠にすぎて、いつも誤解され、気の利かない奴だと思われてきた。正確に理解され、感謝されたのは、おそらく初めてだろう。
「ふふ。私ね、推理力はちょっとあるほうなのよ」
少女の右目は、私の目をまっすぐに見上げて、言った。そして左手にスーツケースの引き手を持ったまま、右手を差し出した。
「自己紹介がまだだったわね。私は御央見梓紗。こう見えて大学生。二二歳よ。専攻は人工知能。ただの展示物から、展示物を開発する側に回るべく努力中ってところかしら?」
モノクル。ゴスロリ調の服装。それに合わせたかのような、作ったような口調。だが、その後ろに、柔らかで傷つくのを恐れつつ、こちらに触れてこようとする何かを感じていた。
(これは……もしかしたら長い付き合いになるかもな……)
私はそう思いつつ、梓紗の手を握り返す。
予感などしないたちの私が、初めてそう思えた相手であった。
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