第2話

「ああ~腹減ったなあ~」

 茶髪頭の若い船員が舷側に手を付いてそう呟き、恨めしげに荒れる海を見つめていた。

 この男は去年船に乗ってきた若手で、元々は地方から出て東京の大学に入ったらしいが、独り暮らしに浮かれて遊び回り、ギャンブルと女に学費と奨学金をつぎ込んだ挙げ句、消費者金融にまで大金を借りてしまった。普通の財力しかない実家は助けきれず、大学を中退して借金返済の為に海へ出る羽目になったと言う。不真面目極まりない話だが、当人は反省している様子もなく、カネを返したら再び東京で面白おかしく暮らすつもりでいた。

 呆れた能天気さだ。俺が父親ならば半殺しにしてでも改心させる所だが、自分自身も借金を背負って船に乗る身なので偉そうな事は言えない。それに人懐っこい性格の持ち主だから、新人教育を担当していた俺は仲良くなっていた。こいつと対する時、俺の中には微かな軽蔑と親しみが奇妙なバランスを保って同居している。

「腹が減りすぎて、水だけじゃあ眠る事もできませんよ。せめて何か釣れれば……」

 海に向かって愚痴をこぼす茶髪頭を見て、俺も溜め息を吐いた。

 船団の食糧が尽きて既に三日経つ。船の修理は未だ終わらず、嵐も去る気配はなかった。漁師達は魚を獲ろうと釣り針を海に投げ込んだが、嵐のせいなのか小魚の一匹も捕まらない。俺達は次第に弱っていった。各船から垂れ下がる釣糸だけが荒波に揺られて忙しく前後左右に動き回っている。

 茶髪頭は不安な顔で振り向くと、俺に話しかけた。

「助けだって来ないし、俺達このまま飢え死にするんですかね?ねえセンパイ?」

 誰が先輩だ。俺の母校にはたとえ文系であっても、分数計算すらまともに理解出来ない学生なんか居ない。居ないと思う。義務教育もろくに身に付いていない奴らが大卒の肩書きを引っ提げている現状を見ると、学歴インフレここに極まれりと感じざるを得ない。

 その様な思いを飲み込んで、俺は茶髪頭を元気付けようと答えた。

「落ち着けよ。悲観は禁物だぞ。水さえあれば三週間は生きていける。その間には船の修理も終わるだろう。俺達が最もやってはいけないのはパニックに陥る事だ。今、幹部達がこれからの事を話し合っている。冷凍運搬船の救命ボートにはエンジンが付いているから、いざとなれば代表を乗せて最寄りの陸地に向かわせるだろう」

 俺の言葉で茶髪頭は渋々ながらも納得したらしく、船内に引っ込んだ。その背中を俺は険しい表情で見送る。その台詞とは裏腹に、俺自身が不安を募らせていた。

 救命ボートの様な小舟で、この荒海を渡るのは危険だ。ボートに積む無線機も全て壊されているから、助けを呼ぶなら人の住む陸地に行くしかないのだが、一番近い島だって百キロ以上離れている。そこまで辿り着けるとは思えない。

 三週間水で生きられると言うのも、ネットで見た浅い知識だ。嵐に揺られる船の中ではそれだけで消耗するし、大して休息も出来ない。こんな状況で果たして三週間も保つのか?

 俺は船内に戻り、機関部へ向かった。そこで修理を続けているベテランの機関長に声をかける。

「治りそうですか?」

 がっしりとした体格の機関長は鋭い視線で俺を睨むと、苛立たしげに怒鳴った。

「今やってるだろうが!」

 その反応に俺は慌てて詫びる。

「す、すいません。邪魔するつもりじゃなかったんです」

 恐縮する俺を見た機関長は、自分の振る舞いに気が付いたのか、我に帰った様に言葉を改めた。

「いや、こっちこそすまねえ。腹が減って気が立っていたんだ。お前も不安だから、ここに来たんだよな……」

 彼は壁に寄りかかって額の汗を拭う。

「正直、あまり芳しくねえ。何て言ったらいいのか……。頭の中がぼんやりして、まともに手が働かねえんだ。エンジンの組み立てをやっていたのに、いつの間にかそれを分解している。そいつを元に戻そうとしたら、今度は交換した筈の壊れた部品を使っている。ここ数日、それの繰り返しだ」

 男の言葉に、俺は耳を疑った。そんな理由で修理が終わらないとは思ってもみなかった。

「ど、どういう事ですか?なんでそんな事に?」

「それも上手く説明出来ねえ。それくらい頭が鈍っているんだ。俺だけじゃねえ、ここにいる皆が同じになっている。どうも様子がおかしい……」

「様子が……おかしい?」

 俺がそう言うと、機関長は無精髭の伸びきった顔に掌を当てた。

「……頭が回らねえのは、単に腹が減っているせいだけじゃねえ。思えば機関や無線機が壊された夜から、こんな具合だった……。今更になって考えついたが、変な話じゃねえか。真夜中とは言え、大してでかくもねえこの船で何かを壊そうとしたら、絶対誰かが気が付くぜ。それなのに俺達は、ただぼうっとしていたんだ。あの夜、お前はどうしていた?」

 愕然とした。俺はあの時、自分の船室で何をする訳でもなく、ぼんやりと天井を見つめていた。物音などには全く気付かなかった。そして今でもそれは続いており、誰かに声をかけられるまで何もせずに立ち尽くすだけの事が何回もある。俺はまさしく、機関長と同じだったのだ。

 俺の答えに機関長は眉をひそめた。

「やっぱりそうか。きっと全船で同じ事があったんだ。それも同時に……」

 本当ならこんな矛盾にはもっと早く、破壊工作が行われた時点で気付いてもいい筈なのに、彼の指摘を聞くまで思い至らなかった。それはつまり、機関長と同様に俺の思考も鈍っていた証拠だ。

 決して船酔いなどではない。あの夜から俺の頭の中は薄い靄がかかった状態になっていた。

 奇妙な事は他にもあった。

 あの夜から連日、嫌な夢を見ていた。悲鳴に近い声を上げて、全身に冷や汗を流しながら真夜中に何度も飛び起きている。具体的な内容は全く憶えていないが、背筋が凍る感覚だけは残っていた。それでまともに休める訳がなく、溜まり続ける疲労が頭の中の靄を益々濃くしていた。俺がその事を打ち明けると機関長は深く頷いた。

「俺もそうだ……。眠りが浅く、何かはわからねえが嫌な夢を見続けている。荒波に加えてこれじゃあ、心底休まらねえ。今だってぼうっとして、夢の中にいる様な気分だ。無線機の方も修理が進まねえと聞いたが、あいつらも俺達と同じ状態なのかも。いや、もしかしたら、この船団全体がおかしくなっているのかも……」

 皆が悪夢に苛まれ、まともに物を考えられないとしたら、なんとも気味の悪い話だ。破壊工作の犯人も目的もわからないままだ。嫌な事ばかりが続く。

「一体、何が起きているんでしょうか?こうなっているのは何者かが仕組んだ事なんですか?」

 俺の問いに男は頭を横に振るばかりだ。

「駄目だ……。この鉛みたいな頭じゃあ、どんなに考えてもさっぱりわからねえ。だが、こんなのは初めてだ。この嵐だってそうだ。船団は止まっているんだぜ?こんなに長い間、同じ場所に居座っているなんてあり得ねえ。こいつに捕まってから、何もかもが上手くいかねえ……」

 俺はおずおずと尋ねた。

「……この状況で、船団はいつまで保つと思いますか?」

 男は暫く懸命に考え込んでいたが、他の船員に聞こえない様に小声で答えた。

「……せいぜい五日弱だろうな。水だけで、ろくに眠れもしねえんじゃあ、すぐに身体が弱って修理自体が出来なくなっちまう。そうなる前に、幹部達には有効な手を考えてもらわねえと。……この事は他の者には喋るなよ?お前は分別のある奴だと思ったから話したんだ」

 俺は頷くと無精髭の男に頭を下げて、機関部を後にした。

 再び甲板に出ると冷たい豪雨の向こう側に、やや距離を置いて浮かぶ冷凍運搬船を見つめる。

 不吉な考えが頭をよぎった。

 もしも機関長の言った様に船団全員の思考が鈍っているのならば、幹部達も良い手を出せないのでは……?

 不幸にも俺の予感は的中した。それから更に三日が経過したが、船団幹部達は何も出来なかった。依然として嵐は猛威を奮い続け、全船の機関と通信機は一台すら修復する見込みはない。機関長の予測は正しく、俺達はもうギリギリの瀬戸際に追い詰められていた。船団の全員が飢えと疲労で倒れる寸前だった。

 そんな時だった。

 あれが姿を現したのは。

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