第37話 誑し込むのは私だけにしてくださいね
「……寝ちゃったか。無理もないな」
途中で月凪に呼ばれることもなく二人分の朝食を作り終えて運び、寝室の布団にいる月凪の様子を窺うと、眠っているようだった。
横になり、枕元に広がった銀糸。
伏せられた長い睫毛と掛け布団に包まれた身体が、呼吸のたびに上下する。
いつもより赤みが強い頬と唇は、雪色の肌ではとても目立つ。
浮べる表情は普段のすまし顔と比べるとあどけなく、愛らしい。
女の子の寝顔をまじまじと見るのは褒められた行為じゃないとわかっていながら、目を離せなくなるほどの魅力を感じてしまう。
月凪の容姿は俺が思うにクールビューティー的な方向性。
笑顔よりもすまし顔が多く、怜悧で凛々しい。
とはいえ、今思えば表情を変えるのに慣れていなかっただけだと思う。
前までは月凪の表情が変わることはあまりなかったが、俺との偽装交際を始めてから少しずつ表情豊かになってきた。
学校でも時折笑うし、なにより仏頂面が減っている。
そんな月凪も眠っているとこんな表情を見せるのか。
……正直、かなり可愛い。
いや、月凪が可愛いことはわかっていた。
美しいのベクトルが強い気もするけど、微々たる差。
起きているときも普通に思っていることだが、寝顔のこれは話が違う。
「……それより飯だな。俺が食べ終わるまでは置いておくとして――」
先に食べようか、というところで、布団から衣擦れの音が響いた。
「…………はくと?」
薄っすらと瞼を開けた月凪が、蕩けた眼差しを俺へ向けていた。
舌足らずな声で俺を呼び、掛け布団を押しのけながらゆっくり身体を起こす。
「起こしちまったか。眠ければ無理しなくていいぞ」
一旦食べる手を止めて月凪の傍に寄れば、ふにゃりと頬を緩ませる。
そして、俺の手をそっと握って、
「……起こしてもらってもいいですか」
「手を貸すだけか、それとも運んだらいい?」
「…………じゃあ、抱っこしてください」
「甘えてもいいって言ったのは俺だからな。お安い御用だ」
上目遣いで求めてくる月凪に答え、抱き上げるべく背中と膝の裏へ腕を通す。
そして、万が一にも落とさないよう注意しながら華奢な身体を抱き上げた。
「軽っ」
思わず出た呟きは月凪の体重が想定以上に軽かったことへの衝撃から。
ちゃんと抱きかかえたのは今回が初めてかもしれない。
本人は太ったとよく言ってるけど、女子基準の話なのだろう。
俺としては心配になるくらいの軽さだ。
なんて驚いていたのも数秒のこと。
次に意識が向くのは触れている柔らかさと温度、間近に迫った月凪の顔。
さっきまで寝顔に見蕩れていた女の子が、腕の中に。
そう考えるだけで変な高揚が胸を満たす。
でも、手を出すような真似はしないし出来ない。
病人をどうこうしようなんて欲求を覚えるほど飢えてはいないし、約束もある。
それに、こんなにも安心して身を委ねてくる月凪を裏切りたくはない。
「月凪……一応聞くけど、食事の量はセーブしてないよな?」
「してませんよ。珀琥が作ってくれるご飯、とても美味しいので」
それならいいんだけど、ならどうしてこんなに軽いのか。
解決できそうにない疑問を覚えながら月凪を食卓まで運び、座ってもらう。
「あー……月凪は布団の方で食べてもよかったな。ローテーブルを傍に出してさ。こっちまで来て座って食べるのも辛いだろ?」
「……それもそうでしたね。でも、今はここで大丈夫です。また戻してもらうのも手間ですし、食べさせてもらえば解決ですから」
「…………それが目的か」
「ダメ、ですか?」
「全然」
お粥が入った皿を手前に持ってきながら、心配そうに尋ねてきた月凪へ答える。
そのくらいの世話は求められればいくらでも焼くつもりでいた。
俺の飯なんて後回しでいいんだよ。
こういうときは病人優先。
月凪のことが一段落つかないと、俺も落ち着いて食べられそうにないし。
椅子を隣に持ってきて座る。
それからスプーンで薄っすら湯気が立っているお粥を掬う。
味付けは塩。
風邪の時は薄味に感じることもあるから、ちょっとだけ濃い目にしてある。
「少し冷ましてきたから火傷はしないと思う」
「……いただきます」
こんな時でも手を合わせてから、俺の方に身体を向ける月凪。
口を小さく開け、俺のスプーンを待つ姿はひな鳥のよう。
食べさせるくらいは時々しているし、これは病人への看病だから自然なこと。
でも、その唇に意識が割かれて、あの夜の口づけを思い出してしまう。
脳裏に浮かぶ雑念をどうにか振り払い、スプーンを月凪の口元へ。
すると、口の中に呑み込まれ、スプーンを引き戻せば掬っていたお粥は綺麗になくなっている。
食べやすいように少量だけにしていたが、どうだろうか。
「…………美味しいです。温かくて、味も塩気が効いていて、溶けだした梅干しの酸味がとてもちょうどいいです」
「そりゃよかった」
表情を綻ばせて呟いた月凪の総評に、ほっと胸を撫でる。
お気に召してもらえたならなによりだ。
「なんだか、前に風邪を引いた時のことを思い出しますね。あのときも珀琥はつきっきりで看病してくれて、同じお粥を作ってくれました。すっかり思い出の味です」
「そんなこともあったな……あんときはもっと症状が酷かったか。完全に寝込んで何もできないくらいだったし」
「ええ……本当に珀琥がいてくれて助かりましたよ。一人だったら正直、どうしようもなかったと思いますから」
月凪の言う通り、前回の風邪は今よりも酷かった。
熱は39℃近く、風邪らしい症状はほとんどコンプリートしていたにもかかわらず、授業を最後までやりきって帰宅した途端にぶっ倒れたからな。
学校にいる間も様子がおかしい気がしていたけど、気のせいではなかった。
あれは本当に肝が冷えた……後にも先にもあれっきりにしてほしい。
なのに、目覚めた月凪は部屋に帰るって言い出して聞かなかった。
月凪の部屋に備えの食材も、氷枕なんかもないことはわかっていた。
あるのは常備薬くらいだった。
それでも俺の手を離れようとしたのは、迷惑をかけたくなかったからだろう。
自分が月凪の立場だったら猫の手も借りたいほど困ったはずなのに。
体調が悪いから買い出しにも行けず、行けたとしても家事スキルは壊滅的。
風邪の症状で思考能力も落ちていて、満足に自分のことも出来ないほど体調も悪い。
しかも、月凪のことだから偽装交際がなければ誰も頼ることはなかっただろう。
恋人として振る舞うために近くにいた俺が、明らかに様子のおかしい月凪を放っておけるはずがない。
あとは家も隣で、諸々がダメなのを知っていたから、月凪が断ろうとするのを押し切って無理矢理看病しただけのこと。
「迷惑をかけたくなくて断ろうとしたのに、珀琥は全然聞かないで勝手に世話を焼き始めるんですから。結果的に助かったので文句はありませんし、感謝していますけど」
「目の前で倒れるくらい体調の悪い彼女を放っておく彼氏が……てか、彼氏じゃなくても見て見ぬふりは無理だろ」
「そう思えるのは珀琥が優しい人だからですよ。明らかに面倒事の塊じゃないですか。それを自分から抱え込めるのは、優しいからにほかなりません。……ですが」
不安そうなジト目で俺を見た月凪。
雰囲気のせいか、子供っぽく見えてしまって。
「その優しさで誑し込むのは私だけにしてくださいね……? 誰彼構わず優しくしたらダメなんですから。彼女の私が一番じゃないと、嫌です」
わがままで、傲慢な望みを告げられて、胸の奥がきゅっとなる。
……こんなときまで可愛くていじらしいとか反則だろ。
なんでこう、気持ちを搔き乱すことを簡単に言ってしまえるのか。
いや、まあ、それはそれとして。
「……誑し込むってのは人聞きが悪くないか?」
「実際そうなので」
さらっと答えられるけど、俺の心境は穏やかではない。
それって月凪さんが俺に誑し込まれたって白状してることになりませんかね?
つまりは、だって、そういうことで。
「…………とりあえず、温かいうちに食べるか」
「そうですね」
色んな感情を誤魔化すべくお粥を掬って月凪に食べさせるのだった。
―――
誑し込んでいいのは誑し込まれる覚悟があるやつだけだ(?)
★1000達成しました!!ありがとうございます!!
まだの方は是非……!!
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