第3話

 明け方。

 既に半数の乗員が寝たきりになっていた。どうにか動けるのは俺を含めて数名しかいない。その内の一人の漁師が、甲板で大声を上げて俺達を起こした。何事かと思いながら空腹でふらつく足を運んで船外に出ると、異様な光景が広がっていた。

 俺達の船と冷凍運搬船の間の海を、何か灰色の物体が埋め尽くしている。

 それは触手だった。

 表面に無数の吸盤を持つ、軟体動物特有の触手が海面一杯に浮遊していた。尋常な本数ではない。全てが奇妙にねじくれて、互いに絡み合い、まるで小さな島の様になっている。夜中には見なかったので、つい数時間の内に浮き上がって来たのだろう。

 呆然としてそれを見つめる船員の中で、茶髪頭が漸く口を開いた。

「……ダ、ダイオウイカですかね?」

 違う。触手の数は軽く百本以上はある。滅多に発見されないダイオウイカが、集団で出現するなど聞いた事がない。それに何よりも大き過ぎる。直径はどれも数メートルはあり、ねじれた触手を真っ直ぐに伸ばせば冷凍運搬船の全長を越える。いくらなんでもこんな巨大なイカなど存在する訳がない。かと言って、どんな生き物なのかと問われても答えようがなかった。おそらくは誰も知らない深海に潜む、未発見の海洋生物なのだろう。

 この触手の群れを目にして、俺は悟った。

 船団が探知したマグロの群が突然消失したのも、魚が一匹も釣れないのも、こいつが全て喰ってしまったからだ。普段は深海に棲むが、腹が減ると浅い海まで上がって狩りをするのだ。

 この海域に居た全ての魚介類は、こいつの餌食にされたのだ。

 暫く眺めていても荒波に揉まれるだけで一切の動きを見せない事から、眼前の触手群が既に死んでいるのは明らかだった。どの触手も切り裂かれた傷を受け、途中で千切れているのもあるので自然死ではない。全ての触手が狂おしい程にねじくれているのは断末魔の身悶えのせいか。

 これ程巨大な生き物が死んだ理由は何か。その傷から見て、海底火山の噴火にでも巻き込まれたのか。それくらいしか想像出来ないが、もしも違うのならば最悪だ。こいつを殺した奴が、この海の何処かに居る事になる。

 誰もが言葉を失う中で、冷凍運搬船から発光信号が送られてきた。舷側に掴まり、かろうじて立っている機関長がそれを解読する。

「……一時間後に冷凍運搬船で会議をする。救命ボートが来るから代表を乗せろとよ。しかし困ったな。船長は寝たきりだし、俺も機関部から離れられん……」

 彼は俺に声をかけた。

「お前が行ってくれ。この船でまともに話が出来るのは、もうお前だけだ」

「しかし、素人の俺が行っても海については大した意見は出せませんよ?」

 動揺する俺の言い分に機関長は小さく頷く。

「だったら、あいつも連れて行け」

 無精髭の男はインドネシア人を顎で示す。

「知識や経験は豊富だし、多少の日本語も理解出来る。動けるベテランは他にいないんだ」

「……わかりました」

 気が進まないながらも俺は承知した。とは言うものの、俺は昨日一つのアイディアを思い付いていた。船長や機関長に提案するつもりだったが、会議に参加出来るならば直接、船団幹部達に伝える事が出来る。

 やがて冷凍運搬船から救命ボートが来て、俺とインドネシア人は乗り込んだ。しかし出発の直前、漁船から更に何者かが飛び込んできた。茶髪頭だった。

「お前!どういうつもりだ!」

 俺の怒りに茶髪頭はへらへらとした笑顔で返す。

「いいじゃないですか。あの船にいてもやる事ないし、あのでかい船の中を見たいんですよ」

 誰もが腹を立てたが、漁船に戻すのも面倒なのでそのまま連れて行く事になった。

 ボートが冷凍運搬船に向かう間、俺達は間近で触手群を観察した。

 一体、これは何だ?

 皆がそう思っているだろう。誰が見ても尋常な物ではない事がわかる。今更気付いたが、触手ばかりで胴体が見当たらない。海の中なのか、それとも触手だけの生き物なのか。本当にそんな奴が居るのか?もしも、これ全部で1つの存在だとしたら、どれ程の大きさなのか……。

 鳥肌が立つのを感じた。死んでから間もないのか、不思議と嫌な臭いはしない。茶髪頭が不意に呟いた。

「これ、食えるかな……」

 俺は反射的に大声を上げた。

「馬鹿な事を言うな!」

「だって、他に食うものなんてないんですよ」

「ダイオウイカだってまずくて食えないのに、こんな得体の知れない生き物が食える訳ないだろう!どんな病気や寄生虫があるかもわからないんだぞ!」

 茶髪頭は口答えする元気もないのか、そのまま下を向いた。

 ボートが冷凍運搬船に到着し、俺達はタラップを昇って船内に入った。物珍しげにあちこちを見回す茶髪頭を叱りながら、船員の案内で会議室に行く。

 既に全船の代表がテーブルに着席していた。船長クラスは数人しかいない。他の漁船も大半の乗員が倒れてしまったのだ。メンバーが揃ったので現状報告が始まる。どの船も機関、通信機共に修理が終わっていない。最後に俺が同様の報告をすると、冷凍運搬船の船長が重々しく口を開いた。

「……食糧を失って既に七日目、未だ船の修理は完了しない。もう一刻の猶予もない。この上は誰かが救命ボートに最大限の燃料を積んで、最寄りの島に行って救援を頼むしかない。各船で志願者を募って欲しい。多数、あるいは皆無の場合はくじ引きを行う事とする」

 俺が予想した通りだ。当然ながら代表達は異を唱える。

「それじゃあ決死隊じゃないか」

「この荒れた海を救命ボートで渡れる訳がない。荷物を積めばバランスも悪くなる。あんただってわかっているでしょうが」

「皆が栄養失調で朦朧としています。遠距離の移動は無理ですよ」

 冷凍運搬船クラスの大型船には船医が乗っている。白衣を着た初老の男が言った。

「点滴も用意します。それでいくらか体力は回復する」

 俺の隣に座る茶髪頭が小声で愚痴をこぼす。

「そんなもんがあるなら他の船にも配れよ……」

 俺達の漁船にも点滴類は置いてあったが、何日も前に使い切ってしまった。この船の規模ならば、遥かに大量の点滴類があっただろう。

「もうこれしか手がないんだ。頼むから納得してくれ!」

 冷凍運搬船の船長が悲痛な声で訴える。俺は手を上げた。皆が注目する。

「全ての船を修理するのは諦めて、一隻を動かす事に集中しましょう。通信機も後回しです。漁船ならば全部同じエンジンだから部品も融通が効くし、身体の動く者達全員に点滴を打てばきっと修理出来ます。とにかく漁船を一隻動かせる様にして、それに何人かが乗って陸地に行く。その方が遥かに成功する確率は高い」

 俺の意見に一同は賛成した。僅かな希望に皆が高揚するが、船医は水を差す様に呻いた。

「……残念だが、点滴はもう一人分しか残ってないんだ。手遅れなんだよ……」

 船医の隣に座る冷凍運搬船の船長が、わざとらしく生やした口髭を撫でながら陰鬱な表情で言った。

「その意見、もっと早く聞きたかったよ」

 俺は腹の中で毒づいた。

 俺だってぼんやりした頭を振り絞って、昨日の夜に漸く思い付いたんだぞ !第一、俺みたいな下っ端があんたに会って、何かを言える訳がないだろう!

 多少くたびれてはいるが、冷凍運搬船の船長も船医も、俺や他の船の代表に比べればだいぶ顔色が良い。自分達で優先的に点滴を打っていたに違いない。危機的状況で最も失ってはならないのはリーダーと人命を預かる医者だ。その理屈はわかるが、一週間何も食べていない俺には特権を使ったとしか思えなかった。そしてこいつらは自らの重責を全うする為と嘯いて、決死隊には加わらないのだろう。

 会議室に重苦しい空気が漂う中、外から大勢の騒ぐ声が聞こえてきた。その場の者達が何事かと窓際に集まる。

 海に漂う触手の島に幾人かの男達が乗っているのが見えた。遭難した船の乗員達だった。

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