第50話 自分色に染めたい

 昼飯を食べた後。

 一旦休むらしい燐と花葉と別れて、俺と月凪は流れのないプールに浸かっていた。


「さて、と。泳ぎの練習がしてみたいって言ってたけど……本当にやるのか?」

「物は試しと言うでしょう? 珀琥が手伝ってくれるなら安全でしょうし」

「別に泳げなくても普通に生活してる分には困らないと思うぞ」

「でも、泳げた方がいいと思いません?」

「……そりゃそうだが」


 目的は月凪の泳ぎの練習だ。

 俺がいるのはその手伝い。

 流石に金づちに一人で泳ぐ練習をしてもらうのは怖いし、そもそも月凪を一人にするつもりはないからして。


「それに、食後なのでこれくらいまったりの方が丁度いいと思います」

「……まったりして泳ぎの練習になるのか?」

「珀琥の指導次第ですかね」


 俺の責任が重すぎやしないでしょうか。

 溺れさせる気はないけどさ。


 でも、泳げなかったころを思い返すと、変に身体に力が入って疲れた覚えがある。

 プールにいるだけでも体力を使うからな。

 引きこもりで体力に難がある月凪はなおさら疲れるのではないだろうか。


「私の目標はプールなら一人で泳げるくらいになる、です。具体的には25メートルくらいを」

「小学生基準ではあるけど、すぐにとなると結構ハードル高いな」

「ということで――手取り足取り教えてもらいますよ、珀琥先生」


 微笑ながら俺へ手を差し出してくる月凪。

 それを取って、苦笑を零す。


「善処はするけど……先生はやめないか?」

「では師匠と」

「もしかしなくても揶揄っていらっしゃる?」


 なんて触れ込みで始まった泳ぎの練習。

 とはいえ、いきなり泳げるなんて俺も月凪も思っていない。

 技能は一つずつ段階を積み上げて身につける必要がある。


「てことで、まずは水に慣れるとこから始めよう。顔を水につけて……まずは十秒潜ってみよう。目は瞑っていてもいいから」

「わかりました」


 緊張した面持ちのまま返事をして、頷いた月凪が息を溜める。

 そして、恐る恐る頭のてっぺんまでを水に沈め――


「ぷはっ……流石にこれくらいは大丈夫ですね」


 十を数え終えたあたりで顔を出した月凪が息を継ぎ、次に行こうと言葉を重ねる。

 潜るのが大丈夫なら、泳げない理由は水が怖いからではなさそうだ。


「んじゃ、次は水に浮かぶ練習だな。俺が月凪の両手を握っておくから、月凪は水面に浮かんでみてほしい」

「……珀琥がビート板代わりってことですか?」

「そういうこと」

「なるほど……頑張ります」


 ここでは神妙に頷いた月凪の手を取り、タイミングは任せる。

 息を整え、目が合って。


「いきます」


 声と同時、月凪の上半身が不自然に沈む。

 代わりに両脚が水面に浮かんで、水面と並行になった。


 月凪は顔を水につけないまま、伸ばした両手を俺が支える形で水に浮く。


 てっきり浮かべずに溺れかけるものと思っていただけに、この結果は意外だった。

 これなら泳げるようになるまで時間はかからなさそう――なんて考えた直後、月凪の腰から足までが徐々に沈んでいく。


 月凪の表情が慌てた風に変わった。


「はくと……っ!」


 助けてくれと目と端的な言葉で訴えられるも、俺にはどうしようもない。

 手を掴んでいるから溺れることはないし、足も底につく深さだから大丈夫。


 とはいえ自分の身体が沈んでいる最中に、泳げない人がそこまで冷静に考えられるわけではない。


 ぎゅっと俺の手を握る力が強まる。

 それが逆に浮力を失わせる結果になり、上半身までも沈んだところで、俺は一旦月凪を支えて仕切り直させることにした。


「……珀琥。人間って、本当に泳げるんですか?」

「泳げなきゃ水泳なんて競技存在しないんだよな」

「こういうときに求められているのは正論ではなく同調と慰めです」

「泳ぐのって難しいよなあわかるわかる泳げなくても仕方ない大丈夫月凪は頑張ってるよ……これでいいか?」

「棒読みやめてください。まあ、現実逃避なのはわかっていますよ。そして、意味がないことも。……練習に戻りましょうか。なんとなく雰囲気は掴めました。今なら犬かきくらいは出来そうです」


 犬かきを泳げる判定していいものか迷ったが、月凪は認めないだろう。

 これで結構負けず嫌いだからな。


 けれど、それとこれとは話が別。


「続けるのはいいけど、倒れられたら元も子もないからな。そろそろ限界だろ?」

「思っていたより消耗しているのは事実ですけど、もう少し頑張らせてください」


 月凪が言い張るなら仕方ない。

 自分の限度はわかるだろうから、その時に支えればいいか。


 なんて思いつつ、練習を再開する。

 アドバイスも交えながら教えていると、月凪は水に浮けるようになっていた。


 それからバタ足をしたり、顔を水につけて息継ぎの練習をしてもらう。

 最後には俺の手を途中で離すと、不格好ながらも自力で泳げるようになり――


「……泳げたんですね、人って」


 数十メートルを泳ぎ切り、俺の手前で顔を上げた月凪がしみじみと呟いた。


「おめでとさん。時間の割に上達が早かったと思うぞ。要領がいいんだろうな」

「珀琥の教え方が上手かったのと、安心して身を委ねられるのが大きかったと思います。緊張の有無は重要な要素でしょう?」

「だとしても、頑張ったのは月凪だからな」

「じゃあ、頭を撫でてください」


 差し出されるのは月凪の微笑みと、一つに結ばれたまま崩れていない頭。

 水を吸ってしっとり濡れた頭を、髪型が崩れないように撫でる。

 すると、これまた嬉しそうに目元を細めた。


「出来ないことが出来るようになるのって、楽しいですね。料理も、掃除も、水泳も……きっと、珀琥がいなかったら挑戦しようとすら思えなかったでしょう」

「月凪ならきっかけがあればやり始めてたと思うけどな。負けず嫌いだし」

「少しは嬉しそうにしてもいいと思いますよ? 私を変えたのは珀琥なんですから。彼女を自分色に染めたい……みたいなことを考えたりしないんですか?」

「ちょいと傲慢な感じがしてな。俺がきっかけだって言ってくれるのは嬉しいけども、ちょっとした手助けをしているだけだし」

「そのちょっとした手助けが、私にとってはとても大きな一歩だったんです」


 だから、と。


「これからも一緒に、色んな事をしましょうね」

「それくらいでいいならいくらでも付き合うさ」


 ―――

 色んな事を、ね


 前半戦ほぼ終わりかな?

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