第5話
「あれは危険な物だ!決して食べるんじゃない!」
インドネシア人の船員は繰り返し言った。同じ船に乗って数年経つが、この男は常に寡黙であり、たまに船長や機関長と口を利くだけだったので、こうして直に話すのは初めてだった。予想と違いかなり流暢な日本語だ。少なくとも、俺の知り合いが先程口にした台詞よりは遥かに達者だった。
「なにが危険なんだよ!あいつら平気で食っていたじゃないか!」
邪魔をされた茶髪頭が、興奮気味に厨房の遭難者達を指差して叫ぶ。男は眉間に皺を寄せた。
「あの人達は、もう手遅れだ……」
「手遅れ?手遅れってどういう意味だよ!」
俺は噛みつきそうな勢いの茶髪頭を手で制し、男に向き直ると代わりに問いかけた。
「あんた、俺達がこうなる前から様子が変だったよな。もしかして何か知っているのか?だったら教えてくれ。一体何が起きているんだ?どうして連中が手遅れなんだ?」
インドネシア人は険しい表情で語り出した。
「遭難した漁船が戻って来て乗員達を母船に収容した後、私は無人の漁船を動かす為に他の人達と一緒に乗り込んだ。その時に中を見回ったが、船底には大量の海水が溜まり、エンジンもずぶ濡れになっていた。直感でわかった。この船は一度、海に沈んでいると」
思いがけない言葉に俺は目を見開く。
「あの船が沈んだ?だったらどうして、あいつらは生きて戻って来られたんだ?」
「生きてはいない。あの連中は別の何かだ。海の中で本物と入れ替わったんだ。もう人間ではない。あの漁船も同じだ。本来なら動く筈のない船が、全く別の何かを乗せて、ここまで来たんだ」
「別の……何か?」
俺は厨房を振り返った。遭難者達は、飢えを満たす為に懸命に肉片を食いまくる群衆を、薄ら笑いを浮かべて眺めている。インドネシア人は話を続けた。
「私の故郷には古い言い伝えがある。魚が全く獲れない日には、急いで陸地に戻らなければならない。海の中に良くないモノがのさばっているからだ。そのまま留まっていたら、そいつに捕まってしまうからだ」
彼の話を聞いて、真っ先に頭に浮かぶ物があった。
「……あの触手の塊が、その良くないモノだと言うのか?」
男は頷いた。
「良くないモノは一つじゃない。広く深い海の底には幾つも潜んでいる。船の外で浮かんでいる触手の塊は、他の奴との縄張り争いに敗れたんだろう。だから、そんなモノを食べてはいけない。どうなるかわからないぞ」
「……迷信を信じろって言うのか?」
こんな荒唐無稽な話を誰が真に受けるのか。遭難者達の船が沈んだと言うのも、この男の勘に過ぎない。
「逆に聞くが、あの触手は何だ?あんなモノを見た事があるのか?何かの本に載っているのか?」
男の言葉に俺は戸惑いながら答える。
「……新種の海洋生物だ。それ以上はわからない」
「本当にそう思っているのか?あれが単なる生き物だと?あれを見た瞬間に感じた筈だ。言い様のないおぞましさを。それは本能で感じているんだ」
「それは……」
図星だった。インドネシア人は畳み掛ける。
「迷信は遠い過去の先祖達が経験した事実だ。魚群探知機からマグロの群れが消えた時から、嫌な予感がしていた。母船の食糧倉庫に火をつけたのは、遭難者に成りすました奴らだ。この嵐が一向に消えないのは何故だ?海に潜むモノが起こしているんだ。船団のエンジンや通信機が、一斉に壊されたのに誰も気付かなかったのは何故だ?海に潜むモノが我々の頭に靄をかけている間に、奴らが船に忍び込んで壊したんだ。我々の頭を鈍らせて修理の邪魔をしたのは何故だ?我々をこの海に足止めして飢えさせる為だ。我々を極限まで追い込んで、あの触手を食べさせようとしているんだ。全て奴らが仕組んだ事なんだ。今の有り様を見て、それを確信した。何の為にそんな真似をするのかはわからないが、そうまでして食わせようとしている、あの得体の知れない触手の塊が、まともな物である訳がない。だから絶対に、あれを食べてはいけない」
普通なら到底信じられない話だ。しかし、俺達が置かれた状況は余りにも異常で、男の言う事には辻褄が合う。
俺は狼狽えながら言った。
「だ、だったら、どうしたら良いんだ?このままだと俺達は飢え死にするんだぞ」
彼は重々しく答えた。
「……船団が定時連絡を断ってから一週間になる。我々が遭難した事を本土にある会社は絶対に知っているから当然、救援を出している。だから、たとえどんなに苦しくても助けが来るのを待つんだ」
俺の心がインドネシア人の言い分に傾きかけたその時、茶髪頭が怒鳴った。
「うるせーよ!」
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